2006年08月

サーチナ日本語と中国語(14)上野惠司氏を読んでいて思い出した。

どこの大学入試だったか忘れたけど、英語の長文読解でショパンのことについて書いてある文章がでた。下手に高校時代、中国語を習っていた(授業にあったのよ)僕は、Chopinを中国系の名前だと思い込み、文中でてくるChopinをすべて「チョウピン」と訳してしまった。

内容は「著名なピアニストであるショパンは・・・」とかそういうのだったのだが、思い込みというのは恐ろしいもので、「famousとか書いてある割には聞いたことがないな」なんて思いながらも、最後まで「ヨーロッパで活躍した中国系ピアニスト、チョウピンの伝記」として解釈してしまった。

試験の長文読解というのは、どこかで歯車が狂うとワケのわからないことになるもんで(もちろん実力に欠けていることが大前提だが)、僕の友人は老舎の名作『駱駝祥子』を『祥子ちゃんの留学生日記』だと思い込んで、見事に訳しきった。

話を名前にもどすと、自分の名前の中国語読みを知ったのも高校生の時だった。中国語の先生が出席を中国語読みで取ったのだ。このとき「タオ」と答えるのだが、それが「到」だと知ったのはつい最近のことである。

僕の名前はピンインで書くと「zhong1 chuan1 con1」となる。カタカナで書くと「チョン チュアン ツォン」みたいな感じだろうか。全部タ行から始まり、ンで終わる。言いにくい上に大変間抜けである。

さらに間抜けなのが、中国語には四声というイントネーションがある。上に書いた1というのがそれなのだが(普通は記号を使う)、見てわかるようにすべて一声だ。一声というのは「高い音で平らに音を伸ばす」発音である。放送禁止用語を消す「ピー」みたいなもんだと思ってもらえればいい。それが三つも並んでいるのだから、「キンコンカン」みたいなもんである。

だから、もし自分の子供に名前をつけるとしたら、中国語で発音して、マヌケじゃないものにしなきゃいけないなと、どうでもいいことを考えている。
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今年の夏休みは、なんだかいろいろ(パソコンが壊れたのを含む)あって、いつものExtremeな旅に出ることができなかった。いろいろの主な内容は、いずれ書ける日が来ると思う。

こんな長い夏休みがいつまでもあるとは思えない。もしかしたら今年で最後かもしれない。そう思うと、なんだかいらいらしてくる。

よし、どこか行こう。授業の開始は9月4日だ。まだ、4日もあるじゃないか。

そんなわけで、明日からどこかへ行きます。でも、どこに行くかはわかりません。

#誤解のないように書いておきますが、学校の先生がみんな長い夏休みがあるわけじゃありません。僕は非常勤なので、授業がない間は休みなのです。
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ここのところPCのトラブルで、とてもじゃないがテレビどころじゃなくって、すっかり忘れていたのだが、ちょっとテレビをつけたら日本テレビの24時間テレビをやっていた。

この際だからいっておくけど、僕は24時間テレビが大嫌いだ。

チャリティーの番組というコンセプトはいい。だが、その手法が気に食わない。

だいたい、芸能人がマラソンをして、なんで感動するのかさっぱり理解できない。何キロだか知らんが、勝手に走って(正確に言うと、走らされて)、完走しましたなんて、だからどうだってんだ。苦しそうな顔をしてゴールをすのを祝福するなんてまったくの悪趣味である。

芸能人なら芸で感動させればいいのである。お笑い芸人ならお笑いで感動させればいい。俳優なら演技で、歌手なら歌で感動させるのがあたりまえだ。ただ走るだけなんて視聴者をバカにしている。

日本テレビにアイディアがないなら僕が出してあげよう。

「牧伸二 24時間バ〜ゲンだよ〜」なんてどうだ。本当に死んじゃうかもしれないけど。僕なら絶対に24時間見ちゃうね。
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冥王星は格下げ・惑星は8個、国際天文学連合が採択

長生きはしてみるもんで、「歯磨きはたてに磨くローリング法が正しいです。横に磨いてはいけません」と模型まで使って教わってたのに、最近では横に動かすバス法、スクラブ法が正しい歯の磨き方なのである。歯磨き、歯ブラシはたいして変わっていないのに。

「スイキンチカモクドッテンカイメイ」と教わった冥王星が、惑星の一つからはずされるそうである。メイがつこうがつくまいが、たいした違いではないけど、理由が納得いかない。

冥王星が消滅したとか、太陽系から外れたとかいうなら、それは神様かなにかの所業であるから仕方がない。人間ごときが勝手に基準を変えて、その基準に満たなくなったから格下げとは、神にでもなったつもりかといいたくなる。

そもそも、格下げとは何事か。冥王星に何か落ち度でもあったのか。成績が悪かったとか、二期連続で赤字だったとか。冥王星を惑星に含むことに何か支障があるのか。国際天文学連合への袖の下が少なかったのか。

惑星とは太陽の周りを経巡っている天体である。伝統的に水、金、地、火・・・冥があるが、現在、惑星は他にも発見されている。それが、火星と木星の間にある小惑星「セレス」、冥王星よりさらに大きな軌道を描く「第10惑星」である。惑星の中には大きいのと小さいのがある。水・金・地・火・・・は大きい惑星で、セレス・冥・第10は小さい惑星である。

これでいいんじゃないかと素人の僕は思うのである。
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張芸謀監督とスピルバーグ監督、『西遊記』を映画化
孫悟空ものすごい組み合わせだけど、例の『西遊記』には勝てるんだろうか。例の『西遊記』とは、1978年の日本テレビ版(孫悟空は堺正章)のものと、1984年のCCTV版(孫悟空は六小齢童)である。

僕が日本テレビ版を見たのは10歳のときである。配役からゴダイゴの音楽まで完璧だったと思う。なんといっても、三蔵法師を夏目雅子にやらせたというのがキモで、それ以前の三蔵法師像(僕にとっては、いかりや長介)を塗り替えた。

これ以降、日本で三蔵法師をやるのは女優ということになってしまったが、あれは夏目雅子だから良かったんであって、牧瀬里穂 や深津絵里ではだめだ(実は、どちらも見ていない。これも見てないけど、宮沢りえのは許せるかも)。

しかし、日本テレビ版を上回る衝撃を受けたのは1984年のCCTV(中国中央電視台)版である。僕が大学生のとき深夜に放送していたのだ。

学芸会のようなしょぼいセット、境界線がはっきりと分かる合成も衝撃的だったが、何より衝撃的だったのが、六小齢童演じる孫悟空である。

この孫悟空、とにかくサルなのだ。どこから見ても立派なサル。さる、るるる。ところが、ひとたび妖怪との戦いになると、サルのまま見事なアクションを見せる。イマイチ伝わっていないような気がするが、見てもらえれば分かると思う。DVDむちゃくちゃ高いけど。

孫悟空が見事なのは道理である。六小齢童は紹劇の役者で、代々孫悟空を演じる家柄(詳しくは中国両代美猴王参照。)らしい。一子相伝、伝統のサル芸なのだ。そのほかの役者もいい。特に情けない三蔵法師(もちろん男性)は原作の印象そのままである。もちろん八戒は見事なブタだし、沙悟浄は河童じゃない。

中国でも、これ以降いくつもの『西遊記』が放映されている。しかし、CCTV版を超えることはできないようだ。今でもVCD屋に行って「一番売れている西遊記をくれ」というとこれが出てくるのだ。

僕にとって『西遊記』とはこの二つなのである。でも、そろそろこれらを超えたものが見たい。

『西遊記』ってのは、原作の時点で、これ以上ないくらいキャラクターが立っていて、下手に手を入れると、とたんにつまらなくなる。スピルバーグ先生、そこんとこヨロシク。
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前のエントリ
東京新聞の記事

古典や漢文の暗唱を小学生に指導する場合、どういう点に留意したらよいだろうか。

もちろん、人口に膾炙した名文を選ぶのは当然だが、僕は次のように考えている。

1.日本の古典の場合は散文を優先する。
暗唱というとつい『百人一首』のような韻文を連想してしまう。
しかし、日本の韻文は基本的に5・7・5・7・7の短歌か5・7・5の俳句しかない。すべて同じリズムになってしまうので、これを覚えるのは難しいと思う。したがって、散文を優先するべきである。具体的には、『土佐日記』『竹取物語』『源氏物語』『古今和歌集仮名序』『方丈記』『平家物語』『徒然草』あたりがいいと思う。
個人的には、『方丈記』か『平家物語』がオススメ。

前のエントリで書いた、中国語による漢詩の暗唱の場合、中国語には一つ一つの音節に四声という厳密なイントネーションがある。つまり漢詩を中国語で読む場合、五言・七言というようにリズムは同じで単調だが、メロディーに違いがでるので、和歌と比べるとはるかに覚えやすい。
これを書き下しにした場合は、当然音節の数は変化するので、漢詩を日本語で暗唱するのは問題がない。

2.少々の間違いにこだわらない。
僕が『平家物語』の冒頭を暗唱したら、生徒から間違っているといわれたことがある。調べてみると、底本の違いによるものだった。
古典の場合、一字一句間違えないようにするのはあまり意味がない。特に漢文なら、訓読はする人によって違う。
とはいえ、文法や単語としておかしい場合は訂正しなければいけないから、指導する先生にもある程度のスキルが求められるだろう。

3.テキストはオーソドックスなものを選ぶ。
暗唱の元になるテキストはできる限りオーソドックスな物を選ぶべきだ。これは特に漢文の訓読にいえる。
最近の注釈書の中には、訓読としては伝統的ではないものが多い。
これは、暗唱に限ったことではない。学問というのは常に新しい物を求めるものだが、教育は違う。いかに新しい読み方が魅力的なものであったとしても、初等・中等教育では評価の定まったものを使うべきである。

4.何が書いてあるか、教師はある程度把握しておく。
暗唱だからといって、教師としては、なんだかさっぱり分かりませんというわけにはいかない。何が書いてあるかぐらいは理解しておかなければならない。
ただし、ひとつひとつの単語の解釈までは必要ないと思う。

一見難しそうに見えるが、古典のような文語文を覚えることは、口語文を覚えるよりもはるかに容易である。文語文にはリズムがあるからである。

次に一例として聖書の訳を挙げてみた。音読して比較してみるといかに文語文が覚えやすいか理解できるだろう。

『新約聖書』マタイ伝第五章より
文語訳
この故に、我汝らに告ぐ。何を食ひ、何を飲まんと、生命のことを思ひ煩ひ、何を着んと体のことを思ひ煩(わずら)ふな。生命は糧(かて)にまさり、体は衣に勝るならずや。
空の鳥を見よ。播(ま)かず、刈らず、倉に収めず。然(しか)るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之(これ)よりも遥(はるか)に優るる者ならずや。

口語訳 (c)日本聖書協会
それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
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「古文暗唱」小学国語に 中教審検討、漢文指導も

実は僕も、国語の教師という仕事をする以前は、意味も理解しないで、古典の暗唱なんてばかばかしい話だと思っていた。もっとも「意味も理解しないで」なんていうのは後付けで、本音は僕のノーミソが暗記向きではないというだけなのだが。

ところが、授業で古典を教えるようになり、だんだん暗唱も大事なんだなと思うようになった。理由はいくつかある。

まずひとつは、古典の世界と現代人の世界がだんだん離れてきたことである。例えば、かつては小学校で文語の歌が歌われていた。ひな祭りには平安時代の風俗に近い雛人形が飾られていたし、一万円札には聖徳太子の肖像が描かれていた。正月には百人一首をやっていた。

そういうものが少しずつ失われていくうちに、現代人にとっての古典世界は、なんだか現代の日本とはまったく別のものになってきてしまった。だから、古典を国語の授業で扱う「とっかかり」がなくなってしまったのである。

もうひとつは、僕が中国へ行くようになって、中国人の多くが漢詩を暗唱できることを知ったことである。彼らは小学校時代に100首以上の漢詩を暗唱させられるそうである。その中には僕たちも知っている漢詩がたくさん入っている。

小学生が漢詩の世界を理解できるとは思えない。だが、暗唱することによって、文化の継承ができ、国民としての自覚ができるのではないだろうか。それを僕たちのような外国人に示すことができるのも素晴らしいことではないか。

意味が分かるようになるのは後でもいい。子どものころに古典の世界に触れることが大事なのだ。

上のリンクで示した、東京新聞の記事によると「復古調」であるという批判があるという。たしかに復古調ではあるが、これは文化の問題である。

他国の文化を尊重するには、自国の文化を尊重できなくてはならない。自国の文化に自信がもてないから、意味のないインチキなアイデンティティーを求めるようになるのである。日本だけが特別優れているというような、狂ったナショナリズムを防ぐのにはむしろ有効であると僕は思う。
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招待所といっても、北朝鮮のアレではない。一泊100元(1500円)以下(実際は風呂付ツイン50元風呂なし20元ぐらいが相場)で泊まれる中国の木賃宿のことだ。なお、宿泊料金は一部屋である。

中国のホテルは★マークでランク分けされているが、それ以外にもランク分けがある。
賓館・飯店(○○賓館・○○飯店・○○酒店)がいわゆるホテルで★マークがあるのはすべてこれ、以下、招待所(○○招待所)、旅社・旅館(○○旅社・○○旅館)となっている。ただし、大学や政府機関の附属だったりすると名前は招待所でもホテルクラスの場所もある。

基本的に外国人が泊まれるのは賓館・飯店クラスだが、それが一軒もないような町では招待所でも泊まれる。僕はスプリングの入ったベッドと冷房に弱いので、下手な賓館・飯店よりも招待所の方が居心地がいいと思う。

まず、フロントで空室を確認し、宿帳を書く。
このとき、パスポートが必要になる。中国のホテルでは先に宿泊料と保証金を払わなくてはならない。保証金は大体宿泊料と同じ程度である。なお、招待所クラスでカードが使えることはまずない。

お金を払うと、なにやら紙(カードの場合もある)をくれる。これは部屋に入るときとチェックアウト(退房)の時に必要になる。失くすと保証金が返ってこないらしい。

普通のホテルだと、ここで部屋の鍵をくれるのだが、招待所では鍵をくれない。その紙に書いてある部屋のある階までいって服務員(たいていお姉ちゃん)に開けてもらうのである。

招待所では、各階に担当の服務員がいる。この服務員、服務台というところにいて、一部屋あてがってもらっているのだが、十中八九労働意欲がない。昼でも部屋の中で寝てたりすることがある。こちらはお客さんなので、用があるときは容赦なくたたき起こそう。目をこすりながら面倒くさそうな顔で出てくるが、心を揺らしてはいけない。チップは不要。

外出するときは、服務員にお願いして鍵をかけてもらい、帰りはまたあけてもらう。つまり、招待所では服務員が勝手に部屋を開けることができるので、貴重品は絶対に部屋に置き去りにしてはいけない。

もし、風呂トイレなしの部屋を選んだのなら、このときに場所を聞いておくとよいだろう。招待所のトイレはいわゆる純中国式(扉、仕切りなし。運がいいと仕切りがある)なので、苦手な人は風呂トイレつき(そういう部屋がない場合もあるが)にしよう。また、風呂付きでも時間が決まっている場合が多い。それ以外の時間だとお湯が出なかったりする(その時間でも出ないことがあるが)ので注意。

さて、かくして服務員のお姉さんに鍵を開けてもらって部屋に入るのである。

部屋に入ったら最初にしなくてはいけないことがある。それは、どこが壊れているかチェックである。

招待所の部屋は、かならずどこか壊れている。特に水回りは90パーセントの確率で壊れている。鏡が割れていたり、水がちょろちょろと出っぱなしだったり、洗面台から水漏れしているなんていうのは序の口で、便座が割れているとか、浴槽が半壊してるとかいうことまである。

ここでチェックするのは、壊れているところに文句を言って部屋をかえてもらうためではない。かえてもらったところで別のところが壊れているのが関の山である。チェックする理由は、壊れている場所とうまくつき合うためである。

便座が壊れているのに気づかず座ってしまい、便器に嵌まってしまった(経験済み)とか、シャワーを浴びるとパイプの途中から水が吹き出してあたり一面びしょびしょになる(経験済み)とか、壁に穴があいていて隣が丸見え(経験済み)なんていう悲劇を未然に防ぐためである。

次に備品チェックである。備品はあまりに安いから何もないかと思いきやそうではない。たいていのホテルにあるものがそろっている。ただし、歯ブラシとか石鹸なんてのは、ここまでひどいのなら最初から無くてもいいのにというレベルである。

タオル・バスタオル・枕・布団は人数分あるかチェックしておこう。足りないとチェックアウトの時に面倒なことになる。んなもん盗むかっ!っていうレベルだけど。

さらに招待所の備品には日本のホテルには絶対にないものがある。

1.たんつぼ
正式名称は分からないし、本当のところたんつぼなのかどうかも分からない。僕たちがかってにたんつぼと呼んでいるだけだ。これには琺瑯(ほうろう)のつぼに半分ぐらい水が入っている。僕たちは外で果物を買ってきたときに、皮や種を入れるのに使っている。水がはいっているからタバコも直接捨てられて便利。

2.便所サンダル
日本でもおなじみゴムのサンダル。もちろんそのまま外に出られる。スリッパなんかより100倍便利である。僕は水陸両用の究極の履物だと思っている。

3.魔法瓶
お茶を飲むためのお湯が入っている。入っていない場合やなくなった場合は、服務員にお願いして入れてもらおう。寝る前に部屋の前に出しておくと、朝お湯が入っている(こともある)。

4.ベニヤ板のベッド
ほとんどの場合、ベニヤ板に布団が載せてあるベッドである。スプリングベッドの場合もあるが、柔らかすぎたり、バネが飛び出ていたりと、いい思い出がない。

チェックアウトは、だいたいどこでも12時である。のんびりできてなかなかいい。その階の服務員にチェックアウト(退房)を告げて、フロントへ向かい、保証金を返してもらう。

フロントへ行っている間に服務員が部屋をチェックする(忘れ物はないか・盗まれた物は無いか)仕組みである。いらないTシャツをゴミ箱に捨てておいたら、親切にも忘れ物だと持ってきてくれたことがある。

新品に近い物を捨てるときはわざと汚してゴミに近い状態にしておこう。

招待所のシャワー北京市高碑店村の迎賓招待所のシャワー。
招待所のくせに迎賓というのが笑える。
これは、共同風呂ではなく、風呂トイレ付きの部屋にあったもの。
この管の途中に穴が開いていて、大変なことに。
なお、シャワーの下に浴槽があるのだが、とてもじゃないがお見せできません。
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ナイジェリアでペニス・パニック発生

ナイジェリアのレストランに呪術師が現れ、ボーイのイチモツが消えた。消えたことに気づいたボーイは、怯えて別の男にさわったとたん、その男のイチモツも消えた。被害者は三人に及んだという。

このペニスパニックというのは、集団ヒステリーの一種で、もちろん本当に無くなってしまうわけではない。分かりやすく言うと、誰か一人(たいがい自称霊感の強い奴)が「あそこに幽霊が!」っていうと、全員に見えちゃうというのと同じことである。

普段、邪魔だなぁなんて思っていても(よく女性から、「あんなのぶら下げて邪魔じゃないの?」と聞かれたりしますが、ハイ、邪魔です)、やっぱり無くなったら大変だ。無くなったら大変だと思っているからパニックになるわけである。

こんなのアフリカだから起こるのかといえば、さにあらず。世界中で起こっているらしい

実は日本でも起こっている。それも平安時代である。この話は平安末期から鎌倉初期の説話集『今昔物語集』巻20-10と『宇治拾遺物語』106話にある。

陽成院(平安時代)のころ、滝口道則という男が、天皇の命令で陸奥へ下る途中、信濃国のある郡司の館で宿をとった。夜、どうにも寝付けなかったので、館の中をぶらぶら歩いていると、ある部屋に二十歳ほどの美しい女が寝ていた。見ているとムラムラときた道則君、とりあえず女の横に臥してみた。女は別に驚いた様子もなく、にこにこ笑っている。女の懐へ入ってみるが、特にそっけない様子もない。
「これはいける」と思った道則君、なにやら前の方がむず痒い。さぐってみると、どういうわけかあるはずのモノが何もない。まるであごひげでもさわっているようだ。あわてて起きて、自分の寝床に戻り、まさぐってみてもやっぱりあるはずのものは何もない。

というわけで、男としてもっとも大事なモノを無くした道則君だが、何しろ彼は滝口(皇居を警備する武士)だ。ナイジェリア人は大騒ぎするかもしれないが、二本日本男児たるもの、チンコの一本や二本が無くなったぐらいでは動じない。ああ、これが武士道精神というものですか?藤原正彦先生。そして道則君、とんでもない実験を思いつく。

近くにいた子分Aに「あの部屋にいい女がいるぞ。今、わしも行って来たところだ。お前もお世話になって来い」なんてことをいうと、子分A大喜びで女の所へ行く。しばらくすると、子分Aは妙な顔をして帰ってきた。「やっぱりおんなじような目にあったんだな」と思った道則君、こんどは子分Bをよこす。やっぱり妙な顔をして帰ってくる。子分C、子分Dと、そんなこんなで8人もの子分を女のところへ行かせたのだが、みんな妙な顔をして帰ってきた。

道則君、絶対楽しんでるな。武士道精神とは悪趣味である。

夜が明けると、「こんなわけのわからんところはさっさと出たほうがいい」ってんで、まだ夜も明けきらないうちに道則一行は郡司の館を出て行った。
すると、後ろから白い包みを掲げて馬で追ってくるものがいる。郡司の使いである。
「郡司がこれをお渡しせよと申しておりました。朝食をご用意いたしましたのに、お急ぎのご出立で召し上がらず、そればかりかこんな大切なものをお忘れになりましたので拾い集めて持ってまいりました」
道則君、白い包みの中を見るとマツタケみたいなものが9本ある。
8人の子分どもと、あやしんで見ていると、そのマツタケみたいなものはさっと消えた。と、同時にチンコ復活。みんな自分の前をまさぐって「おお、ついてるついてる」なんて言い合って喜んだ。

実は、郡司はある術を身につけていて、それで消してしまったことが後に分かる。このあたり、ナイジェリアの呪術師とよく話が似ている。

このあと、道則君はいろいろな術を教えてもらうのだが、結局チンコ消しの術だけは教えてもらえなかった。

この術は難易度が高いのである。まあ、あんまり簡単にできても困るけどね。
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今日の(しょうもない)ブログを書き終わった僕は、手を洗いに流しへ行った。すると、三角コーナーから奇妙な物体が数本生えている。

もやしのような物だ!

もやしのような物とは、五月になると家の風呂場の排水口から生えてくる正体不明のナゾの植物である(もやし(のようなもの)が生えました参照)。

前回・前々回は恐怖のあまり、そのまま捨ててしまったのだが、今回はちゃんと写真を撮った。
もやしのような物
ちょっと分かりにくいので解説しておくと、今回「もやしのような物」が発見されたのは、オフィスの方である。ここで料理をすることはないので、もやしやカイワレの類が三角コーナーに捨ててある可能性はゼロだ。

ちなみに、五月に「もやしのような物」が生えてきた風呂場があるのは住居(ただし寝泊まりは基本的にオフィス)で、この二軒は歩いて2分ほど離れている。したがって、風呂の「もやしのような物」と三角コーナーの「もやしのような物」は僕のライフスタイルとは無関係である。

だが、どうみても同じ植物だ。この一帯にはそういう水道管か下水管を媒介にして広がる植物があるに違いない。そういえば、僕の家の近くには、かつて林業試験場があった。あるいはそこで研究されていた特殊な植物なのかもしれない。

などと考えつつ、三角コーナーの底をよく観察してみた。そこには・・・続きを読む

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