米が高い。だいぶ前に不作だかなんだかといって、新米が出たら下がるはずだとかいっていたのに、下がるきざしがない。買い占めだとか、減反政策がどうのとか、いろいろいわれてはいるが、どうもしっくりこない。

米なんか買い占めしたって限界がある。賞味期限があるし、貯蔵する場所だってタダではない。確実に上がるというわけでもないのに、そんなことするやつがいるはずがない。減反政策にしても、じゃあなぜ今なのかが説明できない。それに減反政策ってのは田んぼを減らして畑にするわけだから、米が高くなるぶん野菜が安くならなければならないはずだが、野菜だって高くなっている。

そもそも、値段があがっているのは米だけではない。あらゆる物の値段があがっている。賃金の上昇が物価の上昇に追いついていないから実質賃金は下がっているそうだが、名目賃金はちゃんと上がっている。

これはもう単純にインフレが原因と考えるほかない。ようするに高いとはいいながら米代が払えるから上がっていくのである。だから短期的な上がり下がりはあるかもしれないが、米の値段がもとに戻ることはないだろう。

インフレとは、市中に出回るお金が増えて、お金の価値が下がることである。お金の価値が下がるから、物を買うのにたくさんお金を払わなければならなくなる。

お金の価値が下がるということは、貯金しているお金の価値も下がるということだ。だから、貯めこむより使ってしまったほうがいいということになる。借金は自動的に減るから、もっと借金して物を買おうとする。すると、ますます市中にお金が流れて、インフレが加速する。みんながお金を使うわけだから景気もよくなる。

日本は景気の悪い時代が長かったから、みんなこの感覚を忘れているが、終戦からバブル崩壊まではずっとこんな感じだったのだ。かつて、ごく普通のサラリーマンが一人で働いて、家族を養い、その上家まで買うことができたのもインフレだったからである。

果たしてそううまくいくかどうかは分からない。賃金の上昇が物価上昇に追いつくかどうかが鍵になるだろうが、労働者がまともに「ゼニよこせ」と言わないのに、そう簡単に賃金が上がるとも思えない。実質賃金が下がりまくって、いよいよ生活できないとなったら「ゼニよこせ」と言い始めるかもしれない。いずれにしても、インフレの現状が好景気の予兆であることは間違いないと思っている。

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2月の総括で壁紙道(クロス張り)に入門したという話を書いたが、今月実行に移した。本当はこれだけで記事にするつもりだったが、初心者向きといわれる無地の壁紙(サンゲツSP9719)を張ったので、写真がちっとも面白くない。

だが、作業は面白かった。クロス張りの面白いところは、使っている道具のほとんどが、子供のころから使っているものだということだ。

壁紙はその名の通り紙だし、糊はヤマトのりと同じデンプンのりが主成分。あとはごく普通のカッターとか、ごく普通のハサミとか、定規とか、小学生のころから使い慣れたものばかりである。撫で刷毛、地ベラ、ローラーなどはちょっと特殊だが、一見して何に使うか分からないというほどのものではない。

基本的な作業も、紙に糊をつけてる、まっすぐ貼る、定規をあてて余分な部分をカッターで切ると、相手にするものがでかいだけで、やっていることは小学生の工作と同じである。しかも、僕は書道でこの作業を今もやっているからなれているつもりだった。

だが、これが難しい。何しろ相手がでかい上に糊で濡れていて破れやすくて切りにくい。カッターの力加減は弱すぎるときれいに切れないし、強すぎると余計なところまで切ってしまう。

窓やらコンセントやらいろいろ障害物があるので頭を使う。脚立を降りたり登ったり、下の方は這いつくばったりと体力も使う。やる前はきれいに貼るのが難しいかと思っていたが、あにはからんや、貼ること自体はさほどでもなく、切るのがとにかく難しかった。

結果は、いろいろと失敗もあったが、シロート目でなおかつ遠目で見る分にはよく分からない程度には仕上がった。まあ、最初だからこんなもんだろう。次はもっときれいにできる自信がある。
壁紙
それにしても物は使いようとはよくいったものである。子供のころから使っているカッターや定規にこんな可能性があるとは思わなかった。
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やたナビTEXTが30作品になったのを記念して、「やたナビTEXTとは何か」みたいなことを書こうとしていたら、匿名でこんなメールが来ました。
翻刻について調べてみたところ、自動で翻刻してくれるNDL古典籍OCR-Liteが無料で公開されていました。
古文の現代語訳も生成AIチャット(LLM)を使っての現代語訳が試みられているようです。
(漢文の翻訳は百度翻訳、Bing翻訳、Polytranslatorが対応しているみたいです)
現時点における翻刻や現代語訳の精度はわかりませんが、いつの日か日本古典が無料で気軽に読める日が来るのでしょうか?
ブログのネタにしてもいいということなので、ここで私見を述べたいと思います。

「日本古典が無料で気軽に読める」には、いくつかのレイヤーがあると思います。
  1. 写本や版本を現代使われている文字に起こした〈翻刻〉が読める。
  2. 翻刻を読みやすくした〈校訂本文〉が読める。
  3. 〈注釈付き校訂本文〉が読める。
  4. 〈現代語訳〉が読める。
これまでは、すべて人間が行わなければなりませんでした。しかし、今はAIがあります。古典の原文そのものに著作権はありませんので、AIの活躍が期待できるかもしれません。では、どのレイヤーでAIの活躍が見込めるでしょうか。

ここからはまったくの私見になります。私はAIの専門家ではないので、間違っているかもしれません。古典の電子テキストを作っている立場からこう見えているという程度に読んでいただければ幸いです。

1.翻刻
いただいたメールでも書かれているように、AIでいわゆる〈くずし字〉を翻刻するものがいくつか出ています。スマホアプリもいくつかあるようです。

しかし、現在のところはまだ発展途上です。江戸期の版本などはかなり正確に読んでもらえるようですが、写本や碑文などの手書きのものになると途端に精度が落ちるようです。なぜでしょうか。

私はこれらのソフトウェアが既存の文字をもとに〈文字〉そのものを読もうとしているからだと考えています。写本や版本で使われる変体仮名や漢字の草書は紛らわしい字が多いだけでなく、全く同じ字形になってしまうものもあります。これに書き手のクセが入ります。これらは文脈を考慮しないと読めません。

あくまで肌感覚ですが、文脈無視で読めるのは多く見積もっても全体の95%ぐらいです。95%というと高いように思えますが、100文字で5文字読み間違えるということですから、これでは実用になりません。

もしAIが作品の文脈を解析して文字を読むようになれば、この割合がかなり高くなると思います。これは解釈しながら読むということですから、これができれば次の校訂本文も作れると思います。

2.校訂本文
校訂という言葉の本来の意味は本文の間違いを正すことですが、読みやすい本文にするにはそれ以上にやっかいな問題があります。

写本や版本には特殊な場合を除き、句読点や鉤括弧などの役物、濁音・半濁音の記号がありません。段落も存在しません。さらに仮名を漢字になおす必要もあります。書かれた時代によって、仮名遣いを正確な歴史的仮名遣いに直す必要もあります。

次の文章は嵯峨本『伊勢物語』の冒頭を翻刻したものです。
むかしおとこうゐかうふりしてならの京かすかの里にしるよししてかりにいにけりそのさとにいとなまめいたる女はらからすみけりこのおとこかいまみてけりおもほえすふるさとにいとはしたなくてありけれは心地まとひにけり
嵯峨本は古活字本なので、文脈無視のAIでもかなりこれに近い翻刻ができると思います。しかし、AIがこれを出力しても、初見ですらすら読める人はなかなかいないと思います。写本や版本を読み慣れている人であれば、原本をそのまま読んだほうがまだ読みやすいでしょう。これでは「古典を気軽に読める」とはいえません。

これを校訂すると次のようになります。
昔、男、初冠して、平城の京春日の里にしるよしして、狩りに往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男、かいま見てけり。おもほえず、古里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。
古文の教科書や注釈書の本文は、このようにして作られています。では、この作業をAIはできるでしょうか。

AIは人工知能ですから、人間にできることは当然できるはずです。しかし、人工知能である以上は人間と同じように学習する必要があります。

AIが現代の日本語を学習するために必要な「教材」は、ネット上に無数のリソースがありますし、どんどん増え続けていくでしょう。しかし、古典文学のテキストはそう多くありません。

つまり、AIが古典の校訂本文を作れるようになるために、もっともっと人間が電子テキストを作る必要があるということになります。仮名遣い・文法・語彙も時代やジャンルによって変化しますから、思っている以上にたくさんの教材が必要になります。AIが古典を読めるようになるために、人間がひたすらテキストを作る、これは大変な矛盾です。

3.注釈付き校訂本文
注釈とは言葉の意味や読解に必要な背景などを記したもので、どの言葉に付けるか、どう付けるかが問題になってくる極めて創造的なものですから、人間にしかできません。辞書的な言葉の意味くらいはできるようになるかもしれませんが、せいぜい辞書を引かなくてよくなる程度のことでしょう。

4.現代語訳
校訂本文の作成は、文章を一定の型におさめる役割があります。そのような型に収まった文章は、文法を理解し辞書が引ければ、ある程度訳すことはできます。古文の授業で文法をやたらとやるのも、そういう狙いがあります。

古語辞典や国語辞典はネット上にいくつも公開されています。断片的ですが現代語訳もあります。AIによる外国語の自動翻訳があたりまえになっていますから、校訂本文さえあればできると思います。

現代語訳というのは、上の1〜3の集大成で、さらに日本語のセンスが要求されますから、実はもっとも難しいことです。どんなに正確に訳したとしても、現代語訳する人によって、作品から受ける印象は変わってしまいます。

ですから、仮にAIが現代語訳できたとしても、「その作品を深く読みたい」というニーズには答えられないでしょう。しかし、「とりあえず内容が把握できればいい」というニーズには答えられるものができるのではないでしょうか。

以上のように、私はAIの教科書となる翻刻と校訂本文のテキストが増えないかぎり、「日本古典が無料で気軽に読める日」は来ないと考えています。現在のところは、そんな日を待つより人間の手でどんどん古典のテキストを作る方がよほど建設的です。

以上はあくまで私のポジション・トークです。コンピューターの進歩とともに、もっと度肝を抜くような変化があるかもしれません。もし私が作ったテキストがその役に立ったら望外の喜びです。そんな日が来るのを楽しみにしています。
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ついこの間2月になったと思ったらもう終わり。毎年のことだが、2月、ちょっと短すぎやしないか。

最近、「壁紙道」に入門した。いわゆるクロス屋さんの真似事のことを僕が勝手にそう呼んでいるだけである。ようは部屋の壁紙を張ることだ。

と言っても、まだ壁紙と糊、その他材料、工具を買っただけである。張る部屋の古い壁紙はすべて剥がしたが、まだそれだけだから、入門したというよりは門を叩いた段階である。

幸いなことに、今はたくさんのプロのクロス屋さんたちがYouTubeで技術を見せてくれている。今はそれらを見てひたすらイメージトレーニングしている。

最初からプロがやっているようにきれいにできることはないだろうが、やっていることは書道の表具とよく似ている。使う道具もカッターとかハケとかよく似ている。表具は簡易的なのしかやったことがないが、それでも多少のアドバンテージがあるだろうと思っている。

電気工事士の資格を取って「電気道」に入門したときもそうだったが、「壁紙道」もちょっと入門してみただけで、いろいろ世の中の見え方が変わってくる。今までは壁紙なんか気にしたこともなかったが、どこで繋いでいるかとか、どんな壁紙を使っているかとか、見えにくいところをどう処理しているかとかが気になってくる。世の中の見え方が変わってくるのは楽しいことだ。

壁紙は寒すぎると固くなって貼りにくくなるらしい。糊も5℃以下では施工するなと書いてある。3月は仕事が減るし、だんだん暖かくなる。来月は頃合いを見計らって壁紙道デビューしようと思う。
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『伊曾保物語(いそほものがたり)』の電子テキスト化を始めた。



『伊曾保物語』は江戸時代初期に成立した仮名草子で、いわゆる『イソップ物語』の翻訳である。同時に本邦最初のヨーロッパ文学の翻訳でもある。底本は国会図書館蔵の慶長元和頃と考えられている無刊記古活字本。

伊曾保物語のテキストは、すでにいくつかネット上にある。

「イソップ」の世界 別館

伊曾保物語:ウィキソース

特に、『「イソップ」の世界 別館』は古活字本と万治二年刊本の翻刻と、『エソポのハブラス』(通称『天草版伊曾保物語』)のテキストがあり、充実した資料になっている。ちなみに『伊曾保物語』と『エソポのハブラス』は同じイソップ物語がもとではあるが、親子・兄弟関係にはない。

そんなわけだから、今さら僕がやることもないかとも思ったが、どちらも資料としては素晴らしいものの、いかんせん読みにくいし検索の便もよくない。読みやすくすれば、あらためて本文を作成する意味もあるんじゃないだろうか。

とはいえ、ただ本文を載せるだけでは面白くない。底本は古活字本だが、万治二年刊本には挿絵がある。古代ギリシヤなのに、イソップはボーサン風に、その他の人々は江戸時代風チョンマゲ野郎になっている。しかしこのチョンマゲ野郎、ヒゲが跳ね上がっていたりしてどこかヘンだ。たぶんあのヒゲが古代ギリシヤなのだろう。もちろん、『イソップ物語』だから動物もたくさん出てくる。

そんなわけで、伊勢物語のときにもやったように、万治二年刊本の挿絵も載せようと思う。

乞うご期待。
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というわけで(『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキストを公開しました:2025年02月12日参照)『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキスト化を終えたわけだが、はるか昔に買った『諸本対照三宝絵集成』(小泉弘 高橋信幸・笠間書院・昭和55年6月)がとても役に立った。

この本、20代のころに神保町の古書店で買った。値段は5000円。もちろん値段なんか忘れていたが、鉛筆で本にそう書いてあるから間違いない。

30年も前なので細かいところは記憶が曖昧だが、買った時のことはよく覚えている。古書店の本棚からこの本を見つけ、値段を見てびっくりした。高いのではない、安いのだ。

当時、『諸本対照三宝絵集成』は数万円が相場だった。専門は説話だからほしいことはほしいが、『三宝絵』は現代思潮社の注釈書をすでに持っていたから、ないと困るというようなものでもなかった。しかし、数万円が5000円なら話は別だ。金に困ったら売っちまえばいい。そのころは本さえ買えば賢くなると思っていたから迷わず買った。

買った後、中身を読むことはほとんどなかった。「諸本対照」だから中身は諸本を対照しているに決まっている。こういう本は必要になったら開けるもので読むものではない。それ以来30年余り、この本は僕の書架で眠り続けていた。

今回、『三宝絵』の電子テキストを作るにあたって必要になったので、『諸本対照三宝絵集成』を引っ張り出してきて、ようやくこの本の偉大さに気づいた。これはとんでもない労作である。

諸本対照の「諸本」とは、前田家本・東寺観智院本・東大寺切(関戸本)の三つを指す。これが『三宝絵』の主要な伝本なのだが、それぞれ全く違う特徴を持っている。

前田家本は全巻揃っているが、漢字のみで書かれている。まともな漢文ではないから、それだけで読むのは困難…というよりほぼ不可能だ。あくまで他の本と対照して読める本で、底本にはならない。

東寺観智院本は漢字片仮名交じりで書かれていて読みやすく全巻揃っているが、前田家本や東大寺切と比べると誤脱が散見される。とはいえ、まともに読めて全巻揃っているのはこれだけだから、底本にするにはこれしかない。今まで活字になった本も、やたナビTEXTも底本はこれ。

問題は東大寺切である。これは雲母摺りの美しい料紙に、これまた美しい仮名で書かれている。尊子内親王に献上された本もかくやと思われる美麗なもので、本文もよさげだ。
東大寺切
東大寺切(東京国立博物館蔵):ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

しかし、いかんせん東大寺切は古筆切(こひつぎれ)である。古筆切とは冊子や巻物などの形をしていたものを、観賞用にぶった切ったもののことをいう。切り出された元の関戸本(名古屋市博物館蔵)というのも残っているが、三分の一ぐらいしかない。それ以外はその美しさゆえにバラバラに切られてしまったのだ。

切られた無数の古筆切は、あるものは博物館や美術館、あるものはコレクターの家、あるものは古書店、あるものはオークションと様々な場所にあり、目録や図録、書道の手本など様々な形で世に現れる。それも単独で軸にでもなっていればまだいいが、手鑑(てかがみ・様々な古筆切を集めて冊子にしたアルバム)に貼られていると、古書店やオークションに出ても、開けてみないことには分からない。

『諸本対照三宝絵集成』の東大寺切はそれらを博捜し集めて翻刻したものである。それでも全文にはほど遠いが、とんでもない労力がかかっている。買ったときはなんでこんなに高いのか分からなかったが、なるほどこれはそれだけの価値がある。

探してもいない数万円の本を5000円で買ったのは偶然である。もし、もともと数千円の本だったら、買っていたとしても買った事を忘れていたかもしれない。30年以上前に買った本が、今になって役に立ち、その価値が分かったのも偶然である。こういう偶然の積み重ねが、本を買う醍醐味かもしれない。
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東寺観智院本『三宝絵(三宝絵詞)』の電子テキストを公開しました。


東寺観智院本『三宝絵詞』:やたナビTEXT

底本は東寺観智院本(東京国立博物館・国宝)です。いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

『三宝絵』は平安時代中期に成立した仏教説話集です。作者は文人貴族として知られる源為憲。仏宝・法宝・僧宝の三巻からなり、それぞれの内容は次のようになっています。

上巻 仏宝…釈迦の本生譚。
中巻 法宝…日本への仏教の伝来と高僧の略伝。
下巻 僧宝…年間の法会の次第や由来。

僕は説話集の多くは教科書として書かれたんじゃないかと思っているのですが、『三宝絵』はまさしく仏教の初心者向け教科書として書かれました。ですから、仏教説話に詳しい人にとってはあまり新味はありません。特に中巻はほとんど『日本霊異記』の焼き直しの上、霊異記独特のオドロオドロしい説話は一つも入っていないので、なんだか気が抜けた炭酸飲料みたいな感じがします。

しかし、ちょっと読み方を変えると、とたんに味わい深い作品になります。それは、読者を想定することです。実は『三宝絵』はたった一人の読者のために書かれた作品なのです。

たった一人の読者とは、冷泉天皇第二皇女尊子内親王です。何しろ皇女ですから究極のお姫様です。しかし、幸せな生涯を送ったとはいえません。
尊子内親王は『栄花物語』によれば「いみじう美しげに光るやう」な姫宮であったといい、摂関家嫡流を外戚に何不自由ない将来を約束されていたが、外祖父・藤原伊尹や母・懐子、そして叔父たちまでも次々と早世したために有力な後見を失ってしまう。また円融天皇の妃となった際も、入内直後に大火があったため世間から「火の宮」(内親王の皇妃を「妃の宮」と呼ぶのに掛けたあだ名)と呼ばれるなど、高貴な生まれにもかかわらず不運の連続だった。それでも円融天皇は尊子内親王を可愛らしく思い寵愛したというが、唯一の頼りであった叔父・光昭の死を期に、内親王は自ら髪を切り落として世を捨ててしまう。(尊子内親王:Wikipedia
『大鏡』伊尹伝
また花山院の御いもうとの女一の宮は亡せたまひにき。女二の宮は、冷泉院の御時の斎宮に立たせたまひて、円融院の御時の女御に参りたまへりし、ほどもなく、内裏の焼けにしかば『火の宮』と世の人付け奉りき。さて、二三度参りたまひて後、ほどもなく亡せたまひにき。この宮にご覧ぜさせむとて『三宝絵』は作れるなり。
『栄花物語』花山尋ぬる中納言
堀河の大臣(兼通)おはせし時、今の東宮(師貞)の御妹の女二の宮(尊子)参らせ給へりしかば、いみじううつくしうとてもて興じ給ひしを、参らせ給ひて程もなく、内など焼けにしかば、火の宮と世の人申し思ひたりし程に、いとはかなううせ給ひにしになん。
尊子内親王は天元5年(982年)に出家した後、永観3年(985年)に二十歳の若さで亡くなっています。『三宝絵』は序によると永観2年11月に書かれています。尊子内親王が亡くなったのはその半年後です。為憲が書き終えたとき、すでにかなり弱っていたのでしょう。

『三宝絵』はタイトル通りもともと絵があったものが、現在は伝わっていないといわれています。しかし、私は最初からなかったんじゃないかと思っています。絵の場所は「有絵」と書かれていますが、上巻の最初のほうにしかありません。本当は絢爛豪華な本にするつもりが、尊子内親王の具合がだんだん悪くなり、急いで奉るために絵の場所の指定だけして入れなかったか、そこだけ入れて奉ったのだと思います。

為憲はでこのように書いています。
我が宮、深窓に養はれて未だ外(ほか)の事を知らず。他家の遠き事を心中に思ひ遣りて、我が国の近き事をば眼の前に知見し、公私の仏事、和漢の法会、種々これを写して、各々これを書く。戸を出でずして天下の貴き事を知るにこの巻にしかず。
「深窓に養はれて未だ外の事を知らず」という書き方がいかにも尊子内親王の身分の高さを表しているようですが、いかに皇族とはいえ、「深窓に養はれて」とか「戸を出でずして天下の貴き事を知る」というのはどうにも不自然に感じます。幼いころから体が弱かったのではないでしょうか。

その深窓のお姫様に捧げたのがこの作品です。姫様が直接登場するのはこの賛だけですが、説話のチョイスや書きぶりに、為憲の姫様に向けた愛情が伝わってきます。『日本霊異記』を源泉とする説話にしても、マイルドな話しか入っていないのもその現れでしょう。

為憲はこの薄幸のお姫様にそうとうな思い入れがあったのだと思います。それを感じながら読むのが、この作品の味わい方です。
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年始の挨拶の次が総括という、なんとも締まらないことになってしまったが、今月も終わりである。

今月は中国の生成AI、DeepSeekで関連株がAI大暴落したり、三郷市の道路に大穴があいたり、いろいろあったが、なんといっても中居正広氏とフジテレビの件が世間を沸かした。

先日、実家に帰った時、母がこの件は何がなんだかさっぱり分からないという。母はネットや週刊誌のニュースなどは見ない。テレビだけ見ていると、「中居正広の女性トラブル」としか出てこないらしい。中居氏は独身だし相手も独身だから、何らかのトラブルがあったとしても、なんでこんなに大騒ぎしているか分からないのだという。

相手方の女性がフジテレビのアナウンサーで、この〈トラブル〉により退職したこと、そのトラブルにフジテレビ社員が強く関わっていた可能性が高いこと、フジテレビの最初の会見(二回目もだけど)があまりにもオソマツだったことを話したら納得していたが、いずれもテレビを見ているだけでは分からなかったそうだ。

ここでいう、テレビはフジテレビだけではない。どのテレビのニュースを見ても、それだけでは概要が理解ができないほど、各局がまともな報道をしていないということである。

もう一つ、テレビ業界がここまで時代遅れになってしまったことにも驚いた。僕は職業柄、時代遅れがときに命取りになることを知っているし、時代に遅れてしまったために現場から退場させられた人を何人も知っている。

体罰を例にすると、僕が高校生のころ教師は生徒をボコボコ殴っていた。卒業して三年経って教育実習に言ったら、同じ先生が「君たちのころとは時代が違うんだから、絶対に手を出さないように」という。どの口が言うのかと思っていたが、今となってはありがたい言葉だ。これでこの件については時代遅れにならなくてすんだ。

それから30年以上経った。体罰はほぼなくなったが、あくまでほぼである。今でも時々体罰で退場させられる人の話は聞く。その人は時代遅れになってしまったゆえに命取りになったのだ。時代遅れとは恐ろしいものである。

僕はテレビ業界というのは時代遅れとは正反対の、トレンドの最先端にあるものだと思っていた。ダメ会見をした港(前)社長は、僕たちが若い頃のトレンドセッターだった。聞くところによると、80年代に港氏の手によって大ヒットした番組の焼き直しを令和の今やっているという。ノーミソが80年代からまったく更新されていない。時代遅れに気づいていなかったのである。流行の最先端であるべきテレビ局の上層部がこういう人たちで構成されているのは驚愕するしかないし、これではテレビがつまらないのも道理である。

時代遅れそのものは別に悪いことではない。年をとれば仕方がないことでもある。しかし、責任ある立場にあれば、時代遅れは命取りになることもある。ノーミソをアップデートするか、それができなければ隠居するべきだろう。いずれにしても、自分が時代遅れになっていないかは常に自問する必要があると思った。
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あけましておめでとうございます!

やたナビTEXTは現在作成中の東寺観智院本三宝絵詞が完了すれば、ついに30作品になります。

まだまだ続けていく所存ですので、今年もよろしくお願いします。
年賀状foryatanavi
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12月の総括も新居ネタになってしまった。もう今年はこれで押すことにする。

僕は家にこだわりがない。住み心地がいいにこしたことはないが、とりあえず雨風がしのげればいいぐらいにしか思っていなかった。だから、家だの不動産だのにはあまり興味が持てなかった。

しかし、去年の電気工事士の資格取得(2023年10月の総括参照。)からはじまって、地鎮祭(2023年11月の総括参照。)、そして今年の引っ越し、そしてやっと慣れてきたころに新しいマンションの大規模修繕(聞いてないよ)と、家のことを考えさせられることが多かった。

ちなみに、地鎮祭をした家は今年の5月に無事完成した。関わった手前、この途中経過から完成まで何度か見せてもらったが、おかげで資金の調達の仕方やら、役所との交渉やら、内見のポイントやら、いろいろ勉強になり、自分の引っ越しにも参考になった。

感想を一言でいうなら家を建てるのは想像していた以上に大変だ。できることならやめておいたほうがいいと思うが、住むところがなければホームレスなのでそうも言っていられない。

さて、今年引っ越したマンションは、前のマンションのすぐ近くである。なお、年賀状を旧住所で出した方は心配しないでほしい。今のマンションに転送してある。万一、間違って前のマンションに届いても、まだ郵便受けが僕の名前になっていて、定期的に見に行っている。次の人が入るまで、防犯のために名前を貸してほしいと言われたのだ。

引っ越しの理由は、前のマンションの設備があまりに古かったから。なにしろ築40年以上経っていて、入居したときからすでに古臭かった。それから16年、築年数は45年になった。もう骨董品みたいなものだ。

隙間風がひどくて冬寒い。風呂も寒くてお湯がすぐぬるくなる上に、当然のごとく追い焚き機能なし。トイレは電源がないので温水便座が付けられない。建物自体もいわゆる旧耐震基準。地震どころか強風でも揺れる。誰でもマンション内に入ってこられるので、セキュリティの不安もあった。

こう書くと悪いことづくめみたいだが、家賃がこの地域にしては安く、9階で周りに高い建物がないので眺望・風通しは抜群、南向きの角部屋で日当たり最高。夏は30分もあれば洗濯物が乾く。これで築年数が10年浅ければ、家賃は月あたり5万円以上は高かっただろう。

そんなわけだから、今の家はおおむね満足はしているものの、前の家と比べていろいろ不満がある。もちろん、眺望だの日当たりだのはある程度は覚悟していたが、11月・12月の総括で書いた結露問題はまったく想定していなかった。おまけに大規模修繕である。11月末までの数カ月間、足場と幕で覆われ、うっとおしい日が続いた。

大規模修繕といえば、建築費が高騰しているらしい。今度引っ越した家も賃貸なので、今回の修繕にいくらかかったかは知らないが、修繕積立金をオーバーしているところも多いと聞く。近所のTOCもテナントがすべて退去したあと、まさかの建て替え中止となった(TOC奇談:2024年07月04日参照)。中野サンプラザ・ほくとぴあなどの公共施設も延期・計画の見直しになっている。

建築費の高騰は人件費の高騰が原因だという。端的にいえば職人が足りないということだ。なにしろ日本は少子化だ。外国人に頼るしか無いが、この円安(執筆時1ドル=156.89円)では魅力が少ない。さらに待遇も悪いとなれば、結果は推して知るべしである。

うだうだつまらないことを書いてしまったが、今年の家問題はそれだけ僕にとってインパクトがあった。

今年もあと一時間あまり。良いお年を。
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