今年の1月に、公開休止になっていた国文学研究資料館の大系本文データベース(大系本文データベース休止:2016年01月30日参照)だが、再稼働するようだ。

ただし、公開ではないので、アクセスしてもムダ。

本データベースは、岩波書店や校訂者のご了解のもとに 学術研究利用を条件として公開しているため、 アクセス可能な範囲を以下の機関としています。
・大学・短大以上の高等教育機関(国内外)
・公的研究機関
・図書館、美術館、博物館、文書館
・学術文化事業に関係する公的機関
日本古典文学大系本文データベース:国文学研究資料館)

いろいろ思うところはあるけど、こちらからは以上です。
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中国が日本以上の格差社会であることは、今や誰でも知っている。しかし、「〈格差上〉と〈格差下〉の収入が何倍違う」とか言っても、格差を理解したことにはならない。

中国に限らず、ほとんどの発展途上国も同様だが、格差の上と下は、同じ時空に生きていても、住む世界が違う。衣食住すべてに渡って、〈格差上〉と〈格差下〉は違うのである。だから、格差の上下で収入に大きな差があると、〈格差下〉は恐ろしく困窮しているだろうと思うのは、間違っている。

さて、これが僕が先日の北京旅行で食べた朝食。〈格差下〉の朝食である。
豆腐脳

手前の豆腐脳二杯と、肉まんで7元。現在のレートで111円程度。一人前にすると56円程度。これは〈格差下〉でもちょっとゴージャスな朝食だ。普段の朝飯なら、豆腐脳(1人前2元)だけか、プラス油条一本(1元)で十分だ。

こんなものを食べていると、〈格差上〉の中国人から、「あんなヤバい物は食べてはいけない」とか言われてしまう。〈格差上〉の人は食べないのである。僕はいままで〈格差上〉の人が言う「あんなヤバい物」を数えきれないほど食べてきたが、特に具合が悪くなったためしはない。味もたいがい〈格差上〉の食い物よりも美味い。

中国は外食する人が多いので、食中毒になるようなものを出していたら、すぐにバレて商売にならなくなる。だから、食中毒にはあまり心配していない。とはいえ、〈格差下〉の食堂は、どう見ても衛生的には見えないので、なるべく客が多いところへ入るようにしている。

さて、こちらは瑠璃廠にある栄宝斎カフェのカフェラテ。言うまでもなく〈格差上〉用。味は、日本のドトールやスタバとたいして変わらない。
栄宝斎カフェのカフェラテ

なんと一杯45元である。現在のレートで714円。ここが特別に高いわけではなく、スタバも含めてコーヒーはこんなものだ。これを涼しい顔をして飲むのが〈格差上〉である。

カフェラテを飲んでも、さっぱり腹はふくれないが、45元あれば先ほどの饅頭が15皿食べられる。豆腐脳なら22杯。だから〈格差下〉はこんなものは飲まない。水でも飲んでろという話だ。

本当は同じ朝食で比較したかったのだが、〈格差上〉の朝食を食っていないのでできなかった。調べてみると、マクドナルドの朝マックは、日本とほぼ同じメニューで25元(396円)程度なので、これが〈格差中〉ぐらいの朝食と考えてよいだろう。7倍の差があるが、先ほどの豆腐脳と肉まんセットの方がずっと美味いし腹にたまる。

住む世界が違うといっても、同じ空間に住んでいるから、お金は巡る。〈格差上〉から滴った一滴が、〈格差下〉からすると、バケツ一杯に感じられるということになる。これをトリクルダウンという。もうなんだか懐かしい言葉になってしまったが、日本ももっと格差が開けば、トリクるかもしれない。
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『今昔物語集』巻2はいわゆる天竺部で、どうにもワンパターンで面白くないものが多い。大概、現世で何か事件が起こり、釈迦が「それは、前世でこういうことがあったからだ」という謎解き(と言っていいのかわからないが)するという流れである。

しかし、微妙比丘尼語 第(卅一)はちょっと変わっていて、前世も比丘尼本人から語られる。仏(釈迦)は出てこない。以下はすべて微妙比丘尼の語りである。

微妙比丘尼の前世は、ある長者の妻だった。二人の間には、子供がなかったので、長者は別の妻を娶り(一夫多妻制である)、その妻との間に男の子ができた。それを妬んだ第一夫人、男の子の頭に針を刺して殺してしまう。

新しい妻は、第一夫人が殺したことを疑うが、第一夫人は「私は殺していない。もし殺していたら、生まれ変わった先で、夫があれば毒蛇に噛まれて殺され、子供があれば、水死したり狼に食われたりするだろう・・・」と仏神に誓う。その後、第一夫人は死んでしまった。

第一夫人は、死後、地獄に堕ち、その罪が終わった時(地獄にも刑期があるらしい)、再び人間に生まれ変わった。これが微妙比丘尼なのだが、これが例の誓いのために、壮絶な人生を歩むことになる。

婆羅門の子として年頃になった微妙は、結婚し、一子をもうけた。その後、二人目の子供を懐妊した。妊娠中に夫とともに両親の家に行くが、その途中で産気づき出産したため、家にたどり着かず、仕方なく樹の下で野宿する。ところが、寝ている間に夫が毒蛇(コブラ?)に噛まれ死んでしまう。それを見た微妙、悶絶して失神する。

しかたなく、長男を肩にかけ、次男を抱いて、実家へ行く微妙。途中、二人を連れては渡れないほどの大きな川がある。そこで、長男を一旦岸辺に下し、次男を抱いて向こう岸に渡った。渡った先に次男を置いて、長男を迎えに行くと、お母さんが来たのがよほど嬉しかったのか、こちらに来ようとする。長男は、ついに水に入り、流されてしまった。

泣く泣く長男を諦め、次男を置いた岸へ戻ると、次男の姿が見えない。あるのは血だまり。そして、腹の膨れた狼一匹。微妙、再度失神。

夫と子供二人をいっぺんに失い、微妙は一人で実家へ向かう。父と親しい婆羅門に出会い、両親が元気か聞く。すると、実家は火事で焼失し、両親も使用人らも、皆焼け死んでしまったという。微妙、また失神。

しばらく、この僧のもとで暮らすが、微妙は別の男と再婚した。ところが、これがとんでもないDV夫、というかもう単なるキ○ガイだった。

夕暮れ時、酒に酔った夫が帰ると、家の門が閉まっている。門を叩いても、妻は出てこない。微妙は家の中で産気づいていたため、門を開けられなかったのである。子供が生まれると同時に、怒り狂ったDV夫、門をブチ破壊して乱入、微妙を殴りつける。理由を言っても、DV夫は聞く耳を持たない。果ては、生まれたばかりの子供を殺し、蘇(チーズ?)といっしょに煮て、妻に無理矢理食わせた。「こんなキ○ガイとは一緒にいられない」と思った微妙は、あてもなく逃げ出した。

波羅奈国に行き着いて、樹の下で休んでいると、長者の子が来た。この長者の子は、たまたま妻を失ったところで、事情を聞くと、微妙を妻にするという。

ところが、結婚してわずか数日後、長者の子はあっさり死んでしまう。波羅奈国には、夫が先に死んだら、妻を生きたまま埋めるという習慣があったため、盗賊団が微妙を埋めるためにやって来た。しかし、盗賊の頭目は、微妙があまりに美しかったので、埋めたとウソをついて、自分の妻にしてしまった。

この盗賊の頭目も、結婚してわずか数日後、盗みに入った家で殺されてしまう。例の習慣により、微妙はついに生き埋めにされた。

しかし、それから三日後、たまたま狐やら狼やらが墓を掘り起こしたおかげで命拾い。前世の因縁を感じ、出家して釈迦に弟子入りする。そして遂に微妙は羅漢果(阿羅漢果・修行者の最高位)を得た。しかし、いまだに前世で子供を殺したのと同じ部位が痛むという。
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現在、『撰集抄』の電子テキストを作っている。9巻中、巻4までが終わった。

松平文庫本『撰集抄』:やたナビTEXT

『撰集抄』は西行作に仮託された仏教説話集で、説話そのものよりも作者(なりきり西行)の感想(「説話評論」という)が多い。説話の内容は、「どこそこに、こんな遁世者がいた(もしくは、出会った)」というものが多く、説話評論は「有難い話だ。感動した。自分もああなりたいけど、難しいね〜」とぼやく感じのものが多い。

『撰集抄』の前に電子テキストを作ったのが『十訓抄』(宮内庁書陵部本『十訓抄』:やたナビTEXT)だったので、どうしても比べてしまうのだが、ウンチクおやじのひけらかしみたいな『十訓抄』に対して、『撰集抄』はオッサンのボヤキを聞いているようだ。やたらと泣くし(「泣or涙」の検索結果)、「思え侍る」みたいな表現が多いし(「思え侍」の検索結果)、グズグズしていて「しっかりしろよ!」と言いたくなる。そもそも、本来の西行ってこんなキャラクターじゃないような気がする。

現実にいたら、どちらも鬱陶しいのだが、『撰集抄』作者のような、グダグダぼやくオッサンの方が、格段に鬱陶しい。どちらかとサシで飲まなければならないとすれば、僕は迷わず『十訓抄』作者の方を選ぶだろう。

隠者文学とはオッサン文学であり、それは〈ウンチクおやじ系〉と〈ボヤキおやじ系〉に分けられる。隠者文学といえば、鴨長明と兼好法師に代表されるが、長明は典型的な〈ボヤキおやじ系〉で、兼好は〈ウンチクおやじ系〉である。どちらかとサシで飲まなければならないとすれば、僕は迷わず兼好法師を選ぶ。

しかし、〈ウンチクおやじ〉と〈ボヤキおやじ〉は相反するものではなく、同じ人の中に両方住んでいる。長明だって、ウンチク垂れてドヤ顔になるし、兼好だってぼやく。ただ、どちらが大きいか、ということである。

〈ウンチクおやじ〉はウンチクの中にぼやきがあり、〈ボヤキおやじ〉は、ぼやきの中にウンチクがある。『十訓抄』は説話評論よりも説話そのものの方が多い。その沢山の説話から、一言二言ぼやく。これは〈ウンチクおやじ〉の特徴だ。逆に、『撰集抄』は一つの説話に対して説話評論の方が長い。たった一つの出来事から、延々ぼやく。〈ボヤキおやじ〉である。共通しているのは、どちらもオッサンであることだ。

僕は・・・ウンチクおやじかな。たぶん。
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5月は、我らが上司、舛添都知事のどうにもショボい税金のムダ使い問題(舛添知事に学ぶ公金の扱い方:05月21日)だの、伊勢志摩サミットでの安倍首相リーマンショック前夜発言(株価指数で見るリーマンショック前夜:5月29日)だの、なんかもう、いわく言いがたい、政治的なニュースが多かった。

「いわく言いがたい」というのは、なんともモヤモヤするということである。

僕は舛添都知事の支持者ではないので、どうなろうが構わないが、辞めたからといって、よりマシな人になりそうな気がしない。

そもそも、役に立たない銀行作ったり、無人島だのを買おうとした、もっと酷い元知事はいるはずで、そっちはどうなった?テレビを見たら、金で失脚した前知事が、偉そうにテレビで語っていたが、これはどういうわけだ。

安倍首相にリーマンショック前夜に似ていると言われると、世界中から「なわけねーだろ!」という声が聞こえてくるが、消費税増税はやめた方がいいと思っている。素直にアベノミクスが失敗したから増税できないといえば納得できるのだが。まあ、ご本尊にはムリだろうが、それを指摘すべき人たち(つまりマスコミ)がまったく機能していない。

そういえば、パナマ文書の公開も今月だった。僕は外国株取引をして長いので、ケイマン諸島登記の企業なんか珍しくもなんともない。生まれて初めて買った株が、ケイマン登記の企業だった。むしろ、なぜ日本企業はケイマンに本社を移さないのかとさえ思っていた。

法人が税金逃れをしていたとしても、いずれは雇用者なり株主なりに還元される。法人よりも、法人を装った自然人の方がずっと問題のはずだが、こちらは何故か全然出てこない。

ひどくモヤモヤすることばかりである。
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G7で安倍首相が、現在の状況はリーマンショック前夜に似ていると言ったのには驚いた。僕にはそんな感覚がまるでなかったからである。僕もリーマン・ショックでは痛い目にあったので、二度と同じ目にはあいたくない。ここは人に頼らず、個人的に検証しなければならないだろう。

というわけで、まずはリーマンブラザース破綻(2008年9月15日)ごろまでの一年間のチャートを見てみよう。

日経平均から。
nikkei2251year2008

続いて、ニューヨーク・ダウ。
dow1year2008

日米ともに、よく似たチャートを描いている。このあと、リーマンショックでさらにドカンと下がるが、前夜の段階で、すでにかなり下がっているのが分かる。これはアメリカのサブプライム危機の仕上げとして、リーマンブラザースの破綻があったためである。

今度はここ一年のチャートを見てみる。この形が似ていれば、リーマンショック前夜に似ていると言えるだろう。まず、日経平均。
nikkei2251year2016

なるほど、今年に入ってから株価は右肩下がりで、たしかにリーマンショック前夜に似ているかもしれない。なお、下がった契機は円高である。

では、ニューヨーク・ダウはどうだろうか。
dow1year2016

似てない・・・にもほどがある。日本の株価下落の要因が円高なのだから、日本とアメリカの関係だけでいえば、アメリカは有利になる。似ていないのは当然だ。

これではリーマンショック前夜に似ていると言われても、誰もピンと来ないのは当然だ。もう安心とまでは言えないが、すでに二回の危機を脱しているようにも、長期のボックス相場(一定の変動幅の範囲内で、上がったり下がったりを繰り返す)のようにも見える。少なくとも危機的状況には見えない。

さて、ではリーマンショック後はどうなったか。安倍首相の言う通りなら、その後を見ることで、将来を占うことができるはずだ。

ここでは小泉政権発足から、アベノミクス以前までを見てみる。青がニューヨーク・ダウで赤が日経平均である。
小泉政権から安倍以前

2008年の終わりから、日米ともにドカンと落ちているのがリーマンショック。問題はその後。

リーマンショックまでは、日米の株価は連動しているが、リーマンショックを期に、日本の株価が低迷しているのが分かる。つまり、アメリカの株価は3年程度で復活したが、日本の株価はアベノミクスまで低迷したということである。この間、日本は円高が続いていた。

この関係性は、ここ一年のアメリカと日本のチャートに似ている。どちらも、アメリカのチャートがW字型になって回復しているのに対し、日本のチャートはすでに右肩下がりになっている。また、どちらも円高が要因になっているのも似ている。

どうやら、日本に限定すれば、リーマンショック前夜に似ているというのは間違いではないようだ。このままだと、またぞろ長期低迷の可能性も高い。

しかし、他の国は日本だけを見ているわけではない。それどころか、今の世界経済を支えているのは、新興国とアメリカだから、日本なんかは二の次、三の次である。

簡単に言えば、「このままじゃアベノミクス終わっちゃうよ。政権の危機だよ。円安Please、S'il vous plait、Bitte、per favore!」を安倍晋三語で言うと、「世界経済は大きなリスクに直面しているという認識については、一致することができたわけであります」となるわけである。

書道の授業は楷書で始める。これは、楷書が最も身近な書体だからである。それ以上の理由はない。最初に習うから、一番簡単と思われるかもしれないが、ちょっとのミスでバランスが崩れてしまう、最も難しい書体である。

楷書は石碑を書くための文字として発達した。楷書で書かれる以前は、石碑は篆書か隷書で書かれた。しかし、それらは日常でも使われるものだったから、最初から非日常の書体として成立したのは、楷書だけということになる。その点で、楷書は非常に特殊な書体なのである。

印刷が行われるようになり、楷書は印刷物にも使われるようになったが、それでも普段使いの文字は行書か草書だった。ワープロが普及するまではそうだったから、楷書が書体の主流になったのは、つい最近、たかだか30年前のことだ。

今や、行書や草書で書かれた、手書きの文字を見ることは少なくなった。学校ではほとんど楷書しか習わない。実生活でも、印刷された文字か、スクリーン上の文字を読む方が多い。手書きの文字を見たとしても、ほとんどが楷書か、楷書をベースとしたなぐり書きである。現代人は楷書ネイティブになってしまったのだ。

筆順とか、トメ・ハネ、筆画の向きなど、これらは楷書だから起きるのである。行書・草書であれば、筆順は一目瞭然だし、トメ・ハネ・筆画の向きなどは、筆脈によって自由自在に変わる。そもそも、行書や草書に画数という概念はない。

字形にしても、楷書で書くと違うものが、行書や草書だと全く同じになってしまうことも多い。たとえば、にんべんと、ぎょうににべん、さんずい、にすい、これらは全く同じ形になることがある。示偏(礻)と衣偏(衤)も楷書では点の有無が重要だが、行書・草書なら右半分が省略されて同型になる。

全くの同型でなくても、別の字でほとんど同じ形という例はいくらでもある。これに書く人の癖が加わると、漢字単体で判別するのはほとんど困難である。本来、文字は単独で読むものではなく、文章として読むものだから、これでよかったのだ。

書道を教えている僕が言うのもナンだが、文字の原則は〈読めること〉である。行書や草書が主流だった時代は、書き手もそのつもりで書いている。

繰り返しになるが、楷書はかつて〈特殊な書体〉だったということを、書く人も読む人も忘れてはいけない。
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妻がシャボン玉せっけん歯磨きなるものを買ってきた。



シャボン玉せっけんといえば、無添加石鹸の製造で知られるメーカーである。当然、この歯磨きもそっち系。なお、「シャボン玉」というと、つい「シャボン玉ホリデー」とか思い出しちゃうが、あれのスポンサーは牛乳石鹸である。

さて、使ってみた。

公式サイトにも書いてあるように、泡立ちが少なく、味も薄い。どこかでこんな歯磨きを使った記憶がある。そうだ、昔、ショボい旅館の使い捨て歯ブラシについていた、小さな歯磨きだ。ただし、あれよりははるかに滑らかだ。普通の歯磨きに比べても滑らかだから、研磨剤も少ないのかもしれない。

泡立たないので、なんだかダラダラとよだれが出てくるような気がする。味が薄いから、起きた直後の朝飯前に使うのにはいいかもしれない。これなら、歯磨き無しで磨けばいいんじゃないかと思うが、無きゃ無いで物足りないという人にはいいだろう。

それにしても、普通の歯磨きを使い慣れていると、どうにもインパクト不足である。というわけで、寝る前は、シャボン玉せっけん歯磨きで歯を磨いた後、インパクトのでかさが狂気の域に達している、リステリンオリジナルを使っている。


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先日NHKの記事で見たのだが、通販で買った自転車が壊れて、事故になるケースが増えているらしい。特に折りたたみ自転車での事故が多いそうだ。

もちろん、販売した会社の責任が第一にある。設計や製造にも問題があったのかもしれない。しかし、それだけではこのような事故は防げないだろう。

先の記事では、「突然フレームが壊れた」というようなことが書かれてあった。しかし、それは本当だろうか。経験上、どんな自転車であれ、必ず壊れる前兆というものがある。それを見逃したか、分かっていてだましだまし乗っていたのではないか。

前兆は、異音だったり、体で感じるガタつきとして現れる。普段から自転車に乗っていると、「いつもと違うな」と感じる類のものだ。詳しくなると、それが単にグリスが切れているだけなのか、あるいはパーツが緩んでいるのか、フレームに問題があるのか分かるようになる。唯一前兆がないのはパンクぐらいなものだ。

どこに問題があるか分らなくても、この違和感は決して感じにくいものではない。自転車は運転する人間がエンジンも兼ねているから、自動車やオートバイ以上に壊れる異常を感じやすいのである。しかし、大多数の人は、違和感に気づいていても、そのままにして乗ってしまう。

それが、いままであまり事故にならなかったのは、フレーム(フォークを含む)自体が壊れることがほとんどなかったからだろう。例えば、ブレーキは前後いっぺんに壊れることはまずないから、片方壊れても止まらないということはない。チェーンが切れようが、ペダルがもげようが、よほどの不運でもないかぎり、いきなり自転車から放り出されるようなことはあまりない。

しかし、先のニュースによると、突然フレームが壊れるケースが増えているという。大変危険な事故だが、なぜそうなるのか。

かつて、自転車のフレームは鉄でできていた。しかし、最近は軽量化のためアルミ合金のフレームが増えている。鉄に比べてアルミ合金が弱いわけではないが、金属疲労に関しては鉄とは比べ物にならないほど弱い。

しっかりと組まれた状態で乗っていれば、アルミのフレームでも金属疲労などはそう簡単には起こさない。だが、もしどこかのネジが緩んで、ガタが来ていたらどうか。その部分に衝撃が加わり、金属疲労を起こしやすくなる。すると、アルミの特性上、突然破断する。運が悪ければ、死ぬだけさ。

鉄のフレームは、多少組み付けられたパーツにガタつきがあっても、そう簡単には金属疲労を起こさない。仮に起こしたとしても、アルミと違い、いきなりバッキリ折れるということはない。

昔は異音を放ちながら走っている自転車をよく見かけたが、鉄の自転車はすぐに壊れないので、だましだまし乗ることができたのである。もちろん、最終的には壊れることになるが、フレームより先にパーツが壊れることが多い。

折り畳み自転車は、その機能を盛り込むため、フレームが弱くなりやすい。その上、軽くするためアルミ合金が使われることも多い。ホイールが小径であることが多いので、路面からの衝撃も受けやすい。折りたたみ自転車は、もともと壊れやすい自転車なのである。

いずれにしても、前兆さえ見逃さなければ、大きな故障には繋がらないはずである。何か違和感を感じたら、すぐに自転車屋へ持っていくべきなのだが、折りたたみ自転車は特殊なパーツを使っていることが多く、どこの自転車屋でも見てくれるというわけではない。

その意味でも、バラバラにした自転車を自分で組み直せるぐらいの技術がないかぎり、自転車を通販で買うべきではないのである。
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舛添都知事の一連の疑惑は、公用車を私用に使ったとか、ヤフオクで骨董を買ったとか、海外視察の費用が高いとか、どうにもセコい物件ばかりである。

はっきりいうと、猪瀬前知事の徳洲会からの資金提供問題に比べれば、たんなる税金のムダ使いで、それも個人的なことばかりだから、ぜんぶまろげても大したことはない。おそらく、東大助教授時代から、こんなことばかりやっていて習慣になっていたのだろう。

これで得られる教訓は、公金を扱う時は、小さい額ほど気をつけて扱わなければならないということだ。

金額が小さい場合、本人以外で利益を得る人はほとんどいない。例えば、舛添氏がホテルのスイートルームに泊まっても、利益を得るのは本人とホテルしかなく、そのホテルにとっては、スイートルーム一室の宿泊費程度、全体の利益にはさして影響しない。だから世に現れやすい。

また、数十〜数百万円程度なら、その価値が誰にでも想像がしやすい。もっと安いホテルにしろとか、ファーストクラスをビジネスクラスにしろとか、ヤフオクで骨董を買うなとか、誰でも口が出しやすいのである。

これが億単位になると、利益を享受する関係者が増える。こうなると、関係者は自分の利益を守るため、みんなで一致団結して隠そうとするし、万一バレれても、みんなで潰そうとする。だから、なかなか表に出てこないし、出てきたとしても、結局どこかで有耶無耶になりやすい。

スイートルームの宿泊費と違い、何億とか何十億とかいう物件は、それが適正かどうかすらよく分からない。オリンピックの招致に何億円かかったとか、新しい競技場の建設費が何百億とか言われても、一般庶民には高いんだか安いんだかピンとこないのである。そういうものではないと証明するには大変な労力がいるし、そもそも証明するべき人(つまりマスコミ)が、ご相伴にあずかっていれば、これはどうにもならない。

どちらも公金のムダ使いという点では同じだが、どちらが悪いかといえば、当然何億、何十億の方だ。しかし、そちらは表には出ず、舛添氏のようなショボいムダ使いばかりが表に出て批判される。かくして、大悪党は栄え、コソ泥は滅ぶということになる。

考えてみれば、僕も公金を使う仕事をしている。額は少ないなんてもんじゃないが、少ないからこそ気をつけなければならないなと思った次第である。
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