2006年10月

2004年の8月に北京から河北省邯鄲市まで自転車で走った。

このあたりは、回族(イスラム教徒)が多く住む地域らしく、北京からの数日間はずっとイスラム料理ばかり食べていた。

イスラム料理といっても本格的なものではなく、本来鶏肉だったり豚肉だったりするはずの肉が全部羊肉なのである。餃子も中華饅頭も中身の肉はぜんぶ羊。とりわけ、中国の街角ではどこでもよく見る羊肉串(焼き鳥みたいに串に羊肉が刺さっており、焼いてあるもの。いわゆるシシカバブー)を毎日食べていた。

これには必ずズーラン(孜然)という香辛料がかかっている。味はズーランの味としか言いようがない独特の味で、僕はこれを食べると、羊をつれてシルクロードを歩く黒ペーターが脳裏に浮かぶ。この香辛料のおかげで、羊は臭みが苦手という人でも(たぶん)大丈夫。毎日食べていると、数日で体臭がズーランの香りになってくる。

面白かったのは、カニカマボコにズーランをかけたのを油で揚げて売っていたことだ。カニカマとズーランは意外と相性がよく、なかなかうまかったのだけれど、海から遠い河北省の人たちには、あれがカニの肉を模したものだと分かっているのだろうか。

で、前置きがものすごく長くなったが、池袋にある楽楽屋に行ってきた。ここは、中国の街角で売っているのと全く同じ、ズーランバリバリの羊肉串が食べられる・・・だけでなく、なんとみずから炭火で焼いて街角で羊肉串を売る回族のオッサン気分が味わえるお店である。といっても、回族のオッサンがかぶる白い帽子と、うちわはないので、持参するように。

味は中国の街角で食べるのと全く同じ。僕は夜しか食べたことがないので、初めて羊肉串の色を見た。まあ、特に予想外の色というわけではないけど。

羊肉串だけでなく、火鍋やら何やら、ある意味本格中華(なぜか韓国料理も)が食べられてたいへんお買い得。ただし、日本語は通じるものの客層はほとんど中国人なので、そのへんちょっと店に入るのには勇気がいるかもしれない。
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<履修不足>10県65校、生徒数は1万2000人に

いや〜えらいことになってますな。70時間必要だってことで、一日6時間みっちり世界史の授業をやっても12日は必要なわけで、冬休みは世界史漬けになりそうだ。ご愁傷様です。

なにしろ受験教科じゃないので履修しなかったわけだから、当然生徒は授業に出ても内職だろう。社会科の先生も大変だ。全く授業を聞かない生徒を相手に、連続授業である。代わってあげたいけど(心にもないウソ)、僕、社会科の免許は持っていないんで、お力になれません。国語だったら手伝わないでもないよ。もちろん時給は規定の倍でね。

いろいろトンチンカンな分析をしているえらい方々がいるが、僕はこうなった原因は二つしかないと思う。

まず一つは少子化。今は高校も自分の学校に生徒を入学させるので大変なのだ。だから、ついサービス過剰になり、生徒(と親)の要求を過分に聞いてしまうのである。しかし、学校は予備校ではない。決められた時間数の授業をしなかったら、それはもう高校じゃない。法定より講義の少ない自動車教習所は認可を取り消されても仕方がないだろう。もし、サービスのために受験教科をたくさん勉強させたかったら、放課後にでも補習してやればすむ話だ。

もう一つは、生徒(と親)のノーミソが幼稚になっていることだ。少なくとも、僕たちの時代は、学校側に必修の授業を削って、受験用の勉強をさせろという要求をするなんて思いもつかなかった。そんなサービスを要求すべき場所ではないと分かっていたからだ。ただし、補習をしてくれという要求はしたし、実際にしてもらった。

そんなことしてもらわんでも、関係ない授業はまともに聞かず、勝手に内職と称して受験教科の勉強をしていたのだ。シーズンが迫ってくると、先生の方でも、見てみぬふりをしてくれたりした。受験勉強なんて、自力でやるか予備校にでも通ってするもんで、学校に期待するのはお門違いだと思っていたのである。

いかなる事情があろうとも、学校は生徒(と親)の間違った要求には毅然と対処すべきだし、生徒(と親)も学校にできないことを要求すべきではない。

こんなの学校五日制とか、大学の受験教科削減なんかと全く関係ない。学校の甘やかしと生徒の甘えが引き起こした事件なのである。そのつけは、学校と生徒のどちらにもきたようである。そんなの望んでいなかった生徒には気の毒だけれども。
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やたがらすナビ日本女子大文学部日本文学科のリンク集に入れていただいた。言っとくけど、僕が頼んだわけじゃないぞ。日本女子大の皆さん、ありがとうございます。このページ、ピンク色でなんだかいい感じですね。

さて、初の女子大からのリンクを記念して、今日は日本女子大の思い出などを語ろう。あるんだよ、それが。

かれこれ10年ぐらいまえだろうか、僕はその日、学会(説話文学会の例会だったと思う)の会場校になっていた、目白の日本女子大を訪れていた。もうずいぶん経つので記憶があいまいだが、あまり大きな教室ではなく、なんだかやたらと骨董じみたテーブルがおいてあったことを記憶している。

落ち着きのない僕は、発表が終わって休憩時間になるやいなや喫煙所へ向かった。喫煙所は学会のために特別に設けられたものらしく、校舎の裏口のようなところに、ひっそりと灰皿が置いてあった。こういうのを入る前に確認するのは喫煙者の習性である。

誰よりも早く、そこへ行った僕は大変なことに出くわしてしまった。なんと灰皿が炎上していたのである。

これはいかん、消火しなければ!

僕は周りを見回した。すると、どういうわけだかたいへん都合のいいことに灰皿から5メートルほど先に蛇口があって、これまた都合のいいことに青いビニールホースまで置いてある。

さっそく僕は、蛇口にホースを繋いで、灰皿まで引っ張っていった。が、尺が足りない。ホースは灰皿の手前2メートルぐらいのところまでしかないのだ。ぐずぐずしていると、日本女子大は焼失してしまう。

やむなく、僕は蛇口を回して水を出し、ホースの先をつぶして水を飛ばす作戦に出た。正直に言おう、ちょっと楽しかった。

水はうまいぐあいに飛び、灰皿にかかった。ジュッという音がしてすぐに火は消えた。よかった。だが、これで安心してはいけない、念には念を入れて、ジョボジョボジョボ・・・と思った瞬間、灰皿の隣にあった扉から、この世界では知らない人のいないほどの大先生が登場・・・。あとはご想像におまかせします。チーン。

要約すれば、僕という尊い犠牲がなかったら、今の日本女子大はなかったのである。

というわけで、僕と大変縁のふかい日本女子大のみなさん、今後ともよろしくお願いします。

掲示板とか書き込んでくれても一向にかまいませんよ。
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「透明マント」の素材実験成功 米英の研究チームが発表 (共同通信)

「透明マント」とはかぶると姿が見えなくなっちゃうアレである。日本では「隠れ蓑」という。これ、本当だったらすごいことだ。なにしろ、人類永遠の夢である。いや、男だけか?

『宝物集』という仏教説話集がある。鹿ケ谷の陰謀で鬼界が島に流されちゃったので有名な、平康頼の作品。今からだいたい800年ぐらい前に書かれた。

この作品の中で、登場人物によって「人間にとって何が最高の宝か」という議論がされるのだが、その一番手が「隠れ蓑」なのである。

隠れ蓑を推薦する理由は次のようなものだ。
人の身には隠蓑こそ能宝にて侍りぬべけれ。食物・着物ほしくは、心に任て取てむず。人のかくしていはん事をも聞きてんず。又ゆかしからん人のかくれんをも見てんず。さればかばかりの宝やはあるべき。

欲しいものはなんでも取れるし、隠しごとを聞くこともできるし、見たい人の(誰だよ)隠しているの部分も見られちゃう、だから隠れ蓑が最高の宝だというわけで、人間(というか男だろう)の欲のナサケナサは昔も今も変わらないのである。

しかし「欲しいものは何でも取れるって、それじゃあドロボーじゃん」としごくまっとうな反論によって、やっぱり欲しいものが何でも出てくる打出の小槌が最高の宝だという意見が出る。現代人の「宝くじで1億円当たったらどうする?」ってのとそう変わらない。

この「欲しいもの」というのがまたマヌケで、打出の小槌で「いごこちのいい家、理想の妻、役に立つ従者、馬、車、食物、着物」を出すんだそうだ。この欲望、僕はバブル時代を思い出す。あのころ、普通の人が突然金持ちになるとどうなるか、イヤというほど見せられた(僕は貧乏だったけど)。「麻布のマンション・愛人・ベンツ・BMW・イタメシ(イタリア料理)・アルマーニ」さすがに従者はないけど800年の間に進歩はない。せいぜい、車を引いていたのが牛からエンジンに変わったぐらいである。

ところが、打ち出の小槌は鐘が鳴ると出したものが消滅するそうで、やっぱり黄金が一番の宝だという奴が出てくる。その後、玉・子ども・命とだんだんまともになって、最後にやっぱり仏法が一番の宝だという結論になる。

人類永遠のくだらない夢が実現するのか。これが本当に発明されたら、世紀の大発明になること間違いなしである。

で、君なら何に使う?
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僕は自転車通勤をしている。毎日行く場所が違うのだが、今日は距離の長い日で、片道15キロぐらい(勝手に遠回りしている)である。

丸子橋から多摩川の土手を走って、国道15号に出るのだが、数百メートル走ったところで、バイクを対象にした検問をしていた。止まれというので止まると「失礼しました、行っていいですよ」と言われた。ちょうど暗くなる時間だったので、ライトが自転車についていないと思ったらしい。実際は付いていたので、なにごともなくスルーというわけだ。

と、ここまではよかった。そこには数人の警官が立っており、さっきの僕を止めた人とは別の警官が「自転車は歩道を走りなさい!」という。僕は大声で、「自転車は車道を走るもんだろ!」と言って立ち去ろうとした。

だが、目的地はすぐ目の前だ。どっちにしても歩道に入らなきゃいけない。ここで歩道に入ったら、負け(何がだ?)である。ここは一つ、警官相手に説教たれてやれと思って、自転車を押してさっきの警官の元にもどり、

「道交法では、自転車は車道を走ることになってますよね。僕はライトもつけているし、テールランプもつけている。信号だって守っている。一つも違反していないのに何で怒られなきゃいけないんですか?」

と詰め寄った。警官は、

「ここは幹線道路で危険なので、歩道を走るように指導しているのです。この歩道は自転車通行可なので、歩道をゆっくり走ってください」という。

「そりゃおかしいでしょ。だったら危険なのは自動車の方で、自動車を指導するべきでしょう。だいたい、自転車通行可の歩道があっても自転車は車道を走ることになっているはずですよ。歩道だって、僕が自転車で走れば、今度は歩行者が危険にさらされるわけですよね」と反論した。

このあとも問答はつづいたのだが、警察のいいぶんをまとめてみると、つぎのようなことである。

1.幹線道路は危険なので、自転車には歩道を走るように指導している。
幹線道路が危険なのは十分承知している。僕だってできることなら走りたくない。だが、指導すべきはスピードを出しすぎている自動車ではないか。「歩道は歩行者優先」という警視庁の看板は見たことがあるが「車道は自転車優先」と書いた看板は見たことがない。

2.「指導」は拘束力を持たない。
法律にないのだから当たり前だ。だが、警官の「自転車は歩道を走りなさい!」という言葉が拘束力を持たないとは誰も思わないだろう。

3.結局、自転車は車道を走っていい。
「いい」じゃなくて、「走れ」と言わせたかったのだが、言わなかった。この歩道には「自転車通行可」とあるが、この「可」は命令の可ではなく、可能の可である。つまり、「自転車はこの歩道を走ってもいい」という意味なのだ。逆にいえば、自転車は車道を走らなくてはいけないのである。

時々、法律が間違っているなどとタワけたことをいうドライバーがいる。ならば、道交法が施行されて何十年も経つのに改正されないのはなぜか。答えは簡単で、自転車が車両だということは自明のことだからである。

問題は道路のつくりにある。国道15号は歩道も含めて、かなり広いにもかかわらず、自転車の走る場所がほとんどないのだ。これは行政の責任である。しかし、車道は自動車のものだと思っているドライバーの意識にも問題がある。これを指導するのは警察の仕事だろう。だが、その警察は自動車に有利な指導しかしないようだ。

警察の立場になってみれば、自転車を歩道に追いやれば、重大な交通事故も減るし、猛スピードで走る自動車を指導するよりも簡単だ。だが、その結果、どこから人が出てくるかわからない歩道で自転車は安心して走れなくなり、なによりも、歩行者が危険にさらされる。喜ぶのは自動車のドライバーだけ。こんなアホな話があるだろうか。

法律上、正しいことをしているのだから、何人たりとも車道で自転車に乗る僕を罰することはできない。しかし、この国では正しいことをしていても、警官に怒られるのである。
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GIAZINEで紹介されていた、漫画がむちゃくちゃ面白い。

広告物語。サンプルマンガ「瀬をはやみ」

題名の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」は、百人一首に入っている崇徳院の歌として有名。漫画は一応この歌の内容にリンクしているのだが、後半以降の大どんでんがえし(っていうのか?これ。)は、崇徳院もびっくりである。

しかしこの漫画の作者、○○○(IT用語・漫画を読めば分かる)で、なんで「瀬をはやみ・・・」を連想しちゃったんだろう。僕なんか、中学校の授業で毎年百人一首を数十回読んでいるけど、まったく気づかなかったよ。
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埴輪(はにわ)といえば、目鼻を表現する穴がぽこぽこと開いている小粋なあいつを思い出すが、このほど鹿児島県大崎町の神領10号墳からリアルな埴輪が発見(asahi.com)された。
リアル埴輪
よもや、こんなリアル埴輪が出てくるとは思わなかった。埴輪というものは、抽象的なのが魅力だと思っていたのだが、リアルだと何ともいえない気持ち悪さがある。鼻が妙に高いし、日本人らしくない。なお、写真は上のasahi.comにあったもの。

同じようにリアルでも、兵馬俑の時は気持ち悪いなんて思わなかったのに、なんで気持ち悪いのかなと考えてみた。もしかしたら、目だけ思いっきりハニワ(あえて片仮名で書く)だからかもしれない。

ならば、目も入れてしまえ、ついでに顔の色も肌色に変えて、眉毛も書いてしまえと、技術の粋(?)をつくして、復元したのが下の写真。本邦初公開、5世紀半ばの日本人の顔をとくとごらんあれ。続きを読む
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大学院生3割以上“アカハラ”を経験…中傷、指導拒否
アカハラってのは、「アカデミック・ハラスメント」の略で、大学院なんかで起こる、教授の(主に)学生に対する嫌がらせのことである。
大学院では、学部よりも教授との個人的な関係が深くなるので、いろいろと問題がおきやすいのである。
嫌がらせの経験があるかとの設問に、約35%の73人が「ある」と回答。「周囲にあった」と回答した34人を加えると、全回答者のうち、半数以上が在学中に何らかの問題に接していた。
 最も多かったのが「ひぼう、中傷などの言葉の暴力」(32人)、次に「指導の不十分や指導拒否」(31人)で、研究成果を盗用されたと回答した学生も6人いた。
 中には、女子学生7人が性的関係を要求されたとするなどのセクハラ被害の声もあった。

以上は、上の記事にある一橋大大学院生自治会の調査だが、大学院にいた経験のあるものからすると、数字はあまりあてにならないと思う。

というのは、アカハラ(セクハラもそうだが)というのは被害者の自己申告だからである。多くの場合、加害者はそんなつもりでなくても、被害者が受けたと思えば、受けたことになってしまう。

大学院で教鞭をとる大学教授というのは、もちろん先生にもよるが、研究者9割、教育者1割(教育者0の人だって珍しくはないだろう)程度の意識しかない人が大勢いる。だから、学生の気持ちを考えて指導したり、懇切丁寧に教えてくれたりしない人も多い。

誤解のないように言っておくが、大学院なんてそんなもんで、それはそれでいいと思う。大学院生はもう立派な大人なのだ。手取り足取り教えてもらわなきゃ満足出来ない人の来るところではない。

学生の方にも、はっきりいって実力云々以前の問題の人だっている。何しろ、大学を卒業してから、まだ勉強しようという奇特な人たちだから、人間性に難のある人間だって少なくない。そんな相手に指導拒否したって誰が文句を言えようか。大学院は小学校ではない。

「研究成果を盗用された」ってのも、何かの誤解である可能性がある。もちろん、論文やレポートの剽窃は論外だが、院生というのは教授の研究の手伝いをしつつ学んでいくというのが基本だから、その成果がなんらかの形で教授の論文などに盛り込まれることは珍しくはないのだ。

ここまで、教授側に都合のいいことばかり書いたが、もちろん感情的な嫌がらせはあってはならないことだと思う。こういう訴えが出ること自体、少なからずそういう感情的な嫌がらせがあることを示しているのだと思う。もちろんセクハラなんかは論外である。

そういう感情的な嫌がらせは、大学内の派閥や思想、宗教などに起因していることが多い。特に、派閥というのは、指導教授同士が仲が悪いとか、研究の方向性が違うなど、子どもじみた理由で学生にまで被害が及ぶことは珍しくない。分かりやすくいうと「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というやつである。

教授同士が仁義なき戦いをやるのは、見ていて面白いし(失礼!)勝手にやっていていただいていっこうにかまわないのだが、その下にいる将来のある院生にとっては迷惑きわまりない。それが、大学院入試の結果に影響を及ぼしたり、就職に関係したりするから文句が出るのである。

そもそも、大学院なんてのは実力の世界であってしかるべきだ。実力重視でフェアにやっていれば、多少怒鳴りつけようと、指導拒否しようと、誰も文句は言わないのである。「○○ちゃんは××先生の弟子だから・・・」そんな会話が聞こえなくなれば、この問題もおのずとなくなるだろう。
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池上本門寺のお会式に行ってきた。もともと、今日だというのをすっかり忘れていて、学校で言われて帰りがけに行ったので写真はない。ごめんなさい。

お会式(おえしき)ってのは、日蓮聖人の命日の法要をいう。全国の日蓮宗のお寺で営まれているが、なにしろ池上本門寺は入滅の地なので、全国最大規模である。

このお祭り、日蓮宗徒と大田区民以外にはあまり知られていないが、はっきりいって浅草の三社祭をもしのぐファナティックなお祭りである。おそらく関東ではこれ以上にぎやかなお祭りはないんじゃないだろうか。僕は日本のカーニバルだと思う。

今日はそのもっとも盛り上がる「万灯練り行列」の日だ。電飾ばりばりの万灯(説明できないので、上のリンク参照)と、まとい(理由はわからん)、日蓮宗のお約束うちわ太鼓、かねなどで構成される、幾つものグループ(日蓮宗関連のグループとまったく関係ない単なるお祭り好きグループがあるらしい)があって、グループによってリズムが違うのがおもしろい。さしずめ、チンドン屋の全国集会のような騒ぎである。

昔はよく、生徒から「まとい回すから見に来てくれ」なんていわれたものだが、あまりにたくさんでているので、行ってみた所でどこにいるやら皆目わからない。だんだん夜も更けてくると(昔は午前0時をすぎてもやっていた)、自分の子どもとまといの区別が付かなくなったオッサンが、まといのかわりに子どもをくるくる回しているのをみて唖然としたものだ。

今日は平日であることもあってか、昔みたほどではなかったが、それでもすごい騒ぎだった。太鼓とかねというと、京都の祇園祭を思い出すが、お会式はバカっぷり(悪口ではないので誤解なきよう)が桁違いに違う。もちろん、お祭りの必須アイテム、異常に張り切るヤンキーも健在だ。

今年は終わっちゃったけど、一生に一度は見る価値があるので、みなさん来年はぜひ行きましょう。
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別の記事を書こうと思っていたら、またNightmareを思い出しちまったぜ、Brother!

それは、二年前のことだ。仕事に行こうと思って、俺は自分の部屋を出ようとしたんだ。Hurry up!遅れちまうぜ!だから、俺は扉を閉めるのがちょっと乱暴になった。Yeah!

乱暴になったなんていっても、たいしたことない。あんまり乱暴にすると扉が壊れちまうからな。それほど俺の部屋の扉はボロいんだ。

ちょっと長くなるが、ここで、俺はボロアパートのことを紹介しなくちゃならない。写真を見てくれ。
アパートの扉

俺のアパートは部屋の入り口が今時珍しい引き戸になっているんだ。この引き戸を開けて、廊下に出て、さらに廊下の扉を開けて外に出る。この写真は部屋の扉と柱の間だな。

で、柱の方を見てくれ。何かヘンな金具が付いているだろ。これは消火器を止める金具なんだ。この金具が消火器の安全装置を兼ねていて、いざというときには、ここから消火器を外せば、安全装置も外れる仕組みだ。もう消火器はないけどな。

もう分かっただろ、brother!

そう、俺が扉を閉めた瞬間、その衝撃で消火器が落ちたんだ。

Oh No!

叫ぶ間もなく、そいつは消火剤を噴出した。

Brother!知っているかい?消火剤はピンク色の粉なんだ。あっという間にそこは、

Pink! Pink! Pink! Pink! It's a pink world! Yeah!

そうさ、俺はその瞬間、Pink worldの住人になったんだ。Fantastic!

でも、このPink worldにはアリスもチシャ猫もいないぜ。あるのはただ、pinkな空間だけだ。Yeah!

とにかく、俺はこの忌々しい、Pink worldを手探りで脱出を試みた。廊下の扉なんて、歩いて三歩ぐらいなのに、このときは100マイルぐらいに感じたぜ。Yeah!

俺はやっとのことで廊下のドアノブを探し当てて脱出に成功した。だが、不思議なことが起きたんだ。信じられるかいBrother!俺が出たのは正真正銘、屋根も何もない屋外のはずなんだぜ。ところがそこはやっぱり、

Pink! Pink! Pink! Pink! Pink world!

しばらく、俺はわけも分からず、手探りでPink worldをさまよった。まだどこかに出口があるはずだ。壁に頭をぶつけてやっと気づいた。俺は眼鏡をしていたんだ。

眼鏡を手でぬぐうと、そこには見慣れた景色が広がっていた。そして俺はPink manになっていたんだ。So cool!

一時は一生Pink worldから出られないかと思ったぜ!

Brother!知っているかい?消火剤は甘いんだぜ。
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