最近、アジアや東ヨーロッパなどで、国際情勢が緊張しつつあります。
だからというわけでもないのですが、1982年出版の、異色「戦争」漫画をご紹介します。
知った風な事を書くわけではないのですが、世界史は常に戦争に彩られています。
ところが、「戦争」と一口に言っても、その実像は時代によって変容してきています。例えば中世ヨーロッパでは100年戦争、バラ戦争、30年戦争など、間断なく戦争が起こっています。私の読みかじりの知識では、初期の戦争は、諸侯や貴族が「自分で自前で」戦っていたこともあり、もともと同一価値観社会(キリスト教)内での戦いという面もあって、双方が自然に「ルールめいた了解」の上で行っていた、今日で言う「制限戦争」のようなものでした(スペインのレコンキスタや十字軍遠征などの価値観の違う相手との戦争もありましたが)。
いわゆる「王権」が確立し、各国が貿易や植民地経営により「金持ち」になって行くに従い、多くの傭兵や大砲や砲船などを常備するのが可能になり、「軍拡」が起こります。すると戦争も規模を拡大していきます。常設された庸兵団は「軍隊」へと変化していきます。
フランス革命によって「国民国家」となったフランスでは軍隊も「国民軍隊」になり、戦争は「王様の私事」ではなく「国家の一大事」に変容します。そして「義務としての兵役、徴兵」によって大量の兵士を「安価に」動員することができるシステムが構築されました(ナポレオンはこれによって連戦連勝した)。
各国もこれに習い、ナショナリズムの肥大や産業の発達に伴う「兵器」の大量生産によって「国家の存亡をかける大戦争」を起こす事ができるようになり、事実何度も起こりました。
このあたりでまた「様相」が変わります。それは「戦争の産業化」と呼ばれるものです。軍事費や国防費が青天井で伸びていく時勢や国家において、「軍事」は膨大な雇用を生み裾野産業を活性化させる「巨大公共事業」の側面を持ち始めます。
そうなると、たとえ「平和」な世になってもこれを縮小するのは難しくなり、軍事産業が政治に関与する「発言力」が増してきます。これが「軍産複合体」と呼ばれるものです。
第二次大戦において、アメリカは超絶的な「兵器生産力」で枢軸国を圧倒し戦勝しましたが、見方を変えれば、軍産複合体の政治関与を大幅に許し、以降の「腐れ縁」を確定させてしまった、と見る事もできます(アイゼンハワー大統領の退任演説は、そのような「腐れ縁」の危険を説いています)。
「世界を支配しているのは各国軍産複合体の秘密連合」などという陰謀論を展開するつもりはありませんが、それらが「控え目で人のいい兵器屋さんたち」などでもない事も事実です。
特に冷戦期、米ソの2大親分は、角を突き合わせて対立していた反面、部分的に「手打ち」して、互いに「その公共事業」を「活性化」させようと「了承」していた局面もあったかもしれません(冷戦期のすべての戦争が出来レースだ、というのはトンデモ論の類いでしょうが)。
さて、そのように変化してしまった「現代の戦争」の実像や、(例えば今の国際情勢などを)一体どう解釈すべきなのでしょうか。おそらく「単純な解釈」などはないのでしょう。それぞれのプレイヤーの思惑が交錯する、言って見れば50人100人が一卓で行う麻雀のようなものです。中世の限定戦争よろしく「あれとそれが黒幕で、こうなってああなったからそうなった」的な「分かり易い理解」などはしないほうが良い事は確かです。なぜなら、そういった「分かり易い理解」というものは、往々にして、一方向からの視点でしか見ていない結果である事が多いからです。「同卓の他の面子の視点で物を見る」ということをしなければ、たちまちハコテンになってしまうでしょう。
ともあれ、本書「気分はもう戦争」は、そんな冷戦中の198X年、「米ソ了解済み」の下で、ソ連の大規模部隊が中国国境を数箇所にわたって侵攻、以後70日余に渡って続けられる「中ソ戦争」(もちろんフィクションです)を描いています。
「ハードボイルドでブラックでコミカルでスラップスティックでアナーキーでアングラ」という、「童夢、AKIRA以前」の大友克洋先生テイストの作品です。大友先生はこうした味の作品を「週刊アクション」などでたくさん描かれていました。
「アクション」は独特な雑誌で、歴代ヒット作も「ルパン三世」「じゃりン子チエ」「クレヨンしんちゃん」と一貫性がほぼありません(でもどれも「アクション的」です)。強いて共通点を言えば(大友先生の作も含めて)「アナーキーっぽい」匂いがする、という感じでしょうか。魅力ある雑誌でした。
実はおすすめ 「気分はもう戦争」 漫画 1982 矢作俊彦原作 大友克洋作画
本作は、「中ソ戦争」の経緯に従い、それに付随して起こる各地の「小事件」を短編として描く「中ソ戦争にまつわるアンソロジー」的な体をとった作品です。数編にわたって登場する「放浪3人組」がいちおうメインキャラクターとなっていますが、彼らと他編のキャラクターが邂逅したりする事はありません。「戦争」を直接体験するのはその3人だけで、他編のキャラクターはすべて「周辺」の人物です。(他にも「大友さん」という漫画家と「矢作さん」という原作者のコンビが数編に渡ってでてきます)
第一話は、世界を「管理」している米ソの描写です。1979年の「朴大統領暗殺事件」がCIAの画策(もっとも暗殺の場所や関係者などは実際の事件と違っている)であったり、偵察衛星画像をCGで改変し各国に「提供」するなどしている、という話になっています。ホットラインで「世界情勢」について話し合う「大統領」「書記長」「産油国の王族」ら。そしてソ連が中国に「大規模侵攻」を開始します。
第二話は、日本の「大友」「矢作」コンビが酒を飲んでいるところに戦争のニュースが入ります。「どうせ経済はメタメタになる。いっそ戦地に行ってルポ漫画を描いて大儲けしよう」と言うことになり、横浜港で漁船を強奪、中ソ国境をめざします。
第三話から、「放浪3人組」が登場します。ニューヨークヤンキースのヘルメットをかぶっている大男のアメリカ人「ボウイ」、自称右翼の日本人青年「ハチマキ」、自称左翼過激派の日本人青年「めがね」の3人はどういう経緯か一緒に「アフガン ソ連国境あたり」を放浪しています。
戦争の知らせを聞いた3人は義勇軍としてソ連と戦うべく「戦争してるところ」に向かいますが、そう簡単には行きません。チンタラ歩きつつ、ボケとツッコミを連発しつつ、途中途中でソ連の駐屯地を壊滅させたり軍用ヘリを撃墜したりしながら進みます。(そういえば、本作の表紙は「プラモ箱絵」で有名な高荷義之先生なのですが、なぜかヤンキースのメットが赤になっています)
他にも、モラトリアムな毎日と、それを許されている自分に嫌気がさし「なんとなく」戦争にでも行ってみようかという浪人生や、ニューヨークにやって来た元自衛官の傭兵などがキャラクターとして出てきます。いずれも日本人ですが、彼らは共通して「戦場に行きたいと思っているが行けない人物」として描かれています。
「戦争」はいつもどこか遠くで起こっている出来事で、それを何となく後ろめたく思っている、という冷戦当時の「日本の立ち位置」を象徴しているのかもしれません。本作よりほぼ10年後の作の映画「パトレイバー2」の荒川というキャラクターのセリフがほぼ同じようなニュアンスを持っているのは面白いところです。
しかし、「戦争」はすでに、キャラクターたちが思うヒロイズムやリリシズムの「物語」でななく、「現実」ですらなく、計画され操られる「公共事業」に変質してしまっている(「中ソ戦争」は、筋書き通りのようにピタッと終わる)のでしょうか。
もっとも、この時期の大友漫画は、「テーマや暗喩がなさそうで、ありそうで、やっぱりない」というのが多いので、そんなに深読みする必要はないのかもしれません。
いずれにしても、「戦争」という「複雑な現象」を切り取る一つの見方として、再読するのも悪くはありません。
だからというわけでもないのですが、1982年出版の、異色「戦争」漫画をご紹介します。
知った風な事を書くわけではないのですが、世界史は常に戦争に彩られています。
ところが、「戦争」と一口に言っても、その実像は時代によって変容してきています。例えば中世ヨーロッパでは100年戦争、バラ戦争、30年戦争など、間断なく戦争が起こっています。私の読みかじりの知識では、初期の戦争は、諸侯や貴族が「自分で自前で」戦っていたこともあり、もともと同一価値観社会(キリスト教)内での戦いという面もあって、双方が自然に「ルールめいた了解」の上で行っていた、今日で言う「制限戦争」のようなものでした(スペインのレコンキスタや十字軍遠征などの価値観の違う相手との戦争もありましたが)。
いわゆる「王権」が確立し、各国が貿易や植民地経営により「金持ち」になって行くに従い、多くの傭兵や大砲や砲船などを常備するのが可能になり、「軍拡」が起こります。すると戦争も規模を拡大していきます。常設された庸兵団は「軍隊」へと変化していきます。
フランス革命によって「国民国家」となったフランスでは軍隊も「国民軍隊」になり、戦争は「王様の私事」ではなく「国家の一大事」に変容します。そして「義務としての兵役、徴兵」によって大量の兵士を「安価に」動員することができるシステムが構築されました(ナポレオンはこれによって連戦連勝した)。
各国もこれに習い、ナショナリズムの肥大や産業の発達に伴う「兵器」の大量生産によって「国家の存亡をかける大戦争」を起こす事ができるようになり、事実何度も起こりました。
このあたりでまた「様相」が変わります。それは「戦争の産業化」と呼ばれるものです。軍事費や国防費が青天井で伸びていく時勢や国家において、「軍事」は膨大な雇用を生み裾野産業を活性化させる「巨大公共事業」の側面を持ち始めます。
そうなると、たとえ「平和」な世になってもこれを縮小するのは難しくなり、軍事産業が政治に関与する「発言力」が増してきます。これが「軍産複合体」と呼ばれるものです。
第二次大戦において、アメリカは超絶的な「兵器生産力」で枢軸国を圧倒し戦勝しましたが、見方を変えれば、軍産複合体の政治関与を大幅に許し、以降の「腐れ縁」を確定させてしまった、と見る事もできます(アイゼンハワー大統領の退任演説は、そのような「腐れ縁」の危険を説いています)。
「世界を支配しているのは各国軍産複合体の秘密連合」などという陰謀論を展開するつもりはありませんが、それらが「控え目で人のいい兵器屋さんたち」などでもない事も事実です。
特に冷戦期、米ソの2大親分は、角を突き合わせて対立していた反面、部分的に「手打ち」して、互いに「その公共事業」を「活性化」させようと「了承」していた局面もあったかもしれません(冷戦期のすべての戦争が出来レースだ、というのはトンデモ論の類いでしょうが)。
さて、そのように変化してしまった「現代の戦争」の実像や、(例えば今の国際情勢などを)一体どう解釈すべきなのでしょうか。おそらく「単純な解釈」などはないのでしょう。それぞれのプレイヤーの思惑が交錯する、言って見れば50人100人が一卓で行う麻雀のようなものです。中世の限定戦争よろしく「あれとそれが黒幕で、こうなってああなったからそうなった」的な「分かり易い理解」などはしないほうが良い事は確かです。なぜなら、そういった「分かり易い理解」というものは、往々にして、一方向からの視点でしか見ていない結果である事が多いからです。「同卓の他の面子の視点で物を見る」ということをしなければ、たちまちハコテンになってしまうでしょう。
ともあれ、本書「気分はもう戦争」は、そんな冷戦中の198X年、「米ソ了解済み」の下で、ソ連の大規模部隊が中国国境を数箇所にわたって侵攻、以後70日余に渡って続けられる「中ソ戦争」(もちろんフィクションです)を描いています。
「ハードボイルドでブラックでコミカルでスラップスティックでアナーキーでアングラ」という、「童夢、AKIRA以前」の大友克洋先生テイストの作品です。大友先生はこうした味の作品を「週刊アクション」などでたくさん描かれていました。
「アクション」は独特な雑誌で、歴代ヒット作も「ルパン三世」「じゃりン子チエ」「クレヨンしんちゃん」と一貫性がほぼありません(でもどれも「アクション的」です)。強いて共通点を言えば(大友先生の作も含めて)「アナーキーっぽい」匂いがする、という感じでしょうか。魅力ある雑誌でした。
実はおすすめ 「気分はもう戦争」 漫画 1982 矢作俊彦原作 大友克洋作画
本作は、「中ソ戦争」の経緯に従い、それに付随して起こる各地の「小事件」を短編として描く「中ソ戦争にまつわるアンソロジー」的な体をとった作品です。数編にわたって登場する「放浪3人組」がいちおうメインキャラクターとなっていますが、彼らと他編のキャラクターが邂逅したりする事はありません。「戦争」を直接体験するのはその3人だけで、他編のキャラクターはすべて「周辺」の人物です。(他にも「大友さん」という漫画家と「矢作さん」という原作者のコンビが数編に渡ってでてきます)
第一話は、世界を「管理」している米ソの描写です。1979年の「朴大統領暗殺事件」がCIAの画策(もっとも暗殺の場所や関係者などは実際の事件と違っている)であったり、偵察衛星画像をCGで改変し各国に「提供」するなどしている、という話になっています。ホットラインで「世界情勢」について話し合う「大統領」「書記長」「産油国の王族」ら。そしてソ連が中国に「大規模侵攻」を開始します。
第二話は、日本の「大友」「矢作」コンビが酒を飲んでいるところに戦争のニュースが入ります。「どうせ経済はメタメタになる。いっそ戦地に行ってルポ漫画を描いて大儲けしよう」と言うことになり、横浜港で漁船を強奪、中ソ国境をめざします。
第三話から、「放浪3人組」が登場します。ニューヨークヤンキースのヘルメットをかぶっている大男のアメリカ人「ボウイ」、自称右翼の日本人青年「ハチマキ」、自称左翼過激派の日本人青年「めがね」の3人はどういう経緯か一緒に「アフガン ソ連国境あたり」を放浪しています。
戦争の知らせを聞いた3人は義勇軍としてソ連と戦うべく「戦争してるところ」に向かいますが、そう簡単には行きません。チンタラ歩きつつ、ボケとツッコミを連発しつつ、途中途中でソ連の駐屯地を壊滅させたり軍用ヘリを撃墜したりしながら進みます。(そういえば、本作の表紙は「プラモ箱絵」で有名な高荷義之先生なのですが、なぜかヤンキースのメットが赤になっています)
他にも、モラトリアムな毎日と、それを許されている自分に嫌気がさし「なんとなく」戦争にでも行ってみようかという浪人生や、ニューヨークにやって来た元自衛官の傭兵などがキャラクターとして出てきます。いずれも日本人ですが、彼らは共通して「戦場に行きたいと思っているが行けない人物」として描かれています。
「戦争」はいつもどこか遠くで起こっている出来事で、それを何となく後ろめたく思っている、という冷戦当時の「日本の立ち位置」を象徴しているのかもしれません。本作よりほぼ10年後の作の映画「パトレイバー2」の荒川というキャラクターのセリフがほぼ同じようなニュアンスを持っているのは面白いところです。
しかし、「戦争」はすでに、キャラクターたちが思うヒロイズムやリリシズムの「物語」でななく、「現実」ですらなく、計画され操られる「公共事業」に変質してしまっている(「中ソ戦争」は、筋書き通りのようにピタッと終わる)のでしょうか。
もっとも、この時期の大友漫画は、「テーマや暗喩がなさそうで、ありそうで、やっぱりない」というのが多いので、そんなに深読みする必要はないのかもしれません。
いずれにしても、「戦争」という「複雑な現象」を切り取る一つの見方として、再読するのも悪くはありません。