2010年07月13日

新しいモノの見方②

さて、 「新しいモノの見方①」  では、モノの見方を近似式のようなものとして捉えたが、今回はその前提をベースとして、「モノの見方」の価値について考えたいと思う。


まず、この「モノの見方」がどのように自分たちの役に立つかといえば、多くの場合それは、無意識の決断の連続による、時間の節約ではないかと考える。


もしも一日が200時間も300時間もあるとしたら、些細な施策を検討したり、1つ1つのコミュニケーションや打ち手を行なう際にも、じっくり熟考し、その時点でのベストな打ち手を考えることができるかもしれない(エクセルシオールで、どの席に座ったらいいかも、真剣に議論したら半日でも一日でも、検討することができると思う)。


でも、実際には思ったより世の中遥かに時間は少なくて、1つ1つの決断は思いのほか瞬間的に下さなくてはならない。そこで、ブレずに一貫した施策を行う際に役立つのが、この近似式かと思う。


例えば、「新しいモノの見方①」で紹介した外資系製薬企業の事例でいえば、キーパーソンとのミーティング、全社に向けたメッセージの配信など、1つ1つの場面で「敵をつくらず、パワーを集中できるように・・・」という指針があるだけで、それほど時間を掛けなくてもいい施策になるし、突発的な状況に対処しても、問題を巻き起こさない確率が高まる。


さて、この「モノの見方」、1つだけを常に適用するのでOKならば、世の中これほど楽なことはない。


だが、実際には、常に複数のモノの見方が存在するものであり、どの状況にどのモノの見方を適用するかという点は、常に頭を悩ませる。


近似式は、「ある限定した条件に当てはめることで、その事象をよく説明することができるが、その条件から外れる場合は、役に立たない」という性質を持っている。
そのため、近似式を適用するときは、「この状況に適切な近似式か?」ということを常に頭に入れておく必要がある。


そして、この問題が最も顕著に現れるのが、複数のメンバーが1つのテーマに取り組むとき、お互いに持っている・適用しようとしている近似式が異なり、お互いに相手の近似式が見えないケースかと思う。


理想的に言えば、複数のメンバーが集まれば、それだけ多くの近似式のレパートリーがあり、その中でどれを、現在取り組もうとしている事象にあてはめればいいかを検討し、最もよい選択肢、あるいは、これまでになかった新たな選択肢(近似式)を発見する機会にもなりうるが、実際にはなぜかそれが難しいケースが多い気がする。


なぜだろう?


それは、近似式そのものの目的の1つが、個人レベルで言えば、それまでの英知を結集し、より早く、より的確な答えを求めるためだという性質によるのかもしれない。


この性質を前提とすると、複数のメンバーで仕事に取り組むとき、行なわれるのは、お互いの近似式に条件を入れて、”=”のうしろに出てきた結果だけを、素早く共有し、意見として表出することになる。


その結果、他の人の近似式から出てきた答が自分の近似式による答と違った場合、相手が自分と同じ近似式を使っている前提で考えると、「あなたの計算は、間違っている!」ということになってしまう恐れがある。


もしこれが、「お互いに適用する近似式は異なっている可能性が高い。その中で、どの近似式が、あるいはこれまでにない新しい近似式が、今回の事象には適切かを探求しよう」という心持ちがあれば、「相手の計算は、間違っている」という悲劇的な状況を回避できるかと思う。


こう考えると、「新しいモノの見方①」で触れた、NHKの「ハーバード白熱教室」が大変な人気を博している1つの理由は、政治哲学をテーマに、過去の様々な哲学のフレームを交えながら、出席している生徒それぞれの意見を、その背景にある近似式により整理・提示することで、1つの事象に対して様々な近似式の適用の可能性があり、その違いにより、議論が大きく分かれることを示唆してくれる点にあるのではないかと思う。


次回は、互いの近似式を持ち寄り、活用しあうという点にフォーカスを充ててみたいと思う。


2010年07月12日

新しいモノの見方①

ここ最近のお気に入り番組であるNHKの「ハーバード白熱教室」、その初回を見ていてふとぴんときた言葉に「諸君は、この授業を通して、新しい知識ではなく、新しいモノの見方を学んでいく」というのがあった。


この「新しいモノの見方」、自分の印象に残っている様々な書籍にもしばし登場するワードだなあと、改めて思ったので、今回は


「新しいモノの見方」


について、考えてみたい。


このテーマ、かなり色々な内容が絡んできそうなのに加え、全てを一気に書いてしまうと、内容が煩雑になりすぎてしまう予感があるので、今回を


「新しいモノの見方①」


としたい。


さて、深堀りするために、例によって「自分が新しいモノの見方を獲得した」、と思う瞬間をいくつか挙げてみると、こんなものが挙がってくる:


・時間切れ間際のミーティングで焦ってリードをしていて、ふと自分の椅子を偶然に蹴られたことで気づいた「集団⇒1つの生命体」というメタファーの変化


・我慢強く、キーパーソンとの度重なるMTGにて相手の話を半年以上にわたって聞き続けた(聞き続けざるをえない状況もある中で)ことで気づいた、「思考プロセスの優劣より、互いの思考プロセスそのものを理解する重要さ」


・人はよくも悪くも、本質は変わらないのかも、というのを感じた「カエルとサソリ」の寓話・・・人は変わる、という暗黙裡に持っていた前提とは違う捉え方への実感


と、こうして挙げてみると、「モノの見方」とは、様々な事象を捉えるときに、自分がそこに適用する「近似式」のようなものに近いのではないか?と感じた。

(※上記の経験それぞれは、書き始めると非常に長い内容になるため、ここでは割愛)


ここでいう「近似式」の要点は、以下のような点となる:


・目の前にある1つ1つの要素のつながりを説明するもの

・その説明をベースとすると、自分の目指したい状況を作り出すためには、何をすればいいのかの方向性を与えてくれるもの

・多くの場合、これを適用することで、脳内で瞬間的・無意識的に行動を決定するもの


この1つの例として、以前自分が、ある組織構造に大きな問題を抱えた企業の組織変革プロジェクトを担当した際に、一緒に取り組んだシニアのコンサルタントから、この案件の参考になる、過去の体験を教えてもらったときに、ものごとの捉え方が大きく変わったことが思い当たる。


このコンサルタント、以前は某外資系製薬会社でHR部門の部長として、その組織内の変革に取り組んでいたが、そこで重要だったのは、「変革のプロセスは、敵をつくらず、全員が乗れる・パワーを終結できるように進めていく」という話。


当時、この企業では部門間、地域間(関東VS関西 など)といった様々な衝突・軋轢があり、ばらばらな状況だった。その原因となっていたのが、収益が数年にわたって悪化し、その責任の押し付け合い、それにともなう士気の低下などがあったとのこと。


ここで、「これまでのこんな組織・考え方ではだめだ!」と、分析を行い、Noをつきつけ・・という進め方をしてしまうと、「これまで」にくくられた人たち、「これまで」を作り出した人たちとの対立は避けられない。さらに、この人たちがかつて、一生懸命「よかれ」とがんばって作り上げたものを、背景も理解しないで否定してしまうのは、上手くいくわけがない。


そうではなく、「かつての事業環境では、この施策が妥当だったし、とてもよく機能した。そして、今は、その事業環境が変化してきたのだから、それに対応したものを再構築する必要性が出てきたんだ」という姿勢で臨むことで、「これまで」に携わったひとたちのパワーも結集することができる。


『問題点を洗い出して、その責任追及と刷新をするのではなく、共通ゴールを作り出して、パワーを集結できる状態をつくりだす』


この観点の転換が、自分にとってまさに「新しいモノの見方」の一例だと思う。

ここに、「新しいモノの見方」=「近似式」ということを当てはめてみると、次のようになる。


・目の前にある1つ1つの要素のつながりを説明するもの

⇒組織変革を行なう際には、一人ひとりの関係者という要素は、それぞれ過去に懸命に行なってきた仕事があり、誇りがある。その要素同士は、ひとつの方向性を向くことができればパワーを発揮できるし、互いに要素同士でぶつかりあうと、大きなパワーロスとなる。


・その説明をベースとすると、自分の目指したい状況を作り出すためには、何をすればいいのかの方向性を与えてくれるもの

⇒互いに要素同士がぶつかりあうのは、ぶつかることでプロテクトしなければいけない何かがあるから。それは、過去の仕事の承認。なので「変革」が、過去の否定から入ってしまうと、ぶつかり合いをますます助長してしまう。これをしっかりとホールドした後に、初めて共通ゴールの模索を行い、そこにパワーを集結すると、要素要素の力を発揮してもらえる。


・多くの場合、これを適用することで、脳内で瞬間的・無意識的に行動を決定するもの

⇒1つ1つのヒアリングの場面、キーパーソンが集まったミーティングなどで、現状をベースにした過去のやり方の否定を行なわない。過去のやり方について議論するときには、「なぜこの方法がかつて必要だったか?」という点をこつこつと確認するところからはじめる。その他、一つ一つの些細なコミュニケーション・言動に、細心の注意を払う。


さて、「新しいモノの見方」=「近似式」だとすると、その「近似式」の生成過程が気になる。


理系的なアプローチでいくと、近似式の作成プロセスは・・・


1.取り組みたい・解決したい・説明したい事象を選ぶ

2.多くの事例・文献から、現在取り組もうとしている内容についての、過去の研究を整理する

3.それらを参考にしながら、自分の対象としている事象を「モデル化(近似式化)」してみる

4.近似式によって表現した事象について、実験装置・実験環境を作成する

5.近似式によって導き出される解と、実験データを照合してみて、それが合致するかを検証する

6.近似式の結果と、実験データの間に大きなGAPがあれば、近似式を見直す

7.4~6を繰り返すことで、近似式を完成させていく


となるが、これになぞらえると、


2のプロセスは、読書や他の人の考え方、経験からの蓄積

3のプロセスは、自分の頭の中での意識的・無意識的な整理/これは、他の人との会話を通して行なわれることもある

4のプロセスは、実際のビジネス・仕事・企画などに当てはめてみて、それを意識しながら進めてみること

5のプロセスは、3での仕事をやりきることで、合致するかどうかを確かめること

6のプロセスは、自分の仕事を振り返り、仮説を見直すこと

に当てはまるかと思う。


ここで、先ほどのような「新しいモノの見方」を獲得したと思う瞬間は、6の「近似式の見直し」によって、これまでに持っていたデータで、上手く説明がつかなかったものが、忽然と説明できると実感を持った瞬間に該当するかもしれない。


「上手く説明できないなあ・・」「なんとなく、もやもやするなあ・・・」という状態は、上記のプロセスでいくと、4~6でウニウニと試行錯誤を繰り返している場面にあたり、そこで決定的なヒントに直面することで、「Aha!」という感じが得られる、それが端的に自分が「新しいモノの見方」を獲得したシーンに該当するのではないだろうか。


こうした前提で考えていくと、実は新しいモノの見方は、ボーっとしていて突然手に入るものではなく、自分が課題意識を持ち、何かに取組み続けており、それが煮詰まるまでやり続ける、こうした条件があって初めて、手に入るものなのかもしれない。


以上、こんな「新しいモノの見方」を仮定・前提として、検討を進めて行きたい。

(「新しいモノの見方②」へ続く)

2010年07月06日

ぼんやりの循環〜Twitterを通したコミュニケーション

一ヶ月前、


「コラボレーションカンファレンス2010」の事例ヒアリングを、ガイアックス社の佐別当さんに行なっているときに、ひとしきり会話が盛り上がった後に、ふと、こんな話が出たのが印象に残っていました。


佐別当さん「最近、こうやってちょっとしたつながりから、つながっていくことがすごい増えたんですよね」


うーん、確かに。


この佐別当さんとの出会いも、カンファレンスの事例として面白そうな会社はないかな?という、カンファレンス企画会議での話が発端となり、


「だったら、最近、コラボレーションとかに興味がすごくありそうな人がいるんですよね・・・」


というのがきっかけでした。


そして、この佐別当さんとの会話の続きで出てきたひとつの考えが、


「ぼんやりした考え、ゆる~い考えをお互いに露出する機会が増えてきていて、そのぼんやりが引き合うことができるようになったから、アメーバの合体のように、具体的なつながりまで発展できるようになってきた」


というものです。


ここについて、ちょっと深堀してみたいと思います。


ここでいうぼんやりというのは、例えば


「なんとなく、最近コラボレーションってのが気になるよね」


「漠然と、コラボレーションについて一緒に考えてみません?」


というような、ばくっとした考えや投げかけを指します。


こういう考えは、数年前であれば、以下のような機会でしか共有するチャンスがなかったかと思います。


・同じ趣味のクラブや同好会(でも、これは取り組む内容、例えば野球、とかが先に来る)

・酒の席(でも、これは往々にして内容を翌朝になると覚えていない)

・仕事やイベントなど、互いに熱中して取り組んだ結果(でも、これは時間がかかる)


こうやって書き出してみると、ぼんやりした相手の考えにアクセスできる機会は、継続的な関係だったり、深いつながりの先にしか、なかなか無かったように思えます。


それが、最近はそういった状況でなくても、ガンガンできるようになってきたんだな、というのが実感です。


そしてそこには、Twitterがとても大きな役割を果たしているんだろうな、というのが直感的にはあるのですが、そこをちょっと分析的に考えてみたいと思います。



■表現頻度と持続性

Twitterは、140文字&つぶやき、という性格を持っているので、文章に起承転結の構造も要らない(というより、入れられない)し、前提・背景の説明も不要。


自分自身を省みるに、元々文章は構造と背景説明を丁寧にしたい、というのが強くあるため、以前ブログを書こうとしたときには、その構造の検討、背景情報の整理とかを考えるだけで、実に数週間を要し、結局長続きしなかったという痛い記憶があります。


自分の周囲を見ても、ブログが長続きしているのは、こうした作業をものともせず、書くことそのものに強みを持っている人が多かったように感じる次第です。


こうすると、かつては文章の書き手となる時点で、おそらく世の中の大多数の人がフィルターにひっかかってしまい、一部の人だけが情報発信をする、という環境があったように思われます。


これが、Twitterのつぶやきという仕組みによって、気軽に、数多く露出するようになったのかな、と思います。


そして、Twitterで重要なファクターになっていると思うのが、身近な知り合い


元々、自分の周りで親しい人は、少なからず自分と近い価値観を持っていたり、響きあう何かがあったりしますよね。

そうすると、ちょっとしたつぶやきひとつを取っても「それって○○だね」という風に、リアクションが返ってきます。

ここで、特に返信がマメな友人などがいると、より面白味が増してきますが、そういう場合は自分のラッキーに感謝したいところです。


このやりとりが、Twitterを行なうことの刺激となり、つぶやき、つまりは自分の考えの露出を加速させてくれるのだと思います。



■オブザーブの機会

そして、こういったTwitter上の自分⇔知人というTweetのやりとりは、両者をフォローしている人、すなわち第三者にとって格好の観察機会、相手を知る格好の機会になるかと思います。


以前やっていた仕事の1つに、企業のマネージャ候補者同士でディスカッションをやってもらい、そこでの観察を通して、1人1人の候補者の評価をする、というのがあったんですが、こういう場合、自分が当事者ではなく、じっくりと相手が他の人とやりとりをしているところを見ていると、面白いようにその人の考えが見て取れるということを学びました。


自分が第三者である場合、自分は「何を言えばいいか?」を考える必要はないし、相手にとっても、見ず知らずの自分に対して「初対面的」な態度をとる必要がなくなるわけです。


これと同じ構造が、Twitter上での第三者としての観察機会にもあるのではないかと思います。



■背景理解
こうして、面白いなあこの人、という風に感じたら、その人の過去のつぶやきを振り返ることで、「なぜこの人がこう考えるようになったのか?」という追体験ができるようになります。


そして、追体験ができると、
「この人とは、こういう関わりを持ったらいいのかも?」


という想像も、できるようになるわけです。


例えば、私は以前、最初の会社の後輩を、自分が勤めていたコンサル会社に誘ったことがあったんですが、それは、彼が書いていたブログを通して(※時代が古いので、この場合はブログ)、事業にバリバリに取り組み、その後にちょっとした挫折と転機で、その時点ではマネジメント・今までとは違うアプローチを求めているだろうなあ・・・と想像ができたので、自信と予感を持って、誘いをかけることができたことがありました。


Twitterの場合は、人によってこうした過去のつぶやき量にはばらつきこそありますが、わりと断片断片の履歴からでも、こうした想像ができるなあ、と実感しています。


■成功体験の積み重ね

このように、「ぼんやりした相手の考え」が分かって、「背景を理解」していて、それをベースに相手に会うと、ものすごい確率で、「会ってよかった」感を得ることができます。こうして、一回味を占めると、どんどんと出会ってみたくなる、という好循環が発生し、ますますつぶやきに力が入ってくるわけです。


うーん、こうやって考えてみると、中々どうして、Twitterってすごいかもしれません、やっぱり。


最後に、周囲の人を見ていて、この循環をさらに活性化するために、ヒントかなと思うところを列挙してみたいと思います。


■ロジカルな説明とストーリ説明の混合を意図的に行なってみる

人は、理解しやすい説明のタイプが異なっているので、複数の説明パターンを織り交ぜてみることで、響く層を拡げることができるかもしれない、と思います。

例えば、あるときは「AだからB、BだからC、なのでAだからC」という説明をしてみて(自分の場合は、これはブログにあたります)、別の機会には「今日はこんなことがあって、あんなことがあって・・・だから、こう感じたんだよね」というストーリーベースのつぶやきをしてみる、という具合に。


■コアメッセージをつぶやく頻度を上げてみる

昔、ある研修で外人講師が言っていた話に、「人は7回聴かないと、耳に入らない」というのがありましたが、自分のつぶやきなど、他のひとにとってみれば川に流れ去っていく葉っぱのようなもの。あまり気にしないで、自分が大切と思う話は、しつこく繰り返してみるのもいいかもしれません。



■「@×××」のつぶやきを増やしてみる

上記したように、他のひととのやりとりは、第三者の人にとってみれば、自分を判断するいい観察になります。ある程度意識して、特定の誰かとのやりとり(@×××)というコミュニケーションを織り込んでみるのも、いいかもしれません。


■誘いに積極的に乗ってみる
よく、Twitter経由などで、人に「ゆる~く」誘われることがあります。個人的には、この機会はとても大事だと思っていて、仕事の必然性などではなく、本質的な「やりたいこと」「思っていること」の延長線上にある出会いを、こうしたゆるい誘いがつないでくれることが多いので、そのゆるさを、逆に大切にして会いに行ってみる、というのが効果的かなあ・・と常々感じています。


■一緒にやってみる
実際のプロジェクトやイベントなどを、こうした「ゆる~い」つながりの先で、ゆるくてもいいからやってみる。
これで、物理的に会う機会ができるし、共通のゴールに向かうことで、加速度的に深まります。ぼんやりしたものの先が、見えてくるわけです。


というわけで、「ゆる~い」お誘い、つながり、大歓迎です!

2010年07月03日

教科書的学習に思うこと

最近、ふとしたきっかけで、知り合いがマーケティングの勉強をしていて、セミナーなどに通っているという話を知って、触発された考え。


「教科書的に読んでいるものよりも、目の前の仕事で得たものの方が、使えるんだよね」

そう感じて、なんとなく批判的になる自分がいることに気づいたので、ここを深堀してみることにした。


そこでまずは、過去の自分自身を振り返って、「目の前の仕事に一生懸命になって得たもの」と、「教科書的に読んだもの」を挙げてみた。


(目の前の仕事から得たもの)
・英語でのディスカッション(PGで主に電話会議での海外チームとのやりとりで)
・B2Bの価格・ソーシングの交渉(PGのときに一時期担当)
・組織変革のコンサルティング(HVのコンサルティング経験を通して)


(教科書から得たもの)
・組織変革(PG時代。コッターなどを読んでいたとき。実務経験がないときに)
・競争戦略(マイケルポーターなどをPG時代の初期に読んで)
・・・その他、多数の書籍


これを眺めながら、要素を「習得のプロセス」と「結果の違い」の2つの観点でまとめてみると、目の前の仕事から得たものには、次のような特徴があった。


(習得プロセス)
・集中して取り組んだ
・上手くいくかいかないか、ではなく、上手くいかせる必要があった
・手本となる先人がいた
・成果によって、正しいか正しくないかが判断できた
・最初は上手くできなかった
・悪戦苦闘した


(結果として得たもの)
・明らかに他の人に優位にできる
・考えずにできる(惰性でやっても、はずさない)
・何が勘所なのか、何を見ていけばいいのかが分かっている
・これだけははずしちゃだめ、というものが分かっている
・パワー配分ができる
・次に何がおきるのか、あらかた想像できる
・説得できる材料がある(やる前に)・・・実体験で巻き込むことができる


さて、こうやって整理してみて、特に感じたのは、


(結果)⇒反応的に対応ができるようになっている。いつも安定的に発揮でいる。
(プロセス)⇒「これははずしちゃいけない」と想起される、過去の経験の記憶がある。


というところ。



1つ例に挙げると、コンサルをやり始めたとき、自分の担当だったヒアリングを実施したときの大失敗が思い浮かぶ。


このヒアリング、ある企業の人事制度を変更するために、主要な役員に、あるべき人材像をヒアリングしていくというもので、こちらから階級別のたたき台モデルを持っていって、「これを刺激に、聞いていこう」というスタンスだった。


ところが、実際にヒアリングを始めたら、10分程度でみるみる役員の機嫌が悪くなり、最後は、


「そもそも、なんのためにこれをやろうとしているの?」


と激怒され、敢え無く中止に・・・。今でも忘れないが、本当に泣きそうになった。


後から振り返ると、担当役員としては、ここで出てきたモデルが、そのまま決定事項になってしまうかのように捉えたのが元凶。もしそうだったら、自分の組織運営に思い切り関わることだし、たたき台が妙に精緻にできていて、あたかも決定事項のようにも見えてしまい、


「そんな短期間に決めてくれるな!相談もなしに」


というお怒りだった。


この経験以来、ヒアリングでは


「とにかく相手に不信感、不安感を感じさせない」


のが何より大事ということを肝に銘じるようになった。


具体的には、


「自己紹介」
「今、何をやろうとしているか」
「この結果はどのように使われるのか」


の3点を、分かりやすく、誤解なく聞いてもらえるような説明資料と、口頭での補足を慎重に準備するという行動に紐づくようになった。


ここでポイントだと思うのが、おそらくヒアリングの基本教科書には、間違いなくこれが書いてあるし(そして、このコンサルの社内資料にも、これは明記されている)、言われてみれば当たり前のことだけれども、それがどういう意味を持っていて、そこを外すと何が起きるのか、瞬間的・反応的に記憶と紐づいて対応できるのが、仕事を通して獲得した部分であるということ。


この、


「記憶」⇒「瞬間的・反応的な対応の再現」


というところが、肝かな、と改めて感じる。


おそらく、教科書で学んだだけでは、限られた時間の中、周囲と反応的なやり取りを繰り返す中で、ついついこういった部分を踏み外してしまう瞬間が訪れるなど、安定的に押さえどころを押さえ続けるということができないのではないか。


ちなみに、自分以外の人のケースを学べば、これがカバーできるかというと、そうでもないな、と思った。

なぜなら、「この状況を上手くやる人」に丁稚奉公でついていても、上手くやる人はこの部分を外したりしないから、殆どそういう場に遭遇することがない。


逆に、「上手くやらない人」と一緒についていても、それによってもたらされる大変な経験は、自分にダイレクトにふりかかってくるわけでないから、記憶として定着しない。


それから、仕事以外のシミュレーション的なところや、趣味などの分野ではどうかというと、おそらく、真剣に成果を追い求める場面でないと、人は無意識に失敗というところを避けたり、トラウマになるほどの失敗に直面する状況にないだろうから、やはり「記憶」は残らない、残りにくい、気がする。


とどのつまり、


「瞬間的・反応的」な対応のベースとなる記憶は、目の前の仕事に真剣に取り組んで初めて獲得でき、だからこそ、このプロセスでなければ、本当に安定的な成果を挙げる力は身につかない」


ということになるのかもしれない。


というわけで、一旦ここの結論としては、


「教科書を読むのは、決して悪くない。結果論として、成功のための重要なポイントはそこに書いてあるかもしれない。ただし、その重要なポイントを、いつも再現性高く、1つ1つの行動にちりばめられるか、いつも瞬時にそれを押さえていけるか、というと、教科書だけではNO」


ということかと思った。


ちなみに、プロとしてお金を貰うためには、これでは明らかに不十分。

だって、安定的に成果を出せない、失敗の経験をそこで初めて発生させるかもしれない、という人には、お金出して買いたくないし。


さあ、ここまで書いてきて、以下のような???が沸いてきたので、これはまた別の機会に考えてみたいと思う。


・上記で説明されるような記憶&瞬間的な対応は、ある種、衛生要因的な部分に思える(これをクリアしていないとお話にならないが、これ以上の水準の要因がある)。
それってどういうところだろう?


・失敗の記憶の役割だけでなく、成功の記憶の役割ってなんだろう?