剣道で知る、素晴らしい日本のこころ

剣道には「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」という「剣道理念」があります。この理念をわかりやすく語りかけたいと思います。

剣道歴60年余の老剣士ですが、楽しく稽古しております。
段位剣道教士7段
居合道 5段
交野市少年剣友会指導(1971年~現在)
交野市剣道連盟名誉会長

大連道場の名士

満鉄大連道場の先生方の中、岡田、波多江、篠原、星野という先生方は剣豪でもあったが酒豪でもあった。先生方の剣風はそれぞれの持味があったが只どなたも一様に剣先が鋭く、手元が堅固くて容易に打込めなかった。偶々攻め込めたと思うたら物凄い向突で呼吸が止まる思いがした。星野先生は普通の人より手が長くて(自他共に認めていた)慣れるまで間合いがつかめずなやまされた。

現在三重県剣連の奥川範士は昭和の初期に於ける警視庁の斗士だったが後に渡満された中の一人である。大技の豪快なる剣風でもあったが難剣の部類だった。
 また激しい見事な稽古はなんといっても現北海道の剣連の菅原範士の若き日だった。当時満州麒麟とまで言われた若手中のホープだった。奥川、菅原先生方とはよく稽古もしたが終始突き合ばかりの練習でホトホトいやのなる日もあった。奥川範士は只今でも私や菅原範士と顔を合わせると悪い奴だ、いやらしい奴等と昔話をするが、今となってはすべてなつかしい。
 吾々よりもずっと後輩の組の中では現警視庁師範の阿部三郎八段、山口県連の亀永哲夫、鹿児島には立和田孝と云う当時の無類の暴れん坊が健在である。・・・略

 

   阿部三郎先生と高槻の岡田吉之助先生とは満州時代の仲間だったようで、先生方晩年まで定期的に稽古会をされていました。私も岡田吉之助先生に呼ばれて宇治の陸上自衛隊道場や、岡山の武蔵道場、西方で稽古があるときは参加させてもらった。夜になると旅館で宴会が始まりました。阿部先生に私は少年剣道を指導していることを申し上げると先生は、少年剣道に対する熱い思いを話して頂いた思い出があります。

 

郁心剣友会

引き揚げ後初めて竹刀が握れるような世の中になった大阪時代は、特に郁心剣友会の皆さま方にお世話になり稽古でも現井坂範士、高見、和田、岡田、名剣、田中(故人)竹中(故人)谷口、三宝、南、小出、児玉、の諸兄に終始お願いできた。井坂範士は武専出身だけに型通りの基本に忠実な稽古で長身には珍しく俊敏にして軽快な足さばきだった。

この外難波の南海道場で主に稽古されていた現池田勇治範士は武専出身にしては関東稽古の面影があった。ある時率直にお尋ねしたら中学時代は乳井先生(修道学院出)に指導を受けたと聞いてむべなるかなと思った。理合、間合、気合、姿勢、態度、手の内の冴え悉く模範とする立派な稽古だった。先生と常に行動を共にしていた後輩の古谷福之助君は之亦若手中のホープであったが池田先生と共によく郁心剣友会にも見えた。其の他体こそ恵まれなかったが関西で数少ない実に豪快なる剣風の持主古野教士彷彿としてくる。

 

 なつかしい名前が次々出て来ました。郁心剣友会の先生方のお名前は井坂賢一郎範士をはじめ、私の最初の師匠名剣要一先生など世話になった先生ばかりです。この先生にはこのようなことを教わった。一人一人のお顔が思い浮かんできます。これまでのブログで何度もお話しをして来たので紙面の都合で省きます。

 

偶感

芸術は其人間性を其侭表面に表すので恐ろしい。従って芸術を学びたい者は先ず教養を身に付ける事。即ち芸術以前の人間性を絶対必要とする。模倣の後の創造。其の後あきたらず個性を出す守破離の一つ。

陸上競技において「かかと」を使うことはスピードを増す条件、投てき競技には絶対的条件。日本の舞踊、仕舞、能等凡て「かかと」を使い見事なる姿態を示す。又スピード感もあり。爪先ではスピード感なし。奈良の西川源内範士、満鉄育成学校の榊選手、満鉄クラブの荒木投手等は共に陸上競技の有経験者だったので剣道の出足は素晴らしかったことが首背さる。

剣道は竹刀という中間物を利用するために悪く云えば、遊ぶ時間があり、よく云えば形勢観望の余裕があるとも云える。これは身長の者程著しい。短体の者は遊ぶ余裕がないため必竟稽古が厳しくなる。相撲は体と体のぶつけあいのため息を抜く暇がない。長身者の剣道は一例をとって言えば土手の上から魚を釣るようなもので竿は長いし、手は長くて岸辺までおりる必要がなく安全地帯より糸を垂れることが出来る。之に比べて短体者は竿は短いし、手は短いので岸辺迄おりなければ糸は川面までとどかない。ところがこの土手より岸辺までが難行であるがために稽古も自然厳しくなるが又肚も出来て来ると云うことも云える。

 

思考

打突の間合が正しくないと当たる瞬間に腰が構えに乗り切らないため打突に威力を欠く事となり剣先に冴えが出ない。これは基本練習の不足即ち切り返し、打ち込み稽古が不充分と云う事が云える。間合い攻め方を忘れている様な人が多い。折角攻め込み乍ら無意味に自分から間合いを外す人があるか了解に苦しむ。柔軟性を以て表裏共充分につかえる事が理想なり。表は強いが裏は駄目だ、では片輪だ。

人は文字が示すように一人では成り立たない。生きていかれないことになっている。其の昔、針ヶ谷夕雲という剣聖は「相抜け」という事を悟った、それは刀を抜き合ってお互い構えたが剣の道は殺し合うものじゃない、相助け合うものなることを知り刀を鞘に納めて帰って行ったという話である。

 

今回満鉄の剣道話しを取上げた訳は、終戦になるまでの剣道はどうだっただろうかという興味があったからです。普通一般に耳にすることのない、中国大連での剣道は、高野茂義範士を頂点として、内地(日本)の剣道を凌ぐぐらい盛んだったようです。そのため優秀な剣士が多く輩出しています。私が未熟なころ、仲間内で「あの先生は満鉄で稽古をしていた」などと噂話をしたものです。

終戦後GHQの命令で剣道が長らく禁止になりました。その昔、満鉄時代に高野茂義範士の薫陶を仰いだ、蘭与志男先生もその一人でした。先生の著書に、中国から引き揚げた当時は世間と同じように就職難、生活困窮時代が続いたとあります。その後大阪時代に初めて、郁心剣友会で竹刀を持つことができた喜びを語り、他の道場でも稽古されたようです。次々出て来る先生方の名前は、私がお世話になった先生ばかりで懐かしさのあまり取り上げました。

私が生まれた1938年ころ中国で何が起きていたのか、ネットで調べると、実に激動の時期でした。日本占領下、南京に中華民国維新政府が樹立しています。国は、国民個人に対する強力な権限を政府に与える。「国家総動員法」が出来ています。益々軍国主義の色が濃くなって行き、小学校で柔道剣道が正課として組み入れられています。1945年敗戦となり、刀など武器となるものは全て没収されました、我が家の宝刀も、村の駐在所に持って行ったのは小学生の私でした。

※高野茂義:高野佐三郎の養子。大正3年12月南満州鉄道株式会社(通称、満鉄)の剣道部師範として招聘。大正11年5月範士号を授与される。

 

自分史「趣味と人生」の著者、蘭(あららぎ)与志男先生は満鉄社員でしたので、満鉄師範の高野茂義範士とは緊密な関係であったようです。戦争が終り、長らく途絶えていた剣道がようやくできるようになった蘭先生は、大阪曽根崎警察署道場にあった郁心剣友会で稽古を再開しました。関東に移るまで10年間在籍されましたが、その期間中に私は郁心剣友会に入会しました。

郁心会の先輩達からよく聞いていたのは、「蘭先生は歩み足で稽古をしていた」ことです。興味を持った私は、東京に行った時、大田区の大森高校で朝稽古をされている蘭先生を尋ねました。稽古の後、先生からいろいろとお話を伺いました。蘭先生の自分史「趣味と人生」は、先生が郁心剣友会当時に懇意にしていたある先輩に送られたものを、私が頂きました。

 

吉本政敏という青年

前略・・・私がまだ満州の営口というところに居た頃偶々或る人の紹介で満鉄の営口道場をのぞいたことがあった。大勢の青年達が柔剣道の稽古に励んでいたが剣道部の方で一際目立って立派な稽古をする一青年が居た。戦時中のことであったがなかなか規律正しくきびきびしていて好感がもてた。腕前は二段位だったと思うが其の名は吉本政敏と聞いた。

それから機会を見てはミッチリ指導したが、私が大連転勤の頃は精進の甲斐あって名実共に三段位に昇進していた。あたら人材を田舎においておくのも勿体ないと思い転勤後早速剣友に依頼して大連の満鉄の方に引き抜いた。彼も感激して大いに精進していたが戦局も厳しくなると共に遂に出征をした。

終戦後は無事でお互い夫々の郷里へ引き揚げたが、以後の様子が判らなかった。それとなく心あたりを探している中に40(昭和)年頃に至り熊本の剣友より内報があった。それによると吉本君は八代市にて自営の傍ら少年剣道を指導しているとのことだったので、早速連絡の上再会を約した。

4,5年後に日本武道館に於ける全国少年練成大会に出場のため上京したので25年振りに再会が出来たが、昔の美青年は早頭も白髪が交りとなったが貫禄も充分だった。宿舎を尋ね少年達の父兄を交へ時間のたつのも忘れ夜遅くまで昔話に花が咲いた。

別れに際し少年達に何か土産物でもと考えたが適当の品もないまま予て貯えておいた、あちこちの大会で頂いた東京の先生方の署名入りの記念タオルをさしあげたが、田舎では一寸手に入りかねるもので少年達は満悦だったようで、帰郷後丁重なるお礼状を頂戴し大変恐縮した。そして私が帰郷するような時は是非八代迄足をのばすようにとの附言だった。

そこで今回の帰郷の機会に八代を訪問した。吉本宅に一泊し少年達の元気な稽古振りを見学し翌日は初めての天草五橋を見学させていただき大変有意義な旅ができた。その節吉本君からも小耳にしたが九州は各県共剣道が非常に盛んで一年中日曜日毎に大会が催されて、この出場に追われ休養する暇もない状態だとぼやいていた。事程左様に剣道が少年の心身両面に於いて大なる功績をあげていえる事が首肯され感激の至りであった。

まさに奇遇

蘭先生が満州大連でみっちり鍛えた吉本政敏という青年のその後の消息は不明だったが、昭和40年頃、故郷熊本八代市で少年剣道を指導していることが分かったとの記載がありました。

熊本八代という地名が出てきたので、我が交野武道館で指導頂いている、熊本出身の元大阪府警の伊藤寿教士八段に聞いてみました。すると伊藤先生は即座に吉本政敏先生に稽古をつけて貰ったお話しされました。さらに驚いたことに、吉本青年は交野武道館で私達と一緒に稽古をしている吉本光典さんのお父さんであることが分かりました。そして、交野市在住で、時間を割いてご指導くださる、八代出身の大阪府警の江藤善久教士八段も、高校時代に指導を受けたとのお話しでした。府警にも吉本政敏先生の指導を受けた八代市出身の方がまだ何名かいるとのことでした。

剣道の世界は狭いと云いますが、戦前の昭和から令和の現代に至る80年近い年月が流れているのですが、今も中国大連から熊本八代市まで遙々剣道が繋がっていると思えば、その道程を感じます。
 

 高野茂義範士の剣風

郁心剣友会で蘭与志男先生と岡田吉之助先生は、歩み足で稽古をされていたことは前に述べました。次に紹介する高野茂義範士の剣風を見ると、正眼の構えから両半面打続いて連続左右の胴切が最も得意だったとあります。私はその時の足使いはどうだったか、想像してみました。現在我々の運びでは不可能で、左右の足をうまく使わないとこのような打突は出来ないと思うのです。 

前略・・・それではまず満州時代の高野茂義範士から申し上げることにしょう。先生は前に申し上げた様に力士並みの体格だったのでその強力は自他ともにゆるしていた。然しその強力を使う事を強く戒められた位だったので御本人の体のこなし、足の運び方等実に軽妙自在と申すか見事なものだった。正眼の構えから両半面打続いて連続胴切りが最も得意だった。この呼吸は間合と体捌きと足さばきが最も肝心だとよく話されていた。

上段は日本一の定評があっただけにだれも防げる者はなかった。又上段と云うものは捨て身の戦法だから一旦構えたら後に退る様な事とはない。万一あったらその上段は一文の価値も意味もない、とよく言われたが先生は常に攻勢だった。

上段からの技は、面でも甲手でも打ち下せば必ず決ったが、矢張り呼吸をはかって相手の虚所のみをつく手法は常人には至難の技だった。就中甲手技は真っ向より打ち下ろすのと、竹刀が一度半円を描きながらおりてくるのと弐通りあって後者の方は当たる瞬間に刃筋がたったのでよく利いて痛かった。

上段に構え相手に攻められて退るようじゃ上段じゃない、冗談だと笑われていたがなるほど今日の上段とは比べものにならない。今ごろの上段は逃げ廻りはねまわりで只当てることのみに専念しているので迫力もなにもない舞踊体操を見ている様だ。

高野範士はよく吾々にも上段を稽古させられた。そして無言の中に色々と教えていただいた。此方が打ち下した竹刀の距離から見た間合いと見切りについてあと一寸か二寸飛び込めばとどくという工夫に。次いでそのつもりで踏込んだら必ず当てさせて貰うという調子で納得する様に示された。

時折長男の慶寿先生を相手に実地に稽古で示されることがあったが慶寿先生の一糸乱れざる攻防、打突の冴え、虚々実々の秘術を尽くしての立ち合いに対して一門弟として扱う父範士の稽古は実に厳しいものがあった。然しこの厳しさの中で理合、間合、呼吸、技の功拙、打突の機会等に亘る無言の教えは見事と云うか見学中の吾々は全くその雰囲気に魅了されるだけであった。

かかる稽古はフイルムにでも納めておけば今日またとない貴重なる資料となっただろうと、当時を偲びゆく次第である。

先生の著書「剣道一路」にも書かれているように抜胴等は相手の竹刀が此の方の面にボサッと音が感ずる位の我慢する気持ち(肚、度胸)がなければ本当の抜き胴は出来ないと云われた。ここまで待機戦法にでられては面撃に出た方は途中から甲手や胴撃に変化する事は絶対不可能であるので完全に胴は抜かれぬわけである。

甲手をしのぐ場合殆どの者が裏側で相手の竹刀をはね殺してしのぐのが普通だが範士は構えを右にひらくと共に竹刀の中結位のところに相手の竹刀を乗せてしまわれた。乗せられた方は全然手ごたえがないので更に二の太刀の変化で面や胴を攻めて行ったが軽くしのがれてしまった。逆に両半面や左右の連続胴撃が返されるのみで矢張り理合、間合、気迫、体さばきが如何に重要であるかが反省された。

先生の青眼の構は普通人と異なり一旦つけられたら微動だにしなかった。時偶動くのは此方から攻め入らんとする時、そうはさせじと剣先をビリビリ振わせて上から乗って攻め返す時だったが剣先が「ビリビリ」振うところは丁度蛇が赤い舌をベロベロ出すのを連想した。私も剣道を習い覚えて約60年となるが高野茂義範士程の豪快なる剣風は曾て経験しないところである。

吾々が突き技を喰って喉元が、猿の尻見たいに色づいているのをくやんでいるとよく先生は「そんなところに色づいている間はまだまだ突きの中には入らない」と言われた。本当の突きをくったら首の裏側に色が出るものだと教えられた。

その昔下江秀之進という先生が居られて身長も6尺ゆたかだったがこの先生の突きは物凄かった。然し「チョイト突タリァー」と云う掛け声だけは逆に優しく聞こえたと話されていた。   

続く・・・

蘭与志男先生は大阪から転勤で鎌倉に移られた。仕事の方は経理関係より一転して営業畑にまわったのでしばらく精神的にも疲労したとあります。だが剣道と云う趣味に救われて気分転換が出来たと言っています。

 

道場探し

先ず稽古に便利な道場を確保せねばと考え。大連(満州)道場時代の後輩である警視庁師範の阿部三郎君に依頼して現中央区剣連の芹川会長を紹介して貰った。・・・略・・

満州時代の先輩でもあり郷土の先輩でもある北島辰二さんが母校中央大の学生部長だったので、中大の稽古にも時折出席した。大学剣道部は世の中の若い連中とは異なり戦前同様規律、礼節が厳然としている事を知り嬉しくもあり、かつての北方炭坑内に於けると同様、思想的にも日本未だ滅びずの感にうたれた。このころ北島先輩にも数回稽古をお願いしたがやはり30年前同様気分的に圧迫を感じた。実技は別としてもこの点は将来共大いに勉強せねばならぬとつくづく考えさせられた。

 

菅原範士

北海道の菅原範士(恵三郎)が北海道管区警察学校の師範時代、たしか47年(昭和)秋ごろと記憶する。警察庁の講習会出席のため上京通知を丁度土曜日の朝落掌した。大田区の朝稽古に案内すればことたりるわけだが生憎、大森高校体育館も馬込の区民センタも当日差支えがあって使用できなかった・・・略・・立正佼成会の道場をお願いすることが出来た。

菅原(恵三郎範士)文面によれば久方振りに稽古状態を酷評して貰いたいとの附言もあったので、私は見学することにした。湯川君をはじめ立正佼成会の部員、其の他わざわざ馳せつけたという警視庁機動隊の諸君等で稽古には事かかなかった。一同は入れ替わり立ち代わり稽古をお願いしていたが、就中機動隊の若い剣士はなかなか元気で意欲的にかかっていた。筋の通った立派な稽古で見ごたえがあった。

私も範士の意を体して慎重に見学をしたが、範士は体捌きと云い、動きと云い亦竹刀の操作と言も気迫も40年前の若き日の大連時代と少しも変わりなく益々冴え、手の内の鋭さには昔日の面影が偲ばれた。・・・稽古のあと簡単な反省会を控えの間で催された。

如何に約束とはいえ、この席では菅原範士の酷評は遠慮した。しかし、範士が帰ってから、私に約束の酷評をしてくれなかったと不満の手紙が届いた。それではと、前回言えなかったこと、いろいろ便箋10枚に亘り酷評した。内容は次の様なものだった。

一つ、高野茂義範士が冥途からの託言(ことづて)として、菅原は今尚ブチ切るような打突をしている。「年齢も取ったし今少し柔軟な打突は出来ないものか」と嘆いておられた、と。次は私の注文として、「つきたての餅の翌日位のかたさで、触ったら娘の柔肌の感触」「この柔軟さで捌かれたら天下宏しとも範士に叶う者はいないだろう」後日早速返事が来た。「娘の柔肌」餅の感触の表現には夫婦共感激したと附言があった。

 

京都大会と菅原範士

昭和30年前後の頃までは高野茂義範士も竹刀こそ握られなかったがまだまだ元気だった。この頃私はまだ大阪在勤だったので京都大会ではよくお会い出来た。在満当時殊の外先生にお世話願った関係もあって、引き揚げ後初めて京都でお会いした時はなつかしくて試合見学どころじゃなくて、昔話でもちきりだった。会場に於いては最終にかけての模範試合が始まるので菅原氏も私も気を揉んだ。その意を先生に告げても先生は馬事東風で何の反応もなかった。暫らくして返ってきた言葉は其のものズバリで二の句が次げなかった。

「君、理合いも位取りもない只バタバタ稽古では何の参考にもならんよ」成程気壮なる事は結構だが体は動かないし、足腰は駄目になっているのに若い時の事しか考えない、昔は出来たと言うイメージだけ追っているから竹刀は相手までとどかない。もともと肚も出来ていないから益々おかしくなる。観衆としては昔あの先生の試合は見事だったという夢がこわされたくないので、何とか早いこと一本だしてくれないかといらいらして神に祈りたくなる。こうなったら天下の範士もおしまいだ。格下げどころか三文の値打もないといわれても致し方ない。どなたも昔とった何とかで出場したい気持ちは判るが矢張り年配者は己を知って遠慮辞退してほしいものだ。

・・・略・・・剣道の試合は60才位が最高のように見受けられる・・・人生には運不運がつきまとい左右されることが多いが、剣道にも同じ事が言える。試合でも昇段試験の場合に於いても運よく相手が筋の通った素地の良い人と組合った場合こちらも引きたてて貰って立派な試合ができるし、受験も合格するということがあるが、逆の場合はみじめである。京都大会でも菅原(恵三郎)範士あたりの試合振りが一番見栄えもあり見ごたえがあってうなずかれた。体格は恵まれていないが姿勢、態度、理合、気合、気位、打突の強弱変化、手の内の冴え、体の動き、凡てがリズミカルで調和がとれているので美が構成されて一つの芸術がある。現代剣道もここまでくれば最高だと思う。彼は私の言をあまり喜ばないが、私は彼の試合振りは興行価値100パーセントだと評するのである。彼の試合が始まると場内が自然に静まる事から見ても私の評は当を得ていると自負するのである。

 

戦後の剣道

・・・略・・・ 戦後は剣道の様子が変わった。竹刀競技等と云うものが流行した関係かも知れないが快音(打突)即ち音がすれば旗が上がるという具合になった。戦前やかましく云はれた理合とか気位と云う事はどこかえ吹き飛んでしまった。早い話だが先ずスピーディに数多く打突しないと旗があがらない。  ・・・略・・・ 一事が万事の例の通り昇段試験の審査員の目も駄目になったと云うか粗雑になった様だ。ある高段者の話に依れば七段でも一等級から二十等級まであると聞いて驚いた。

 

審判規定と稽古ルール

打突の部位、箇所については戦前戦後も変化はないが只戦後は足搦(から)をかけて投げ飛ばす、向い突きを入れる相手の竹刀を握る事等が試合規定上は禁止されたが練習時は規定がないので戦前同様の稽古で差支えないとも云えるわけである。現在各道場の稽古風景はまちまちの様で戦前同様の稽古を以て得意としているところもある。

 

 当時の稽古風景は当時の人に聴くか、小説などで知ることしかできません。我々いまの剣道とは無関係のようですが、全てにおいて油断が出来ない昔の剣道は、臨機応変の処置ができて、足腰が非常に強固になると云われるので、無視するわけにもいかないと思う。

 

昔の稽古

・・・略・・・ 私の後輩たりし古川一郎君が実例となって事故死した。幸い家族の理解ある処理に依り事なきを得て無事解決は見たが之が天下の大範士だったら問題化した事と思う。・・・略・・・ 戦前はかかる技は既定の技として取扱はれ従って日頃から攻防両面共常に研究錬磨されていたので臨機応変の処置が出来るのみならず足腰は非常に強固になっていた。足腰がしっかりすれば物理的にも医学的にも其の効果は顕著なるものがあった。第一臍下丹田に力が入るので気分が落つき動揺することがすくなく度胸が出来た。頭脳的感度が鋭敏となり忍耐力もついた。打突の場合常に肚をきめ足腰をしっかりしめてかからなければ、危なくて容易に踏み込めなかっただけに迫力もあり油断のすきもできなかった。戦後はかかる技が禁止されたおかげで心おきなく飛んだりはねたり万事OKという事で、すべては非常にスピード化されてきたのは確かである。なるほど間合いも遠くなり戦前に乏しかった良い面も出てきたが反面重圧味が薄らぎ、当て主義のドドンパ剣道に変わった。理合や気位等は期待出来なくなった。戦前の試合では只の一本が声なく、異口同音に頭だけがさがる名人芸が見られたが戦後は機関銃式の早打ち数打ちで兎角お先一本を稼ぐとい試合に変わってしまった。昔から剣道の技は突きに始まって突きに終わるという迄云われた如く実技を尊重し、研究し、迫力を養成した。突技以外は突の変化技と称される位だったので突技をマスターすべく大いに努力した。戦後かかる理論は忘れられ只はずみと拍子に依る打突に変わり戦前の経験者である高段者までかかる傾向を散見するに至っては情けない限りである。近代剣道は益々スピードアップされマシン化されて行くだろうがモーターの回転でも自らその限度限界があると同様の極限に立至っても勝敗決せず煩悶し反省するだろう。

   ※煩悶=悩み苦しむ

次回に続く

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