NHKの「みんなの童謡」が好きだ。僕たちの世代は、童謡だの文部省唱歌だのなんてのは学校で習わなかったから、サビだけ聞いたことはあるけど、あとは皆目わからないってのが多い。通しで聞いてみると、「へー、この歌、こんな内容だったんだ」と意外な発見がある。
今、流れているのが「村の鍛冶屋」。僕が本物の「村の鍛冶屋」を見たのは中国のド田舎だった。そのときは無意識に歌ったが、歌えたのは1番だけで、あとは知らなかった。
この鍛冶屋の描写がうまい。実際に鍛冶屋を見ていなければ、こうは書けまい。僕は中国で村の鍛冶屋を見たときに、即座にこれを思い出した。さすがにふいごは使っていなかったが。
で、二番は、これ。
いっこく老爺というのは頑固者みたいな意味らしい。もちろん悪い意味でなく最後の行にあるように、堅い心を持っているという意味である。村の鍛冶屋は妥協しない。鉄<腕<心の順に硬いわけだ。
「早起・早寝の、病知らず」は耳が痛いね。続いて三番。
この三番がいい。前半は刀以外はなんでも作ることを農具の名前を列挙して表現している。
働き者の村の鍛冶屋は働くための道具を作るが、戦うための道具は作らないのである。
「平和のうち者」と「日ごとに戦う」が対になっている。平和のうち物を休まず打つ鍛冶屋も、唯一戦わなきゃいけない敵がいるのだ。それが「懶惰の敵」である。懶惰とは「怠ける」の意で、さすがの働き者でも怠け心がでることがあるのだろう。
働けば、儲かる。いい仕事をすれば儲かる。正直な労働を賛美しているのである。それにしても「かせぐにおいつく貧乏」という表現がおもしろい。
つまり、この歌は平和賛歌であり、労働賛歌なのである。こういうテーマの歌は、一歩間違えると左翼っぽくなってしまうが、そうなっていないところに、作詞者(不明)の力量をうかがわせる。
ところで、北朝鮮の怪獣映画プルガサリに、こういう「村の鍛冶屋」がでてくる。もしかしたら、鍛冶屋の持つイメージというのは万国共通なのかもしれない。
今、流れているのが「村の鍛冶屋」。僕が本物の「村の鍛冶屋」を見たのは中国のド田舎だった。そのときは無意識に歌ったが、歌えたのは1番だけで、あとは知らなかった。
暫時(しばし)もやまずに 槌うつ響。
飛び散る火の花、はしる湯玉。
鞴(ふいご)の風さえ 息をも継がず、
仕事に精出す 村の鍛冶屋。
この鍛冶屋の描写がうまい。実際に鍛冶屋を見ていなければ、こうは書けまい。僕は中国で村の鍛冶屋を見たときに、即座にこれを思い出した。さすがにふいごは使っていなかったが。
で、二番は、これ。
あるじは名高き いっこく老爺、
早起・早寝の、病知らず。
鉄より堅しと ほこれる腕に
勝りて堅きは、彼がこころ。
いっこく老爺というのは頑固者みたいな意味らしい。もちろん悪い意味でなく最後の行にあるように、堅い心を持っているという意味である。村の鍛冶屋は妥協しない。鉄<腕<心の順に硬いわけだ。
「早起・早寝の、病知らず」は耳が痛いね。続いて三番。
刀はうたねど、大鎌・小鎌、
馬鍬に作鍬、鋤よ、鉈よ。
平和のうち物 休まずうちて、
日毎に戦う、懶惰の敵と。
この三番がいい。前半は刀以外はなんでも作ることを農具の名前を列挙して表現している。
働き者の村の鍛冶屋は働くための道具を作るが、戦うための道具は作らないのである。
「平和のうち者」と「日ごとに戦う」が対になっている。平和のうち物を休まず打つ鍛冶屋も、唯一戦わなきゃいけない敵がいるのだ。それが「懶惰の敵」である。懶惰とは「怠ける」の意で、さすがの働き者でも怠け心がでることがあるのだろう。
かせぐにおいつく 貧乏なくて、
名物鍛冶屋は 日々に繁昌。
あたりに類なき 仕事のほまれ、
槌うつ響に まして高し。
働けば、儲かる。いい仕事をすれば儲かる。正直な労働を賛美しているのである。それにしても「かせぐにおいつく貧乏」という表現がおもしろい。
つまり、この歌は平和賛歌であり、労働賛歌なのである。こういうテーマの歌は、一歩間違えると左翼っぽくなってしまうが、そうなっていないところに、作詞者(不明)の力量をうかがわせる。
ところで、北朝鮮の怪獣映画プルガサリに、こういう「村の鍛冶屋」がでてくる。もしかしたら、鍛冶屋の持つイメージというのは万国共通なのかもしれない。