剣道で知る、素晴らしい日本のこころ

剣道には「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」という「剣道理念」があります。この理念をわかりやすく語りかけたいと思います。

剣道歴60年余の老剣士ですが、楽しく稽古しております。
段位剣道教士7段
居合道 5段
交野市少年剣友会指導(1971年~現在)
交野市剣道連盟名誉会長

3.私の目で見た軍隊教育

集落の石地蔵様の広場に、学童たちが集まり、上級生について登校しました。大人のような大きな上級生は、校門近くになると、下級生をきちんと整列させ、校門に差し掛かると、先頭を歩く先輩が大きな声で「歩調をとれ」と号令をかけます。みんな膝を高く上げ、足並みをそろえて、校門を通りました。石でできた校門の両脇に、木銃を持った怖そうな上級生が直立姿勢で立っています。その前を緊張した面持ちで通った覚えがあります。これは小学2年生の夏まで毎日続きました。このような軍隊式の教育が普通に行われていました。

 

教室の廊下をはさんで向こうの部屋に、木刀、なぎなた、木銃(銃の模擬)が、整然と置かれた部屋がありました。上級性が校庭で武道教練の時間に使うものです。時間があれば、いつも仲良しの子と窓越に見ていました、早く大きくなって、あの本物の木刀を振ってみたいと願っていました。

 

小学1、2年生の記憶ですが、いつもの朝礼のあと、校庭の真ん中に朝礼台が置かれ、その上に児童長一人が立ちました。その周りを1年生が走り、その外側を2年生、と言うように、学年の順に外側を何周も走りました。何回まわったか分かりませんが、長い時間走りました。上級生の男子は、一番外側を走るだけでなく、軍隊の行軍を想定して、直径12センチぐらいで長さ40センチぐらいの丸太の木を2本にして、ランドセルのように背負って走りました。これは兵隊が行軍のとき背負う、背嚢を想定したものでした。

 

その後戦争が終わったと聞いてから、朝礼台の周りを走ることも、校門に入るときの、あの怖い上級生の姿も、歩調を合わして歩くこともなくなりました。今思うと、これは私までの年齢で、大変貴重な体験です。

 

背嚢:はいのう。兵士が野戦で行軍のとき、銃弾、食料など必需品を入れて背負う、リュックサックのようなもの。

 

 

4.武道具が焼かれ、奉安殿も取り壊わされました

日本が戦争に負けたことは既にお話しました。日本軍は武装解除されました。ある日、学校でも、なぎなた、木銃、憧れの木刀も全て、校庭の隅にある相撲場の土俵で焼却処分され、灰になってしまいました。それと同時に武道の稽古も、全面禁止となりました。以前お話した、ポツダム宣言で、日本軍の武器を国連側に引き渡し、代々伝わる家伝の宝刀まで徴収されたのです。

 

余談ですが・・・むかし「菊と刀」と言う本が出ました、著者のルースベネデクトは日本に来たことがないそうですが、アメリカ軍の要請で、日本人の文化や習慣、伝統や精神性、など徹底して調べ上げて本にしたものです。内容は忘れましたが、精神性の高い武士道と日本兵の脅威と重なり、その精神性は戦争が終っても脅威であり、全ての武器の撤収に加えて、民間で保管している、家伝の宝刀や、日本刀、槍なども徴収しました。そして武道の稽古も一切禁止になり、安全を確かめたうえでGHQは日本本土に進駐して来たのです。

 

<教育勅語>

木造の二階建て校舎の中央に、体育館のような広い講堂があました。国民の祝祭日に、全児童は講堂に集まりました。講堂の中央に設えた、白木作りの菊のご紋入りで、観音開きの扉がありました。「奉安殿」と言いました。

 

*奉安殿:ほうあんでん、戦前の日本において、天皇皇后の写真(御真影)と「教育勅語」を納められていました。

 

祝、祭日には全児童が集まり、校長先生が、礼服のタキシード姿で、白の手袋のいでたちで、奉安殿に進み、厳粛に深々と礼をして、菊の紋の扉を開き、中の紐がついた桐箱を取り出しました。巻物になった教育勅語を恭しく読み上げました。読み上げる校長先生の口調は、いつと違い、子供たちには面白く聞こえました。そのため子供の遊びの中でも、校長先生のマネをしました。もちろん内容など知るはずもありません。しかし、あれから74年が経った今でも、教育勅語は途中までなら、空で言えます。

 

「ちんおもうに、わがこうそこうそ、くにをはじむること、こうえんに、たつることしんえんなり、わがしんみんよくちゅうに、よくこうに、おくちょう、しんをいるつにして、よよそのびをなせるはこれこくたいの・・・・最後にぎょうめいぎょじ」と言いながら遊んだものです。途中はうやむやになり最後のところだけは、ぎょめいぎょじ」で終わりました。

 

武道具焼却と同じころ、講堂ではあの奉安殿は無残にも取り壊され、ぽかりと空洞になっていました。まるで廃墟のようで長く放置されていました。いつもだと、この儀式が終ると、紅白饅頭がみんなに配られ、家に帰ったものだったのですが・・・。

2.我が家の宝刀を駐在所に持って行ったはなし

 

幅広い仏壇の下に引き差しがあり、そこに代々伝わる長い刀が納めてありました。この刀の役目を見たのは、祖母が死んだとき、悪霊から守る刀として、祖母の枕もとに置かれたぐらいでした。農家でありながら、ほとんどの家には、大なり小なり、価値のあるものや、それなりの刀がありました。私の家にも一振り大切に保管していました。当時虚弱な体の小学3年生の私には、長くて重いものでした。

 

あるとき、父親は仏壇の引き差しから刀を取り出して私に「これを村の駐在所に持って行け」と言いつけられました。自分一人では心細いので、近所の仲良し同級生を誘って行くことにしました。これを見た近所の老夫婦のおじいさんが、「うちにある刀も一緒に持って行ってくれないか」と頼まれました。二人は、それぞれ刀を持ち、駐在所までの道を、チャンバラの真似ごとや、道端の、桑の木の小枝や、草を薙いだりして駐在所に到着しました。
 

   駐在所とは一人のお巡りさんが24時間駐在しており、人口の少ない村などにあります。住居もその敷地内にあり、家族連れで住んでいました。

 

駐在所の巡査は机に向かってなにか書きものをしていました。二人は巡査に向かって「これ(刀)持って来た」とぶっきら棒にいうと、顔をあげた巡査はチラリと二人を見て、「そこらに置いとけ」と、これもまたそっけなく言ったのです。何という対応だろう、巡査は私たち子供の親の名まえも、子供の名まえも聞こうとせず、また書き物を続けました。子供の私にとっては、大きな仕事を成し遂げたつもりなので、拍子抜けがした記憶があります。今では小学低学年の子が、刀を振り回しながら、駐在所に刀を持って行くのですからニュースになりそうですが。10畳ほどの執務室の周辺に、刀が何本も並べてありました。

 

1945年7月26日(昭和20年)ポツダム宣言によって日本は降伏しました。そして、日本軍が持っている全ての武器を国連側に引き渡すことになりました。その中に日本刀も含まれ、それだけでなく全国の民間にある日本刀の全てを国連軍に引き渡したのです。大和魂は脅威であることをGHQは警戒して、武道の稽古も一緒に禁止としたのです。

        次回に続く

 

1.子供のころ、日本は戦争に負けました

柳生の里でみんなに話を聞いて貰おうと、自分の過去を話しているうちに、私は山間部に育った何の変哲もない子供でしたが、自分が大変貴重な体験をしてきたことに気が付きました。というのも、昭和20年夏までは、軍国主義の教育を受けていたのに、その翌日からは、ガラッと変わって民主主義の教育を受けることになったのです。いわば戦中と戦後の狭間にあって、180度異なる教育方針に遭遇した非常に稀な世代だったのです。

 

私は昭和13年生まれ、早行きの子供でした。これ以降に生まれた人には、ほとんど記憶にない、馴染みが薄い体験のはずです。小学2年生の夏、一晩寝て起きると、これまでの教育方針が一変していたのです。子供でありながら、早くも人生の節目、大きな転換期に遭遇したことになります。その思いを、記憶を頼りに書き出してみようと思います。

 

1学年に2クラスしかなかったので、みんな仲良がよかったです。ほとんどの家は農家で、父母も顔見知りでした。成人をして、それぞれ家庭を持ち、一人前になったころ、戦争中と戦後を通じて世話になった、恩師の先生を招き、同窓会をやりました。当時の先生は何も知らない子供達より大変な時代だったのです。先生曰く「何を教えてよいか全くわからず、大変困惑した」と当時を振り返り話して下さいました。4学年上の姉の教科書には、どのページにも、文字が読めないくらい、黒い墨が引かれていました。それまでの教育内容をGHQが良しとせず、指導が入ったのです。

 

山あいにある村なので、空はあまり広くは見られませんが、青空高く米粒ほどの飛行機が飛んでいるのを見た、上級生のガキ大将が「あれはB29だ」と叫びました。B29はアメリカの大型戦略爆撃機ですが、そのようなことは知るよしもなく、敵の飛行機であることだけはなぜかわかっていました。このような岡山の山奥に爆弾など落とされる心配も危機感もない、のんびりとした村での小学2年生でした。

 

その頃、神戸や姫路、そして岡山市内にも、アメリカ軍による爆撃で、街じゅうが焼かれ大変なことになっていると、大人たちは話していました。隣の家の離れ座敷に、神戸から下駄作り職人だという人が、子供達を連れて疎開してきました。学校に行くと見慣れない転校生が何名かいました。戦争はすでに、日本の本土に迫っていることは、子供心にも感じとることが出来ました。兄を含め、村の若者はみんな兵隊に駆り出され、父親のような年配者は、村に残り農業で穀物の、米や麦など作り、お国のため働いていました。出来た穀物は、自家用に少し残し、あと全部政府に供出していたのです。

 

父母たちは、時々学校の校庭に集まり、物干竿くらいの長い青竹の先を斜めに鋭く削り、竹槍を作りました。もし敵のアメリカ兵が侵入して来た時の対策です。ワラで作った人形を、アメリカ兵と見立て、竹槍で突く訓練を受たり、爆弾で火事になったときの、防火訓練でバケツリレーもやっていました。いまでは笑い話しですが、当時はみんな大真面目だったのです。当時の合言葉に「進め一億の火の玉だ」という歌もあったくらいです。国民すべてが一の心になり、国家の目標に向かって突き進む意味です。いまはどこかの国を思い出します。

 

ある日、天皇陛下の玉音放送があるというので、ラジオがよく聞こえる家に大人たちは集まりました。子供達もその近くに行って遊んでいると、ラジオ放送を聞いた大人の一人が、子供達に教えてくれました。「戦争はもう終わった。日本は戦争に負けたのだ。」と言いました。私は小学2年生でしたが、子供心に大変なことになったと思いました。それは日本が戦争に負けたなら、どうなるか大人から聞かされていたからです。負けた日本にアメリカ兵が進駐してくると、男たちはみんな男のシンボル、金の玉を抜き取られ、女はアメリカ兵の言いなりになるとうい話を聞いていたのです。

 

あれから半年か、一年が経って、小学3年生になっていました。このような山奥の学校の校庭に、一台のジープで、小銃を持ったアメリカ兵がやって来ました。子供達は学校の窓越しに、校庭に居るジープとアメリカ兵をはじめて遠くから見ました。子供の中に、勇敢か、物好きな子がいて、恐る恐るアメリ兵に近づくと、兵士はポケットから何やら取り出し、子供に投げ与えました。それを拾った子供は教室に持ち帰りました。それは見たこともない、ガムとチョコレートでした。ジープはそのまま立ち去りました。

 

あれから何日かたったある日、またアメリカ兵のジープがやって来ました、今度は多くの子供たちがジープに近づくと、ありったけのガムやチョコレートを撒き散らすように投げてくれました。私はこのとき、生まれてはじめて、ガムとチョコレートを口にしたのです。敵だと思っていたアメリカ兵に、少し好感が持てる気がました。そして大切な金の玉も無事だと思ったのです。あとで知ったのですが、アメリカ兵は地域の住民たちに、お友達作戦をやっていたのです。

      次回に続く

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