剣道で知る、素晴らしい日本のこころ

剣道には「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」という「剣道理念」があります。この理念をわかりやすく語りかけたいと思います。

2017年10月

 交野市剣道連盟の合宿で皆さんにお話した内容をまとめたものです。

 

§ 剣道と儒教

 剣道を長年やっていると、武士道には儒教が取り入れられていることがわかります。私は儒教に興味があるので、書店である本が目に留まりました。テレビでよく見かけるアメリカ人のケント・ギルバードが書いた「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」という題名の本です。

 

 日本人が考える儒教の教えと中国や韓国の儒教の教えに大きな違いあるのだという内容でした。ご存知の方もおられると思いますが、儒教の教えが剣道の袴に例えられることがあります。袴には前に本、後ろに本のヒダ(折り目)、があります。儒教の教えに、仁・義・礼・智・信という大切な教えがありますが、本のヒダはそれを表し、後の一本は、武士は二心を持たないと誠の道を示したものだと言われています。儒教は人が常に守るべき徳目を教え、相手に向けた自己規制、相手に向けた行動規範を示しているのだと思います。

 

 ケント・ギルバードの本によれば、同じ儒教の国である中国や韓国では、どうやらそうはなっていないそうです。他人より自分が優先で、他人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの、という考え方が主流のようです。「すみません」「失礼しました」という謙虚な言葉が少ないようです。一番根元から考え方が違えば、仲良くしたくても難しい話です。何時か未来志向で仲好くなれるといいですね。

 

§ 自分の心が剣道をやっている

 考えてみると、何事も自分の心が体をコントロールしています。ならば、自分の心が剣道をやっていることになります、竹刀は自分の心のおもむくままに動いっていることになります。打突に出るか、それとも受けにまわるか・・・。心の判断次第で竹刀は動いてくれます。

 

 自分の心について、「心こそ、心迷わす心なり 心、心に心許すな」と沢庵禅師が「不動智神妙録」に書いています。自分の心は自信がなければ不安で仕方なく、自信を持たない竹刀の動きなんて、結果は見なくてもわかります。剣道も何事も同じで、正しいのはこれだというものを見つけて、後は正しいものを繰り返し錬り鍛えることだと思います。

 

 言うのは簡単ですが、実行に移すことは容易ではありません。どれが正しいか、正しいものを見極める力が必要です。正しくないものを、いくらねり鍛えても、何一つ得るものはありません。

 

 人間の体は、誰にも頼らず、自分の意思で立ち、走ること、歩くことも出来ます。体内に無意識で、常に中心を求る、精密機械が入っていると思えばどうでしょう。剣道も同じで、常に中心を求めて正しく稽古をすれば、年老いても、見苦しくない剣道が出来るのではないかと思います。真理を求めないで「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」鉄砲派のことを無鉄砲と言うのです。我が師匠がいつも言っていました。「剣道の大きな目標は "吾が身体を悟ること" 」と。

 

§ 悟ったのはトカゲのしっぽ

 竹刀のもち方、素振りのしかた、体の移動、心の持ち方など剣道で学ばなければならないことが沢山あります。剣道の強い人や段位の高い人を見て、みんな学びます。しかし、強いから、段位が高いからというだけでは正しい剣道をしているかどうかはわかりません。高段位者や試合巧者、同じ人に尋ねても、前に聞いたこと、次に聞いたことが違う場合もよくあるものです。

 

 私も何度も悟ったつもりの、トカゲのしっぽをつかんできました。トカゲは子どものころ、よく捕えて遊びました。トカゲのシッポをつかむと、つかまったシッポを自分で切り離して逃げてしまいます。剣道も「ここだ」と思って悟ったことは、実はトカゲのしっぽだったことがよくあります。最悪なのは人に教えてしまったことです。教えられた人は気の毒です。

 

§ 古流に学ぶ

 笹森順造著、「一刀流極意」例えば、「金翅鳥剣」は片羽九万理もある大鳥は、羽ばたいて海中の竜を脅かす、とてつもなく雄大な表現でロマンを与えてくれます。

 

 我々の剣道は一体「何をやっているのだ」伊藤一刀斎は笑っているようです。

黒田鉄山著、駒川改心流の回剣を見ると、力を否定して、体の中心を正しく軌道することを教えています。刀は持つのでなく刀の重力で使い、鍛えた筋肉自慢は、無用のようです。中心が外れていても、最後に当たる瞬間だけキチンと当たれば、それで良いと言う考えは、古流にはないようです。

 

 古流は自分が勝手に流派を名乗るのではなく、求めているうちに真理を掴んだ者だけが名乗るものです。立派な指導者とは、理法に叶う剣道を目指し、後輩を指導する者のことだと思います。ですから、何もわからずに指導者になると、次の世代に剣道は伝わりません。

 

 鍛えて勝つ剣道から、さらに真理を求める剣道に移行すれば、段位に関係なく、対等に稽古が出来ます。相手に打たれても、心に響かなければ、求めている剣道とはいえず、お互い毅然とした態度で、稽古が出来れば充実感のある稽古になります。

 

 西郷隆盛が好んで使ったという「天啓愛人」。
人を相手にせず天を相手にせよ、
天を相手にして、己をつくし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。

松浦静山(平戸藩主「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けはなし」

 

まとまりの無い話でしたが、ご清聴有難うございました。

以下は交野市剣道連盟の合宿で皆さんにお話した内容をまとめた、その2です。 

 

§ GHQの日本支配

 負けた日本は、GHQという連合国軍最高司令部の占領下に入りました。政治、教育、産業全てがGHQの管理下となりました。そしてGHQの指導のもと、日本国憲法が出来たと聞いております。中でも教育の方針はこれまでと一転、180度も違う大きな変化がありました。先にお話した、校門通過の話も一例ですが、軍隊式の教育だとみなされるものは全て廃止となりました。なにもかも一夜のうちに、電極で言えば、プラスとマイナスが入れ替わった瞬間に、私は立ち会ったことになります。

 成人してから、恩師の先生を招いて同窓会をやりました。年老いた先生はその当時に思いをはせながら「あのときは、明日から一体なにを教えたらいいのか、全くわからなかったよ」と話されました。

 

§ 武道の全面禁止令が出る

 アメリカ軍が日本に進駐するにあたり、日本人の心を徹底して研究していました。「菊と刀」というアメリカのルース・べネディクト(1872年社会思想社)の書いた本でもわかるように、日本が戦争に負ける以前から、アメリカ政府の依頼では、日本人を研究し尽くしたと書いています。

 

 中でも日本の、武道精神は、我が身を捨てる、つまり、身を捨てて生きるという、物騒な精神をもつ武道は、反撃、復讐の恐れがあり、GHQは先ず日本人の心を骨抜きにする必要がありました。そこで武道は全て禁止になりました。

 

 農家の古い家には、先祖から受け継いだ、お守りの刀がありました。私の家にも長い刀が仏壇の奥にしまい込んでありました。刀や槍など武器となるものを没収することになり、もし提出しなかった場合、金属探知機で見つかると大変なことになるという噂が流れました。そこで我が家でも、父親の言いつけで、小学低学年の私が村の駐在所に持って行きました。駐在所の巡査は、親の名前も聞かず、「そこに置いとけ」と言っただけでした。部屋の中は、刀でいっぱいだったことを覚えています。この話はあまり世間では知れていませんが、本当の話です。

 

§ 3S政策

 骨抜きにされた若者のエネルギーを発散させるため、GHQは、3S政策というものを日本に導入しました、3S政策とは、スポーツ、スクリーン(映画)セックス(性産業)のことだったそうです。これまで娯楽を知らない日本人はスポーツも映画も日本の国民にすぐ溶け込んでいきました。私も小学校高学年の頃、学校でフォークダンスを熱心に習いました。そして、村の公民館では、青年団で男女のダンスが流行っていました。3S政策は、それらのものを日頃からせっせと与え続けることによって、重要な事柄から目をそらさせ、日本人を軟弱・骨抜きにし、精神性を根本的に堕落させようとの目的があったのだという人もいます。
 

 923日・24日に交野市剣道連盟の合宿を奈良柳生の正木坂道場で行いました。参加した約40名の皆さんの前でお話する機会を頂きました。今回はその時の内容をまとめてみました。3回に分けて掲載します。

                      

§ はじめに

 昨年と同様に、貴重な時間を割いて頂きお話をさせて頂きます。

 若いとき、飢えた野良犬のように、大阪周辺を、剣道の臭いを嗅いで歩き、犬も歩けばなんとやら、拾い集めた剣道の我楽多話です。しばらくお付き合い下さい。そしてすぐ忘れて貰っても一向に構いません。

 

 剣道の世界は狭いものです。しかし、求めれば多岐にわたり広く、先人達が自己の命と向き合い、なにを考え、どのように辿って来たのか。そして今の時代にどう生かすか、少々大げさで、えらそうですが「剣道で知る素晴らしい日本のこころ」というタイトルで冊子を出版し、同名のブログも始めました。ブログは今も続けておりますので覗いてみて下さい。

 

§ 私の戦中と戦後の話し

 終戦になる前に小学校に入学して、戦争が終わった時は、小学2年生でした。いつの間に覚えたのか、国民の合言葉「進め一億火の玉だ」とか、「欲しがりません、勝つまでは」など、国民全員一致団結した時代です。山奥の私の村の隅まで合言葉は浸透していました。

 

 戦争で孤立してしまった日本は、物資の輸入が止まり、燃料にする油も、武器を作る金属も無い状態でした。それでもまだ戦い続け、国民は必ず日本が勝つものだと信じていました。

 

 上級生と一緒に集団登校で、校門近くまで来ると、上級生が大きな声で「歩調をとれ」と叫ぶと、みんなバラバラに歩いていたが、整然と並んで膝と両手を高く上げ、歩調を合わせて校門を通過しました。そこには校門の両脇にある大きな石柱を背にして、木銃を持った、怖い上級生が歩哨(監視)に立っていました。

 

 朝礼の時も、全児童は縦横の列を乱すことなく、直立から休めの姿勢で校長先生の訓示を聞きました。「戦地で、日本の国のために、戦っている兵隊さんのことを思いなさい」といわれると、小学低学年の私でさえ身が引き締まる思いでした。

 

 お寺の鐘つき堂にあった、大きな梵鐘や、母が買ってくれた通学服に、金ピかのボタンが付いて、それを担任の先生に渡し、替わりに黒色のガラス製のボタンと交換をしました。戦争の武器に使う金属類が不足していていたのです。そして、広島と長崎に原爆投下があり、昭和20年8月にとうとう日本は戦争に負けてしまいました。

 

 

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