交野市剣道連盟の合宿で皆さんにお話した内容をまとめたものです。
§ 剣道と儒教
剣道を長年やっていると、武士道には儒教が取り入れられていることがわかります。私は儒教に興味があるので、書店である本が目に留まりました。テレビでよく見かけるアメリカ人のケント・ギルバードが書いた「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」という題名の本です。
日本人が考える儒教の教えと中国や韓国の儒教の教えに大きな違いあるのだという内容でした。ご存知の方もおられると思いますが、儒教の教えが剣道の袴に例えられることがあります。袴には前に五本、後ろに一本のヒダ(折り目)、があります。儒教の教えに、仁・義・礼・智・信という大切な教えがありますが、五本のヒダはそれを表し、後の一本は、武士は二心を持たないと誠の道を示したものだと言われています。儒教は人が常に守るべき徳目を教え、相手に向けた自己規制、相手に向けた行動規範を示しているのだと思います。
ケント・ギルバードの本によれば、同じ儒教の国である中国や韓国では、どうやらそうはなっていないそうです。他人より自分が優先で、他人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの、という考え方が主流のようです。「すみません」「失礼しました」という謙虚な言葉が少ないようです。一番根元から考え方が違えば、仲良くしたくても難しい話です。何時か未来志向で仲好くなれるといいですね。
§ 自分の心が剣道をやっている
考えてみると、何事も自分の心が体をコントロールしています。ならば、自分の心が剣道をやっていることになります、竹刀は自分の心のおもむくままに動いっていることになります。打突に出るか、それとも受けにまわるか・・・。心の判断次第で竹刀は動いてくれます。
自分の心について、「心こそ、心迷わす心なり 心、心に心許すな」と沢庵禅師が「不動智神妙録」に書いています。自分の心は自信がなければ不安で仕方なく、自信を持たない竹刀の動きなんて、結果は見なくてもわかります。剣道も何事も同じで、正しいのはこれだというものを見つけて、後は正しいものを繰り返し錬り鍛えることだと思います。
言うのは簡単ですが、実行に移すことは容易ではありません。どれが正しいか、正しいものを見極める力が必要です。正しくないものを、いくらねり鍛えても、何一つ得るものはありません。
人間の体は、誰にも頼らず、自分の意思で立ち、走ること、歩くことも出来ます。体内に無意識で、常に中心を求る、精密機械が入っていると思えばどうでしょう。剣道も同じで、常に中心を求めて正しく稽古をすれば、年老いても、見苦しくない剣道が出来るのではないかと思います。真理を求めないで「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」鉄砲派のことを無鉄砲と言うのです。我が師匠がいつも言っていました。「
§ 悟ったのはトカゲのしっぽ
竹刀のもち方、素振りのしかた、体の移動、心の持ち方など剣道で学ばなければならないことが沢山あります。剣道の強い人や段位の高い人を見て、みんな学びます。しかし、強いから、段位が高いからというだけでは正しい剣道をしているかどうかはわかりません。高段位者や試合巧者、同じ人に尋ねても、前に聞いたこと、次に聞いたことが違う場合もよくあるものです。
私も何度も悟ったつもりの、トカゲのしっぽをつかんできました。トカゲは子どものころ、よく捕えて遊びました。トカゲのシッポをつかむと、つかまったシッポを自分で切り離して逃げてしまいます。剣道も「ここだ」と思って悟ったことは、実はトカゲのしっぽだったことがよくあります。最悪なのは人に教えてしまったことです。教えられた人は気の毒です。
§ 古流に学ぶ
笹森順造著、「一刀流極意」例えば、「金翅鳥剣」は片羽九万理もある大鳥は、羽ばたいて海中の竜を脅かす、とてつもなく雄大な表現でロマンを与えてくれます。
我々の剣道は一体「何をやっているのだ」伊藤一刀斎は笑っているようです。
黒田鉄山著、駒川改心流の回剣を見ると、力を否定して、体の中心を正しく軌道することを教えています。刀は持つのでなく刀の重力で使い、鍛えた筋肉自慢は、無用のようです。中心が外れていても、最後に当たる瞬間だけキチンと当たれば、それで良いと言う考えは、古流にはないようです。
古流は自分が勝手に流派を名乗るのではなく、求めているうちに真理を掴んだ者だけが名乗るものです。立派な指導者とは、理法に叶う剣道を目指し、後輩を指導する者のことだと思います。ですから、何もわからずに指導者になると、次の世代に剣道は伝わりません。
鍛えて勝つ剣道から、さらに真理を求める剣道に移行すれば、段位に関係なく、対等に稽古が出来ます。相手に打たれても、心に響かなければ、求めている剣道とはいえず、お互い毅然とした態度で、稽古が出来れば充実感のある稽古になります。
西郷隆盛が好んで使ったという「天啓愛人」。
人を相手にせず天を相手にせよ、天を相手にして、己をつくし、人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。
松浦静山(平戸藩主「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けはなし」
まとまりの無い話でしたが、ご清聴有難うございました。