2007年02月

パワー・フォー・リビング

怪しいサイトの作り方のエントリの冒頭に書いた、「怪しい本」とは、『Power for living(パワー・フォーリビング)』である。

『Power for living』でピンとこない人には、TVCMで久保田早紀だのジャネット・リンだのヒルマン監督だのがでて、「人生が変わった」とかいっているアレといえば分かるだろう。

なにしろ怪しいCMで、申し込むと無料で冊子を送ってくれるという以外なんだかよくわからない。「知りたい」という知的欲求を狙っているのかもしれないが、「知りたい」以前に、そんなわけの分からないところに「住所など教えられるか」というのがあのCMを見た人の感想だろう。

さて、「この本を読んで人生が変わった」という「この本」とはどんな本か?

一言で言うなら、「聖書を読んでクリスチャンになろう」という本である。いろいろなブログで詮索されているような、新興宗教がらみのものではない。表紙に十字架の一つでもあれば一目瞭然なんだが、写真にもあるように紺の表紙に「Power for living パワー・フォー・リビング」と書いてあるだけ。扉には聖書の引用があるから、別に隠そうとしているわけじゃないと思うが、かえって怪しさ満点である。

第1章に例のコマーシャルに出ている人たちの短文もある。しかし、なぜか「この本を読んで・・・」というくだりが書いていない。クリスチャンになった理由は友人に誘われて教会にいったとか、どう考えてもPower for livingを読んでクリスチャンになった感じではない。どうもコマーシャルでいっている『この本』というのは『聖書』そのものを指すらしい。それならそうといえばいいのに、言わないからますます怪しい。

例のCMに莫大なお金をつぎ込んでいるのはアーサー.S.デモス財団という団体である(これまた表紙には書いていない)。奥付には所在が書いていない。この本の巻末はに、アーサー.S.デモス財団への手紙が付いているのだが、あて先は「赤羽郵便局私書箱○号」となっている。「住所は教えねえぞ」ってことらしい。裏面にはこっちの氏名・住所・電話番号を書く欄があるから、怪しい以前にいくらなんでもこれはちょっと失礼だ。

第1章には、そのアーサー.S.デモス氏(故人)の文章も載っている。それによると、彼は10代後半に馬券売り場を経営して大もうけ、後にNY証券取引所上場企業のCEOとなった大金持ちだったそうだ。そのお金で、この本を世界に広めているらしい。なんだか邱永漢先生の「お金儲けは難しいが、使うのはもっと難しい」という言葉を思い出した。

第2章以降が本題となるのだが・・・ごめん、コメント不能。何言ってんのか全然分からない。これ、本当に非クリスチャン向きに書かれているのだろうか。読み進めるのに脳ミソがイヤイヤをするのだ。

ただ、ざっと読んだところ、特定の宗派に勧誘するものではないようだ。だから、中身は表紙ほど怪しくない。原理主義的なものを感じるが、過激な文言があるわけではない。

たぶん、怪しくないようにしているつもりが、ますます怪しくなっちゃっているんだろう。キリスト教徒の多い国ならこれでもいいのかもしれないが(よくないと思うが・・・)、自称無宗教の人の多い日本ではかえって反感をもたれるだろう。

とにかく、熱意が空回りした大金持ちってすごいなーと思った。
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最近話題の怪しい本をもらった。その本について書きたいのだが、まだちゃんと読んでいない。だから、怪しいつながりで、怪しいサイトの条件を考えてみた。

サイト(ホームページ)やブログをすでに持っている人やこれから作ろうとする人は参考にしてほしい。知らず知らずのうちに怪しいサイトにしてしまっている人が意外と多いのだ。

1.TOPのデザインがごちゃごちゃしている。
TOPのデザインがごちゃごちゃしていると、何か伝えたいものがあるのだなとは分かるが、何を一番伝えたいのか分からない。読む側からするとそういうのが一番不安だ。
また、文字がスクロールするとか、アニメーションgifを多用するとか、落ち着きがないのも、何か怪しいものを感じさせる。なんでだかわかんないけど。

2.リンクを制限している
「無断リンクは禁止します」とか「リンクの際はご連絡ください」とか「TOP以外のリンクは禁止」とか書いてある。
サイトを作るのは、自分の文章を他人に読んでほしいからである。それなのに、リンクを禁止するのは何かウラがあるんじゃないかと思われても仕方がない。実際、新興宗教や、ちょっと理解に苦しむ思想を主張するサイトにはこの文言が書かれていることが多い。
読む人を制限する必要があれば、サイトの側で制限する手立て(パスワードの設定とか)をするべきである。
また、TOP以外のリンクを禁止するのは、一見正しいようだが、読む側への押し付けにすぎない。せいぜい「TOPからご覧になることをお勧めします」程度にしておくべきだ。

そもそも、リンクとは「○○というページを参照せよ」といっているに過ぎない。「やたがらすナビを参照(これはリンク)」と書いてあるのと、「http://yatanavi.hp.infoseek.co.jp/を参照(これはリンクではない)」と書いてあるのはかかる手間がちがうだけでやっていることは同じである。なぜ、リンクだけがダメなのか。

3.書き手が見えない
どんな人物、団体が作っているのかが分からないサイトは怪しい。サイトの紹介とメールアドレスがないと、何かいえないことを隠しているんじゃないかと感じる。
たとえ、ウソでも書かないよりはまし。

4.観念的なタイトルをつける
ちょっと分かりにくいかもしれないが、「黄色は幸せの色」とか「シャボン玉飛んだ」とか、一見して内容がなんだか分からない観念的な題名は怪しく感じる。どうしても付けたければ、副題でフォローしよう。

Webサイトとは、書籍を模したものに他ならない。自分のサイトを本にして、書店や図書館に並んでいるさまを想像して作れば、それほど怪しいものにはならないだろう。
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六カ国協議の報道を見て思ったんだけど、

キム・ケガン



この人と

笑福亭鶴瓶



この人って似てない?
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2角の肖像
最近、中国のお札のほとんどが毛沢東の肖像になってしまってつまらない。だいたい、共産主義国家で、カリスマ的革命家の肖像なんて、外国人にとっていい印象を与えるはずがないのに、なぜこんなことをしたんだろう。そもそも、毛沢東自身、紙幣の顔にはするなといっていたような気がするが・・・。

それでは、毛沢東札になる前はどうだったかというと、まず100元紙幣が毛沢東・周恩来・劉少奇・朱徳の横顔で、すでに毛沢東が出ているが、これは4人の横顔だからまだいい。

50元はインテリ、農民、労働者の肖像である。名もない人を肖像にするってのが、いかにも共産主義っぽくっていい。インテリは眼鏡をかけているというステレオタイプもたまらない。労働者の額にあるものがなんだか分からなかったのだが、ドラマ「大地の子」を見ていたら、主人公の陸一心が全く同じものをしていた。これは、溶接などのときに使う防護眼鏡だった。

10元以下、1角までは、少数民族の肖像になっている。なかでも、2角紙幣の女の子がかわいいので有名だ。

読売新聞夕刊(2007/02/09)を読んでいたら、15面「地球びっくり箱」に、この二人のモデルが発見されたという記事(写真つき)が掲載されていた。この肖像、デザイナーが勝手に作り上げたものと思っていたが、モデルがいたとは驚いた。

記事によると、右側の女の子(朝鮮族)は吉林省の北朝鮮国境沿い出身の蘇さんで、17歳の時の写真だそうだ。左(土家族)は湖南省出身の黄さんで19歳、なるほど、いわれてみれば左の方がややお姉さんに見えなくもない。お札のモデルは1979年春の「建国30周年民族展覧会」に集められた人たちで、当時は大変名誉なことだったらしい。

読売新聞の記事には、現在の蘇さんと、黄さんの写真も載っている。まだ40代前半で、なかなかの美人である。だが・・・なぜわざわざ写真を撮りに行って横顔を写さん、読売新聞!

ところで、2角の女の子は選ばれた理由が「才色兼備」ということで納得できるのだが、10元紙幣の左の爺さんはなんで選ばれたんだろう。漢族だから一番競争が激しいはずなのに。

たしかに、公園なんかで、こんな爺さんよく見かけるけど。彼らが漢族の代表ということなんだろうか。
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「丁重語」「美化語」加え、敬語5分類に…文化審答申:読売新聞

詳しくは上のリンクにある記事を読んでもらうとして、現在、尊敬語・謙譲語・丁寧語の三つに分類されている敬語を、「尊敬語」「謙譲語1」「謙譲語2(丁重語)」「丁寧語」「美化語」の5分類にしようというのである。これ、一体何の意味があるのだろうか。

敬語の分類を忘れた方のために、ちょっと説明しておくと、現代語では尊敬語とは相手方の行為を表現するときに使い、謙譲語は自分方の行為を表現するときに使う。例えば、「食べる」という単語なら、相手が食べるときは「お客さんがご飯を召し上がる」という尊敬語になり、自分が食べる場合は「私がご飯をいただく」という謙譲語になる。「ご飯を食べます」は丁寧な言い方で丁寧語である。

古典では、身分制度のからみがあるので、やや複雑になるが、現代語の場合は、誰を対象にしているかというだけの話なので、それさえ分かれば、非常にシンプルなロジックである。敬語法をうまく使えないのは、語彙を知らないこともあるが、慣れていないと何を対象にしているかとっさに判断できないからである。

学校などで、「尊敬語は相手を敬って言う言葉」「謙譲語は自分がへりくだって言う言葉」などと習ったりする。ついつい、「敬う」「へりくだる」の方に目が行くが、実は大事なのは「相手」と「自分」なのである。

この5分類では、謙譲語を二つに分けている。
相手を敬う尊敬語はこれまでと同じだが、自分がへりくだる謙譲語については、相手に敬意を表すかどうかで二つに分けた。「先生の所に伺う」のように、相手(先生)を立てる表現は謙譲語1、「私は海外に参ります」や「拙著」のように、自分に関することを控えめに表す言葉は謙譲語2(丁重語)とした。

こう説明されても、どこが違うのか全く理解できない。謙譲語2の例が相手を立てていないとも思えないし、謙譲語は自分(と自分方)の行為をへりくだって言うのに使うのだから、相手がいようがいまいが関係ない。

また、丁寧語については、「です・ます」のように、話し相手などに丁寧に述べる言葉を従来通り丁寧語とした上で、「お酒は百薬の長なんだよ」という時の「お酒」のように、話し相手への敬意を込めない場合にも使う表現を、美化語として独立させた。

これも全く意味が分からない。そもそも丁寧語はあくまで丁寧な言い方で、相手は関係ない。僕は、授業中、基本的に丁寧語でしゃべっているが、別に生徒に敬意をはらっているのではない。

どこからどう考えても、この5分類が「なぜ5分類なのか」「なぜ3分類ではいけないのか」「何の役に立つのか」さっぱり分からない。たぶん、審議会も分かっちゃいないんだろう。
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