やーすの3rdケン攻略マガジン

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ボイスメモ
対戦記 ■3rdケン ■鉄拳リリ ■対戦考察 ■鉄拳確反表 ■レビュー ■愚者の皮

スクリーンショット (50)

人狼ゲーム ラヴァーズは最後、生き残るが身内から見放されてゲームに参加させられたことを知った主人公がキレて「運営側に生きたい」と吼えるところでストーリーが幕を閉じます

すると主人公・蘭子は結局運営側に行けたのかどうか
視聴後、多くの人が気になるはずですが、その答えは作中には…

いや!用意されていました!
きっちり、明確に用意されていたのです

結論から言うと「蘭子は運営側になれた」。

ここから先は、私があまりにもそのことが謎すぎて「Yahoo知恵袋」でどなたかとやり取りしていて悟った内容をご紹介します

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14226966184


>すみません、質問していてなんですが、自分で「蘭子は人狼主催者側に回ることが出来た」という確証を得ました 。

それはオープニングとエンディングの映像と音楽です。

どちらもカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲が無人の殺し合いの校舎に流れる大変不気味な映像ですが、オープニングは何者かが人狼の舞台の戸を締めてタイトルコールとなります

スクリーンショット (36)

エンディングでは、「そっちへ行きたい」「そっちはどこですか」と聞いた蘭子のシーンの後、いったん暗転を挟んでまたカヴァレリアルスティーカーナの間奏曲と無人の校舎、ただし今回は無人ではなく蘭子がいて、最後蘭子が人狼の舞台を締めます


スクリーンショット (33)


なぜわざわざオープニングの映像を使い回すか

それは、蘭子が人狼主催者側に回ったことをオープニングと同じ映像を使い回すことにより暗黙に示す表現技法だったのです

これは間違いないと思います


興奮のあまりだーっと書き込んでいますが、主な根拠はこれですね

加えて、他にも示唆があります

オープニングとラストに出てくる蜘蛛の映像ですが、これは人狼シリーズではお馴染みではあるものの、今回は1作目ほかに登場した意味合いと少し違っていて「蜘蛛が主催者側」「蜘蛛の巣は人狼ゲームの舞台となる学校」です。

オープニングの蜘蛛は画像から見て左にいて右側の巣を一生懸命作っています

スクリーンショット (37)
次の瞬間、学校が右側に映し出されて、各施設が映し出されるのですが、これは運営者が用意した環境、「巣」ですね

スクリーンショット (51)そう見立てると、ラストにもう一度映る蜘蛛の映像と校舎を見比べてみましょう

今度は巣の真ん中にいる蜘蛛とは別に新たな蜘蛛が巣を上っていくのがわかります

すなわちこれが蘭子なわけです

実際に、次のシーンからは施設がまたオープニングと違って映しだされるのですが、どのシーンにも今度は蘭子がいます

最後、階段を上って…ドアを閉める
スクリーンショット (34) スクリーンショット (47) スクリーンショット (46) スクリーンショット (45) これがすなわち、蘭子が運営側に上って環境を用意して、最後ドアを閉めるというストーリーになっているのです ここまで明確に結末が用意してあるにも関わらず、視聴直後は全くその意味に気付けませんでした

すごい作品だと思います

しかし同じ監督にも関わらず、ここまでの佳作はその後の人狼シリーズでは出ませんでしたね

ある意味監督はここで出し切ったのではないでしょうか

いずれにしろ映画ってのはすごいなと思います

ただ、まだ謎は1つだけ残ってます

というより、これこそ答えは用意されていないと思うのですが…

最後、蘭子がモニターに向かって叫んでいる時、そのモニターを見ている人は誰でしょうか

髪の長い女性に見えます

もし「ひなた」か「いちか」が実は生きていて、主催者側だったという神展開だったらすごいワクワクするのですが、まぁこれに関しては本当に答えはないでしょうね

何かこれも答えが出たらどなたか教えてください スクリーンショット (35)
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ji6色んなところでレビューがあるのであっさりいきますが、はっきり言ってこのシリーズ食わず嫌いでした

とある機会に一作目を見たのですが、どハマりしたのでAmazonプライムで一気見
以下、面白かった順に感想言います

■人狼ゲーム ラヴァーズ 95点

これが本シリーズの最高傑作と思います
ラヴァーズというのは恋人と言う役職のことですが、劇中に実際の恋人が出てきて、そこはあえなく人狼ゲームの中で死別

また、ヒロインはその残った男性とペアで人狼のため、力を合わせて生き残りを図る中で互いに頼りあうのですが、そのヒロインが別の参加者と「恋人」の役職のため、その男性ともラストプレイで死別

さらに生き残ったその恋人の相棒もヒロインが金欲しさにゲーム終了後、殺してしまいます

劇の始まりと終わりに流れるカヴァレリア・ルスティカーナの間奏曲と、その時にゆっくりと映し出される建物の外観と内観が恐怖の想像をかきたてます。

かつて、そしてこれからもこの建物の中で多くの人間が殺し合いをし、散っていく。建物だけは不変ですが、人間はコンテンツに過ぎず、何も残せない。今また「恋人」というキーワードで殺し合いをさせる、というような虚無感を演出し、大変不気味な始まりとラスト。
いつまでも視聴後に気持ち悪い余韻が残ります。
と、ここまでは2018年の視聴時に思っていたことですが、このカヴァレリア・ルスティカーナのオープニングとラストには実は大きな秘密がありました。

主人公はその後、どうなったのか、これには明快な描写が残されています。これは以下の考察エントリにて人狼ラヴァーズの秘密

 ■人狼ゲーム プリズンブレイク 80点 

 人狼ゲームの盤外に逃げ出そうという試みをする本作。しかしながら誰が人狼かわからないという人狼本来の推理の要素も楽しめるのが本作です。本来、人狼ゲームは本作のように視聴者も誰が人狼かわからない、ましてや主人公の役職もわからないという方が良いと個人的に思います 

 ラスト、主要な役職が明かされる瞬間は非常にクライマックスがあり、おお!と胸が騒ぎます 

 また、脱走に成功した主人公たちはどうなったのか、脱走に失敗した参加者は果たして組織に殺されたのかどうか、こういった考察の要素も楽しく、人狼ゲームシリーズの中では印象に残る作品と言えます 

 ■人狼ゲーム クレイジーフォックス 60点 

 この辺からグッと下がってしまいます 世間ではあまり評価が高くない本作ですが、個人的にはラスト以外はリアリティがあり、良かったと思います 

 しかしながらラストは意外性を出したかったのでしょうが、最後の一票を投じた人が自分が死ぬ選択であることをわかっていてムカつく相手に従わないという行動に出るのはあまりに不自然です 

 それをもう少し納得できるようにしてくれたら80はあったのですが、まぁそこを差し引けば人狼の3人目が誰かわからないというところで面白かったですね 

 ■人狼ゲーム ビーストサイド 50点 

 世間一般では人気のある本作ですが、いきなり靴下脱ぐ土屋太鳳のキャラがはしたなく、あまり好きになれなかったので、自分的にはそこまで推しではないです。ただ、生き残った漫画家のキャラは非常に良かった。ラストの選択以外はね。そこが弱い作品が多いのが本シリーズがイマイチメジャーになりきれない理由かもしれない。

 ■人狼ゲーム マッドランド  45点

 ビーストサイドと比べてどっちがいいか迷いました。これはあんまり印象がない作品ですね 

 主人公が途中死んで仲間を助けるわけですが、その主人公が既に最初から脇役くさいので主人公が早々に死ぬというシーンの感度が薄い。

この作品は生き残る主人公サイドより、人狼役の女の子が大変いい味を出しています。見た目元AKBの峰岸に似てる。名演でした。

彼女がいなけりゃ20点ぐらいです
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6c4e4ae2fa5a40c1493ed092db0b1451こんにちは
お久しぶりです。始めた時は、こんなのがあればいいなぁと思っていた「あらすじ・ネタバレ・感想」のキュレーションブログも現在では様々な人がやってくれるので、最近はモチベーションが下がってきました

それでも面白い漫画はある、ということで自分の大好きな漫画を久しぶりにひとつ紹介します

森恒二先生の作品に本当にハマっていまして、以前に自分は自殺島をレビューしたことがあるんですが、本当に最強の作品は表題の「ホーリーランド」と思います。いつものようにあらすじから。

あらすじ

不良やチーマーがたむろする日本のどこかにある繁華街。ある時から、その街に奇妙な噂が流れるようになった。「不良(ヤンキー)狩り」と呼ばれる武闘派の男が、街の中で目立つ不良たちを次々に拳で粛清しているというのだ。その男はボクシングを使うという。ボクシングで将来を嘱望されていたが、ある事件をきっかけに街のチーマーに堕し、不良たちのボス的存在となっていた伊沢マサキはヤンキー狩りに興味を持つ。

実はヤンキー狩りの正体は、いじめられっ子で学校も休みがちの高校生・神代ユウだった。ユウは街の中での自分の居場所を見つけようと拳を独学で鍛えた結果、ヤンキーに絡まれる度、涙目で鍛えた拳を振るった結果が「ヤンキー狩り」だったのだ。

ユウの元へ次々に送り込まれる報復の使者、それは全てが何らかの武術の達人たちで、ユウは伊沢の教えも上手く吸収しながら達人たちを倒し、仲間を増やしていく。やがて、ユウは街の代表としてヤンキーたちの象徴的存在になっていくのだった。

次のページでネタバレ

続きを読む
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彼方のアストラは近年稀に見る最高傑作でした

前年この漫画がすごいで大賞を取った「約束のネバーランド」とは桁が明らかに違います

なぜか?自分なりに分析しました

1.圧倒的な「引き」の強さ

回が終わるときに次週が楽しみになる仕掛けを用意することを「引き」と言いますが、これが容赦なく徹底的に用意されていますIMG_2299

全滅する、地面に衝突寸前、船が壊れる、裏切り者がいる、など毎回「もうこれ無理だろ」みたいな詰みの状況が何度となく現れるんです

これはいかにも商業的な手法ではありますが、刺激的ですからまず飽きることは絶対にない

それも見たことあるような使い古された引きではなく、この漫画でしかできないオリジナリティ溢れる引きばかりなのです

この引きがもう少し今のテレビドラマなどにもあれば、もっとテレビは見られるのでしょうが、いつの頃からか芸術性が優先されるようになって、こうしたあざとい引きは無くなってしまったということでしょうか

しかしこれが無くては気の抜けたコーラです
彼方のアストラの面白さの半分を支えたのは「引き」にありと私は見ています

2.主人公のヒーロー性と成長

ひと昔前の少年マンガの王道は「友情・努力・勝利」でした。しかしそれは巨人の星やあしたのジョー、聖闘士星矢やドラゴンボールの前半までの時代の王道であって、今もそうかというと私は違うと思っています

我々ジャンプ黄金世代が強力に魅かれたのは、承太郎の、ハレルヤの、スーパーサイヤ人の、桜木花道の、前田慶次の「圧倒的な強さ」にあったと思います

つまり真面目な人が頑張ったというよりは、その人の元々持っているヒーロー性

共感では無く憧れの面白さですね

これがカナタにはありました

身体能力も圧倒的なわけですが、カナタは人情のメンタリティが圧倒的で、なおかつミッションを成功させうる強靭な精神力を持っているからこそ魅かれるわけです

IMG_2300


合理的なだけならザックというキャラがいる
全体のことを考えるからそれは正しいことを言うわけですが、本当に頼りたくなる人、人間社会をまとめる人というのは、案外全体のことを考える人では無く、個人に力を入れる人だったりする

その人情の圧倒的ヒーロー性がカナタにはありました

またカナタは始め、キャプテンに立候補するんですが、全く指導者としてみんなをまとめることも指示することもできません
形だけのキャプテンで、実際の問題解決はシャルスやザックがする

そのため何度もキャプテンを降りると申し出るのですが、仲間はなぜかカナタがキャプテンが良いという

こういう時、能力ではないんでしょうね
最も信頼出来る人、それは個人を見捨てない人なんだろうと思います

そうしていくうちにカナタもキャプテンとして見違えるような成長をしていく

特に終盤は、その的確な指示により歳上のポリ姉に2度も「お見事」「手際がいい」と感心されています

この成長劇が何ともカッコいいわけですね

我々も現実の社会で部下を持つこともありますが、カナタのこうした態度は見習いたいなと思います

3.ざっくりと大胆なコマ割り

これは抑えられたセリフ量とも言えますが、コマ割りが非常に見やすいのでストレスになりません

これは画力とも相まって非常に漫画を読みやすくしている

案外ここのところは大事かもしれません
同じテーマの同じネームでも読みにくかったら読んでないかも

4.計画された構成と無理のない伏線

この漫画は短期集中連載ということが始めから決まっていたと言います

そのためキャラ設定なども幕間の資料を見るに非常に細かく設定されている

それにより思いつきの展開がほぼなく、伏線も
始めから最後まで計算して配置してあるので、伏線だと気付かず驚かされる

まぁ、週刊連載だとなかなかそんな芸術は展開出来ないのもわかりますが、アストラはそれが出来たことが名作になる一因になった

5.被らずブレないキャラクター

登場する人物はみな魅力的で、嫌いだと思える人物は1人もいません

これは、重なり感のあるキャラがいないために、誰もが必要だと読者が思えるからだと思います

そう出来る理由はやはり構成を連載前にしっかり考えたからでしょうね

こうして考えていくとアストラはやはり構成の勝利だとも思います

しかし近年流行りのデスゲーム漫画はなぜ流行っていたのか、というと本来こうした人間同士の集団心理とサバイバルにリアリティがあり見たいと思えるんだと改めて気付かされました

最近は某格闘ゲームの影響でウォーキングデッドというアメリカのゾンビドラマを見ていますが、これもゾンビはそう必要ではない

それよりも人間のサバイバル劇、集団の中で人はどう生きるかということが面白いドラマになってます

その装置さえあれば殺しあったりゾンビが出なくとも十分面白いというわけですね

約束のネバーランドは始めそれがありましたが、今はそれがなくなり、ただ新しい展開を次々に見せるだけになってしまって失速した感があります

面白いのは要素では無く心理

この点を重視した漫画がまた現れてくれたらなと思います

最後に、なぜ100点ではないのかと言うと、カナタの右腕がなくなったのがかわいそうだからです(笑)

でも、あれによって「大将の腕に助けられた時が一番の思い出だ」というウルガーの神台詞が出てくるので、あそこは必要な要素ではありました

ただね、シャルスもっとはよ球体引っ込めろよ!と言いたいので-1点!

◾️個人的MVP

宇宙船のクルーで「この人がいないとマジでダメだった」という人は誰でしょう?

1位 ザック

IMG_2302

まぁ誰でもこの人をあげると思います
宇宙船を操縦し修理できる唯一の人ですし、さらには可食判定機なるチートアイテムまで作り出す始末。ちょっと便利すぎです
しかしこんな有能な人がカナタのサポート役に徹するから、さらに集団がまとまる

2位 カナタ

ここは意見が分かれるところだと思います。多くの人はシャルスをあげるかもしれない。しかしカナタがいなければまずアリエスが死んでおり、シャルスは抹殺を決行したでしょう

楽しい旅にするということが、この旅では生き死にに関わっていたと言えますから、自分はカナタの存在は絶大なものだったと思います

3位 シャルス

この人が水も食料も見つけてくれ、毒キノコから身を守り調理をしてくれました

抹殺を考えるならあのキノコで全員死ぬのも良かったと思います

それをしなかったのはやはりカナタに自分を救ってほしい思いがあったのでしょう

人を受け入れる側に回れるか、がリーダーの条件かもしれませんね
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「この漫画がすごい」で大賞を受賞した作品ということで、あまり期待せずに読んだのですが、ここ10年読んだ中でもベスト3に入るほど面白かったです。愚者の皮、かんかん橋を渡って以来のヒットというか

まぁ控えめに言って最高傑作ですね
引退気味だったこのブログを再び書き始めるほど

あらすじとネタバレは軽く
次のブログで点数と感想、分析を書きます

あらすじ

西暦2063年、宇宙旅行がもう当たり前になっている時代。とある高校の生徒たちは、教師に引率されてキャンプ用の惑星に向かい、そこで5日間を過ごす予定だった。

しかし教師が去り、ロッジに移動する途中、奇妙な球体が現れ、生徒らを包み込んでしまう。

気が付くと彼らは宇宙空間に投げ出されていた。近くに偶然宇宙船があり、そこに逃げ込む生徒たち。

メカに強い生徒が宇宙船を操作して調べると、そこはキャンプ地から遥か5千光年離れた宇宙の彼方だった。

直線で帰るには食料と水が足りない

星々を転々とし、食料を調達しながら自分たちの世界に帰るサバイバル航行が始まる

ネタバレ1

メンバーはそれぞれ、アスリート、科学者、医者、女優、政治家、ジャーナリスト、アーティストなどの卵たちで、その資質を活かしながら困難を乗り越えていく

性格は単細胞、ナイーブ、一匹狼、能天気、ひねくれ者とバラバラだが、リーダーのカナタのメンバーを守る献身的な姿を見てチームは星を渡るごとにまとまっていく

やがて今の境遇が恐ろしい計画の途中であることを知る。

実は自分たちは親のクローンであり、親が若返りを狙って体を入れ替えるために育てられていたのだ。クローン規制の厳しい法律が出たことで、自分たちは都合の悪い存在になり、キャンプに見せかけて宇宙空間に捨て去られた。それが真実の全てだったのだ。

さらに途中で載せた地球人のコールドスリーパーからカナタたちの星・アストラは、地球からワープ航法を使って地球人が移住してきた先だったことがわかる

そして彼方たちを襲った球体こそが、そのワープ装置だったのだ

ワープ装置はアストラに帰る直前、三度カナタを襲う

その時、当初からクルーの中にいて全員抹殺を試みる裏切り者がだれか、カナタには見当がついたのだった

ネタバレ2

その人物とはシャルスだった

シャルスはカナタの世界の王のクローンである
クローン計画もワープ航法も曲げて伏せていた歴史も全て知った上で世界を支配する王は、不都合な存在であるカナタたちを、シャルスに携帯用ワープ航法装置を持たせて抹殺するように命じていたのだ

正体がバレても仲間に戻ってこいとシャルスを説得するカナタ

シャルスは結果自殺を選択する
ワープ航法に入って宇宙に身投げしようとするシャルスを、カナタは右手を犠牲にしながら得意の身体能力で救い出す

無事アストラに帰ったカナタらは全てを告発し、カナタの親たちはアリエスの実母エマを残して全て逮捕

そし7年後

ユンファは女優に
ザックとキトリーは結婚
フニは女子高生に
ウルガーはジャーナリストに
シャルスは王様に
そしてアリエスはカナタと結婚することが決まった

そしてカナタは念願の自分の船を手に入れザックといま旅立とうとしている

そこにシャルスが現れ、王務を捨てて3人宇宙へ旅立つのだった
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◆あらすじ

男装の麗人・天上ウテナは幼い頃に王子様に助けられた記憶があり、その憧れから自身も王子様を目指すようになった女子中学生

なぜ、助けられた事が「自分が王子様を目指そうと言うきっかけになるのか」それはウテナ自身にもはっきりと思い出せない

ウテナは中等部に入学すると姫宮アンシーという女子中学生を巡って決闘が行われていることを知る

胸のバラを剣で落とし合う決闘に勝ったものがアンシーを手に入れる

アンシーが勝利者に乱暴に扱われていることを知ったウテナは決闘に挑み、アンシーを生徒会員、西園寺から奪う

その時からウテナにはアンシーを巡って次々と決闘者が現れては挑みかかってくるのだった

アンシーとの友情のため、ウテナは勝ち続けるのだが、やがて決闘の先に自分自身のルーツに関する秘密が隠されている事を知っていく

果たして自分は、アンシーは、この学園は一体何なのであろうか

そして決闘を促し生徒会を動かす謎の存在「世界の果て」の正体とは

◆ネタバレ

世界の果ての正体は学園の理事をしていてアンシーの兄を名乗る鳳暁生(おおとり・あきお)。

暁生は昔、ウテナが出会った王子であり、今は王子としての資格を失った状態で学園を運営しているが、いつか決闘の果てに鍛えられた剣で学園の最上階にある薔薇の門を破り、王子としての自分を取り戻したいと考えていた

ウテナ以前にも決闘に勝ち続けた者があり、その度に鍛えられた剣で門を破ろうとしたが、剣の方が折れてしまい思いは叶わない

ウテナの剣もまた折れてしまう

アンシーは王子としての責を一身に身体に受けた存在で、学園の中のアンシーは実質、幻影のような存在で本体は心も体も自由にならない

ウテナは最終局面でかつて愛されたこともある暁生に決闘を挑む

暁生はあくまでアンシーの解放より自分の解放を優先させる存在だと認識したからだ

しかしウテナはアンシーに後ろから刺されて倒れてしまう

アンシーはあくまで自分より暁生に従うだけの、いやウテナとの友情をも、その価値観には入らない意思を持たない存在なのか

しかし暁生では開けられなかった薔薇の門を、アンシーの解放のため、ウテナは必死でこじ開けようとする

ウテナが涙を流した契機で学園最上階の有り様が、大きく変わり、薔薇の門は棺の蓋となっていた

棺が開こうとするのを止める暁生。その先にはアンシーの本体がいた

ウテナは手を伸ばし、一度は繋がるも、その手は再び離れ、地上へ崩れ落ちるアンシー

そして、ウテナにはアンシーに刺さっていた無数の剣が降り注ぐ

やがて、学園は日常にもどった

ウテナ以外はみな元のように学園生活を送る

ウテナはいつのまにか学園から転校したことになっている

アンシーも暁生も健在

いや、アンシーは。

「あなたは変わらないんですね」

暁生に言い残し「どこにいてもあなたを探して見せるわ、ウテナ」

笑顔で学園を出るのだった

◆考察

物語は説明が直接的にはされない舞台設定や論理展開、キャラクター設定で最後まで進む

従って考察無しでは感想を持つのは不可能であり、前述した「ネタバレ」も人によっては全く違う「事実」の可能性が大いにある

これはあくまで私の解釈としてネタバレ以降をお読みいただきたい

なので、今回はいつも「感想」としているところを「考察」とおいた

前置きはこれぐらいにして、早速本題に。

暁生とは何者か。

元王子である。もちろんウテナが以前に会った王子であり、ディオスその人である

ではディオスとは何者か。

つまり王子とは何なのか。

これはある実在する世界の元首や国主のような存在であろう。その世界では軍隊も政府もなく、共和制を取りながら最終責任は国主が取らなければならないようなシステムが敷かれていた。その世界がある時、情勢が上手くいかなくなり、国主ディオスが責任を取らないといけなくなっていた。しかしディオスはその終わらない責務の中でパワーを失い、力尽きようとしていた。その責務を放棄する代わりに罪を受けることを提案したのがディオスを愛した女、アンシーだった。ディオスは責任を放棄し、罪=国民の責めを一身で受けることにしたアンシー。

そうした形でこの国は完結した

と言うと、まだ曖昧が残る。実際にはこの国は滅びたのであろう。責務を放棄するというのは、プレッシャーに負けて考えをやめて逃亡した、ということであり、アンシーという女性は心中に付き合った、あるいはいっしょに逃亡先で朽ち果てたなどのことであろう

その逃亡をそそのかした罪を一身に受けたということで話は一応通る

では、その2人がなぜウテナと出会ったのか

ウテナの世界と2人の国はどう繋がるか

これは既に滅びたディオスとアンシーの国はもはや観念だけの、言うなれば幽霊の国とか黄泉の国のような、いつの時代にもどこにでも存在し、かつ普通の人は入り込めない世界であったのだろう

その世界に生きながら入り込めるのは、深い絶望を背負った人か、その世界の人物に深く魅入られてしまった人に限られる

つまり、平たく言ってウテナたちの学園は霊界であり黄泉比良坂と解釈すると辻褄があう

ウテナは実在する人物で、両親を事故で失ったことから、この世界に迷い込んでしまい、ディオスとアンシーに出会った

ウテナも死んでいて、その世界の住人そのものになっていたのでは?

それは否である

学園はディオスとアンシーの作り出した絶望の霊界であり、家族と一緒に死んだのなら「深い絶望」でシンクロしてこの世界にいる事はない

それなら死んだ人はみなここに来ることになってしまう

ところが学園は基本的に「思春期の子どもたち」ばかりの世界

例外の教師たちは便宜上ディオスたちが作り出した存在であり、残りもディオスの観念か、あるいは大人になる前に絶望を味わった人たちがシンクロしてたどり着いた世界と考えるのが解釈に自然さが残る

従ってウテナは実在して長い夢を見ているのだろう

ではディオスはウテナと出会い何を託したのか。剣の決闘者を託したのか?それは否であろう。ディオスは私の解釈では2人いる。

ある時、滅びた国の王子がたまたま幼少期にウテナに出会って、たまたまウテナと同じ年頃にアンシーが学園でなっていたのではない

純粋さを残したディオスと失った暁生がそれぞれおり、ウテナは両方に出逢ったのだ

その純粋さをまだ残したディオスは、「アンシーを解放してくれ」と頼んだ

それは学園での暁生、つまり純粋さを失った自分からアンシーを解放してくれと頼んだのだ

なぜウテナは王子を目指したのか

それはアンシーを解放する王子の役目をディオスから託されたからだった

その記憶は「自分が幼い時に助けられた」とすり変わっている

どうしてすり替わったのかというと、一度ディオスの世界に迷い込んでウテナは現実の世界で起きて通常の生活を送っていたのだろう

そしてある夜、例えば思春期を迎えるような具体的な出来事が起きた時、再び彼らの世界に迷い込んだのではないか

この時、離れた記憶は失われていたのか、あるいは学園を司る暁生の強力な思念のパワーにより、都合の悪いディオスの記憶が妨げられていたのかもしれない

では、王子でなくなった暁生の狙いは何か

当然王子に戻る事である

ではどうすれば王子に戻れる、と思っているのか

また、薔薇の門を開けるという行為は何か

これはある種のスイッチングではないか

現実には王子に戻れるという事はない

国は滅びているし、誰かが王子と認めるとか、仙人のようなパワーを得たら王子ということでもなかった

ただ、逃亡したという罪と同じぐらい大きなな何か、すなわち贖罪をしたいのだ

薔薇の門とは国を捨てたディオスの呵責の念である

そのことに純粋さを失った暁生自身は気づけない。自分が失った、ある若い意思の力で門を破らねば王子の資格は戻ってこないと考えている。しかし贖罪だから自分の意思で無くては意味がないのだ。ウテナの剣も暁生が使えば折れてしまう。そんな物理的条件としか状況を捉えられてないから、誰をつれてきても必ず門は開かない。仮にウテナがウテナの剣を振るえば剣は折れなかっただろう。しかし門は暁生の心だから開くことも無かった

しかし門は棺へと姿を変えた。これは何を意味するのか。

直前に2人のディオスがウテナが汗をかきながら門を開ける姿を見ている

暁生は言う。「かつての俺と似ている。ひたむきさが大事だと思っていた。しかし力が大事だとわかったんだ」。それを聞いて悲しそうに去る純粋ディオス。まだわからないなら本当のこの世界を姿を見せてあげよう、として出てきたのが棺。中にはアンシーがいる。

すなわち、この世界はアンシーが前提で出来ている世界であって、暁生の本当の心のよりどころはアンシーなわけなのだ

王子に戻るとかなんだのは、アンシーという甘えられる存在があってこその余裕ある遊び、くだらないプライドを満たす行事でしかなかった。それに気付いてない暁生自身に絶望して幼いディオスは見せるのである

薔薇の門とこの世界の本当の姿を

では最後、手が離れ崩れ落ちるアンシーとウテナに刺さる剣は何を意味するのか

それはディオスに暴かれたとは言え、暁生の作った世界であるから、急ぎアンシーとウテナを離させたい思いがその場だけ形になったのであろう

しかし既にアンシーは暁生の心の束縛から外に出た

つまり私の解釈ではウテナは見事、ディオスの託した役目を果たして王子になったのである

ではアンシーの「いつかウテナを探してみせる」とはどういう決意か

これは、現実の世界に帰ったウテナと再び観念の世界で邂逅するという意味であろう

この場合、もはや暁生と2人で作った世界ではなく、アンシー単独の世界で意思を持ってウテナと会うという意味である

そういう事は可能なのだ

ウテナが学園に再度訪れ、時子や西園寺、冬芽もまた学園に再訪したように(後述)、ウテナはまたなんらかの契機で夢を見る

その時、会おうと言うのだ

今度は暁生の舞台の従者という役割を演じるのではなく、アンシー個人として。その決意が「ウテナ様」ではなく、「ウテナ」と呼ばせている

ではアンシーが最終回の手前で自殺を図るのは何故か。ここでひとつ、アンシーの心の描写を表していると思われるチュチュの設定を考えたい。チュチュは生まれ変わるという設定が劇の中盤あたりでなされた。あの設定は何のために用意されたか。

この学園の世界は、アンシーも暁生も不死ではないか。ただし、記憶をリセットはされるのだ。実際、暁生は過去にも決闘者がいて、薔薇の門を破る剣があった旨の発言をしている。しかし学園にその痕跡はない。という事は、学園は決闘者の剣が折れて役割を果たすとリセットがかかり、無かったことになる。ウテナもそうした、無かったことになるのをアンシーは見てはいられなかった。その時、ゲームマスターの彼ら自身にリセットをかける方法として自死があったのではないか。

ウテナとのこれまでの記憶を無かったことにして、設定は受け入れたままのアンシーとして戻ってくる。それが自殺の意味だったのではないか。では38話の予告で「ウテナ様を本当は軽蔑していました」というアンシーは?あれは自殺を取る前のウテナとの関係の清算を図ろうとする強がりだったのであろう

暁生とアンシーはなぜ恋人ではなく兄妹という設定でただれた関係を繰り返すのか

それはアンシーが薔薇の花嫁として男たちに求められる存在で無くてはならないからである

恋人ではなくアンシーと決闘者の近くにいれる存在、つまり兄妹である

性交渉はもちろん精神的な慰め合いである。彼らは唯一その世界の全貌を知る者としてのストレスをああした形で補償している

彼らというより暁生だけがそうかもしれない

暁生に婚約者がいる設定はアンシーとの関係のカモフラージュである

では生徒会とは何か

これは暁生が間接的に学園を支配する装置と考えて問題ない

あくまで自主的に意思の強い若者が自分のところまで剣を鍛えてやってくる必要がある

それを暁生が直接やらせたのでは、「意思」の意味合いが弱まる

大人の介入はなく、決闘が続けられる必要が、始めはあった

後半ウテナという存在の特異性や、根室教授たちなど微妙に暁生の意図とズレる要素が現れたため、暁生自身が出張ってくるのである

この生徒会の中で、冬芽、西園寺、ななみは他の2人とは違い、明確に「外の人」である

何故なら幼少期の記憶があり、それがウテナと繋がっているからである

ななみは直接ウテナとの関わりのある幼少期の記憶はなかったと思うから、これは学園内での記憶の可能性はある。しかし西園寺と冬芽は確実にウテナの幼少期と幼い時期が同期する。これは、激しい絶望に苛まれたウテナと出会い、魅入られたことにより巻き込まれてディオスの世界に入ったと解釈できる

彼ら自身は絶望はしてないので純粋ディオスは見えない

しかしウテナが居なくなった世界では、いつか彼らは学園を出るであろう

そもそもアンシーの居なくなった世界は決闘も起こらず、ただただ暁生の哀しみの牢獄へと変貌する

その場合、また別の人々を呼び寄せる世界になるのかもしれない

根室教授のような人たちばかり集まる本当の黄泉の国へと変わるのだろうか

私の解釈はひとまず以上です

ここまで読んでくれた方は大変な長文、ありがとうございました。ぜひ他の人の解釈も読んでみてください。アンシーウテナ同一人物説など面白い解釈がたくさんあります。今回は、話の整合性を観念的ではなく現実的に着ける観点で行いました。黄泉の国という存在さえ認めれば、後は大体説明出来たので自分としては納得のいく解釈が出来たと思っています

感想としては、もちろんここまで考察させてくれたので大変高評価です。しかしながら、ただ説明しなかっただけでも考察の余地のあるストーリーは作れるのであり、どちらか迷う、という要素は逆に無かったので、100点ではないかな、というところでした


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話題作。これは完全に評価が二分すると思われます。ネットで騒がれてるのは好きな人が礼賛しているからということになるわけですが、まぁ基本的に私はだいぶシニカルで冷めた目で映画を見ているのかもしれません

もう既に見て面白かったと思う人は逆に以下見ない方がいいと思います

私のこの映画に対する評価は100点満点中10点です

あらすじ

とある映画の撮影から話は始まる
ゾンビ映画を撮影していた場所は、不吉で不気味な噂のある場所だった
撮影の休憩の合間、ゾンビウイルスに感染したスタッフが撮影班を襲う…!

ネタバレ

つまり作中作中作というべきものです
撮影班を襲うゾンビの画も、どうも変なところがたくさんある

それもまた撮影中の映画というのはすぐにわかります

だから不自然なシーンの説明もまたあるだろうなと思ったら、実際それはある

後半はそのメイキングの要素を見せる

ああ、あの不自然なところはこういう事情があったからなんだーというのがわかって終わる

そんだけ。

たったそんだけのことがこの映画の全てです
ギャグ要素が強いんでいくつか笑えるところはありますが、自分は世間の評価があまりに高いのでこの先にまたさらにどんでん返しがあるのでは、見たことない映画を見せてくれるのではと思っていました

が、そんなものは無かった

ただふつうに前半映画見せて後半にメイキング見せて終わり

これがカメ止めの説明の全てです
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福山雅治主演で話題の「三度目の殺人」観てきました。
公開中ということもあり、今回は自分の評価点数は最後に付けます

自分としてはレビューはじめつける気なかったんですが、一緒に見に行った人が
これは考察系のブログが必要かもしれない、と強く主張しましたので、書いてみます

一応私なりの解釈ですので、それは違う、とか場合によっては間違ってる、という可能性もあります
そこは他の方のブログも参照してください。詳細なネタバレは今回は公開中ということもあり伏せます

<あらすじ>

冒頭、1人の中年男性が男を背後から殴り殺して焼くシーンから始まる

殺人罪で起訴されたその男、三隅(役所広司)は証言をころころ変え、法廷戦術の策定が難しいと同じ事務所の弁護士が重盛弁護士(福山雅治)に担当を依頼してきた

殺害の動機を金銭目的と言ったり怨恨と言ったり、酔っていたと言ったり、やはり三隅の証言は重盛が担当になっても要領を得ない

裁判への日が近づくうち、三隅が殺した元職場の社長の妻が三隅に殺人教唆をしたという話が週刊誌に掲載される

重盛がそのことを三隅に確認すると、陽とした返事をしないながらも否定しなかったため、強盗殺人の起訴を被害者妻を主犯とする共謀共同正犯に持っていくことで、三隅の量刑を死刑から無期懲役に持っていこうとする重盛
 
重盛は既に殺人の前科があり、いま強殺が確定すると死刑は免れない状況だ
 
ただ、重盛は三隅が殺した男の娘、咲江(広瀬すず)の存在が気になっていた
三隅とは何かただならぬ関係がある

やがて刑事裁判の日が直前に迫る頃、咲江が重盛の元を訪ねてくる。そして「三隅さんは怨恨でも、強殺でもない、私のために父を殺した。父が死んでほしいと願っていた、私の気持ちを汲んで代わりに殺人を犯した」と訴えるのだった
 
いくつもの真実の可能性が提示される中、重盛はそのどれもが薄く、手ごたえなく感じられる
真実に意味はない、と部下にはビジネスライクに説く重盛だったが、「真実」の深みに次第に翻弄されていく

次のページでネタバレ
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こんにちは

今日は漫画とは全然違う内容で一席ぶちたくなりました
ここ最近で急激に子どもに対する「体罰指導」のニュースが目立つようになりました

ただ、ネットではこうした体罰指導者に対する寛容化、正当性を肯定する意見が結構に目立ちます

今日は「子どもにも大人と同等の人権を持たせよう」という趣旨でひとつ論を展開します

なぜ体罰は起きるのでしょうか

私自身も中学の部活動をしていて、かなり激しい体罰を受けました
ただ、その指導者からの指導愛というものは感じていたので、部活をやめたり自殺を考えるということはまずなかった。しかし多くの仲間が部活を去ったのも事実です

その教師は講師でしたが、1年半ほどで教壇を降りることになりました

外部施設で激しい体罰を振るっているところを、一般の施設利用者に目撃され教育委員会に通報されたからです

教え子を家に泊めたり、奥様と離婚の危機になるほど部活に入れ込んでいて、その先生のことを本当に恨んでいる人は辞めずに残った部員なら1人もいなかった

しかし私も好きだったこの先生は、やはり指導者としては全くの失格者だったと思います

■殴ることの合理性は一切ない

体罰を少し合理的に考えてみましょう

例えば、iPS細胞の山中教授や、野球のイチローは幼い時から体罰を受けることによって今の輝かしい地位を手に入れたのでしょうか

私の周りの、ある程度社会的地位を得ている人の幼少時代を聞くと、体罰を受けたという話はほとんど聞きませんし、自分の子どもにもあくまで「言葉によって」しつけをしているケースばかりです

体罰にはデメリットはあってもメリットが感じられません

しかし一方的に論じるだけでは説得力を欠くので、ここで例を挙げます

先日から有名になっているトランぺッター日野皓正(ひの・てるまさ)氏がドラムを演奏する中学生に公然と往復ビンタをした、というニュース



映像を見ればはっきりわかりますが、少年の顔が左右に激しく触れています 間違いなくビンタを2回繰り出していますね

日野氏は1度、「軽く触れただけ」と否定していますが、のちに「必要だったこと」と肯定しています

まず経緯ですが、ジャズ演奏ですから、奏者は多少アドリブを入れることがある、そんなコンサートです。おそらくこの中学生は映画「セッション」を見ていたのではないでしょうか。

ラストでドラマーが大感動のアドリブを入れて締めくくる内容です

映画では反目しあっていた指揮者が、最初は止めるのですが、やがてそのアドリブによって心が通じるという終わり方をする

しかし現実は映画とは違うということで、日野氏は迷惑だ、とばかりにはじめスティックを取り上げ、それでも手でたたきながら演奏をやめない中学生についに手が出た、という流れになっています

論点はふたつ

①大勢の観客の前であるにも関わらず、なぜそのような静止手段を選択せねばならなかったのか
②止めるにしても往復ビンタは不可欠だったのか

ネットの意見では「これは奏者が悪い」「横着な子どもをわからせるには鉄拳しかない」という意見がかなり多数の意見を占めていました

おそらく、実際にアンケートを取ると、「体罰はよくない」が過半数を超えると思います
それがわかっているから「暴力肯定派」はその思想を多数派に押し上げたくて、わざわざ書き込む
これはネットの常套手段ですが、これらに対して、わかったつもりをしないで真面目に今から反論を展開します

確かに奏者は褒められたものではないかもしれませんね
いささか常識を外れていたと思います
この点については指導があるべきでしょう

しかしながら観客に暴力劇を見せるのは醜態としか思えません
これは日野氏が「だらしなく憤怒を隠さなかった」という事案ではないかと私は考えます

どんなトラブルがあってもその枠の中で体裁を整える努力を、どんなショーマンでもするものです

テレビならこれは放送事故として重大な問題になる

実際に生放送でこれをやったらBPO審議入りは確実でしょう
それがカメラが回ってないからあり、という理屈になるでしょうか
なるはずはない

まず指導のやり方以前に、そこでもう大人として失格なことをした

そして往復ビンタは必要だったのか

どうしても静止しないといけない場面で言葉による静止が聞かなかったんだから、身体的接触で止める必要があったという判断までは、私は否定できません

しかし、私なら殴るのではなく、肩をつかんで「やめなさい」という

そのあと照明を落とします

でもとっさにそうは思いつかないかもしれないから、ビンタ1回も100歩譲って仕方なかったとしても、往復は必要でしょうか

2発目は、自分がムカつくからやっているとしか思えない

これが体罰の本質です

そう、自分がムカつくからやっているのです

相手が大人だったら傷害罪で起訴されることを相手が子供だからやる

それが体罰ですね

突如沸き上がったサディスティックな衝動を相手が子供だから抑えないのが体罰なのです

■指導者は必ずサディスティックになる

なぜ体罰が必要なものではなく、サディスティックな衝動の露出と言えるのか

ここでスタンフォード監獄実験という社会実験がその根拠として有効になると思います

概要をかいつまんで言いますと、ある施設に20人ほど閉じ込めて、10人を看守役、10人を受刑者役に分けると、しばらくして、その分け方には何の根拠もなかったはずなのに、看守役が受刑者に対して罰を与えるなどのサディスティックな行為を始めだしたというものです

人は役割の中で、その役に酔っていきそのものになるということがあるという事例です

つまり本来ならば、子どもは親からの借りものですから、教師と生徒というのはある社会的な「仮」の関係であるはずなのに、閉鎖的な空間の中で、指導のやり方が全く客観的な視点で咎められることが無いことを自覚していくうちに「何をしてもよい」、いや「何かをしなくてはいけない」という気持ちになるということです。これが私が思う体罰指導者サディスティック変容論です

もちろん、すべての指導者がそうなるわけではない。
先ほどの教師と生徒は社会的に与えられた職制上の人間関係だということを思い出して、そういった衝動を捨て去る人が大半でしょう

しかしながら著しく客観視に欠ける不見識な指導者はこうした衝動をそのまま正しいと思い込んでしまうために、こうしたことが起きるのです

今から自分がやろうとしていることの正当性を客観視することができない
それは万引きや露出狂や強姦と何ら変わりのない犯罪者の思考なのです

次の事例もそうしたサディスティックな話



杉並区の特別支援学校・都立永福学園で、高等部1年の男子生徒がバスケットボール部の部活動中に熱中症で倒れ、意識不明の重体となった 「タイムが遅い罰」として、31歳の男性顧問から屋外でおよそ10キロ(400メートルの校庭を43周)走ることを指示されていました。気温は32℃

http://www.excite.co.jp/News/society_clm/20170826/TokyoSports_746109.html

このニュースは本当に許せない
まず、初期のタイムの設定が無理なものなのに、それから遅れるごとに罰走を課すという名目でこのような運動量になっているということです

しかしそれよりも何よりも許せないのは、この生徒は軽度の知的障害があったということです

私ならこの無茶な指導は絶対に聞きません
いきなり帰ると思います
しかしもしかしたらそうした判断は出来ずに熱中症で重体になるまで走ったのかもしれない

刑事事件の発展してくれることを願います

意思が自由に伝えられない者かもしれないのにこの仕打ちは実質実質殺人未遂に近い


この顧問はその後どうなったのでしょうか

これなどは典型的なスタンフォード監獄実験の中に現れるサディスティックな衝動の発露です

そうすることで、生徒のタイム向上は望めたのか
生徒の希望する未来になるのかどうか

全くそうした観点はあるように思えません
罰則を与えるのが半分快楽になっていたのでしょうね
その瞬間、彼は指導者としての資格を失っていたのです

次の事例も人の心を失ったとしか思えない残酷な事例です

https://www.nikkei.com/article/DGXLASFD28H02_Y7A820C1000000/

野球部の生徒が非常勤講師から100メートルダッシュを100本、途中マネジャーの勧めで水分を補給すると「勝手に水を飲むな」とさらに30本追加で熱中症、救急搬送

出来ればこうした指導は周りにいる部員が、その生徒がやりきってしまう前に校長や警察や報道機関に通報してほしいと思う

つまり、共通して言えることは「客観的な目」が必要だということです

それで正しいことはそのまま続けてもいいだろうし、人に知られたらたちまち講師の無期限停止になるような事態をそのまま傍観していることはもはや周囲にも罪があると言わざるを得ない

■どうやって防ぐか

学校が閉鎖的な空間だから起こる話は客観的な視点の導入が必要だということです
理想は体育館などに防犯カメラがついていることですが、それも学校の裁量でコントロールされてしまうかもしれないから、最もベストは、各学校に警察機関の派出所があることだと思います

それが難しいなら、匿名でいつでも通報が可能な「目安箱」システムを文科省が公的に用意すべきではないでしょうか

通報のリスクをたとえ子どもでも考えるもの

部活というのもまた一種のムラ社会のようになっていて、今の流れに変化を与えるものを恐ろしく排除する傾向にあるので、通報者が特定されるシステムではこうした事故を防ぐことができないのです

もし匿名の目安箱をすると、嫌いな教師への悪口が集中する可能性もありますが、そこは専門機関がきちんと調査をすることと、子どものリスクと大人のリスクではまず子どものリスクを優先するべきでしょう

こうした議論が、なかなか社会的に起こりにくい
ひとつは教師の威厳を守らないと、学校が回らないという観点は無視できない

しかしながら、考えてほしいのは部活動という、教育には必ずしも必要ないところでそれがやられているのだから、そこから匿名の通報は真実味は教科の指導教員に対するそれよりも確度が高いということを考慮されたい

全国的にフォーラムやシンポジウムを自治体が「体罰をどう防ぐか」というテーマで開催して、国会での審議に取りあげるべきではないでしょうか

今の自民党1強時代は、そうしたスピード感だけはメリットともいえます

体罰をなくすなら今

最後にもう一つだけ言いたいのは「時代が変わった」とかいう話ではないということです

古い時代でも体罰は間違っていたのです

そして必要悪ではなく、必要ではない悪だし、むしろ指導する瞬間というのは子供に言葉を覚えさせる時間なのです

どうやって、子どもの心に残る言葉を選ぶか、それが指導じゃないですか

「教師も人間だから…」などと筋違いのことを言う人もいる

しかし子どもも人間です。子どもが教師を人間だからむかついて殴ってきたらどうなりますか

停学など明確な処分があるのでしょう

手を挙げることが対等でないのに、人間もクソもない

自分の同僚や上司に人間だからむかついて手を挙げることができますか

しっかりその後に起きる社会的状況を見据えて手を挙げているのです

つまり学校にいる子どもたちは社会が暴力から守っていない、これが体罰のすべてだと思います

子どもへの体罰はしっかり傷害罪を適用し、警察が捜査
目安箱を用意

こうした提案をしたいと思います

長文を読んでくれた方はありがとうございました
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今日はかるーく、最近はやりのデスゲーム漫画を個人的に面白かった順に並べようと思います

僕の漫画ブログでは高得点になる基準が一貫しています

多くのサイトでは「ヒロインがかわいい」「主人公に共感する」「社会的テーマがある」「絵が綺麗」「リアリティがある」などが高得点になるようですので、その意味では世間の高評価とは順番が違うかもしれません

僕の評価基準は

①「オリジナリティがある」
②「人間の心理の推移が不自然でない」
③「コマ割りがうまく1ページの情報量が過不足ない」

です。③は結構重要なんですよ。例えば大ヒットの「デスノート」は途中まで①と②を満たす最高傑作だと僕も思ってましたが、竜崎が死んでから1ページの情報量過多で、面白い理屈が描いてあるんだろうけど、あまり読む気が無くなってきました。

設定を複雑化すれば、それは確かに深みのあるストーリー展開が出せるんでしょうけど、それは当たり前なんですよね。

しかもそれを文字で満たそうとするのはどうも「読ませ」を第一義とする漫画の美学とは思えない

もっとほかに工夫があるだろう、ということで低評価になってしまいます

まぁ偉そうに言ってますが、個人的な見解なので、自分としてはこのように感想を持つということでした

その観点で選んだ7選は以下。ひとつひとつは個別ブログにしたこともあり、ごくさらっと説明


順位 タイトル 点数 理由
1位 今際の国のアリス 98点 ゲームの内容にオリジナリティがあり、毎回絶望をどうやって潜り抜けるのかが読めなかった
2位 神様の言う通り(1+2) 95点 ナツメグなど主役級がいとも簡単に死ぬ。展開はまさに神様(作者)の気の赴くまま
3位 リアルアカウント 65点 初期は上位2つに次ぐ面白さだったが回を重ねるにつれ少年漫画化、エロ化でアイデアの枯渇感を感じる
4位 ドクムシ 50点 「女」を武器にサバイバルゲームを生き残ろうともがくキャラがリアルだった。それ以外は凡庸な作品
5位 トモダチゲーム 45点 読者を裏切ろうとして主役級キャラの性格が各章ごとにコロコロ変わり不自然、ただ回を増すごとに心理戦が洗練されてきて面白くなってきている
6位 天空侵犯 40点 途中まで面白かったが、主人公がパワーアップして以降、作中キャラの力のバランスが良くわからなくなり失速中
7位 Btoom 30点 これも中盤まで面白かったが、主役とヒロインがデキたあたりから惰性間が強くなってきた


■デスゲームを面白いと思う理由は何か



これについては実は僕もなぜそれを面白いと思うのかうまく説明ができません

自分はほかにヤクザ映画も好きなんですが、やはり面白さをうまく説明できないのです

面白くない理由というのは説明するのは誰でもとても簡単です

だから批評家というのは時にくだらなく思われるのですが、面白いとか好きという理由は結構説明するの難しいという気がしています

しかしそうは言っても自分は世の中に出ているほとんどのデスゲームものを読んでしまった

このブログを機に、なぜそこまでこのジャンルにハマるのか考えてみたいと思います

①絶望→希望というギャップがカタルシスを産む説

落としておいて持ち上げることによりカタルシスを短い時間に産むのは漫画のネームの基本だと思います。これを考えずに週刊連載などはかなり厳しいんじゃないか

そして週刊連載のそのリズム感が情報過多気味の現代に生きる我々には都合がいいのです

デスゲームものなら手っ取り早く短期間でカタルシスを味わえる

このストーリーの起伏のお手軽サイズ感がいいのではないか

②「セーフティ」の愉悦

これはこの漫画のページが雄弁に語っている

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つまり、残酷なものを好むのはひどい状況にいる人を見て自分の今の安全、幸せをかみしめるというもの。

一瞬これかなと思ったんですが、少し違うような気もする

でも、ただ単に無残に殺戮されるだけでなく、努力して苦悩してもがいて一瞬希望も感じるが、最終的にダメで、自分の生きざまに誇りを持ちながら死ぬ、という展開がデスゲームものには非常に多く、またそれに美しさすら感じる

この感情は一体なんなのだろうかと思います。これについてはさきほどのギャップカタルシスでは説明がつかない

セーフティの愉悦なのかなという気もしてしまいます

③人間心理の研究説

自分的にはやはりこれかなと思う。

追い詰められたら人間はどういう心理になるのか。

そのことを知っていると日常生活へのバックもある。

漫画の中のことでしょう、というかもしれないが、いやそれは少し違っていて作者がそれぞれ人生を歩んできて見て考えた人間の姿が一部あるいは全部投影されているわけですから、漫画の中の人間模様はある人間研究家の発表とも言えるわけで、現実世界にも通じるものがいくつか含まれているかもしれない

そういう風に考えるわけないだろう、という感想を持つことも大事なわけです

いわば日常では絶対に味わいたくない極限状況を設定され、「人はこうだ」「いやこうではない」「おそらくこうなるのでないか」と作者と議論しながら弁証法的に「人間はこう動くはずだ」と結論を出したい

すなわち「極限状態の人間の心理を知りたい」というわけです


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►試みを応援したかったが

蛭子さんと言えば天然さが売りの漫画家である。

本番中でも素でやってるとしか思わない「作らなさ」いや「作れなさ」、素人感が芸風の棒読みキャラで、一見俳優とは最も縁遠い存在に思える。

しかしある意味、芸能人はあまたいる中、そのテレビと矛盾したキャラコンセプトは非常に貴重な個性でもあり、それを逆手にとって名作を作り上げる映画の可能性を、本作が示してくれるのでは、と鑑賞には大いに期待を込めた

蛭子さんがあんなだからこそ、こういうキャラ設定が生きる、というようなハマり役の誕生を期待したのである。

だが、やはりB級だった。残念ながらB中のBである。

肝心の脚本が薄すぎる。 蛭子さんの演技は最低ラインは超えていたと思う。

むしろ蛭子主演の期待あるからこそ最後まで見たので、もはやキャストを間違ったとはいえない。

しかしながら蛭子さんを使うなら映画の完成度はイケメン俳優の印象に任せるわけにはいかない。

脚本が通常の3倍も4倍も頑張らないといけなかった。

ストーリーがベタを目指したとは言えベタすぎる

テンプレートをただやっただけで、オリジナリティがゼロすぎた

これで蛭子主演の印象を世間に定着させるにはあまりに惜しい

トリンドル、佐藤二朗、中尾明慶、千鳥の大悟とキャスティングは低予算ながら、内容で魅せるぞ、という気概を感じるなかなかの神チョイスだっただけにこちらの期待のハードルが上がってしまった

キャスティングだけで完全燃焼してしまった映画である

内容は本来0点に近いが、蛭子主演というチャレンジが今後映画を制作する人に何らかのインスピレーションを与えるかもしれない、ということで25点にした

<あらすじ>

伝説のヤクザ、柴田源治は所属する小里組の親を殺した対立ヤクザの組長を殴り込みの上、斬り殺して収監、長い懲役を経て娑婆に戻ってくるころから物語は始まる

娑婆では自分のいた組は解散しており、自分が組長を死なせてしまった正岡組は一人娘・時子を組長に立てて再興を期しているところだった

実は源治が正岡組の組長を殺す動機となった親殺しの犯人は、当時小里組の傘下にあった榊(さかき)の仕業であり、榊組は小里組の崩壊のあと正岡組と縄張りを二分する勢力にまで拡大していた

源治はその街にやってきて、時子(源治が父を殺した犯人ということは知らない)や榊、かつての相棒と出会うがそれぞれ立場や環境も違っており、ヤクザ稼業からは足を洗って静かにクレープ屋を営んで過ごす

しかしその町中でスーパー銭湯設立の利権を巡り、正岡組に対する榊組の嫌がらせが次第にエスカレートしていく

住民の理解を得るために努力する正岡組の努力がことごとく裏目に出るのだ

源治は、時子の補佐役で婚約者でもある三田村の表情に影を感じる

次のページでネタバレ続きを読む
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こちらではお久しぶりです 最近更新サボっていてすみません。

本業のゲームの方が忙しすぎてw

前回更新の後も映画や漫画はたくさん読んでいたんですが、最近どうもレビューしたくなるほどの 神作にあたりませんでした。

しかし今回のこの「私が犯人です」はなかなかの神作。

元は韓国の映画が原作ですが、日本版はかなり良リメイクがされており、何より藤原竜也、伊藤英明、仲村トオルという3大俳優の競演は男の私でもときめくものがあります

展開としては、無理のない作りですので、中盤まで見ればミステリ好きなら大体その後の展開と結末はほぼわかるようになっています。

しかしその分を差し引いても鑑賞に値する作品だと思いますので、今回はあらすじと考察のみで詳細なネタバレは、上映中の今はしばし伏せます

ただ、考察ではいきなり真犯人のネタバレをしていきますので、まだ見てない方はぜひここで退却してほしいです。


<あらすじ>

1995年、東京で連続殺人事件が起きた。

犠牲者は全員絞殺、被害者の家族の一人が目の前で動けない状態にされ、自分の大切な人間が目の前で殺されていく様を見せるという非常に残虐な手法がとられた。

完全なる愉快犯である それから2017年。 日本では極刑に値する罪については時効が無くなっていたが、22年前のその事件については時効が1日違いで成立していた。

22年前の事件に関わり、成果を上げられなかった牧村刑事(伊藤英明)は今日もチンピラを後輩と追っていた。

そんな折、上司からの携帯電話がなる。

「牧村、テレビ見てるか。すごいことになってるぞ。」

22年前のあの事件の犯人が姿を現し、記者会見をやるという。

殺人の一部始終を手記にし、出版するというのだ。 犯人は何を考えている?

語られることはすべて真実なのか?

時効が成立し、犯人の身柄を抑えることも裁くこともできなくなった状況に、司法は報道はどう対応していくのか。

そして現れたその男、曽根崎雅人(藤原竜也)なる人物は、本当に犯人なのかー

次々と視聴者を裏切り続ける展開に時を忘れる佳作です続きを読む
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電子書籍の先駆「ebookjapan」が横山光輝三国志の全60巻無料というのをやってます。ただし72時間以内に終わるシステムで、既にいまあと60時間ほどしかありません。私は今から読み始めますが、それでも1時間に一巻の計算

まぁ現実には三巻ぐらい読んで面白ければ続きという感じでしょうね

漫画の速読に自信のある人は何巻まで行けるか挑戦してみてはいかが

基本、漫画の「宣伝」はこのブログではやらないんですが、この手法は実際には全巻読破を不可能なことを前提にして自社サイトをPRする上手い方法だなと感心したのでちょっと乗ってみることにしました

興味持った人はこちらからどうぞ
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日本のすごいミステリー10選、とかで必ず上位にランキングされるタイトルです。

他にも絶対ランキングされる作品に「十角館の殺人」「ハサミ男」「アヒルと鴨のコインロッカー」「慟哭」「葉桜の散る頃に君を想うということ」「殺骸にいたる病」「向日葵の咲かない夏」、あれ、これで既に8本言いましたねw

あとはロートレック殺人事件とか、仮面山荘殺人事件なんかを加えると完成です。

これらはネットにたくさんランキングがありまして、最近では本屋さんもそれを意識してコーナーを置いています。 

ネットの影響ってすごいですね。元は誰かが2ちゃんねるで書いたスレ「ミステリ好きの俺が選ぶすごいどんでん返し10選」が始まりだったと思います。5年ほど前に「どんでん返し おすすめ 小説」で検索した時にはそれしかヒットしなかった。

しかし今ではたくさん類似のものがヒットする。しかしベースはやはり先駆者が作った前述のラインナップによるランキングなのです。あの投稿者が「イニシエーションラブ」を掘り起こし映画までにした、と勝手に思っていました。

さて本作です。どのランキングでも大体2位か3位に位置づけられる本作は、平均点をとるとミステリ好きに最も愛された小説ではないかと思いました。

だから小説で読むか映画で見るか、かなり迷ったのですが「ながら」で見れる映画(=DVD)の方がやはり効率が良いということでこちらを選んでしまった。

前半のA-sideと後半のB-sideに分かれているところは同じです。

しかしその時代背景である昭和後期の雰囲気に合わせてBGMが古臭い。

これが非常に印象を深くしてくれるんです。

キャスティングもとてもよかったです。前半。
後半から松田翔太が出てきますが、このパートが単体ではやや面白くなかった。 
どんでん返しのためのただの「経由」するパートだったんです。
だから100点の前半に比べると、後半の中だるみ感がややツヤ消し。

どんでん返しは、最初からわかっていたとは言え、うまく作ってありました。
やはり面白い。ただ、イニシエーションラブ、というタイトルだけで「どんでん返しもの」と
みんな知ってて見るだろうから、本当に綺麗に騙される人はどれだけいるんだろうか、という気にはなりました。

<あらすじ> 

静岡県。大学4年の夏。

大手企業に内定が決まった大学生、鈴木夕樹は合コンの誘いを友人から受ける。

どうせ数合わせだから…。巨漢で厚い眼鏡、オシャレもできない、いわゆる「非モテ」の鈴木はそれでも
合コンへ足を運ぶ。

そこに現れた成岡繭子(=前田敦子) とひょんなことから仲良くなった鈴木は、いや、繭子は積極的に鈴木にアタックを仕掛けてくるのだった。そのメンバーの中で最も輝きを放つ繭子がなぜ自分に?

警戒を隠せない鈴木だが、繭子は強力にアタック。

夕樹の夕が、カタカナの「タ」にも見えることから、鈴木は「たっくん」と愛称をつけられると、
みるみる心を奪われ、二人は結ばれるのだった。

眼鏡をコンタクトに変え、美容室で髪を整え、免許まで取った。

それでもクリスマスイブの夜、ツリーの前で待ち合わせたところに「なーんか釣り合わない二人だな」と通りがかったカップルからバカにされ、鈴木はショックを受ける。

繭子は今のままの鈴木が好きだ、と言ってくれるのだが、鈴木は以前から思っていたことを遂に口にするのだった。

「君と出会ってから、僕の人生は180度変わった。今なら何でもできる。

痩せるよ!これは僕の決意表明だから」

君と釣り合う男に―。鈴木は地獄の猛ダイエットを誓うのだった。

 <ネタバレ>は次のページ。続きを読む
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龍が如くシリーズに外れなし。

今のところ1、2、3、4、0、見参、維新とやってきましたが、順位を付けるのは無意味というぐらいどれも名作です

ストーリーだけで言ってジブリなんかより評価されるべきだと思う

上に並べたものの中から強いて好きな順にあげるなら、見参、0、2、維新、1、3、4か。でも明日考えたらまた順は入れ替わる。それくらい名作揃いで甲乙つけられないです

この「維新」は他のタイトルに比べると登場人物がいささか少なめですが、だからこそ一人一人が魅力たっぷり濃密に描かれ、終わった後も人物の余韻に浸るほどの群像劇となっています

特に自分は土方歳三が好きだった。内容としては「維新」というタイトルでやや面倒な時代設定を思い浮かべるかもしれませんが、その本質は「坂本龍馬異聞」です。一風変わった設定から始まって、最後、歴史の辻褄があっていく。

歴史劇として見ても大変面白く、大河ドラマに似せたオープニングで始まっていますが、まさに大河と遜色ない内容だったと思う。ではあらすじから。

【あらすじ】

物語は江戸に修行に出ていた坂本龍馬が剣の修行から故郷の土佐(高知県)に帰ってくるとこらから始まる。閉鎖的な土佐には根強い階級制が生きていた。武士の間に明確にひかれた境、上士と郷士。

郷士は上士にいたぶられるだけの存在で、人の扱いをされなかった。龍馬は土佐に帰ってきて早々、上士に追い込まれる郷士の嫁と子を腕っぷしで助け、牢に入る。後は死罪を待つだけという野蛮な司法に囚われる中、龍馬を救う高知城の役人がいた。それは吉田東洋。


龍馬と兄弟分の武市半平太を幼少の頃から育てる親代りだった。東洋は上士と郷士のいびつな身分制度が残る土佐を変えたいと言う改革の士であり、それを為す者として武市と龍馬を育てていたのだと明かす。

その武市半平太は龍馬が江戸に修行に出ている間に土佐勤王党という改革を起こすための若い郷士のグループを結成、盟主となっており、龍馬を筆頭として迎える


いよいよ改革決行の時と、その謀議を龍馬、武市、東洋の3人、高知城で始める。

東洋は「龍馬を土佐勤王党の筆頭とするのは反対だ、坂本龍馬という人材は…」

言いかけた時、謎の覆面が背後から現れ、東洋を斬り殺してしまう。当然、武市と龍馬は覆面を追うが、男は強く武市は傷を負い、龍馬も逃してしまう。

一方、城から追っ手が迫っていた。このままでは武市と龍馬が共に東洋殺しの犯人となる。そして武市は手負い、城の追っ手と応戦すれば命を落としてしまう。龍馬は「土佐を頼む」と武市の救命を先決に逃亡劇を演じ、そのまま脱藩。京へ流れ着くのだった。

それから1年。龍馬は京の寺田屋で「斎藤一(さいとう・はじめ)」と偽名を名乗り覆面の男の行方を追っていた。

1年の調査の中で手がかりは剣を交えた時に見たあの独特の構えだけ。「天然理心流」という流派の構えということだけがわかっていた。

情報屋「サイの風呂屋」と様々な人物との縁で龍馬あらため斎藤は天然理心流は試衛館という今はない道場の少数の出身者だけが使えるというところまで辿り着く。その試衛館の人間は一体どこにいるのか。さらに調べを進めると、それは京を騒がす「新撰組」の中の数名のみが使える剣術ということがわかった。



これ以上の情報は自分自身が入隊することでしか得られないと悟った斎藤は、新撰組の試験を受けるため、2番隊隊長、永倉新八と刀をあわせるのだった

ネタバレに続く
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