剣道で知る、素晴らしい日本のこころ

剣道には「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」という「剣道理念」があります。この理念をわかりやすく語りかけたいと思います。

剣道歴60年余の老剣士ですが、楽しく稽古しております。
段位剣道教士7段
居合道 5段
交野市少年剣友会指導(1971年~現在)
交野市剣道連盟名誉会長

いつもの剣道の話から離れて、たわいない話をさせて頂きます。めでたい正月の二日が、私の84回目の誕生日でした。ずいぶん遠くまで来たものだと思います。自分に限っていえば、山奥で生まれ、のほほんと育ちました。大東亜戦争が始まる前のことでした。軍国教育のさなか、♪「ぼくらは国民学校一年生・・・」という歌と共に、小学校に入学したものです。そして、次の2年生のときに、日本が戦争に負けてしまいました。なにごとも服従をしなければならない、軍国教育だったものが、アメリカが指導する民主主義に変わり、教育も、世の中も、日本国憲法までも変わってしまいました。

 

軍国教育

小学2年生の時のことです。朝礼のとき、校長先生の話を聞く態度の悪い子がいました。担任の若い先生は、クラス全員の連帯責任だと言って、みんなを近くの八幡様の境内に連れていきました。全員2列に並ばされ、向いあって、相手の頬を交代で叩くように言われました。何度も繰り返しているうち、みんな泣きながらビンタ(平手打ち)をしました。これが小学2年生の、忘れることの出来ないショックな出来事です。現在であれば、大変大きなニュースになっていたでしょう。国民のスローガンで、「欲しがりません、勝つまでは」と言い、「贅沢は最大の敵だ」と言い、「一億みんな火の玉だ」と言って、一致団結を合言葉に、日本は必ず勝つものと信じさせられていたのです。

 

老人の話を聴く

若い者が老人と話をすると、また昔の話しが始まったと苦笑します。実は私も若いとき同じでした。思えば、もっと気を入れて聞いておけばよかったということが、しばしばありました。老人は老人の歳だけの、過去と、経験を持ち、歴史があります。若い人は、スマホや、先端技術を駆使しても、老人の持つ体験も過去も、知ることは出来ません。若い人は、これから先の人生から、どのような過去をつくり上げていくか、先が楽しみですね。老人は、冗談のように話しながら、ここだけは聞いて欲しい、教えておきたいという思いがあるものです。でもせっかく話をしても、拒絶反応が強いと、無駄話になってしまいます。

 

遊び感覚で人を殺す

みんなが夢中になるゲームは、指先一本で、次々簡単に人を殺すゲーム場面があります。実際に戦争に行った体験者の元兵隊さんの目には、どのように映るでしょう。楽しい思い出などなど一切なく、あの頃を思い出したくない、話したくもないという人が多くいました。

私が22歳で会社に入ったころは、10歳以上離れた先輩の多くは、兵隊に行った体験者でした、その中の一人の話ですが、「敵と激戦になり、隣で共に戦っていた戦友が、鉄兜を撃ち抜かれ、即死したそうです。だが、その屍を踏み超えて、必死に前に進まなければならなかった」と話してくれました。このような話しをする老人は年々減っていき、戦争体験者は、今までは百歳前後の人になり、やがて再び生の声を聞くことはできなくなるのは確実です。

ゲームで、指一本を使って、次々と人を殺せる時代とはいえ、ゲームに夢中になり、命の重さや尊さを知らないまま成人をした若ものが、ゲームの画像と、現実世界の境目の区別がつかなくなったのか、最近はいともたやすく、人を殺す事件が多すぎるのではないかと思いませんか。

 

棚田の米

 夏の暑い盛りが過ぎて一息ついたころ、岡山県北で生まれ育った私に、農家の幼馴染から、「新米が出来たよ」と知らせがありました。子供の頃、雨が降れば、谷川の小石のすきまから、沢カニが出て遊び、棚田のあぜ道を歩くと、あわてたドジョウが泥のなかに潜り込む。そのような田んぼで育った米が、私の口に一番合って美味しいのです。それは、昔の思い出と一緒に食べるからです。そのため一年分のお米を毎年作って貰っています。

昔は稲作の収穫時期は秋でした。肌寒くなったころ、一家総出で、鎌で稲を刈り、刈った稲は束にして天日干し、脱穀は足踏み機械で一束ずつ籾にします。籾摺りで玄米にするのは村で共同購入した機械でした。すべて人の手を使っていました。農家の繫忙期は、田植えと、稲刈り時期でした、村は農家ばかりなので、学校は田植と、稲刈り時期は休校になりました。今の少子化時代とことなり、当時は、子たくさんの家庭が多く、子供も5,6人兄弟は当たり前でした。兄弟の子守や、家事の手伝いをするための休校でした。

何年かするうち、少しずつ機械化が進み、国の補助を得て、山田や棚田の枚数を減らして、広く大きな田んぼに改良されていきました。農業機械が入りやすくなり、台風シーズン到来までに収穫するように、稲の品種改良も進み、台風が来ても稲が倒れないように、稲の丈を短く、早期に収穫できる品種になりました。山奥から、鹿やイノシシが、食い物を求めて人里に出て、田畑を荒らされる前の対策でもあります。

 

過疎の生家

生まれた母屋は、カヤ葺屋根で、隣の建屋はむかし、蚕を飼っていたので養蚕場、その隣が、土蔵で、その横に少し小さい味噌倉がありました。味噌倉は、味噌とか、醬油、梅漬、大根、白菜漬け、何でも自家製でしたので、私の家では欠くことの出来ない存在でした。今では田舎でもスーパーマーケットがあり、美味しいものがいつでも買うことができます。

だが、後継者の私は大阪に住むことになり、よくある話で故郷は過疎地です。山の中ほどにある我が家は、修繕する価値もなく、資金も無駄なので、自然に任せることにしました。軒先が垂れ下がり、屋根に雑草が生え、見るも哀れな姿になりました。建設機械を入れて、だだっ広い屋敷を整地して、そのあとに時折墓参に帰って寝泊まりするための小屋を建てました。一年分の米はここに保管しておいて、墓参の度に少しずつ、大阪に持ち帰っています。目を離すとすぐ、雑草が茂るので、近所の方に草刈りを頼んでいますが。高齢化も進み除草をしてくれる人がいなくなると、たちまち、竹藪か、雑木林になるのは必然です。

 

貧乏人の味噌

味噌蔵で思い出した祖父のことばがあります。味噌倉の話が出たついでに、祖父の角太郎が教えてくれた言葉を思い出しましました。農家は、むかし、今とちがって、それぞれの家で、味噌、醬油、そして古漬けなどは、自家製でした。味噌、醬油は木製の大きな樽に、大豆、麦を使って塩、麹菌を入れて仕込みます。熟成させて美味しくなるまでに、三年かかると言われます。角太郎じいさんと、農作業の手伝いをして、コツを覚え上手く出来るようになったころ、その作業は終わりました。角太郎じさんが言った言葉は「馴れた、済んだ、貧乏人の味噌」でした。

田舎爺さんの言葉ですが、現在でも通じて、含蓄ある言葉だと思います。貧乏な家では、仕込んだ味噌を貯える余裕がなく、仕込んで美味しくなるまでに、食べはじめ、味噌が美味しくなったころには、味噌は済んでいた、という話です。その後、社会人になって、時々思い出すのですが、「貧乏人の味噌」はよくあることです。

少々大げさな話ですが、怖いのは、世界の先進国が、目先の利益や便利さを求めて、競い合うように、公害をまき散らしました。美しいはずの、地球は、温暖化とか、気候変動とかと言い、騒いでいるのも、貧乏人の味噌の話で、これから先、人間が頭を使って考えて、以前のような地球に戻せるのでしょうか。

 

三つ子の魂百まで

昭和13年1月生まれの私は、祖母キヨが亡くなったのは何時だったかと、位牌を見ると、昭和16年の夏でした。ならば、私が三歳のときに亡くなったことになります。祖母が亡くなったとき、床の間で顔に白い布をかぶせてもらい、寝ていた記憶があります。近所の人や親戚が、次々とやって来るのがうれしくて、祖母が寝ている周りを、ぐるぐる走り回った記憶があるのです。誰がいった言葉なのか「スズメ百まで踊り忘れず」スズメが百歳まで生きるはずがないのですが、人間の私は、80を超えて今も覚えています。

昨年暮れ、墓参りに帰ったとき、思い出したことです。母親に背負われて、裏山の急こう配の坂を登ると、その先に大きな岩がありました。母は、岩の周りを、何度も、何度も、お祈りをしていたことが、おぼろげに私の頭にありました。母の背中に縛り付けられて行く年だから、三歳ぐらいだと思います。

近所に住む、この山の持ち主と雑談をしていたとき、彼にその話をしたところ、彼は何年もその場所に行っていないので、一緒に案内すると言ってくれました。ちかごろ腰の調子よく、その気になりました。むかしあった道は、誰も通らず、無くなっていると思い、鉈鎌を手にして登りはじめると、たちまち鉈鎌が役立ちました。竹笹や蔦を払い、立木につかまりながら、やっとの思いで、岩の前にたどり着きました。

 

母の愛に感謝

確かな記憶ではないのですが、病気がちな体質の私は、いつも熱を出して、寝ていると、天井の節が落ちて来る幻覚がしばしばあり、気が付くと、母は胸にタオルでシップをしてくれていました。

岩は思っていたような形で、大人が両手を一杯伸ばしたより高く、一枚岩でした。天辺は平らで十畳ぐらい、そこに石碑が三つ建てられていていました。これは三つ児の私は知る由もありません。左の石碑は「大聖不動明」と刻まれ、明治17年という実字が読めました。真ん中は石碑の材質が悪いためか、文字は朽ちて読むことが出来ません。想像ですが、「大日如来」ではないかと思います。右端の石碑は、お地蔵さんだと一目で分りました。田舎の道を歩くと、道端にお地蔵さんの優しい像を見かけます。ここのお地蔵さんは、石碑に刻まれており、絵のお地蔵さんです。お顔は、始めから歪んでいて、右の眉毛は高く吊り上がり、左の眉はすごく永く垂れさがり、眼鼻立はいいとして、両顎は張り、どうみても、端正なお顔の地蔵さんとはいえず、小学生の子供が描いた絵のようですが、どことなく親しみやすい、頼りたい気がするお地蔵さんです。

来るものとしたら、野兎や小鳥、タヌキやイノシシ達ぐらいで、人影のないこの岩を、母は、ワラをも掴む思いで、私を背負って岩にたどりつき、我が子の健康を願う、子に対する愛情と執念を思う姿を想像すると、いままでなにも知らずに、この年まで、生きて来たことは、あらためて、母の愛情に感謝します。そして。三つの仏さまに見守って貰っていたせいか、虚心坦懐、あまり人を疑うこともなく、平凡な生活をして来ることができたのではないかと思い、趣味で始めた剣道も、永年続けることができ、近所の子供達を集めて、剣道を教えて50年が過ぎて、後継ぎは育った者達に託しました。これもお地蔵さんのおかげだと思います。

三つ子の魂と言いますが、子供が大きくなり、賢く頭のいい子に育ったかといえば、そうではありません。私にかぎって言えば、勉強は得意ではなく、物覚えも良いとはいえず、のんびりした性格は、改善されず、言ってみれば、並の人間に育ちました。

明けましておめでとうございます。

今年もボケ防止のために、(既にはじまっているかも、笑、)つたなくも書き続けますので、よろしくお付き合いください。

さて、前回小川忠太郎先生のお話の中で、千葉周作が名人と評した、白井亨と言う人が出て来ましたね。そして、白隠禅師の著「夜船閑話」(やせんかんな)が出ました。

「夜船閑話」は、小川先生や他の書物で知っていましたが、喰わず嫌いで、どうせ禅坊主の難しい法話だろうと避けていました。ある時、現代文に訳された「夜船閑話」を見つけて読んでみました。

※『やせんかんな』(禅文化研究所版で、平成12年初版)

 

「夜船閑話」とは

白隠禅師が若いころ、座禅をやり過ぎて、ノイローゼ、それに肺の病に侵され、肝胆が弱り、心神は疲れ、いつも幻覚症状に悩まされたと言います。多くの名医を探し尋ね相談したが、治る方法は見つかりませんでした。ある人が、京都山城の白川山中に住む、白幽仙人がいると教えてくれたが、その仙人は、人に会うのが嫌いだとも聞きました。だが病が癒されるものらと思い、教えられた、白川の白幽仙人を訪ねました。はじめは断られたが、熱心な願いで、仙人はようやく重い口を開いた。そして、秘法である、内観法と軟酥(なんそ)の法を伝授してくれました。この法を白隠禅師が後進のために述べたものが、「夜船閑話」です。

 

ちょっと寄り道

我々剣道の先輩である、江戸時代の剣道の先達は、剣の道に悩むと、多くの剣客は、座禅に救いを求めたようです。禅僧から「心」の話を聴き、例として、柳生に渡した、沢庵禅師の「不動智神妙録」など、時代は幕末になると、勝海舟は「本当に修業をしたのは、剣術と座学だった」と、自伝、氷川清話で言っています。そして、山岡鉄舟は、剣と座禅の修業で、心の外に、刀がないという「一刀正伝無刀流」の開祖として有名です。そして鉄舟は他にも多くの功績を残した方です。

大阪弁で言えば「よう知らんけど、剣道稽古のとき、揃って正座し、両手を組み、誰かが「黙想―」と号令をかける。これも座禅からきたのとちゃうやろか」となります。

 

「夜船閑話」の大雑把な紹介

白幽仙人は、白隠に「自分は山中にこもって死にかけた老いぼれだ。木の実を拾って食べ、獣とともに睡って生きているだけだ。わざわざ遠くから訪ねて頂いたが、無駄なことだ」と言った。だが、白隠の熱心な懇願によりようやく話しだした。

この本の目次を見た時に、剣道をやる者なら、素通りできないと思いました。例えば、剣道で言う、陰陽の原理、呼と吸、心気を下にさげる、など多くあります。

 

仙人、秘要を語る

「そなたは、なかなか熱心なことだ。それでは、私が昔聞いたことを少し話そう。これは養生の秘訣であって、知る人は稀である。この法を怠らず修めるならば、必ずききめがあるであろう」

 

陰陽の二原理

さて、そもそも万物の根源である大道は、陰陽の二原理にわかれる。その陰陽の二つが合して人が生まれる。人には生まれながらに精気というものがあり、これが体内をめぐって、それにようって五臓のはたらきがそなわり、気血の循環が行われているのである。気と血とは互いに昇降し循環すること、昼夜におよそ50回ある。肺臓は五行(陰陽五行)でいえば金にあたるから牝(ヒン)蔵になるが、横隔膜の上に浮くように在る。肝臓は五行では木になるから牡蔵、(ぼくぞう)であり、横隔膜の下に沈むかたちで在る。心臓は五行の火で太陽であるから、上部に位置し、腎臓は五行の水で大陰だから、下部を占めている。この五臓には七つの神が宿っている。すなわち心臓には神、肺臓には魂、肝臓に魂があり、脾臓には意・智、腎臓には精・志のそれぞれ二神が宿っている。

 

呼と吸

吐く息(呼)は心肺から出て、吸う息(吸)は腎臓に入る。一呼ごとに脈の行くこと三寸、一呼ごとに脈の行くこと三寸、こうして一日に一万三千五百の気息があり、脈が全身を五十回巡行する。火の性質は軽いから常に上に昇ろうとし、水の性質は重いから常に下に流れようとする。

 

過度の観想が肺を痛める

 このような理を分からずに、座禅観法が過ぎたり、あるいは考え過ぎたりすれば、心火はさかんに燃え上がって、肺金をそこなうことになる。金母である肺臓に負担がかかると、水子である腎臓が衰える。こうして母子が互いに痛めあい、五臓六腑が侵しあうことになる。そして、身体の構成元素である地・水・火・風の四大が、それにしたがって増えたり減ったりすることにより、四大ごとに百一種、あわせて四百四種の病を生じるのである。こうなれば、いかなる治療によっても治らなくなる。

 

養生は国を守るがごとし

 生命力をたくわえる養生ということは、ちょうど国を守るようなものである。明君聖主というものはいつも下に心をくばるが、それとは逆に、※暗君庸主は常に上ばかりに心をかけるものである。上にばかり心配りをするならば、高位高官の者たちは威権に倣い寵を恃んで、下々の民間の困窮を顧みることがなくなる。こうして民は困窮し、賢臣は用いられずに、潜みかくれ、心ある臣下もいかり、恨み、諸侯も離れそむき、周辺の異国は競い起こって、ついに国民は ※塗炭に苦しみにおちいり国は、とわに断絶するに到る。

 

※ 暗君庸主:判断の乏しい、取りえのない主。

※ 塗炭  :泥にまみれ、火で焼かれるような苦しみ。

剣道で言えば、足腰ができずに、段位や、勝敗を求めるようなものだろうか。

 

心気を下に充たせ

 人の身体もちょうどそのようなものである。道をきわめてその極に達した者は、常に心気を下に充たす。心気が下に充つるならば、喜・怒・哀・懼・楽・悪・欲という七情も動くことはなく、風・寒・暑・湿などの四邪が外から窺い侵すこともないから、気血の循環は充実し、心神も健やかになる。薬をのむことも医者にかかることもないであろう。

ところが凡庸な者はこれに反して、常に心気を上に向けて、ほしいままにしておくのである。こうして心気を上にばかり集めておくならば、左右の手首にある脈どころがそこなわれ、眼・耳・鼻・舌・身・意のはたらきは委縮し、疲れるようになる。

 

真人は踵で息をする

 『荘子』内篇に「真人は踵(くびす)で息をするが、普通の者は喉(のど)で息をする」というのはこのことである。許俊(きょしゅん)という人も「気が下腹部に集まれば、その息は長く深くなる。それに対して、気が胃より上に集まるならば、息は短くせわしくなる」と言っている。

 

気が下に充ちれば一陽来復

 元の道士である上陽子は「人間の本源はである真一の気が、下腹部の丹田に降りるならば、一陽来復、陰が極まってふたたび陽になる。下腹部が暖まって来れば、それが一陽来復の微(しるし)である」と言っている。そのように、およそ養生の要は、上部は常に涼しく、下部は常に温かにすることである。

 

これまで、振り棒の話から、下半身をつくる話などして来ましたが、これでひとまず終わります。なにも考えずにやる剣道を続けるならば、いつの間にか、日本の伝統である、剣道文化が消えてしまいます。段位や勝負だけにこだわると、いつしか、スポーツ競技になってしまうように思います。

せっかく「剣道は剣の理法の修錬による人間形成である」という立派な理念があるのですから、一人でも多くの方が、先人が求めたもの、特に下腹部、から出る「気」の剣道は老いても出来るので、これからも味わい、楽しんで行きたいものです。


「剣道は気だよ」「もっと気を入れろ」などとよく聞きますが、剣道に限って言う「気」とは、一体どこから出ているのだろうかと考えました。そして、気は呼吸であり、充実した息だろうと思います。

前回と前々回、くどいほど振り棒のお話をしてきました。そして振り棒を腰と同時に移動しながら振ることや、重い振り棒は、腰の移動で下腹に軽く納まるとも話しました。だが、これは素人の私が勝手にやった体験であり、真偽のほどは分かりません。

小川忠太郎先生のお話

だが、ヒントを得たのは、次の話からです。「剣道理念」を制定した時の、メンバーの一人、小川忠太郎先生のお話を聴いてからです。先生は、昭和54年から58年まで、大阪城の修道館に毎年来られました。講習会で「剣道理念」のお話を5年連続でされたのです。話し口調は、講談師のように名調子で、次々ストーリ的に話されました。私は剣道の話は何を聞いても初耳ですから、先生が毎年来て話されるのを楽しみにしていました。

講習会が終わった後で、講師の先生が総出で稽古されました。はじめ2回は小川先生は稽古をされました。私も滅多にない機会であり、稽古を付けてもらい、貴重な体験をさせて頂きました。そのようなわけで、先生がお書きになった物はできるだけ目を通すようにしました。

晩年でしょうか、手に余る太い振り棒をふっておられる写真の姿がありました。この振り棒の振り方の説明はなく、昔の人なら、振り方の説明などは不要で、どのように振られたかは確認できませんが、いずれにせよ、先生が若いときから振っておられたことには違いありません。

先生の著書、「剣と禅」(宗教法人、人間教団)小冊子に、「呼吸を下げる」というところがあります。「直心影流の形には、剣道の本体に充実した気分があると信じている」と言われています。そして「有名な男谷下総守も直心影流であり、内藤(高治)先生の若いころ、上京せられた折に、当流の榊原健吉先生の薫陶を半年ばかりうけられたのではないかと思う」とあります。ここでは、気について触れていませんが、その代わり呼吸のことが書かれています。

 

呼吸を下げること

「この流儀の特徴は努力呼吸であって、最初は、アーッと、口を開いて胸と腹一杯に息を吸い込み、そこで、ウーンと息をとめておいて、それを足の方へグーンと降ろす修練をする。それ故、百万言を費やせずとも、息は下がる。踵まで下がる。そこで構えが熟してくるのである。そういう教えが形の中にある」と書いてありました。

ここで私の憶測ですが、私たち、稽古で使う竹刀を何千回振っても、息が踵まで下がるとは思われません。それより、重い振り棒を、呼吸とともに一つ一つ丁寧に振ることで、気が充実し、息が踵まで下がるのだろうと思うのです。

だが、勝負で勝つことばかりに気を取られる人からみると、「そんな馬鹿な話はあるか、息が踵に行くはずがない」と思われる方もあると思います。若いうちはそれでよいと思いますが、試合から離れ、ある程度年齢を重ねて、剣道を真面目に考えるようになれば、一度、剣道の道から外れ、剣道を見なおし、一歩前に進んだ剣道がみつかれば、剣道がまた一層楽しいものになり、そして、小川忠太郎先生のいう、息が踵に行くという意味が理解できるのではないかと思うのです。

 

名人、白井亨

先生の話は続きます。千葉周作から名人と評された白井亨という人はもっと念が入っていた。34,5歳のときに、荒修に行き詰って、体が参ってしまい、死の一歩手前まで行った。これでは大変だと思って、荒修行を中止した。たまたま本屋で『夜船関話』という本をみつけ、これによって自己流の坐禅をやった。2か月で健康体を回復し、腹がマリのように弾力性を持って来て、全身に気力が充実するようになった。

※『夜船関話』江戸中期の仏教書。1巻。白隠禅師述。宝暦7年(1757)刊。修行中に病気にかかり、独特の内観法により治癒した体験を記したもの。

 

或る日、お寺で坊さんが木魚を叩きながら経文を唱えているのを見ていると、手を振るのと木魚のポコポコというのと、口から出る経文の三つが、一つのとろから出ているようだなと感じた。そこで、今までの迷いがスカーッと吹き切れたような感じがして、いざ剣を執ってみると、剣先から火の輪が出るような感じで、誰も相手になる者がなかった。そう言うことで、この人のことを、千葉周作は名人と称している。

これは、僅か2か月の坐禅によって呼吸を下げたのであるが、自分も真似をして座禅をするというのでは駄目であって、要は呼吸を下げることである。自分の気持ちをズーンと肚に納めるのが早道なのである。その反対に、技ばかりやっていると、余り熱心にやり過ぎれば過労になってしまう。そうすると、次第に稽古が落ちてきて、ついには若死にした先生が実際にある。それ故、技も大切であるが、技の出る精神はそれ以上に大切であるから、そこにしっかり目を付けてやることが「事」のところのポイントである。この事のところで、遠間、近間、大技、小技、連続技などあらゆる技を修行することが大切である。

「気」は試合で勝ちたい気。審査で格好よく見せたい気、などいろいろ「気」はありますが、気が胸より上に、頭まで行ってしまうと、もう駄目ですね、誰もが経験したことがあると思います。稽古量と、考え方を変えることで、左足に息を行かせたいものです。

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