2019年02月22日

【第2085回】 『徒然の記』で私のブログも紹介②

 「教育」の恐ろしさ戦時下、17歳の少年の書いた文章を読む

 まずは、ある本から次のような文章を著者の了解を得て転載する。「御民吾」と題する一文である。

 

古人は斯く歌ひぬ。「御民吾生ける験あり天地の栄ゆる時に遇へらく念へば」と。味はうべき此の一句。是豈惟古人のみならんや。凡そ生を我国に享くる者誰かは此の感激に咽ばざる。是実に萬世一系の天皇を戴ける大日本帝国に生を享けたればなり。自ら称して御民と呼ぶは何ぞや。上御一人を戴けるが故なり。この感激あればこそ我が祖先は、同胞は斯く歌ひたるなり。

 

今日よりは顧みなくて大君の醜の御盾と出で立つ我は

 

而して身を鴻毛の軽きに置き莞爾然として散れるなり

是何の故ぞや。我は斯く言ふ。「死したるにあらざればなり、己をして無ならしめたればなり即ち天皇に帰一し奉りたればなりさればこそ莞爾然として死地に身を投じたるなり。

是日本男児の本懐にあらずして何と言はんか。天皇に一元化し奉るとは大御心を以て心とする事なり。即ち宇宙の最高道徳を極むる事なり。君の為身を擲てる人の心の至尊、至高、至広、至大、至・・・・なる所以も此処に存するなり。

斯かる我が国なればこそ強きも宣なり。而して現に今我が同胞は『天皇陛下万歳』を唱へつつ従容として散りつつあるなり。

此の聖聲こそ実に砲烟弾雨の中、聖兵臨終最後の一叫なり。生死超脱の辞世の句中尊くも気高き最高の一句なり。而して此の一句こそは実に古今冠絶の如何なる英傑の辞世にも百千萬倍する聖句なり。我等も又大君の醜の御盾と斯く散らなん。然れども今日の急務は此の一叫を以て日常生活に具現する事なり。是我等が達道なり。斯く思い續くれば我等寸刻たりとも忽にする能はず。早くも大東亜戦争一周年を迎へたり。十二月八日の感激を想起せよ。宣戦の大詔を拝し奉り日本人のみの持つある琴線に触れ 身の硬直するを覚え感極まりて感激、滂沱たりしを、いざ我等肇国以来の大理想を打立てん。伏はぬ異国人を討平皇化せん。而して東亜十億をして皇恩に潤はしめん。是聖慮に副ひ奉る唯一の道なり。勝たずば断じて已むべからず。我等は各々其の本分達成に只々一途に邁進せん。御民吾の感激に浸りつつ。

 

 この文章は宮城県仙台市にお住いの中森孜郎さんという方が、戦前にあって松山中学校四年生の時に書かれたものである。年齢は17歳。当時の17歳の少年がこのような文章を書いたのである。天皇のために己の命を捧げようと、その決意をこのように表現する。

 おそらくこのような文章が書けるのは、その内容を離れても優秀な生徒であったであろう。同時に優秀であればあるほど、天皇のために己の命を捧げるという思い・決意は強いものがあった・筆者は、この文章を書いた翌年、18歳の時に両親には黙って海軍甲種飛行予科訓練生(予科練)を志願。松山航空隊に入隊した。そして、少年飛行兵としての訓練の日々を送ったのである。

しかし、「特攻機」に乗ることはなく、敗戦によって最後の訓練の地であった山形県神町海軍航空隊より、郷里・松山に帰還することができた。

氏は戦前(松山中学時代)と戦後間もなくの頃までに書いた文章や短歌を「憂憤録」と題して「整理」しておいた。

それから72年。今年二〇一八年三月、「みやぎ教育センター」という所が、中森孜郎氏のこの文書を編集してブックレットの1冊として刊行した。それが,『アジア・太平洋戦争の時代「憂憤録」の頃の私』である。

(明日につづく)



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2019年02月21日

【第2084回】 『徒然の記』で私のブログも紹介①

 一度もお会いしたことのない川崎市の笹岡敏紀さんという方から二ヶ月毎に発行する『徒然の記』という随筆集が送られてきます。

東京のAさんという作曲家の方が、私が「ブログの記録集」を発行していることをお知らせしたのがご縁です。

 この「徒然の記」には、笹岡さんが読んだり、見たり、地域の人たちと一緒に取り組まれたりされていることが詳しく率直に綴られています。

「新聞の記事」が気に食わない時には、直接その新聞社に質問したり抗議したりしています。私にはできないことです。たいへん博識な方なので毎号私の知らないことを教えられて勉強になります。  

先日、その「徒然の記」の第37集が送られてきましたが、それに私のブログも引用されていて恐縮しました。

事前に了解を求められたので「どうぞ」とお答えしたからです。その記事を長文なので三回に分けて紹介させていただきます。

 

短歌に託し、思いを語る人

戦争の時代を生きた証言としての歌の数々

「徒然の記」の前集36集で、「短歌と天皇制」のことについて書いた。読者の何人かの方から、「興味深く読んだ」との感想を寄せていただいた。

その短歌のことだが、最近一冊の「歌集」を手にした。「歌集」と言っても、けっして大部なものではない。冊子と言ってもいい27ページの歌集であり、収められた歌の数も60首である。歌集の名は、「私の短歌自選集 アジア・太平洋戦争の時代を生きて」とある。作者は、宮城県仙台市に住む黒江恵子さん(くろえやすこ)さんという96歳になられる方である。

この「徒然の記」に何度か登場してもらっている岩手県奥州市にお住いの菅原恭正さんから、11月に「ブログの記録集・第31集」を送っていただいた。菅原さんのブログは、毎回ではなくまとめて読むことが多く、見落とすことがある。そのブログをある期間(第31集は3ケ月分)にまとめて冊子の形にされているので、送られてくるとあらためてそれまでのブログを読むことができる。

今回送っていただいた第31集の中で、私がPCで見落としていたブログがあった。20日のもので、「96歳の黒江恵子さんの短歌集」というテーマで以下のようにある。

 

 《宮城教育大学名誉教授でみやぎ教育文化センターの代表運営委員だった仙台市の中森孜郎先生から、『アジア・太平洋戦争の時代を生きて』という27ページの小さな『短歌集』が送られてきた。

中森先生は私と同じ齢(92歳)で「わらび座」での「民舞講習会」で初めてお会いして以来40年以上も親しくお付き合いが続いている私の畏敬する先生だ。

奥さんを亡くされ、一昨年の12月から仙台市の「高齢者ホーム」に入居されている。

その同じホームに住んでおられる96歳の黒江恵子さんが、70歳を過ぎてから詠まれたという七百首あまりの短歌が記録された冊子を拝見した中森先生が、戦争を知らない一部の政治屋たちが平和憲法を安易に変えようしている時代状況のもとで黒江さんに『短歌集』を作ることをお勧めして出版されたという。その「短歌集」には黒江さんが自選された六十首の短歌が載っている。その中の10首を次に紹介したい。

そっけなく赤紙一枚届けたる渡すも受くるも言葉なかりし

戦場に発ちたる朝のゆがむ顔夫は滅私奉公の心外にあり

滅私奉公尽忠報国を装ひて欺瞞の綱に引かれ征きたり

初めての吾子抱くことも叶わずに散りし夫よ沖縄の海

ふるさとをひたすら偲び果てし夫(つま)靖国の神となるを望ま    

反戦の思いはあれど民草の口封じられし大東亜戦争

この戦争は間違ってゐると言えば夫(つま)は黙せよと征きて還らず

戦中派の心の底にひそむもの教育勅語の「義勇公に奉じ」

戦地からの虚飾の便り検閲の目をはばかるものと察したり

戦争のこともう聞きたくないでしょうでも少し聞いてばばの無念を

※この「短歌集」の欲しい方は中森先生に電話でお願いしてください。℡○○○○

  このブログ(冊子にまとめられたものに掲載)を読んだ私は、中森孜郎先生に電話をかけた。「菅原先生から紹介されました。黒江さんの『歌集』を送ってほしい」と。

 中森先生は快諾され、「笹岡さんは、教育関係の方ですか?」と言われるので、「教育の専門出版社に勤めていたので、先生のお名前もお仕事も存じ上げておりました。菅原先生とのご縁で、このたびお電話を差し上げました」とお話しした。

 日を措くことなく、歌集『アジア・太平洋戦争の時代を生きて』が送られてきた。また、この歌集のことと作者の黒江恵子さんのことが「朝日新聞」宮城版に掲載された新聞記事が同封されていた。(※その記事の写真が掲載されていますがこのブログでは紹介しません)

 黒江恵子さんという方とその歌集の成り立ちは、この記事によくまとめられているので、私が解説するまでもない。

私はこの歌集を私なりに読み、印象に残った歌がたくさんあった。その中の一首だけ掲げる。(新聞記事にもある)

傍らに泣く子を待たせ立ちつくす敗戦告ぐるかの日のラジオ 

七十歳にして歌を詠み始められ、今なおこのような「歌集」をまとめられる黒江恵子さんという人が居ることを教えていただいた。

たまたま「徒然の記」の読者のお一人である菅原恭正さんのブログから派生し、1冊の歌集に出会ったことを書いた。

そしてまだ続きがある。中森孜郎先生のことである。次回に書くことにした。         (明日につづく)

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2019年02月19日

【第2082回】 96歳の田中美智子さんのエッセー

  私が83歳の月から「ブログ」の投稿を始めたのは、日本共産党・革新共同で当選されて衆議院議員を5期つとめられて引退され88歳になられた田中美智子さんの『自然と猫と私』というブログを読んだからでした。

その田中さんは2013年の月に「ブログを閉じます」と宣言されてからその後の消息は分かりませんでしたが、昨日読んだ『女性のひろば』の3月号に「ただ、なんとなく」という「エッセー」が掲載されていたので「ご健在だったんだ!」と嬉しくなりました。その記事は偕楽苑『ほのぼのだより』(去年の4月号)から転載されたものでした。

それによると、田中さんは96歳になられた今でも本や新聞をよく読まれ、ホームで出された食事は残さずに美味しく食べておられるそうです。

その田中さんが会いたいと思っているのが、わが家の留守を守っている「田中来太郎」という20歳近くになる「猫」なのだそうです。

記事の最後に田中さんは「私があなたのママよ。ママのこと忘れないで、来太郎!さようなら、さようなら、さようなら。ママは永遠にあなたのことは忘れないからね。さようなら!来太郎ちゃん。ママより」と結ばれてありました。

 私が「ブログ」始めるきっかけになり、『自然と猫と私』というブログを読むのが楽しみだった田中美智子さんがまだご健在であることが分かってとても嬉しかったです。(2月1日・記)

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2019年02月15日

【第2081回】 私がまだボケないのはなぜ?

私や妻の友人や連れ合いの方で「認知症」になられた方が何人もおられますが、幸いにも私にはまだその兆候がありません。

それで妻が友人に「先生のだんなさんは90歳を過ぎたのにまったくボケなくていいですね。なぜでしょう?」と聞かれるそうです。

それを聞いて「ネット」で「認知症の予防」を検索してみたら次のようなことが書いてありました。

①社会的な交流を保つ
 社会的交流を通じて孤立を防ぐことで、社会的知能を活性化できる。社会生活の場で他人との交流、集団に参加していくことで、神経細胞ネットワークを強化できると考えられている。

②脳を刺激する活動を行う
 クロスワードパズル、カードゲーム、コンピュータゲーム、芸術品や工芸品の制作、講演の聴講、グループ討論、音楽の鑑賞などには、アルツハイマー病に対する保護効果がある。

③運動をする
 運動や身体活動は、その種類や強度に応じて、アルツハイマー病の発症リスクを最大で65%まで軽減するのに役立つ。運動は、動脈硬化を改善し、血管疾患のリスクを低下させ、呼吸機能を改善する。これらには体の炎症を軽減し、細胞の寿命を延ばす効果がある。

④栄養バランスの良い食事
 バランスのとれた健康的な食生活によって、アルツハイマー病の30%を予防できるという報告がある。新鮮な果物や野菜、精製されていない全粒穀物、脂肪分の少ない良質なタンパク質を摂り、ファストフードや加工食品を減らすことが必要。―と。

   私は歩くことが不自由で「要介護」に認定されています。それで外出することが少なく、の「社会生活の場で他人と交流」することも「集団に参加する」こともめったにありません。昨年は近所で行われた次男の「ライブ」に三回参加しただけです。たまに外出する時には妻の車に車椅子を積んでもらって出かけます。の「運動をする」ことも出来ません。「運動」と言えるのは書斎に置いた電動の「ルーム・マーチ」を漕いで脚を動かすだけです。は妻が私のことを考えた「栄養バランスの良い食事」―「(豆)(胡麻)(わかめ=海藻)・(野菜)(魚・肉)(椎茸=きのこ)(芋類)」食事を作ってくれるのでとてもありがたいのですが「運動」をしないこともあって食欲がなくて「少食」が続いています。それで毎晩入浴後に体重を測っていますが減ることはあっても増えることはありません。

 そんな私でもできることは、の「脳を刺激する活動」です。私の「脳を刺激する活動」といえるのは、去年の「
大晦日に思ういろは」に、「・中断していた<数独>を11月末に再開しました」「・寝ても覚めてもブログに何を書こうかと考えています」と書いたように、「数独」を解くことと「ブログ」を続けることのふたつです。「数独は妻に『初級ナンプレ252題・月号10級から1級まで)』を買ってもらい、それを日から25日までの19日間(一日平均13題)でやり終えて、現在『252問ナンプレ+・60 3月号10級から初段・師範代・師範・仙人・神まで)』に挑戦しています。これは1日に解くのを10題以内に制限したいと思っています。「クロスワードパズル」を解くのも楽しみです。ブログ」は年前の17日から頑張って続けています。「ブログ」を書くために知りたいことを「パソコン」で検索するのも「脳の刺激」になっています。妻が図書館から借りた本を読ませてもらうのも「脳の刺激」になっているのではないかと思います。


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歳で亡くなった父も私のように寝てばかりいましたが、脳溢血で倒れるまではボケないで毎日「虫メガネ」で新聞を隅々まで読んで鋏で切り抜いて「政治」「経済」「教育」「文化」などに分類した「切り抜き帳」に貼っていました。これが「脳の刺激」になってボケなかったのではないかと思います。

 読者のみなさんも、この「認知症予防の四原則」を参考にされていつまでもボケずに長生きしてください。


※長男の嫁さんから高級なチョコレートが届きました。
2年生の孫からも自分で焼いたクッキーが届きました。しあわせです。

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2019年02月12日

【第2080回】 「紀元節」の思い出

昨日は「建国記念の日」という祝日でした。

私が子どもだった頃、この日は「紀元節」という祝日で学校に登校して儀式がおこなわれました。

校長先生が白い手袋をはめて「奉安殿」に安置していた天皇・皇后の「御真影」(写真)を講堂の正面に飾ったのに向かって拝礼をしてから「君が代」を斉唱し、そのあと校長先生が白い手袋をはめたまま「教育勅語」を抑揚のあるおごそかな口調でゆっくりと奉読します。

みんなはそれが終わるまで頭を垂れているので奉読がおわるとそちこちから鼻水をすする音がしました。

そして最後に「紀元節の歌」を歌いました。80年以上も昔のことですが今でもその歌を覚えています。

 

①雲に聳ゆる高千穂の

 高根おろしに草も木も

 なびきふしけん大御代(おおみよ)

 仰ぐ今日こそたのしけれ

④空にかがやく日のもとの

 よろずの国にたぐいなき

 国のみはしらたてし世を

仰ぐ今日こそたのしけれ

 

 式典が終わるとみんなにお祝いの「紅白饅頭」が配られるのでそれがとても楽しみでした。

 私が一年生の頃は家族が南朝鮮の「水原(すいげん)」という田舎にある「花山(かざん)牧場」に住んでいて片道約6㎞を一人で歩いて通学していました。

「紀元節」の帰りに途中で「うんこ」がしたくなって田んぼの中にしゃがんで用を足したことを覚えています。(※「紀元節」という言葉を聞くといつもこのことを思い出します)

帰路の最後の㎞は直線コースなので父が牧場の事務所の窓から双眼鏡で「そろそろ帰って来るころだな」と思いながら眺めていたそうです。たまに牧場の馬車に乗せられることがあってその日はとても「らくちん」なので嬉しかったものです。

私たちの家族は私が四年生になったときに「京城(けいじょう)(※現在のソウル)に引っ越して「鐘路小学校」に転校しましたが、そこでの「新年」「紀元節」「天長節」「明治節」など、「四大節」のことは「紅白の饅頭」をもらったことしか覚えていません。


付記

 「紀元節」が二月十一日だったのは「日本書紀」に神武天皇が即位をした日が「辛酉年春正月庚申朔」と書いてあり、その日が二月十一日にあたるからだそうですが、日本の縄文時代だった紀元前600年に神武天皇がいたというのは事実でなく「神話」です。

「日本書紀」によると神武天皇は127歳だったことになり、15代までの天皇のうち百歳以上の天皇が8人もいたことになっているそうです。昭和天皇が124代目の天皇で女性の天皇が10名いたというのも「史実」ではありません。

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