昔、私が大好きだった漫画や映画、小説などで、残念ながら現在ではあまり話題にならなくなったものの、今でもやはりおすすめなものがあります。そういうものを勝手に少しずつ紹介して行きます。機会がありましたら、ぜひぜひご鑑賞を。

「ザ・ムーン」 漫画  1972  ジョージ秋山

「正義」とは何なのでしょうか。この、徹頭徹尾ジョージ秋山先生イズムを体現している(もっとも、ジョージ先生の漫画で、そうでないものなど1つもないのですが)ロボット漫画は、冒頭でそれを問いかけ、さらに問いかけ、最後まで問い続けているのです。

「神は死んだ」と魔魔男爵は言い切ります。宗教的良心では、もはや現代の複雑に錯綜する「悪」の構造を打破する事はできない、という事でしょうか。「そういう社会に怒っている」とも言っています。
そして「新しい神を作った」と宣言します。それが、魔魔男爵がNASAの予算一年分(文字通り天文学的金額です)と同額を費やして作った巨大ロボット「ザ・ムーン」なのです。

男爵はムーンを、選び出した9人の(皆、知り合いらしいのですが)少年少女、すなわち、サンスウ、カテイカ、シャカイ、ズコウ、双子のリカ兄弟、タイソウ(サンスウの弟)、オンガク、ヨウチエン(オンガクの弟)に、まるまる託してしまいます。そして、「正義のために使いなさい」とだけ指示するのです。
サンスウたちは戸惑います。当然です。何に使えばいいのか。そこで、ムーンを使うための「正義」とは何か、という本質的な問いかけが始まります。

作中で男爵も言っているのですが、例えば戦争でも、「わが国は邪悪の権化だ」と言って戦争する国などありはしません。互いの正義が相反するので戦争になるわけです。ということは、、極論すれば100人100様の正義が存在し、すると正義の意味はなくなります。しかし男爵は明快に「正義とは力なのですよサンスウくん」と言い切ります。サンスウはその答えに納得できません。

そうこうするうち、「連合正義軍」という組織が暗躍しはじめます。彼らはまず悪徳?政治家らを密かに誘拐、暗殺し、「地獄舟」と書かれた舟形の容器にその生首を乗せ、衆人環視のもとにさらすというすさまじいテロに打って出ます。全員、目の下に滂沱と流れる涙の意匠のついた鉄仮面をかぶり、「未来さま」と呼ばれるカリスマ指導者のもと、一糸乱れぬ組織力で、彼らの「正義」にまっしぐらに突き進んでいきます。

彼らの最終目的、それは、彼らが保有している2基の水爆ミサイル(どこからか強奪したのか、あるいは自主開発したのかは不明)を使って世界中の国家を恫喝、あらゆる地域での武力行使を即時停止させる、という驚くべきものでした。
そのためにまず四国に一発ミサイルを発射し、力を示威しようとするのです(!)。
彼らは、成功裏に終われば全員が割腹して果てるという決意を固めていて、私利私欲ではありえません。すなわち「平和のための正義」そのものなのです。サンスウは、初めて男爵の言葉を得心します。「彼らが勝てば、彼らが正義と確定してしまう。それを超克するには、彼らに勝たなくてはならない。彼ら以上の力が必要なんだ。そのための力、それがムーンなんだ」
9人の少年たちは戦いを決意し、四国へのミサイル発射を阻止するため、「新しい神」ザ・ムーンがその巨体をゆるがせ連合正義軍に挑んで行きます。

ムーンの頭部には9つのランプがあり、9人の「意志」が合致し、ランプがすべて点かなければ動きません。1つでも不点灯だと、ムーンの目からオイルがあまた溢れ出し、これもまた涙のように見えます。正義を競う神たちは、何に涙するのでしょうか。

9人の少年たち、というのは、世界中のあらゆる思想、国家、民族意識、価値観、政治形態、権益、立場から拘束されない自由な意志という事でしょう。その9人の意志の合致(合議ではない)が絶対正義というわけです。
9つのランプ点灯というのはもどかしい気もしますが、簡単に意志統一してしまっては正義が恣意的に偏る恐れがあります。なるべく意志の対立が多いほうが、実は理にかなっているわけです。
男爵は、ムーンを「新しい神」と言っています。荒ぶる神、本当にバチをあてる神を作ることによって、人々に「律」とも言うべきものを回帰させようというのが男爵の真意だったのかも知れません。
一見すると、「正義軍」の恫喝と同じに聞こえますが、核ミサイルが人を救わないのに対して、ムーンは災害から積極的に人々を救います(第二話)。
「救いの神」でもあるわけで、実はこの漫画、けっこうロジカルにできているのです。

そこで問題の最終話になります。人類よりはるかに進んだ、犬そっくりの異星人、ケンネル星人が登場します。右往左往する政府を尻目に木の国屋という大商人(!)が目ざとく彼らと直接交渉をはじめますが、その真意は、彼らの持っているであろう超兵器を使って、世界の体制すべてを一掃、自分のみ利をむさぼろうというものでした・・・。
荒唐無稽なストーリーに思われますが、異星人が出た事には意味があるのです。それはおそらく、「正義」というものの限界についてです。
「正義」とはそれが共通言語である世界にのみ意味をもつので、いわば「皆をまとめる、どこまで行っても内向きの力」なのです。

例えば、村が盗賊に略奪される状況があるとします。あるいは、国際関係で自国が不利な立場にあるとします。そのままでは相手方の思うままです。
そこで、当方は「こちらの正義」を標榜します。もちろん標榜したところで相手方が「そうですか」と引き下がるわけではありません。
ですが、それが功を奏すれば、当方の村や国の世論をまとめることができ、相手方と相応の勝負ができるでしょう。あるいは「こちらの正義」に同調した隣村や第三国の支援を期待できるかもしれません。

つまり「正義」とは「味方をまとめる」「味方を増やす」ためのコンセンサスを得る方便、「オーソライズ、権威づけ」がその客観的な正体なのです。侵略側ももちろん「侵略側の正義」を標榜し、自らを有利にするでしょう。つまり「内向きの力」ということになります。
テレビのヒーローたちや選挙の候補者は事あるごとに「正義」を標榜します。自分たちを団結させ、最も強力な第三者である「視聴者」「有権者」を味方につけるためです。

そしてこれがそのまま「正義」の限界になっています。同じ土俵にすら立っていない、外からの相手には意味をなさないのです。本作で大商人の木の国屋がいみじくも言っている通り、「彼らが犬の化け物なら、我々は猿の化け物」なのです。猿の正義は、犬にはその概念すら理解できないでしょう。
ケンネル星人の超兵器にムーンが勝てばよし、敗北すれば、「正義はケンネル星人にある」、のでしょうか。それとも「人間の正義」も「悪」も、そもそもそんなものの意味がなくなってしまうのでしょうか。やはり始めの問いに戻るのです。・・・「正義」とは何なのか?

ジョージ秋山作品は、問題作の金字塔「アシュラ」や、「デロリンマン」など、「ジョージ先生もテーマを完結させずに、読者と一緒に考えていくように見える」物が沢山あります。作品が完結しても、読者の内側のどこかに、密かに残っているのです。

・・・重要なキャラをすっかり忘れていました。ムーンは9人の少年たちの意志によって動きます。敵方とすれば、少年の一人でも排除すればムーンは無力化できるわけです。おまけに少年たちがムーンから離れてしまうと、ムーンの力は極端に下がってしまうので、できるだけ近くにいなければなりません。男爵は、少年たちに死ねと言っているかのようです。が、実は、影のように少年たちを守る者がいるのです。・・・その名は「糞虫」。忍者スタイルの小男なのですが、超絶的な運動能力の持ち主で、(土下座ポーズのまま真横に動いて手裏剣をかわしたり、すれちがうだけでプロの殺し屋を何人も同時に倒す)忍び込んでの情報収集もお手の物なのです。
普段はまったく口を利かない(ピルルル・・・という虫の音のような声を出す)のですが、男爵の問いには言葉で答えます。曰く、「お前は何だ!?」「はっ! 糞にございます!」ばしっ!(男爵が糞虫をゴルフクラブでぶった音)「ありがとうございます!」「少年たちを守れ!」「ははっ!」「だいぶ怪我をしているな・・・糞虫、死ぬなよ」(男爵の独り言)まったくわけがわかりませんが、この二人の掛け合い、大好きでした、