野菜さらだの「大人になんかなりたくない!」

最近甘口の野菜さらだが折々感じたことを取り上げて、さらだ流エッセイとしてご紹介しています。

「能力があるとか、ないとかの話ー運命の分かれ道ー」


例えば、あなたが天下に名だたるT大学、W大学、K大学などの出身者で、今も「一流企業」でバリバリお仕事をしている、「人も羨むような」お立場だったとしましょう。

そういう状況に自分があると、つい「俺って凄い奴なんだ」とか思ってしまいがちです。

全員とは言わないけど、そういう人が少なくないのも確かです。

でも、そんなときに、「ちょっと待って、これって本当に”俺のおかげ?”」と立ち止まることができるかどうかが、運命の分かれ道のような気がしてなりません。

何を言っているの? 一流大学出て、一流企業入って、豪邸建てて、人も羨むような幸せな家庭を築いているのは、「自分が努力した結果」でしょう?

そう反論されることも想像に難くありません。

しかし、そういう大学に入ったり、そういう企業に入ったり、女子の場合であれば、類稀なる美貌をまとって生まれたりって、ある意味、天からの授かり物という類のものかもしれないのです。

「私が偉い」

「私が美人」

それって、本当にほんとうでしょうか?

そのように授かった、いわば「授かり物」と捉えたら、世間の見方は180度転換するでしょう。

「このような身に生まれついたのは、なぜ?」

「このような能力でなすべきことは、何?」

問いがそのように変わるはずです。

もちろん、生まれてからの努力の賜物であるところもあるでしょう。

しかし、もって生まれた「能力」というものの、意味、価値、じっくり再考してみることもときには必要かと思います。

「人生の”成績表” 〜仲の良い夫婦 vs 仲の悪い夫婦〜

以前、私は「自分の人生の"成績表"は、自分が死んだときに、どれだけの人が本気で悲しんでくれるかではないか」と言ったことがあります。

つい最近、タイでは有名なカンポンさんという方が亡くなったことを受けて、タイで活躍している私の友人が以下のメッセージをフェイスブックにアップされました。

==

以前主人に「人生の価値は葬儀の時に、どれだけの人が自分のために泣いてくれたかでわかる」みたいなことを聞いたことがあるよ、と伝えた。そうしたら主人が「そんなに人を苦しめて何の価値があるの?」とバッサリ。はい、これが全然ロマンチックではないタイのテラーワーダスタイルです。

==

微妙なニュアンスの違いですが、やはり私は自分の意図するところをきちんとことばを尽くして書いておきたいと思い、このようにブログでアップすることに致しました。

私が先の言葉を発した背景には、「同じ人の死でも、悲しまれたり、そうでなかったりするものがあるなー」ということを周囲の状況をよく見ている中から自分なりに考察して見出したということがあります。

例えば、本当に仲が良かったご夫婦の場合、どちらかが先に旅立たれたときの残された側の悲しみは、おそらく想像し難いものではないかと思います。

一方、仲が悪かった夫婦の場合は(特にダンナさんが横暴で、奥さんがずっと我慢していたという昭和のスタイルにありがちな場合)、ダンナさんが先に亡くなった後、奥さんがのびのびして生き生きし始めるということをよく聞きました。
想像するに、「あー、せいせいした」みたいな感じでしょうか。

どちらも「誰かの死」には、変わりありません。

それなのに、一方は「深い悲しみ」、一方は「あーせいせいした」となるのでしょうか。

それは、結局は亡くなった故人が相手と「どのようにやりとりをしてきたか」その一つ一つのプロセスの結果ゆえだと思うのです。

翻って、自分が死んだとき、自分がどちらでありたいか、そういうことです。

周囲から「あー、あいつがいなくなってせいせいした」というような生き方をしたいのか、

「本当に残念、もう一度会えれば・・・」というような生き方をしたいのか、

そういう意味で、自分がどのように周りの人を大事にしながら生きてきたかの集大成が葬儀のときにこそ表れるのではないだろうか、という意味で

「自分の人生の"成績表"は、自分が死んだときに、どれだけの人が本気で悲しんでくれる人がいるのではないか」

という言葉にして表しました。

また、ここで「成績表」という言葉を使ったのにも意味があります。

そして、人生の「価値」ではなく、成績表です。価値=普遍的なもの、というニュアンスが付きまといますが、成績表は自分のパフォーマンスの結果という意味合いで使っています。生きてきた人生で自分が行ったことの結果という意味で「成績表」なのです。

==

私も先のタイ在住の友人夫妻のおかげで、多少はマインドフルネスの修行をさせていただいたおかげで、このロマンチックに浸るというのではなく、「悲しみを観る」ということは学びつつあると思うのですが、やはり私は自分が大事だと思う人=自分とのやりとりを丁寧に、大事にしてくれた人、が亡くなったら心から悲しいと思うと思います。それは、決して、その亡くなった人が私を苦しませているのではなく、亡くなった、喪失の結果として悲しみが湧き起こっているだけではないのかな、と思います。その悲しみをもまた「観ていく」ことで今ここに立ちかえっていくこと、私はそのように思っています。

皆さんも自分が大事にしている人、自分を大事にしてくれている人が亡くなったら(しかも、突如だったら余計に)、悲しみは生じると思います。それは、決して彼・彼女が私達を苦しめているのではないと私は思います。

悲しいという気持ちに浸らず、しっかり観ることができること、私達に必要なのはそのトレーニングではないでしょうか。

「まず自分のやり方を疑おう〜教育者としての立ち位置〜」

自分が大学生の頃は、それなりに「一人前」だーという気持ちで振る舞っていた訳ですが、今、それなりに年を取って、ぴかぴかの大学生と接していると、やっぱり思うのは、

あまたが柔らかい、スポンジみたいに何でも吸収していくー


ということです。

その頭の柔らかい時代に、大人として、社会人として、大事だと思うことをしっかりと身に付けて社会という大海に泳ぎだして欲しいと切に切に願う訳です。

この点で私が自分の大学時代に大変感謝していることがいくつかあります。それは、

子どもの指導を行う際に、うまくいかない(=子どもが自分の指導案通りに動かないということ)ときに、すぐに子どものせいにしないこと

少なくともやり方を3回は変えてみること

ということを徹底的にたたき込まれたことです。

今、先生という立場の人と話をしていて、不思議に思うのは、「うちの生徒はやる気がない」「うちの学生は学力が低い」とおそらく授業がうまくいかない理由を生徒や学生のせいにして語る人が少なからず存在しているということです。

なぜ、自分のやり方を変えないんだろう? 

そういう疑問が私には湧き起こるのですが、改めてそういう疑問が沸き起こること自体、私が昔叩き込まれた指導によるものではないかーと思えてきた訳です。

そういう意味で、自分が受けた教育というのは、本当に後々の行動の規範にもなり得るものであるということを、身をもって体験しています。

教師として自分のやり方を常に吟味すること、これはMUSTアイテム?ではないでしょうか。

そのことを最初の最初に嫌というほど、指導してくださった先生方に今になって感謝です。

今も自分はそれなりに一人前の気持ちで振る舞っている訳ですが、きっと、まだまだなところだらけなんだろう(それはちょうど大学生の頃と同じように)、そう思ってまたぽちぽちと勉強を進めていきたいと思います。

熊本地震に想う〜地震予知から地震は起こるものへの発想の転換を〜

熊本を中心とする九州地方で大きな地震が起こった。今も被災された方の大変な日々が続いている。お亡くなりになられた方々の心からのご冥福をお祈りすると共に、一日も早い復興につながることをお祈り致します。

==

このような大きな地震が起こる度に思うことを今回は書かずにいられなくなって、こうして書いている。それは、

「地震予知は不可能。発想を転換して、予知にかけている「お金と智慧」は別のところに使おう!」

ということである。

丁度、今回の地震が起こる10日ほど前に、以下のような番組が放映されていた。


4月3日放送NHKスペシャル「巨大災害 見えてきた新たなリスク」

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2016068397SC000/?spg=P201300111300000

たくさんの研究者がたくさんのデータを解析するために、スーパーコンピューターをも駆使して、次に地震が起こるのはどこで、それはいつなのかを探ろうとしているドキュメンタリーだ。

しかし、そこでは今回の地震のことは全く予測されていなかった。

我々はもう知っているはずだ。

阪神淡路大震災も、そして東日本大震災も、「予知はできなかった」という事実を。

逆に予知、と言って「30年以内に70%の確率で地震が起きます」と言われても、じゃあうちは引っ越しますなどと言って動く人も「0」であろう(少なくとも私は動かない)。

東日本大震災のときにも思ったが、もうそろそろ「地震は予知できる」という前提を疑ってはどうだろうか、ということだ。

むしろ、先の番組のデータを見ても、日本ではあちらこちらで地震が起きまくっている。

「日本に住むということは、地震が起きるということと背中合わせなのだ」

「地震が起きたときには、どうするのか、心理的、物理的、経済的な対応を常日頃考えておく」

そのようにマインドセットを変えるべきではないかということである。

「予知する」の裏側には、「予知して逃げる」ということがあるのだろうが、例え、人間は逃げられたとしても建物などの崩壊は免れない。

地震は予知できない、地震は起きるものとして、その前提で普段の生き方を考える、こういう発想の転換は、ある意味、「はだかの王様」のような発言に聞こえるかもしれない。

しかし、備えあれば憂いなしの、「備え」は「予知」ではなく「起きたらどうするのか」という考え方に切り替えることが「地震王国日本」に住んでいる私達に必要な「智慧」ではないのか、と思うのである。

加えて、東日本大震災の復興もまだまだの日本において、今度は熊本の復興も行っていかなければならない事態になった今、日本全体として使うべきお金はどこに対してなのか、それも再考するべきと思っている。

■補足情報:日本の智慧がここにあった。「熊本城の瓦が崩れたのは正解」

http://buzzmag.jp/archives/56797?utm_source=Facebook&utm_medium=56797s&utm_campaign=fb_56797s

「さる年を迎えて―観るでござる、聴くでござる、話すでござる―」

明けまして、おめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。

年末に、こんなお猿さん三人?セットを見つけました。

DSCF6487

⇒写真が左端しか写らないようなので、FBの方の写真をご参照くださいー

「観る、聴く、話すサルの写真はこちらをクリック!」

見ざる、聞かざる、言わざるの「反転猿」です。

「観るでござる、聴くでござる、話すでござる」

とでも名づければ良いでしょうか?

元々は、小さい子どもには悪いことを見せない、聞かせない、話さない?という意味で使われていたという見ざる、聞かざる、言わざるとのことですが、何となく、「余計なことは見なかったこと、聞かなかったこと、ない」という事なかれ主義的な意味に転用されているように思います。

余計なことを言わなければ、バッシングも受けない、これはある意味事実です。

「言いたいこと言えないよねー」そんなことを考えていた折、お正月を一緒に過ごしていた高校生の甥っ子(昔はよくブログネタにさせてもらっていた彼もすでに高校生)とその母である私の妹と食事をしていたときに、次のようなやりとりがありました。

・・・・

妹 「この間の私の誕生日に、Jちゃんから誕生日カードが来て(註:今、Jちゃんは高校で寮暮らしのため、親とは別居)、何て書いてあるかと思ったら、

”お誕生日おめでとうございます。これからもお元気で。”

だけだよ! ここまで育てて、これ??ってがっくり・・・」

Jちゃん「でも、お誕生日って何書くのかーって数時間悩んだんだよ。旅行に行ったときとか、自分の考えを書くとかだったら、いくらでも書けるけど、お誕生日って何書くの?ってなっちゃって、すごい困った」

妹 「だって・・・!」

・・・・

まあ、その場では大笑いして聞いていたんですが、後から考えると、Jちゃんの言葉はそれこそ「本音」だったんではないかー?ということです。 

よくよく考えると、お誕生日に何と言うかって、実はネタがないために困ってしまう状況ですが、大人は決まり文句でやり過ごす?のが常態化しているので、こういう素朴な感想はならないのかもしれません。

多分、子どもって小さいときは、思った通り、感じた通りを口にしていて、それが「そんな言い方しちゃだめ」とか「何てこと言うの!」とか、言われるうちに(これ、弱化ですね)、段々、「こういうときには、”本音”言っちゃいけないんだー」ということを学んでいくというのは、想像に難くありません。

実際、自分達だって全部本音でしゃべっている訳でもないし、書いている訳でもないですね。

そんな折に改めて、先ほどの「観るでござる、聴くでござる、話すでござる」を見ていますと、本当にこれを貫くのは難しいよね・・・子ども時代にはできていたのかもしれないのに・・・と思ってしまう訳です。


せっかく話してくれた、子どもたちの本音をどう扱うかって、もう少し丁寧に考えても良いかなーと思った小さなエピソードでした。

「どこの大学? What is your major? の違いって?!」

こんな記事が紹介されていました。

人事が注目する「学生のウソ」を封じる面接法

なんだか、今更な感満載なのですが、そもそも「大学生=大学で学問を学修(学習じゃないですよ、学修)している人々」に向かって、就職面接で「サークル」やら「バイト」での活動ぶりを聞いているということに新鮮な驚きを覚えると同時に、本当に日本の大学って、何を学んだか、じゃなくて、どの大学なのかが重視されているんだなーと改めて思わされました。

私がアメリカ留学していた時代(2000年頃だから、もう15年位前、はやっ!⇒そこじゃないが・・・)、初対面の人に会って、最初に聞かれるのが(お互いが学生同士という文脈で)、

”What is your major?”

あるいは

”What are you majoring in?”

でした。要するに「何、専攻?」 ってことです。

この質問が「いの一番」に来ることに、日本からの留学生は戸惑いを覚えること多しだったのではないかと思います。

日本だと、「どこの大学?」 あるいは、自己紹介で「○○大学の○○です。」と、まず大学名ありきが常ではないでしょうか?

そして、大学名を聞いた瞬間に「偏差値ヒエラルキー」の「あの辺」みたいな感じになる、そんなシーンがごくごく当たり前だったのですが、これは今も余り変わりなさそうな雰囲気を感じます。

アメリカでは、先の質問に対して、一瞬ひるみながら、例えば、

”Economy・・・” (経済ですけど・・・)

と答えると、次々次の質問が飛んできます。

マルクス経済については、どう思う? 日本の経済は・・・? などなど。。。

そして、大概、しどろもどろになってしまい、尋ねたアメリカ人の方があれ?となる。

そんな風景を何度となく見てきました。

逆に、大学名を言っても、それが例えば日本で有名なハーバードであれ、スタンフォードであれ、別にーという感じ。大事なのはあくまでも「何を学んでいるのか」そこなんです。

日本は、いつまでもこの「偏差値ヒエラルキー」が抜けきらず、この何を勉強したか、で人が判断しないのでは?とどうしても思えてしまいますし、学生自身もそれを誇りに思いきれない部分があるように感じます。

先の記事も、よーく読むと「本当の意味での何を勉強したか」を尋ねるために、「履修歴面接」をするのではなく、「嫌な授業のときにどう対応したかは、嫌な仕事に対してどう取り組むかがわかる」といういわば、態度面を見るため、と書いてありました。

日本の大学が「大学」としての価値を取り戻すのは、「何を学んだか」で勝負できるとき、そして、そうなったとき(そうならないと?!)、真の意味でのグローバル化なるものに追いつけない気がしていますが、いかがでしょうか?

「困ったときはお互いさま―社会を営む基本では?―」

こんな記事が紹介されていた。

「マタハラと逆マタハラ」

要するにこういうことだ。

■マタハラ=マタニティー・ハラスメント

これは、妊婦さんがいろいろな嫌がらせを職場などで受けること。

■逆マタハラ

妊婦さんができない部分の仕事を引き受けさせられて、過剰な労働負担を強いられ大変な目に遭っていること。


この話を聞いて思い出したのは、次のようなシーンだ。

エレベーターに乗っていて、バギーに小さい子どもを乗せたお母さんが乗り込んでくる。

(1) 「すみません」と申し訳ないという気持ちを態度でも言葉でも表しながら入ってくる場合、

(2) 無言、かつどけー、場所空けろ、といわんばかりの入り方をする場合

どちらが、他の人が気持ちよくスペースを空けられるか、言わずもがなである。

これは、次のようなシーンとも実は本質は同じ。

新幹線や飛行機に乗って、リクライニングを倒すとき、

(1) 後ろの人に向かって「ちょっと倒します、すみません」と声をかける場合、

(2) いきなりバッと倒す場合

後ろに座っていた場合の「リクライニングを倒されたとき」の瞬間の受け止め方は大いに違う。

最初のマタハラ・逆マタハラも結局、これらと構造としては同じように思う。

と、途中まで記事を書いていたら、次の記事がアップされていた。

逆マタハラその後

やっぱり、想定通りの内容だ。

人間は「困ったときはお互い様」が根底にあって、本当に困っているときには、手を貸すよ(心よく)という風に助け合うことで、社会は成り立ってきていたのではないか?

それが、「これは私の権利、行使して当たり前、他の人なんかどうでも良い」となったとき、周囲の人がえ??

となるのだ。

今回紹介した例は、そういう意味では全く同じである。

権利主張型では、人間関係はギスギスしてしまう。困ったときにはお互い様、助けてもらったら本当に感謝する、そして、本当に困っているときにだけ助けてもらう、こういうことが一々ルールで決められなくてもできるのが、徳の高い人間なのでは? と思うのだ。

最近、○○ハラスメント、という用語もどんどん生まれ、ちょっと何か言えば、「あ、それハラスメント」と言われかねない恐怖もある。

それこそ、ハラスメント・ハラスメントだ。

こんなことでは、言うべきことも言えない萎縮した社会になりかねない。


ハラスメント何ていう言葉自体がなくなる日、それが本当に人間として成熟した社会になったということなんだろう。

「恋愛における”気が合う”は、”ビビ!”ではない!?」

久方振りに「書く気満々」になって、ブログを開いております。触発してくれたのは、以下のページ。

気の合わない人と仕事しない

この方のおっしゃっている「違和感」は「信用できないという直感」のことだと思うのですが、この直感、仕事はもとより

「結婚」のときに、もっともっと研ぎ澄まさせて使って欲しい!!!と思ったからです。

なぜか?

仕事は嫌なら辞めればいい、友だちなら付き合わなければいい、でも結婚は「一生のパートナー」です。

基本、離婚しない前提です。

「嫌なら離婚すればいいんじゃない?!」

そういう考えで結婚してもいいんじゃない?とずーっとずーっと前に我が妹に何気にいいましたら、

張り倒せされんばかりの勢いで、怒られました。

「そんないい加減な気持ちで結婚するから、ダメなんだよ!!!!」(と、言ったかどうかは定かではないが、そういう意味内容に受け取れることを言われたと記憶している)

本当に「覚悟して」結婚しろよ!ということを妹は言いたかったのだと思います。

ちょっと付き合って別れる、みたいなことはしちゃだめ! 

それは、なぜか?

「結婚相手」だけが、唯一「自分で選べる家族」だから、だと妹は当時から言っていました。

家族は基本選べない、唯一自分で選べる家族をいい加減な選び方するんじゃない! そういう意味です。


私も何を隠そう、「×一」(バツ1)ですが、そんだけ妹に叱られたので、それはそれは自分の結婚のプロセスを振り返りました。

そのようなプロセスを経て、次の二つの仮説に辿り着きました:

(1) 最初は好きで好きで、心底気が合っていると思っていたのに、月日を経て徐々に何かが変わっていき、破局に至ったのか?

(2) 実は、最初から「ちょっと違う・・・」と思っていたのに、「好き好き」感情でその「違和感」が隠されていたために、月日が経つに従って、その「違和感」が顕在化してきたために、破局に至ったのか?

そして、出した結論は、(2)です。(私の事例です)

これはどこまで普遍的なのか?と当時はアメリカに住んで居たので、アメリカ人含めて、周りに居るそこら中の知り合いで離婚歴ありの人に片っ端からこの仮説を検証するためにインタビューしまくった結果、出た結論も

(2)です。さもありなん、でした。

そして、次に考えたことは、「どうしてこういうことが起きるのか?」でした。

先の仮説(2)の文章にその理由はすでに書いてありますが、自分の直感は「違和感」をそこはかとなく感じているのに、感情的に「すきー!!」となっているので、「結婚すれば変わるんじゃないか」(⇒うちは変わらず)、「子どもが生まれれば変わるんじゃないか」(⇒うちは、離婚するかも?と思っていたので、作らず)、と甘い期待にすがってその「違和感」を見ないように、見ないようにしているのではないか、ということです。

事実、私はそうでした。

出会った瞬間にかなり「ビビ!」と来ていたように思います(当時)。

でも、後から考えるとその「好き」という感情は、理性的なものではなく、顔が好みとか、声が好きとか、何だかその人の本質的な生き様とかではなかったような気がします。

ただそれがすごーく強い感情で、完全にそこはかとなく感じる弱い「違和感」を押しやっていました。(恋愛でもそういうことはありました。ダメだとわかっていても好き、みたいなやつです)

そうやって「プロセスの振り返り」をがっつりやると、本当に様々なことが見えてきた訳です。


ずっと前に「東京タワー」という映画がありましたが、そこのコピー

「恋はするもんじゃない、落ちるもんだ」

というのに、以前だったら、「そうそう、そうなんだよねー」とぐぐぐーーと来ていましたし、そういうのが、「ザ・恋愛」みたいな感じで、マジいい感じーみたいに思っていました。

しかし、今となっては断言するのは

「結婚するなら、ちゃんと自分がどちらで結婚するのか見極めてから!」

ということです。

(1)絶対、波長がピタっと合うという人が見つかるまで結婚しない

(2)多少違和感があっても、結婚して何とかやる

このどちらか(凄い違和感があって結婚して何とかやる、というのもあれば別)しか、基本ないのではないかと思います。

そして、(2)と自覚して結婚したら、それ(違和感)に対して文句言わない、妹が言う「覚悟」とはそういうことだと私は理解しています。


情熱的な「好き好き」感情はやがては消え去る、最後は、やはり「信頼」「尊敬」という感情が残るのだということです。

そして、離婚した後に感じたことは、昔昔、結婚する前に、誰もそんなことを教えてくれなかった、ということです。

だから、今、私は少なくとも私の周りの大事な人達には心底幸せになって欲しいので、自分が10年かけて気づいたことをなるべく伝えるようにしています。実際、あぶなそうだーと思う場合には、はっきりそう伝えます。その後、どうするかはもちろん本人の決済だとは思いますが、こういう大事なこと誰も言わないのはおかしい、と思ってここまできているので、おかしいと思ったことは言う、そういうスタンスになりました。

例えて言えば、「そのまま行くと崖から落ちるよー」とわかっているのに「言うか」「言わないか」の状況です。

という訳で、久し振りにブログとして書き連ねてみました。

どうぞ皆様も幸せな人生を!

Love and Peace,
さらだ


追記:

結局、結婚は「相性」ですから、私と違和感があっても、別の人とは合う場合もあるのもまた然りです。

決して私が離婚した相手は「悪い人」ではないですが、私とは合わなかったという意味で「違和感」があったのです。

むしろ、離婚して良い距離を保った方が、彼に対してのネガティブな感情がなくなるだろうという行動論的な考えもありました。

彼の名誉のために補足まで。

「根本原因を突き止めたら・・・窓に付く露の原因は?!」




寒くなると、朝起きたときに窓に水滴がたくさん付くようになります。

これまでは、起きたら毎朝家中のガラスを全部拭くのが常でした。タオルも5〜6枚、毎日使っていました。

特に寝室の窓に付く水滴は大量で、「人の息があるとこうなるのかなー」と思ってみていました。

寒い時期に窓ガラスに水滴が付くのは仕方がない、そう思って毎朝せっせと拭いていました。


そうして、今年も寒くなってきて、やっぱり、窓ガラスに水滴が付く季節になりました。

最近、夜お風呂を沸かすのが面倒で、シャワーで済ませたときがありました。

その翌朝、水滴が全く窓についていないことが判明。

「え? 何これ?  もしかして・・・?!」


そう、うちではお風呂のお湯を翌日の朝、洗濯に使うために一晩置いてそのままお風呂のドアも開けて放置するのが習慣だったのです。

「もしかして、お風呂のお湯が家じゅうに拡散して、窓の水滴の原因になっていたのか?!」

正直、大変驚き、もう一度確認のために、お風呂を沸かした後、そのままにしておいたり、お湯を抜いたりを繰り返し、確実に「お風呂のお湯をそのまま朝まで放置しているとき」には家中のガラスが水滴だらけになることが確認されました。

まさに、ABABデザインです。

「うあー、なんだ、あんなに毎日大変な思いをしてガラス窓を拭いていたのに、こんなことが原因だったとは・・・」

気づいてしまえば、なんてことないことですが、気づくまでは「全くその二つの事象(窓の水滴とお風呂のお湯)」の関係性を見抜くことができなかった訳です。

きっかけは「ある朝、全く水滴が付いていなかった」という現象が起きたこと、それはなぜか?と考えたら、いつもと違うのは「あれでは!」と推測したこと、でしょうか。

世の中には結構こういうことがあるのかもしれないな・・・と、以降、全く水滴がつかなくなった窓ガラスを朝見る度に思います。「あんなに苦労していたのは、何だったんだ。根本原因がわかればなんてことないじゃないか」

そんな感じです。

実は子どもの問題行動も同じからくりで周りが振り回されていることがあるように思えています。

問題行動が起きたときに、それに一々反応してしまい、根本の原因(例えば、注目の機能だとか)に目を向けないといつまで経っても解決しない、そんな感じです。

根本原因に辿り着くのは、ちょっと大変かもしれませんが、やっぱりそこで大事なのは「観察力」。そして、自分の思い込みを捨てること、そんなことを思いながら、洗濯は夜やるようになった今日この頃です。



「私達は本当に大人なんだろうか? ―世界の事件に想う―」



ちいちゃい子どもがよちよち歩いていたり、たどたどしい言葉で話をしていたりするのを、大人は上から見下ろすように見て、「わー、かわいい」とか「まだまだ、わかってないねー」とか思うのが常です。

そして、自分達は「わかっている大人」だと確信しています。

しかし、一歩視点を上げてみたらどうだろうと時々思います。

もしスーパー知能みたいな人が居て、この地球上を上から見下ろしていたとしたら・・・

私達人類は、果たして「立派な大人」なんでしょうか?

ここで言う「大人」とは「分別のある」「他者のことを考えて行動する」「わきまえている」

そんな意味を込めています。

わかったつもりの私達大人は、実はもっと上の視点から見れば、よちよち歩きの子どもとよい勝負かもしれない、

丁度、ちいさい子どもたちも、彼ら彼女らなりに「わかったつもり」で行動しているのと同じように・・・。

というようなことをずーっと考えている私でした。
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