さて、 「新しいモノの見方①」 では、モノの見方を近似式のようなものとして捉えたが、今回はその前提をベースとして、「モノの見方」の価値について考えたいと思う。
まず、この「モノの見方」がどのように自分たちの役に立つかといえば、多くの場合それは、無意識の決断の連続による、時間の節約ではないかと考える。
もしも一日が200時間も300時間もあるとしたら、些細な施策を検討したり、1つ1つのコミュニケーションや打ち手を行なう際にも、じっくり熟考し、その時点でのベストな打ち手を考えることができるかもしれない(エクセルシオールで、どの席に座ったらいいかも、真剣に議論したら半日でも一日でも、検討することができると思う)。
でも、実際には思ったより世の中遥かに時間は少なくて、1つ1つの決断は思いのほか瞬間的に下さなくてはならない。そこで、ブレずに一貫した施策を行う際に役立つのが、この近似式かと思う。
例えば、「新しいモノの見方①」で紹介した外資系製薬企業の事例でいえば、キーパーソンとのミーティング、全社に向けたメッセージの配信など、1つ1つの場面で「敵をつくらず、パワーを集中できるように・・・」という指針があるだけで、それほど時間を掛けなくてもいい施策になるし、突発的な状況に対処しても、問題を巻き起こさない確率が高まる。
さて、この「モノの見方」、1つだけを常に適用するのでOKならば、世の中これほど楽なことはない。
だが、実際には、常に複数のモノの見方が存在するものであり、どの状況にどのモノの見方を適用するかという点は、常に頭を悩ませる。
近似式は、「ある限定した条件に当てはめることで、その事象をよく説明することができるが、その条件から外れる場合は、役に立たない」という性質を持っている。
そのため、近似式を適用するときは、「この状況に適切な近似式か?」ということを常に頭に入れておく必要がある。
そして、この問題が最も顕著に現れるのが、複数のメンバーが1つのテーマに取り組むとき、お互いに持っている・適用しようとしている近似式が異なり、お互いに相手の近似式が見えないケースかと思う。
理想的に言えば、複数のメンバーが集まれば、それだけ多くの近似式のレパートリーがあり、その中でどれを、現在取り組もうとしている事象にあてはめればいいかを検討し、最もよい選択肢、あるいは、これまでになかった新たな選択肢(近似式)を発見する機会にもなりうるが、実際にはなぜかそれが難しいケースが多い気がする。
なぜだろう?
それは、近似式そのものの目的の1つが、個人レベルで言えば、それまでの英知を結集し、より早く、より的確な答えを求めるためだという性質によるのかもしれない。
この性質を前提とすると、複数のメンバーで仕事に取り組むとき、行なわれるのは、お互いの近似式に条件を入れて、”=”のうしろに出てきた結果だけを、素早く共有し、意見として表出することになる。
その結果、他の人の近似式から出てきた答が自分の近似式による答と違った場合、相手が自分と同じ近似式を使っている前提で考えると、「あなたの計算は、間違っている!」ということになってしまう恐れがある。
もしこれが、「お互いに適用する近似式は異なっている可能性が高い。その中で、どの近似式が、あるいはこれまでにない新しい近似式が、今回の事象には適切かを探求しよう」という心持ちがあれば、「相手の計算は、間違っている」という悲劇的な状況を回避できるかと思う。
こう考えると、「新しいモノの見方①」で触れた、NHKの「ハーバード白熱教室」が大変な人気を博している1つの理由は、政治哲学をテーマに、過去の様々な哲学のフレームを交えながら、出席している生徒それぞれの意見を、その背景にある近似式により整理・提示することで、1つの事象に対して様々な近似式の適用の可能性があり、その違いにより、議論が大きく分かれることを示唆してくれる点にあるのではないかと思う。
次回は、互いの近似式を持ち寄り、活用しあうという点にフォーカスを充ててみたいと思う。