2012年01月30日

居場所

久しぶりに、酷く体調を崩してしまった。

浪江の婆ちゃんの退院にホッとしたせいか、
まずは、福島の仮設住宅から看病に来た叔父がダウン。
それに続き、私もダウンしてしまった。

我が家は現在、入れ替わり立ち替わり親族が訪れては、
婆ちゃんの看病を代わる代わるにしている。

そんな事を言うと、余程婆ちゃんの体調が悪いように聞こえるが、
良いとは言えないが、決して悪くはない。

なのに、何故誰かが付きっきりでいなければならないのか?

入院以前もそうだったが、退院後はそれが更に酷くなってしまった。
婆ちゃんの心は、今にも壊れそうなガラス細工のようにグラグラで、
とても婆ちゃんを、ひとりきりに出来ないのだ。

18歳で浪江町に嫁ぎ、そこから70年間農業一筋、
毎日変わる事無く同じリズムで生活していた婆ちゃんが、
ある日突然生活の全てを奪われ、東京に逃げて来た。
そこから、10ヶ月という時間が過ぎた。

田を耕すでもなく、畑に芋を植えるでもなく、
朝起きて、ラジオ体操をして、朝飯を食べ、
新聞をひたすら読んで、午前中をつぶす。

昼飯を食べ、本をひたすら読み、こたつで居眠りをし、
テレビを付けたり、消したり、午後の時間をつぶす。

夕方になれば人恋しくなり、まるで悪い事でもしているかのように、
コソコソと、同じ境遇の友達の婆さんたちに電話をかける。

「警戒区域は解除になったか?東京の生活は限界だ、そっちはどうだ?」
毎日、毎日、同じ話を繰り返す。

そんな時間が過ぎると夕飯を食べ、風呂に入り、就寝。
外に出る事は、殆どない。

そんな生活を毎日続ければ、誰だっておかしくなってしまう。
どうやら婆ちゃんは、精神を病んでしまったようだ。
婆ちゃんの「目つき」が、そう言っている。

東京電力が全て悪い!と、そんな当たり前の事を叫んでみても、
婆ちゃんが自分の家に帰れる訳でもない。

婆ちゃんには、福島県浪江町という居場所があった。

毎朝仕事に向かう息子の弁当を作り、朝飯を作り、
「米を送ってくれ」と東京から電話がくれば、精米をし、
豆を収穫すれば、味噌を作り、畑で野菜を収穫し、
買い物だって、自転車に乗って自分でしていた。
それら全ての中に、婆ちゃんの「居場所」があった。

東京での生活が、我慢しきれなくなったのだろう。
ある日、婆ちゃんは、我が家のおかんにこんな事を言っていた。

「おめぇは娘だけど、家族じゃない」

婆ちゃんにとっての家族は、浪江町で一緒に過ごしていた家族。
現在は、本宮市の仮設住宅に避難する叔父と叔母、
川俣町に避難中の孫と、東京に避難中の孫。

離ればなれで暮らさなければならない婆ちゃんにとっての家族が、
再び同じ屋根の下で暮らすことが可能かどうかは、今はわからない。

私の体調など、あと数日もすれば元に戻るだろうが、
婆ちゃんの心は、元に戻るだろうか...

私は手帳の最初に書き留めてある、
立川談志の言葉を噛み締めた。

現実は正解なんだ。
時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。
現実は事実だ。
そして現状を理解、分析してみろ。
そこにはきっと、何故そうなったかという原因があるんだ。
現状を認識して把握したら処理すりゃいいんだ。
その行動を起こせない奴を俺の基準で馬鹿と云う。

(『赤めだか』立川談春著から)

yasoohjapan at 05:09|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2012年01月16日

浪江の婆ちゃん

あまり余計な心配をかけたくないし、
書こうか書くまいか、悩んだのだが、
なかった事にも出来ないので、書こうと思う。

原発被害で我が家に避難中の浪江の婆ちゃんが、
1月8日から入院している。

気が小さい婆ちゃんが思い詰めないようにと、
毎日病室へ顔を出しに行っているのだが、
この数日で、ずいぶん元気を取り戻したように思える。

いくらか体の調子もよくなってきたのだろう。
リハビリで、歩行訓練をしているときに、
先生から「お婆ちゃんは、歩くのが早いね」と言われ、
間髪入れずに「私は『選手』なの」と、
床に顔がつきそうなくらい腰の曲がった婆ちゃん。
一体何の「選手」なのかは、孫の私もわからない。

そんな事を言ってたかと思えば、
足踏みを30回やりましょうと言われ、
28、29、30、はい、31、32、「2回はオマケ」と言ってみたり、
ウイットに富んだ会話だけは、全く衰えていない。

婆ちゃんが病気だと判明したのは、1月7日。
朝4時頃だったろうか、何度も何度も苦しそうにうがいをする
婆ちゃんの姿をたまたま見つけた。

どうしたの?と聞くと、苦しくて息が出来ないと言っていたのだが、
ウソをつけば、浪江に帰れると思っている婆ちゃんのこと、
この日、福島へ帰らなければならない叔父の気を引くために、
ちょっと風邪かな?くらいで、
大袈裟な演技をしてるんだとばかり思っていた。

それでも風邪は風邪、念のためにと、
私と叔父とで、婆ちゃんを病院に連れていった。

レントゲン撮影をした写真を見て唖然とした。
素人の私が見ても、明らかに異常だとわかる異常な状態だった。
先生は、今すぐ紹介状を書くので、
すぐに大きな病院へ行ってくださいと、
言われるがまま車を飛ばし、別の病院へと向かった。

採血やら、心電図やら、エコーやらの検査をしたのち、
「原因は心臓です。入院しますか?」と言われたのだが、
入院すると衰えが加速する老人たちを多く見てきた私は、
通院という選択肢を選ぶ事が、今の病状で可能か否かを尋ねた。
具合が悪くなったら、すぐに病院に来る事を条件に通院が決まった。

私と叔父はその日、どうしても福島へ行かねばならず、
何かあったらすぐに連絡してくれと言い残し、福島へ向かった。
翌朝、東京から連絡が入った。

婆ちゃんが入院したと。

福島の親族たちを車に乗せ、とんぼ返りで東京の病院に向かった。
体中に管のついた婆ちゃんが、ベッドに横たわっていた。

原発のせいで離ればなれで暮らさなければならなくなってしまった
叔父と叔母の顔を見た婆ちゃんの顔が、少しほころんだ。

入院して今日で9日が経過した。
婆ちゃんは、ウソみたいに元気を取り戻している。
きっと、来週には退院できることだろう。


P.S.

親族の皆様、婆ちゃんは多分大丈夫です。
もし何かあったらすぐに連絡を入れますが、
「絶対に入院したことは言うな」と、婆ちゃんに言われているので、
この文章は、「見なかった」事にしてください。

民宿志田の菅野さん、
「福島の婆ちゃんに食べさせてやってくれ」と、
先日いただいた幻の魚「マツカワガレイ」と「ヒラメ」
親族みんなでいただきました。

婆ちゃんは「こんなうめぇ刺身、はじめて食べた」と、
お皿いっぱいの刺身を、うめぇうめぇともの凄く喜んで食べていました。

こんなに美味しい魚をいただいてしまうと、
東京で買った刺身が食べられなくなってしまいそうです。

菅野さん、ごちそうさまでした!
本当にありがとうございます!

yasoohjapan at 03:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2012年01月05日

第八椿丸体験記

頬を刺すような冷たい風が吹き抜ける午前4時半。
中沢浜漁港内に設置された仮設の番屋に、
次々と定置船の乗組員が集まってきた。
CIMG1077


ねじりはちまきの初男は、ビンラディンに憧れて
このような格好をしているのではない。
冬の広田の体感温度は、真冬の北海道より寒いのだ。

「よし、行くか」

乗組員は次々と番屋を後に、上下の合羽を着込み、
一枚板の橋を渡って、2ヶ月前に進水式を終えたばかりの
真新しい第八椿丸に乗り込んだ。

12月30日午前5時少し前、2011年最後の出漁。
真っ暗な海を走り出すと、
それまで冷たいと感じた冬の風が、
肌を刺すような痛みに変わってくる。

ふと前を見ると、甲板にかかった波が凍っている。
あまりの寒さに私は船尾の風のあたらない場所へ移動したのだが、
風がもろに吹き付ける船首には、暗闇の海を見渡す乗組員がいる。

「寒いから厚着をして船に乗れよ」と言われ、
靴下は2枚、ヒートテックのストッキングも2枚履いてるというのに、
この寒さは、いとも容易く体温を奪っていく。

仁位達の定置網にたどり着いた。
乗組員は、それぞれのポジションで黙々と作業を進める。
ロープを巻く者、網を機械でたぐり寄せる者、それを補助する者、
漁師達はアイコンタクトをしながら、
刻一刻と変化する網の状況を読みながら、
次々と作業を進めていく。

私が幼少の頃に漁に連れて行ってもらった記憶がまるで嘘のように、
現在の漁は近代化された設備があちこちに導入されていて、
とても驚いた。

私はてっきり昔見ていたように、皆でかけ声をかけながら、
網をたぐり寄せるものとばかり思っていた。と言ったら、
そんな事やってたら、日が暮れちまうべ。と笑われてしまった。

網が勢いよく機械でたぐり寄せられる。
船の周りを飛び回るウミネコも騒がしくなってきた。
網の中に、赤茶色の細長い生き物がいくつも見えてきた。

さらに網がたぐり寄せられると、
海が墨汁をまき散らしたように真っ黒に染まった。

赤茶色の細長い生き物「スルメイカ」の仕業だ。
CIMG1148


水しぶき、墨、バシャバシャと音を立てて暴れる生き物が、
次々と船に引き上げられる。
CIMG1149


ジャパネットたかたの社長なら「イカ絨毯!」と叫んで販売するだろうか。
CIMG1151

ひと網から水揚げされたイカ、イカ、イカ、
「凄い量ですね」と、声をかけると、今日は少ねぇぞ。と言っていたが、
「大漁」と呼ばれる水揚げのときは、
船を二艘使っても運びきれないほど獲れるそうだ。

網の中を覗くと、スルメイカ、ヤリイカ、ドンコ、アンコウ、サケ...
実に様々な生き物が水揚げされていたが、
この中に一匹だけ「フナ」がいたら面白い。
なんてことを想像しても、尋常ではない寒さを紛らわす事が出来ない。

写真は太陽が昇ってきた椿島定置網の漁を写したものだが、
船が凍るほど寒い海上で毎日二回、定置船の乗組員は漁をしている。

二つ目の網を引き上げ、漁も終わり、
港へ帰る船上で、「これ飲め」と乗組員がくれた缶コーヒーが、
凍り付きそうな体を芯から温めてくれた。

耳がちぎれそうな寒い風に吹かれながら、
乗組員達と飲んだ缶コーヒーが忘れられない。

これから冬に缶コーヒーを飲むたびに、
私はきっと、広田漁協の定置船の男達の背中を思うのだろう。
CIMG1164

広田漁協の定置船の乗組員の皆様。
大変お世話になりました。





yasoohjapan at 23:52|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2012年01月04日

謹賀新年

旧年中は大変お世話になりました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

年末年始は、陸前高田市広田町に滞在しておりました。

それにしても食べました。
食べ過ぎました。

広小の仮設に住む伯母が作ってくれた、新聞で話題になった「おはぎ」
仏様より食べてしまったであろう久保の伯母が作ってくれた「あんこもち」
漁師も列をつくってならんでしまう、肝がたっぷり「どんこ汁」
いくらの上にご飯が添えてあるような初男家の「いくら丼」
瑞々しく透き通った身がコリッコリな「イカ刺し」
とろけるような「カレイの煮付け」
「超」がつくほど貴重な幻の魚「マツカワガレイ」の刺身...
それから、それから...

グルメリポーターがこれらを食したら、
視聴者になんと伝えるだろう。

あまりに美味しすぎる御馳走の連続に、
うっかり食べ過ぎてしまった私が、もしもグルメリポーターなら、
こう伝えるのが一番美味しさが伝わるのではないかと思うのだ。

「5日で3.5キロ太ります」

年明け早々、過酷なダイエット生活をしなくてはならぬほど、
私の体重は増加してしまったが、

これは広田の海がゆたかになりつつある証拠。
これは広田に住む方々の心が日常を取り戻しつつある証拠。

体重が右肩上がりの年明けだが、
2012年、緩やかな右肩上がりの日々が過ごせるよう、
あんまり頑張りすぎず、気負わず、
やるときは、おもいっきり全力で、
やらなくていいときは、だらーっと怠けて、
自分自身に正直な1年を過ごせたらと思ってます。

今年もどうぞよろしく!

明日、広田レポート更新します。


BlogPaint




P.S.
広小の仮設にお祭りの写真を届けてくださった田端の方、
ありがたく受け取らせていただきました。
ありがとうございます!

札幌のファンの方、
わざわざ遠い所から私の弟のにお越しいただき、
ありがとうございます!

yasoohjapan at 15:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2011年12月29日

2011年 私の手帳

もう間もなく、東京を発ち広田に向かう。
携帯電話が現地でほぼ圏外になってしまう状況をふまえ、
この1年を手帳に書き記した事を眺めながら、振り返ろうと思う。

1月、時間さえあれば映画ばかり観ていた。

息もできない、クロッシング、シークレットサンシャイン、
ヤギと男と男と壁と、ハングオーバー、再会の街で、
ローラーガールズダイアリー、パイレーツロック、
アルマーニ、ファッションが教えてくれること、
まだまだ沢山書いてある...

音楽のメモで、要注目:Lauren Pritchardの「Not The Drinking」
と書いてあったり、

ボロボロになってもなお高座にあがり続ける
立川談志師匠の「子別れ」を練馬で見て、
震えるほど感動したのは、そう言えば今年の1月だった。

2月、当時大ヒット商品で品薄状態が続いていた、
FamilyMartの俺のエクレアをどこかに差し入れで持って行き、
女性達に手渡す時に、
俺のエクレアを「握った」感じはどう?
女性達がそれを食べた時に、
俺のエクレアを「口に含んだ」感じはどう?と聞いて、
大ひんしゅくをかって大笑いした事が書いてあるが、
本当にくだらない人間だなと思う。

私は昔から「架空のストーリー」を勝手に想像する癖があるのだが、
2月の手帳には、こんな事も書いてある。

朝からデートで、車の中では楽しい音楽がふたりを包んでいる。
ディズニーランドで楽しく盛り上がり、
夜は夜景の見えるレストランで美味しい食事と美味しいワイン。
「今夜の私を抱かない」なんて言わせないわよ。
女性が放つ、そんな雰囲気を察知した男は、
すかさずレストランの会計を済ませた。

「今日は本当に楽しかったです、ごちそうさまでした」と言いながら、
わざと酔ったフリをして「キャッ」と言いながら男にもたれかかったとき、
その男の鼻の穴から1本の鼻毛が出ていたら、
この女性は、その男に抱かれるか?
そんな事が、2月17日のページに書いてあった。

3月、どうも小咄に凝っていたようだ。

・「ねえ、ママどうしてパパと結婚したの?」
  ママが亭主のほうを見て、
 「ほらご覧なさい。子供だって不思議に思ってるでしょ」

・「嘘つきは泥棒のはじまりよ
  ママがあなたの立場なら、恥ずかしくてたまらない。
  まだ10歳だってのに、そんなに嘘をついて」
 「ママ、そしたらママは何歳のときから恥ずかしがらなくなったの?」

実にくだらない事ばかりをメモしているが、
こういうくだらない事ばかり考えて生きていけたら、
どんなに素晴らしい人生かと、いつもいつも思っていた。

3月11日。

母と妹を連れ、
福島県浪江町の祖母の家に向かおうとしていた私の手帳には、
こう書いてある。

生涯忘れる事のない一日であろう。
裕子(妹)が、もし有給が取れていたら?
原稿の締め切りが、午前中になかったら?
命を落としていても、何ら不思議はない。
今日というこの日から先の人生は、
本来、手にする事の出来なかった人生かも知れない。
今の自分に何が出来るか?
今の自分は何をすべきなのか?
まずは自分の周り、半径5メートル以内で起こってる事
それらについて行動しようと思う。

そこから先の事は、このブログにも綴っていると思う。

年末の現在。
テレビをつけると、2011年のニュースが繰り返し流されている。
昨日の夜も、母と祖母と私の三人で夕食を食べていると、
各地の津波の映像が流れていた。

陸前高田が出ていた。
祖母の家の近所が出ていた。

ご飯が口の中に入ったまま、涙がこぼれた。
母は鼻をすすりながら泣いていた。
祖母の眼鏡の奥の瞳が真っ赤になっていた。

私の大切な親族、仲間たちの震災被害は、
過去の話でもなんでもなく、現在もなお続いている。
テレビを見ればみるほど、一生思い出したくない過去が
次々と映し出され、見ればみるほど辛くなるが、
私はそれでも、しっかり自分の目に焼き付けようと見ている。

今まで被災地とは縁もゆかりもない多くの人々が、
あの映像を見て、どれだけ現地に駆けつけてくれたことか。
どれだけ現地に物資を送ってくれたことか。

綺麗ごとばかりは言わない。
汚い事をする人間がいた。卑怯な事をする人間もいた。
だけど、そんな人間は多数ではなかった。

多くの人間は、家族のために、仲間のために、
同じ日本人のために、同じ地球人のために、
大人も子供も一緒になって、
知人も他人も一緒になって、
この震災を乗り越えようと必死で動いていた。
この震災を乗り越えろと温かな手を差し伸べていた。

日本人って、すてたもんじゃない。
人間の心って、すてたもんじゃない。

それを心の底から思った2011年だった。

3年先を見据えて、5年先を見据えて、
私は今をこうやっていこうという余裕も才能もない。

私が出来る事、私が挑戦出来ることは、
今を感じて、それをひとつでも多く行動に起こすこと。
行動に起こせば、必ず誰かが助けてくれる事を私は知っている。

このブログの読者に、何度助けられたことか。
現地の人達からも、被災地とは全く関係ない人達からも、
何度助けられたことか。

人と人が繋がって、とてつもないパワーが生まれる現場を
私は何回目撃したことだろう。
人と人が繋がるって、本当に凄いことなんだ。

それを心の底から思わせてくれたのは、
今こうして長い文章を読んでくれた「あなた」だ。
心から感謝をしています。という言葉では足りないくらい感謝しています。

最後に、直接伝えられなかったから、
今、ここで言います。

色々な場所で出会い、
私を助けてくれた全ての人たちへ

心から... ありがとう。


長野泰昌




























yasoohjapan at 06:53|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2011年12月25日

特別なサンタクロース

持つべきものは、親友である。
おかげで今年のクリスマスが、忘れられない1日となった。

この親友、私が高校1年生の時のクラスメイトで、
今ではその「影」すら感じられなくなってしまったが、
パワフルなドラムを叩く、実にカッコよいドラマーで、
バンド活動を何年も一緒にやっていた。

その彼との付き合いも既に20年以上経過している訳だが、
さすがは親友、私の「ツボ」というものを、よく知っている。

昨日の12月24日、つまり世間で言うクリスマスイヴ、
私の仕事部屋の片隅でずっと眠っていた、
使わなくなってしまった音響システム一式を引き取るために、
サンタクロースでもなかろうに、
クリスマスプレゼントを持参しながら、親友が現れた。

人生40年もやっていると、
もらったクリスマスプレゼントもさまざまだ。

子供の頃「サンタクロース」からもらった、母をたずねて三千里や、
ラスカルの主題歌が入ったアニメ主題歌全集のレコード。

多感な思春期に照れながら首に巻いてもらった、
手編みのマフラー。

「同じ指ね」と言われ、
恥ずかしくて目を合わす事が出来なくなってしまった
20代のときにはめた「ラブリング」

随分むかしの話だとはいえ、
当時の思い出を振り返ると、かなり照れる。

そんなさまざまな思い出のプレゼントをいただいてきた私に、
「はい、クリスマスプレゼント」と言って、
親友サンタは、発砲スチロールの入れ物を差し出した。

甘いもの好きの私に、アイスケーキでも持ってきたのかと、
喜んで蓋をあけると...

「アジの開き」

地球全体で、一体何人の人間が、
クリスマスに「アジの開き」をプレゼントされたことだろう。

「なんでアジの開き?」と聞けば、「うまいから」ときた。
天才は言うことがちがう。

私がどんなに寝ないで考えても、このセンスは絶対に出ないだろう。
クリスマスに「アジの開きをプレゼントしよう」だなんて、
考えて思いつくものではない。

音響機材一式を車に積み込む手伝いをして、
「大切に使えよ」と、送り出し、
残った仕事を片付けようと、パソコンの前に向かうと、
親友サンタが、また戻って来た。

玄関のドアを開けると、
「なんかいっぱい貰っちゃってわるいから、これもやるよ」と、
彼の右手が「カニ」を握りしめていた。

「これ、ワタリガニ?」と聞くと、
「バカお前『ソフトシェル』だ、『脱皮』したてだ」と言われた。

ワタリガニの「状態」など、私は聞いていない。

サンタクロースって、
北欧からトナカイと一緒にやってくるものだと思っていたが、
特別なサンタクロースって、
ねじりはちまきをしながら、築地からやってくるんだと思った。




P.S.

年末、広田に行こうと思います!


yasoohjapan at 04:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2011年12月21日

ギラギラ

今年もあと2週間もないという現在、
私の仕事も、いよいよあと少し。
もう少し頑張れば、今年の仕事は終わり。というときに限って、
余計なこと。というのは、起こるものだ。

パソコンのプリンターが、警告を発してしまったのである。

「廃インクパッドの吸収量が限界に達しました」

インクパッドを交換すれば、すぐに元通りになるらしいのだが、
なにせ今は年末。

メーカーに修理を依頼しても、
戻りは年明けの5日以降だと言うではないか。

まさか仕事先に、廃インクパッドの吸収量が限界に達したので、
年内の仕事は出来なくなりました。などど、言える筈がない。

年明けまで修理を待つことが許されない現状がある以上、
仕方なく、すぐに新しいプリンターを発注し、
あと数時間もすれば、私の元に届くのだが、
直せばまだまだ使えるものを、
この数日間を乗り越える為だけに、
ホントなら、使わなくてもいい筈のお金を出さなきゃならない。

私はこういうお金の使い方をすると、
髪の毛をかきむしりたくなるような思いにかられる。

この使わなくてもいい数万円があれば... これがあれば...

「CDを何十枚買えたと思ってるんだ!」と、

まるでガキじゃないかと思われても仕方ないが、
40歳になった今でも、それを思うと、悔しくて、悔しくて、
たまらなくなってしまうのである。

私は子供の頃から、自分の中に「損した」ような気持ちを抱いたとき、
その気持ちや行動をCDに換算するフシがある。

例えば、こんな盛り上がらない飲み会に来なければ、
CD3枚買えた。とか、

例えば、エロい気持ちを成就させようと、
やれ映画だの、やれ食事だのと誘い、
エロへ向かうためのプロセスを散々歩んだ挙げ句、
まんまとフラれたとき、

なんでオレは、エロが成就するなどという幻想を抱き、
性へ、性へと突っ走ろうとしたのだ。と、
エロなんて感情さえ抱かなければ、CDが何枚も買えたじゃないか。と、
もう二度と、エロなんて心に抱かない!

そう自分に何度も言い聞かせているにも関わらず、
この「エロ」だけは、もしかしたら... と、
何度も同じあやまちを繰り返したものだが、
最近はすっかりその「エロ」へのあくなき挑戦も衰退し、
迷う事なくCDを買っている私がいる。

そんな私の目の前を、「よーし今日は民謡教室だ」と、
同じ教室に通う異性と、なんかあるとでも思っているのか?
必ずシャワーを浴びてから出かける私の父親(68歳)は、
私よりよっぽど、ギラギラしていると思った。


yasoohjapan at 06:19|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!

2011年12月16日

立ち飲み屋 QOO 喰さん(広田町テレビ出演情報あり)

広田町の慈恩寺や、民宿志田で「即席居酒屋」を設営し、
横浜から2度も炊き出しに来てくださった、
立ち飲み屋QOO 喰(クー)さんに行って来た。

ご親族が広田にいる訳でもなく、
友達が住んでる訳でも、以前旅行で訪れた訳でもなく、
横浜からはるばる広田へ「2度も」炊き出しに来る。
なかなか出来ることではない。

私はこの震災で、経営者と呼ばれる方々の後ろ姿を
実に様々な形で目撃した。

従業員の為に、一刻も早く失業保険が貰えるようにと、
自分は一円すら手にする事のできない失業保険給付のために、
従業員ひとりひとりと携帯で連絡を取り合う経営者。

原発の影響で会社の全てを奪われたにも関わらず、
新天地でいち早く会社を立ち上げ、
従業員を呼び寄せた経営者。

はたまた従業員を放置して、
お金を持ってトンズラした経営者。

世の中には色々な経営者がいるもんだと思った。

様々な経営者と呼ばれる方々の中に、
とても強く印象に残った一人が、
立ち飲み屋 QOO 喰(クー)の経営者、五十嶺実さんだ。

相鉄線・三ツ境駅を降りてすぐ、
10人も入ればいっぱいになってしましまいそうな
小ぢんまりとした店内には、
広田に一緒に行ったという常連のお客さん、
根岬梯子虎舞組を支援してくださったURARAさん、
広田から千葉県に出稼ぎに来ている広田町民の木村さんなど、
この震災で繋がった面々が、お酒を酌み交わしていた。

厨房を覗くと、
ニット帽を深々とかぶり、口元に髭を携えた五十嶺さんがいた。

キミが、長野君?どうも、どうも。ビールでいい?
気さくに声を掛けていただいた私は、初対面にも関わらず、
よろしく「仲間」!と、口にこそ出さなかったが、
厚かましくも、そんな思いを瞬時に抱いてしまった。

お酒を呑みながら、五十嶺さんとどれくらいお話しただろう。
従業員と共に喜びを共有し、お店を広げていった事、
信用していた人間に裏切られ、地獄の底に落ちた事、
そんな自分でも、被災地で困っている方々に協力したいと思った事...

人間は色々いるし人生も色々だよ、ハハハと笑い飛ばしていたが、
なんと懐の深い人だろうと思った。

被災地で大変な思いをされてる方々がさ、
少しでも笑顔になってくれたらいいよねと、
五十嶺さんは、ちょっと照れた表情で言っていた。

つかの間の笑顔を取り戻して欲しいと、
被災地から遠く離れた横浜で願った五十嶺さんという人がいた。
その願いが、私も協力すると人を集め、共に広田へ向かった。
支援物資を満載に積んで、広田で「即席居酒屋」を設営し、
その人達は、炊き出しを2度もしてくれた。
彼らは、それまで広田を全く知らない人達なのだ。
凄い事だと思う。

全国、全世界で、そういった想いを被災地に届けてくれた人達が
どれほどいることだろう。

その想いを受け取った被災地で暮らす方々が、
どれほど勇気をもらったことだろう。

今日、久しぶりに初男からメールをもらった。
メイン漁場の椿島定置網が今週から再開し、
2/3が復興したと書いてあった。

震災間もない頃、もう数年は漁に出られないかも知れないと、
肩を落としていた事が、まるで嘘のように思える。

一歩ずつ前へ前へと進んでいる広田町の住民を支えてくれた
五十嶺さんと、その仲間達の事は、きっと長きに渡って、
こんなありがたい人達がいたんだと語り継がれることだろう。
私からも心から感謝を申し上げたい。


<黒崎神社例祭御神幸祭がテレビに出ます>

広田町が元気を取り戻すために10月に開催した、
黒崎神社例祭御神幸祭(根岬梯子虎舞)

明日17日の14時から15時半の90分、
TBS系列の放送局で、その模様が放送されます。

残念ながら、私の住む東京近郊での放送はないようなので、
どなたか、番組録画お願いいたします。

yasoohjapan at 23:16|PermalinkComments(2)TrackBack(0)clip!東日本大震災 

2011年12月15日

若者たち

はぁ、はぁ、あぁぁぁぁ「ただいまっ!」
ここに辿り着けたことが、正直ホッとしている。

師走が始まったかと思えば、もう中旬。
メチャクチャ仕事して、苦しくなったら落語聴いて、
よし、気持ち切りかえてって、また自分にスイッチ入れて、
ゼェゼェ言いながら登った山の清々しさよ。
この一瞬を感じたくて、全力で駆け抜けたなぁ。
まさにそんな気持ちを感じている。

やっと、やっと... 仕事の山を越えられた。
さぁ、どこから書こう...

今月初旬、私はどしゃ降りの築地に行った。
陸前高田から送られてきた「椎茸」を販売するので、
よかったらお越しくださいというお誘いを受けてのことだった。

販売当日、台風でも来たのではないか?と思うくらいの悪天候の中、
溢れんばかりのエナジーを放ちながら、
「椎茸」と、「桑茶」を販売する若者たちの姿を見つけた。

その若者たちの名は、復興支援団体SET

東に遠巻きにブースを眺める団体があれば、
お茶と紙コップを持ち、一人一人に声をかけ、
これ、「桑茶」って言うんです。どうです、一杯?

西に女子高生の姿を目撃すれば、
君たち何年生?三年生なんだ。
来年受験じゃん。受験生の必需品は「桑茶」でしょ。
なんて、笑いながらテキトーな事を言ったり、
そんな彼らの振舞いと、そんな彼らの熱意に魅了され、
私も「ひとつください」なんて声が聞こえてくる。

私のような独身男という生き物は、
なかなか「椎茸」をひとりで購入する機会には恵まれないものだが、
彼らが発する本気の熱を感じた私は、
思わず「椎茸ください」と、言っていた。

彼らの魅力とその熱意は、先週の私の番組でもお伝えしたが、
とにかく見ていて圧倒された。

その熱意に私の心は、もろに触発され、
結果それらは私のモチベーションとなっている。

ボランティア活動を夢中でやってる彼らを見ていて凄く感じた。
「本気の気持」って、それが伝われば伝わるほど、
やっぱり、まわりが放っとかなくなるものなんだなと。

言うまでもないが、彼らを本気にさせるのは、
生産者の本気の想いを感じるからだろう。
本気で生産されたものが、本気の若者たちによって販売され、
それを購入したお客様に喜ばれ、
更には陸前高田、気仙沼という町を伝えることもできる。

人の熱意で、そこにある空気は変わる。
その空気を感じれば感じるほど、そこには注目が集まる。
なんだってそうだと思う。

全員が全員その注目を応援してくれればありがたいが、
世の中には、そう思わない人だって存在する。
それは気にしなければいいだけの話だ。

彼らのように本気を楽しみながら、誰かの役に立ちたいと思う。
どしゃ降りの空が、いつの間にやら輝く太陽の空に変わっていた。


yasoohjapan at 05:28|PermalinkComments(0)TrackBack(0)clip!東日本大震災 

2011年12月01日

黒崎神社例祭お疲れさま会

慌ただしく毎日が過ぎてゆく。
気付けばもう12月...

先日、「黒崎神社例祭お疲れさま会」が東京で行われ、
私もその会場にお邪魔させていただいた。

神社関係の方、事務局の方、出演者、
カメラマン、デザイナー、学生ボランティア...

年齢も、職業も、住んでいる場所も全く違う面々が、
被災地広田町の祭りで出会ったことがキッカケで、
東京の五反田で開催されたこの会に集まった。

その中で、あれっ?という顔を見かけた。
黒崎神社の禰宜、小松裕一さんだ。

まさか、あの不思議なバイクで広田から東京へ?
どうやらそれは違ったらしい。

例祭に出演された、三咲順子さんもいらっしゃっていた。

先週だったか?昼食を食べながら、たまたまテレビを観ていると、
宝田明さんがご出演されていた。

被災地に向け、一曲うたを歌うとおっしゃっていたので、
誰がつくった歌だろうとクレジット見ると、
作詞:小椋佳 作曲:三咲順子と書いてあった。

あれっ?この三咲さんって、あの三咲さん?
勿論伺いました、ご本人に。
「そうなんです」と、照れながら仰っていたが、
いやはや、小椋佳さんと共に楽曲制作とは、なんとも羨ましい。

テーブルには、次々と御馳走がならんだ。
その中でも、新鮮なお刺身は腰がヘナヘナになるほど絶品だった。

こんなに美味しいお刺身が東京で食べられるなんて、
珍しいなと思っていたら...

このお刺身、実は民宿志田のご主人、菅野修一さんが、
祭りで世話になったからと、わざわざ差し入れてくれたのだと聞いた。
初男が先日送ってくれた魚といい、今回の菅野さんの差し入れといい、
広田の魚は、本当にうっっっんまい!

最後にきのこ飯がふるまわれた。
これもまたうまい!
あまりにうまいものの連続で、
どっからか「石ちゃん」が出て来るんじゃないかとすら思った。
こちらは陸前高田の「きのこのSATO」さんからの差し入れだった。

東京近郊にお住まいの方は、今週土曜日に築地で開催される
第14回「緑のマルシェ」で、このきのこ飯で使われた
きのこのSATOさんの、「きのこ」を購入することが出来るので、
是非築地へ行って欲しい。

この緑のマルシェでもお手伝いをしている
東京 - 広田を行き来している学生ボランティアの若者が、
たまたま私の隣に座っていた。
話を聞けば、来年4月から広田へ移り住んで活動すると言う。

まだ20代前半の若者だというのに、
勢いだけで広田に行くのではなく、実に立派な考え方を展開していた。
私がその歳の頃など、おねーちゃんのケツことばかり考えていたというのに
そんな自分を恥ずかしく思いもするのだが、
あのときの私には、おねーちゃんのケツが大切だった。
あのケツは、私が21歳の春だった...

そんな事が言いたいのではない。なんか横道にそれたが、
私などとは比較にならないくらいの立派な若者と出会い、
彼と繋がったことで、また何か新しいことが始められるのでは?
そう思ったのだ。

そんな私の近況だが、
11月は、1日も休みなく働き続けた。
睡魔と格闘しながら、コーヒーをがぶ飲みしながら、
もう無理だと思わず口に出そうになりながらも、
1日も途切れることなく仕事の依頼があったことが嬉しかった。

フリーランスと呼ばれる「日雇い仕事」をしている私にとって、
この状況が、どんなにありがたいことか。

仕事は毎日毎日大変の連続だが、
そこに自分を必要してくれる場所があるということが、
誇らしくもあり、ありがたくもあり、
そう思えば思うほど、馬車馬のように、汽車犬のように、
また本気で頑張ろうって、仕事に取り組めるのだ。

いよいよ師走へ突入だ。
年末、広田でうまい魚を食べるために頑張ります!


yasoohjapan at 08:58|PermalinkComments(3)TrackBack(0)clip!東日本大震災