2008年02月

ゆとり教育の弊害だなんだといっているが、ゆとり教育の弊害をさけぶ人に限って、その本質が分かっている人はほとんどいない。かくいう僕も分かっていない。しかし、本質が分かっていない人に限って、大声で弊害をさけんでいることだけはよーく分かる。

びっくりすることに、ゆとり教育は教師が楽をするために始まったと思っている人がいる。こういう人はたいてい日教組がドータラとなるわけだが、トンチンカンもはなはだしい。この程度の知識しかない人にゆとり教育の弊害を語る資格があるとは思えない。

たしかに生徒の授業時数は減った。だが、教師の持ち時間数は減っていない。なぜなら、教師の持ち時間数というものは大体決まっていて、端数が出たら非常勤講師などに授業をさせるからである。

仮に生徒数が変わらず、授業時数が減ったならば、非常勤が減るか、専任を減らして非常勤で穴埋めするかのどちらかである。したがって、教師の持ち時間数が減るなどということは論理的に考えてありえない。

土曜日が休みになったのも、生徒の休みが増えただけである。教員はそれ以前から研修日というものが週一日あり、事実上の週休二日だった(地域にもよるが)。

僕の感覚では、ゆとり教育以後、教師の負担は増え続けている。時数と同時に、たしかに内容も減ったのだが、減った時数に見合うほどには減っていないのだ。さらに、ハッピーマンデーで月曜日の授業が減った結果、月曜に当たっている授業は授業時数が足らず悲惨なことになっている。

今は多くの公立学校で、学校公開日を設けている。ゆとり教育の弊害を叫ぶ前に、授業を見に行ったらどうか。おそらく、今なら貸しきり状態で授業が見られるだろう。

それにしても、どうしてこうも教師の仕事を増やそうとするのか。教師の仕事は少ないほど良い教育ができるのは、常識で考えれば分かることである。
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ある高校の授業にて・・・

中川:恋空とかさあ、面白いか?あれ。
生徒:面白いじゃなくってチョー感動、泣ける!
中川:いや、感動もしなかったし、全然泣けなかった。だいたい話がウソくさすぎるだろ。学校の図書室で×××って、なんだあれ。
生徒:大人は心がピュアじゃないから感動しないんだよ。
中川:ピュアなほど、感動できないね。第一、あんなのオレでも書けんだろ。
生徒:先生には絶対ムリ。泣けない。
中川:泣かぬなら、泣かせてみよう・・・国語教師なめんなよ!

というわけで、携帯小説を書くことになった。

携帯小説といえば、美嘉先生も御用達の魔法のiらんどである。そこで、まず手始めに魔法のiらんどのアカウントをとってみた。

アカウントの取りかたは簡単。まず、新規登録のフォームにメールアドレスを入力、送信する。すると、ほどなく、会員登録ページのURLが書かれたメールが送られてきて、そこでIDとパスワードの設定をすれば完了。

これで、同時にサイトトップ(ホームページ)が作られている。ログインして、適当にフォームにいろいろ書き込んでいくと、オリジナルのトップページが作れる。

型はきまっているものの、背景色や文字色も簡単に設定でき、HTMLタグや魔法のiらんど独自のタグを書き込むこともできるので、ある程度のカスタマイズができる。

サイトトップには、「機能」というリンクが含まれる。機能にはプロフィール、ブログ、掲示板、アルバムなど考えうる一通りのもののほか、携帯小説をUPする「BOOK」や、ネットショップが開ける「お店」など、他の無料サービスには見ないようなのもある。なお、すべての機能はこちら。SuperGMモードとか化粧バックって何だ?

これらを任意に組み合わせてオリジナルホームページを作っていく。もちろん携帯用のページも自動的にできている。早い話がCMSだ。

あまり細かいカスタマイズなどはできないが、このシンプルさは逆に好感が持てる。これだけの機能があるのに、どれも直感的にできるのは、かなり考えて作られているからだろう。あれを足して、これを削除してと、気がついたら結構ハマっていた・・・恥ずかしいぞ。

半角カナとか絵文字とかを使ったりしているので、実はちょっとバカにしていたのだが、これはあなどれない。すくなくとも、mixiよりもはるかに面白い。mixiってあんまり考えて作られてないよね。

国交省 「道の駅」で天下り利権を確保 (ゲンダイネット)

僕は道の駅が好きだ。だから思いっきり擁護させていただく。以下、引用はゲンダイネットの記事から。

なぜ、道の駅が交通安全に役立つのか。さっぱり分からない理屈だが、どれだけの道路財源が道の駅に消えたのか。

何故交通安全の役に立つか分からないなら、地方の一般国道を自動車で100キロほどぶっ続けで走ってみればいい。自転車で100キロなら、なおさらありがたみが分かるだろう。これを書いた記者が、足で記事を書いていないことだけはよーく分かった。

「道の駅の整備などに利用される『交通安全施設等整備事業』の補助金は各自治体に一括交付されます。今年度の交付金額は5164億円。このうち、どの程度を道の駅に使うかは、各自治体の裁量任せ。道の駅の運営も全国の市町村があたり、我々はあずかり知る立場にありません」(国道防災課)

 血税をバラまくだけバラまいて、後は野となれ山となれ……。いかにガソリン税がウヤムヤのうちに勝手放題使われているかが分かる。

ならば、国がああしろこうしろといえというのだろうか。ゲンダイが地方分権に反対だということだけはよーく分かった。

道の駅は地域のショールームのような性質をもっている。ここにいけば簡単にその地域の情報が手に入るのである。これは、各自治体の裁量任せだからこそできることだ。ゲンダイの批判はトンチンカンである。

増殖する道の駅との競争に勝てず、多くの民間ドライブインが廃業に追い込まれた。民業圧迫の末、天下りOBを養うためにガソリン税が消えているなんて、やりきれない話だ。

廃業したドライブインには申し訳ないけど、これも賛成できない。天下りOBは別として、廃業に追い込まれる民間ドライブインなんて、たいがいが追い込まれてもしようがないようなものである。

バカ高くて、ちっともおいしくない料理、しょうもないみやげ物、無愛想な店員、そういうドライブインの記憶がある人も多いだろう。そんなのはつぶれて当然。そうでない、ちゃんと自助努力をしているドライブインはちゃんと生き残っているから心配ない。

地元の特産品を手軽に買うには、道の駅に行くのがもっともてっとりばやい。地場産業などはいい宣伝になる。働く場所のない過疎地では、道の駅が雇用を作っている例もある。ほとんど車が走らない高速道路を作るよりはよっぽどましである。

道の駅は地方格差是正の切り札として世界的に注目されている数少ない日本独自の公共事業だ。世界中に日本発の公共事業が広まるなんて、考えただけでも痛快ではないか。

国交省天下りの件はようしらん。叩くならそこだけ叩け。役人叩きゃいいってもんじゃないんだよ。

どういうわけか、日本人は中国のこととなると、冷静ではいられなくなるようだ。最近の餃子事件でも、ちょっとでも中国を擁護しようものなら、親中派などと呼ばれてしまう。日本では親中か反中しかないらしい。

「社会主義だからどうだ」とか「一党独裁だからこうだ」というのもよく聞く話だが、たいがいは見当違いで、実は大昔からの習慣だったりする。反論すると今度は親中ということになるので、ばかばかしいことこの上ない。

そんな中、宇野精一先生の思い出のコメント欄で紹介された、宇野哲人『清国文明記』を読んだ。辛亥革命前後の中国を描く紀行文である。

とはいっても、辛亥革命という時代はあまり関係ない。中国哲学の碩学らしく、漢文由来の簡潔な文章で、中国と中国人の普遍性をあぶりだそうとしている。

だから、ここに書かれているものの多くは現代の中国でも見ることができるし、ガイドブックとしても十分に役に立つ。

さて、この本の序に次のようにある。

千数百年来、我が国との交際ははなはだ密接にして、わずかに一衣帯水を以て相距てたる中国の国情は、すでに明白でなければならぬはずで、実はすこぶる明らかでない。
古の聖経賢伝を読みて中国を解するものは、聖賢並び起こり賢良雲の如き中国は、実にこの世における理想郷なりとしている。中国は果たして理想郷なるか。
世人往々にして自己の乏しき経験を本とし、ただちに中国人を漫罵して忘恩背徳度しがたいものとなすものがある。中国国民は果たしてかくの如く漫罵し去るべきか。

日本人の中国観は、大正時代からまったく進歩していないのである。
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成人を18歳からにしようという論議があるが、僕は反対だ。

僕の経験から言えば、日本では一般的に18歳ではガキとしてしか扱われない。それどころか、30歳ぐらいまでは一人前として認められないのが現状だろう。

例えば、20代の人が会議などで発言しても「若造のタワゴト」として一蹴されてしまうというのはよくある話だ。社会的には一人前の大人として認めないくせに、責任だけ負わせようというのはムシのいい話である。

逆に、選挙権だけ、胎児から7歳ぐらいまでの子供に与えるというのはどうか。

現在、選挙権は20歳以上すべての日本国民に与えられている。将来的に考えると、これからは、年寄りがたくさん票を持つことになる。これでは年寄り優先の政策を掲げる政治家が有利になる。

すると、日本は若者を犠牲にし、年寄りばかり住み心地のいい国になる。現在、すでにそうなりつつあるが、これではますます子供が生みづらくなり、少子化が進む。いずれ、国は滅ぶだろう。

そこで、胎児〜小学校入学までの子供に選挙権を持たせるのである。もちろん、彼らの意思はあてにはできないから、実際には親権をもつものが投票をする。つまり、子供の親はそうでない人よりも1票多く投票できるようにするのである。

親ならば、自分の将来よりも、子供の将来を考えて投票するだろう。政治家もこちらに目を向けなければ当選できなくなる。これ、画期的だと思うんだけど、どうよ。
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コーヒービーンズチョコレート(缶)

ロイズのコーヒービーンズチョコレートを試してみた。その名の通り、コーヒー豆にチョコレートがかけてある。

コーヒービーンズチョコレート(中身)

中身の見た目は、金なら1枚、銀なら5枚で、おもちゃの缶詰が当たるアレにそっくりだが、味はぐっとアダルト。チョコレートの苦味とコーヒーの苦味がうまく調和している。コーヒー豆の歯ごたえもいい。ついでに入っているおもちゃのもなかなかいいデザインで、ペン立てに最適。

ポテトチップチョコレートに比べたら万人向きだが、最低限ブラックコーヒーが飲める人じゃないと、きついかもしれない。

コーヒー豆を買ってきたら、挽く前についつい年の数だけかじっちゃう人にはストロングバイ。
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ポテトチップチョコレート(箱)

ロイズのポテトチップチョコレートを試してみた。下の写真のように、波型のポテトチップの片面に、チョコレートがかけてある。波型の谷の部分にチョコレートがたまっているから、どちらかといえばチョコレートの味が強い。

ポテトチップチョコレート(中身)

うーん、これ微妙だなー。万人ウケするお菓子じゃないな。

まず、食感は巨大なチョコフレークといった感じ。もちろん、ポテトチップがベースだから、サクサクしているのだが、チョコレートのせいで重く感じる。

味はあたりまえだけど、チョコレートとポテトチップを足した味。ポテトチップには、ちゃんと塩味が利いていて、それがチョコレートの甘さを引き立たせている。

決してまずくはないのだが、頭の中でこれはポテトチップの味、これはチョコレートの味と分けてしまう。なんとも微妙な味だ。もしかしたら、別々に食べた方がうまいんじゃないだろうか。

それにしても、ポテトチップとチョコレートといえば、高カロリー菓子の代名詞である。大丈夫か?
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「○○のくせに」で炎上の女子東大生 ブログ「復活」と「さよなら」
問題のブログ「あふじゃで研修中」(07年11月11日)の内容は、半分残したコロッケをインドの子どもに渡そうとしたところ拒否されたとして「せっかく恵んでやろうと思ったのに」「こじきのくせに」とするものだった。

このブログ、僕も読んだんだけど、物乞いの子供をさげすむ態度やら、「こじき」という言葉遣いを云々する前に、東大生のノーミソってのはこんなもんかと思った。

物乞いというのは、物を乞うから物乞いなのである。乞いてもいないのにくれる物はもらわない。

言葉遊びみたいだが、要するに、いつもくれる常連さんは別として、普通の人は乞われないと食物はくれない。それなのにくれるのは何かあると彼らは判断する。その食べ物には、もしかしたら危険な毒物が入っているかもしれないのだ。

彼らは絶えずそういう危険にさらされている。弱い子供などは特にそうだ。ここで、ワケのわからない日本人から食べ物を受け取らないのは、生きていく知恵なのである。

東大生だからといって人格者であるとは限らない。しかし日本の最高学府の東大生ならば考える人であってほしい。

物乞いの子供がコロッケを受け取らないなら、なぜ受け取らないのかを考えるべきだ。たとえそれが、お腹がいっぱいなのだろうという程度の結論でも、考えないよりはずっとましである。

「コロッケをあげれば喜ぶはず、喜ばないのはナマイキだ」という思考しかできない日本の東大生と、日々危険にさらされながらしたたかに生きていくインドの物乞いと、どちらに未来があるのだろうか。
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日本の書道界というのは、確実に上下関係があるわりに、その上下関係がはっきりしない世界である。芸術だからはっきりしないのがあたりまえだが、なまじ「書」なんて名前がついているから、シロート目には剣道や柔道みたいに勝ち負けのはっきりした世界だと思われてしまう。

例えば、よく聞かれて困る質問に「何段ですか」というのがある。前にテレビを見ていたら、レポーターがさる有名なセンセイに「先生は何段ですか」と聞いて、先生苦笑して「私は先生だから段はありません」と言っていた。

実は、段位というのは所属する会(社中という)や教室によって基準が違うから全く目安にならないのである。

むしろ、ほとんどの社中では、一定の段位になると、師範とかになってしまうから、段といっている状態ではシロート同然である。もちろん、社中に入っていない無所属の人は段も師範もない。

もう一つのポイントに、公募展の入選回数というのがある。そういう公募展の中には「日本ナンチャラ展」みたいな、日本を代表しそうな(でもマイナー)なのもたくさんあって、シロートさんは「うちの先生は日本ナンチャラ展に何回入選したから偉い」とか言い出して困るが、自慢できるのは日展・毎日展・読売展ぐらいである。

それでも、そういう公募展に批判的な人もいて、公募展には一切出さず、個展などで活躍するセンセイもいるから、公募展に入選回数が多いのは実力があるとはいえるが、出していないからといって実力がないとはいえない。

そうかと思うと、実力はそれほどでもないのに、テレビなどのメディアに出て突然有名になっちゃう人もいる。

そこで、僕は演歌歌手比喩法を提唱したい。北島三郎クラスとか、細川たかしクラスとか、氷川きよしクラスとか演歌歌手に譬えて分けるのである。これなら、一般の人にも非常にわかりやすい。

例えば北島三郎クラスなら、日展役員ぐらい。細川たかしクラスなら、日展の会員ぐらい、氷川きよしなら日展入選ぐらいだろうか。

この方法だと、公募展には出さないメジャー作家を冠二郎クラスにするとか、地元だけで有名な叶れい子クラスとか、もっとマイナーなカラオケ教室の先生クラスとか、地味に作品を作り続けるゴールデン街の流しクラスとか、きめ細かく分けることができる。

ただし、このクラス分けは、センセイの収入とは全く連動していないことは、書道界の常識である。
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3大紙のコンテンツを結集してポータルに対抗するつもりらしいあらたにすだが、絶対に対抗できなさそうだ。

新聞を読み比べるのがテーマみたいだが、記事を読み比べるのではなく、紙面を読み比べるというのがミソで、非常に古臭い発想である。インターネット上のニュースなら、それが一面にあるか社会面にあるかはあまり関係ない。

それも記事の一部(全部を読むには、リンク先の新聞社のサイトに飛ばなければならない)を適当に抜き出しているだけだから意味がない。こんなのなら、新聞そのものの一面を画像にして並べてもらったほうがはるかに便利である。

読み比べるといっても、朝日・読売・日経の三社しかない。日経は毛色が違うから、日経を読みたい人は直接日経のサイトを読むのではないか。結局、新聞を読み比べるのがテーマなら、GoogleNewsの方がはるかに便利である。

社説が読み比べられるのは一見面白そうだが、同じ日付の社説をならべているのは何の意味があるのだろう。ここはテーマごとにならべるべきだろう。

唯一使えそうなのが、書評である。ところが、これも問題がある。朝日と読売は、自分のサイトの書評欄にリンクしているのだが、日経はリンクしていないのである。Web上に公開していないからだが、これを機に公開してほしい。

結局、新聞の宣伝にしか見えてこない。これでポータルに対抗とは片腹痛い。インターネットでは、かなり早くからサイトもっていた朝日新聞が参加しているのに、ナサケナイ話である。

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