2008年05月

Hey Brother!久しぶりだな。ところで、今日は最後に素敵なプレゼントがある。ぜひ受け取ってくれ。Yeah!

ところで、君はホヤを食べたことがあるかい?

俺はもちろんある。なにしろ食うために一晩車を飛ばして岩手まで行ったことがあるぐらいのホヤ好きだ。Yeah!

今日は近所のfish shopで見つけたんで、迷わず買ったんだ。So cool!もちろん捌くのは初めてだ。

まず、こいつの殻を、俺の愛剣Henckelsでざっくざっくと豪快にcut!。

Goddamn!ホヤの反撃、臭汁splash!

It stinky!

Kitchenが磯のsmell!smell!smell!

ほや(殻を切る)

だが、こんなんじゃ俺は動じないぜ!剥く!剥く! 剥く!

ほや(剥く)
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もう一つのじゃない方の薬師寺展に行ってきた。

あまりに話題になっているので、あまり書くことはない。

日光・月光菩薩ってでけぇ!

6月8日まで。以上。続きを読む
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僕の書作品には500万円の値が付いたことがある。はがき大の書でこれほどの値が付いたのは日本広しといえども僕ぐらいなものだろう。

これは、冗談ではない。実際500万円の値札が付いたのだ。もっとも、値札を付けたのは僕である。もちろん売れるはずはない。

ときどき「○○展にも出品している有名な○○先生に習ったのだが、○○先生の作品はいくらで売れるか」と聞かれることがある。どういうわけか、有名なというわりに、聞いたことない作家であることが多い。

こういう場合、「あなたは親愛なる○○センセイの作品を売り飛ばすつもりですか。売るなんて考えずに、大切に持っていればいいじゃないですか」と答えることにしている。

どうも、市場経済というものがわかっていない人が多いようだ。書作品だって商品だから、値段は需要と供給で決まる。

僕の作品を例にとると、500万円の値をつけても需要がないから売れないのである。だが、この時、僕はこの作品を500万円未満で売る気はなかった。だから、この作品に500万円の値が付いたというのはウソではない。

日本人には家に絵(画家が書いた本物の・・・である)を飾る習慣がない。まして、書となれば、せいぜい床の間ぐらいなものである。

絵を飾る壁のない家はないが、床の間のある家は少ない。たとえあったところで、レプリカか、どこかの坊さんの書、もしくは骨董品の書が飾ってあるぐらいで、書家の書が飾ってあるのはまず見ない。

つまり、現代の書家が書いた作品には需要がないのである。だから、○○先生の作品の価値なんてないも同然だ。

それでも、私の作品はいくらで売れるとか自慢する人がいる。そういう場合どうするか。僕の方法では「いくらで売った」とは言えても「いくらで売れた」とはいえない。それでは需要をどうするか。

答えは簡単。弟子に買わせるのである。弟子にとってはお布施みたいなもんだし、尊敬するセンセイの作品だから、喜んで買う(かならずしもそうでもないみたいだが・・・)。これで見事商談成立。センセイの作品に値が付いたわけだ。

こんなわけだから、センセイの書にいくらの値が付いたといっても、センセイから弟子以外にはまず売れない。演歌歌手比喩法でいえば、せいぜい森進一クラスでないと、美術品としては売れないか二束三文である。

もう一つ大事なポイントは、この流通の方法では、センセイが死んだら値が下がるということである。

本来、美術品は一点ものだから、作家が死ねば供給が止まるので値は上がるはずだ。ところが、書の場合(ほかの分野は知らないので)はちょっと違う。

弟子がセンセイの作品を買うのは、純粋にセンセイの作品がほしいからだけではなく、いろいろと下心があるからである。死人に下心はかなえられない。つまり、センセイが死んでしまえば、下心の分だけ安くなるのである。

そもそも、僕の経験では「いくらで売れるのか」という質問をされたことはあっても「いくらで買えるのか」という質問をされたことがない。売り手ばかりで、買い手がいない証拠である。

ちなみに、最初に書いた500万円の作品だが、友達にタダで上げてしまった。500万円相当の作品をタダであげちゃうなんて、なんと気前がいいんだろう、オレ。
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すばらしい文章なので紹介しておく。

何も知らない人程騒ぐもの・・:カテキン 的 中国株

私が声を大にして言えるのは、日本人と日本政府は違うし、中国人と中国政府も違う。
日本人にもどうしようもない人もいれば、素晴らしい人もいる。
中国人にもどうしようもない人もいれば、素晴らしい人もいる。

日本には素晴らしい部分があり、そうとう病んでいる部分もある。
中国にも素晴らしい部分があり、そうとう嫌な部分もある。
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5月6日からWindowsXP向けに正式に配布されているフォント、メイリオ(WindowsVISTAのフォント)を試してみた。

ダウンロードは、こちら(Japanese ClearType fonts for Windows XP)から。

最初は慣れないので、どうかなと思ったけど、慣れると以前のMSゴシックなどにはもどれない。ブラウザの表示フォントに最適。

ただし、次の点に注意。

1.斜体がない。
2.やや大きい(とくに横)ので、サイトによってはデザインが狂う。
3.ボールド(太字)がちょっとごつすぎる。
4.世の中には、フォントを指定しているサイトが多いんだなあ。

小さい字などは、かなり読みやすくなるのでオススメ。

まずは、四川大地震の犠牲者のご冥福と、一刻も早い救助・救援をお祈りしたい。

先日、胡錦濤主席が来日した。ニュースを見ていたら、筆でなにやら書いている映像が映っていた。ちょっと見ただけなので、よく分からないが、「中日友好 世世代代」とか書いていたらしい。

注目すべきはその書き方である。

雙鉤法(人差し指、中指、親指の三本で筆を支える持ち方)で筆を持ち、しっかり筆を立て、実にゆっくりと書いている。書道のお手本みたいな書き方で、一目でこの人は相当書けるなという印象を受ける。

実際に書いたものを見ても、これだけ書ける人は、書家を含めて日本人には少ない。そうとう練習していると思う。

胡錦濤的書法

以前、やはりテレビで小泉純一郎元首相が、なにやら書いているのを見たことがある。

こちらはどこからどうみても殴り書きで、ちょっと心得のある者からすると(自分の実力は置いておいて)とても見られたものではなかった。いかにもパフォーマンスという感じで、軽薄な印象を受けた。

パフォーマンスという点では、胡錦濤主席も同じだろう。彼らの書がどちらもパフォーマンスだとすると、それを受け入れる側の違いが見えてくる。

政治家は、国民に支持されなければならない。いくら中国が民主的でないといったところで、これは政治家の宿命である。もちろん、民主国家である日本の場合はいうまでもない。したがって、パフォーマンスをするなら、国民により支持されるようにするはずだ。

胡錦濤主席と小泉元首相の書き方から察するに、中国人はゆっくり丁寧に書く人物を支持し、日本人はすばやく書く手馴れた風に書く人物を支持するということだろう。

書道の先生という立場でいうと、すばやく書いても上手ければいいが、下手なのがすばやく書くのは感心しない。

この上手い下手は、筆が使えているか使えていないかという意味である。小泉元首相の書き方は筆が使えているようには見えなかった。だから、単に乱雑に書いてごまかしているようにしか見えない。要するに、ハッタリなのである。

ハッタリが悪いとは言わない。政治の世界では大いに必要なことだろう。小泉元首相があれだけ支持され、今も一定の層に支持されているのを見ると、十分効果があったといえる。

だが、文化という側面で見たときに、ああいう書き方は文化を破壊しているといってよい。政治家は書家ではないから、上手い必要はない。しかし、どうせ書くなら、下手でもゆっくり丁寧に書いて欲しかった。

ところで、このエントリを書く際に面白いブログ記事を見つけた。日本の党首(2005年8月時点)の色紙を集めたものだが・・・はてさて

書体から見る「党首」:Independent 俺
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ファンタが好きだ。

あの、飲んでも絶対に健康になれない感じがいい。なれないどころか、飲みすぎれば確実に病気になりそうな感じさえする。

ファンタには焼肉屋がよく似合う。それも、壁に油がこびりついているような、お世辞にもきれいとはいえないような焼肉屋。大人はビール、子供はファンタというのが、かつて家族で焼肉屋に行ったときの定番だった。焼肉屋自体、健康的なイメージではないから、年に数回のハレの不健康だったのである。

前置きが長くなった。コカ・コーラから発売されている、ファンタふるふるシェイカーオレンジを試してみた。

「ふるふる」というオノマトペに軟弱なイメージがあるので、あまり期待していなかったのだが、意外にもうまかった。

固体のものを振って飲むようにしたドリンクは今までにもあったが(プリンなんとか、とか)、炭酸は初めてだ。

ゼリーの食感はわりとしっかりしている。そのゼリーに、炭酸の刺激という組み合わせが今までに経験したことがない感覚をもたらす。それでいて、たしかに昔焼肉屋で飲んだファンタオレンジの味である。

ゼリー状になっているせいで、ファンタ独特の不健康感が5割り増しぐらいに感じられる。そこがいいのだが、逆にいえば、この不健康感が嫌いな人は飲んではいけない。

そもそも、清涼飲料水とは、健康と引き換えに清涼を得るものである。ビタミンがどうとか、食物繊維がどうとか、しゃらくせえ。そんなに健康になりたかったら、養命酒でも飲んでろといいたい。

ファンタの不健康感を楽しめる人だけ、ストロングバイ。
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船場吉兆、使い回し「20年以上」…関係者証言:YOMIURI ONLINE

最近のニュースで一番びっくりした。

期限切れだの産地だのを偽装するぐらいだから、残したデザートぐらいを客に出していてももはや驚かないが、焼き魚やてんぷらまで二度焼き、二度揚げして出していたとはびっくりだ。

そんなことをしたら、かなり味が変わる。もともとの状態で一番おいしくなるように調理しているはずだから、まずくなることはあってもうまくなることはないはずだ。

一流料亭というのはブランドが命である。「船場吉兆だからうまい」そう思うから客が来る。もし、客が「船場吉兆はまずくなった」とか「言われてたほどうまくないな」と思ったら、自然と客は減るだろう。

こういう場合、ブランドは逆に作用する。だから、こういう味にかかわるインチキはとてもリスクが高いことである。

そのリスクを犯してまで経費削減をしたのだから、客はずいぶんナメられたものだ。もっとも、その状態が昨日今日に始まったことではないのだから高級料亭の客というのはその程度のものだということだろう。

屋台では目の前で調理するから、こういうことはまずおこらない。一流と言われる料亭が、屋台メシ以下だったというのは、そういう場所とは縁のない僕にとっては痛快な話である。
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やたがらすナビのリンク集で、個人名を書くときに「氏」を付けるようにしている。ハンドルネームに氏を付けるのはおかしいような気もするが、名前と同じようなものなのでよしとしよう。

中には迷うのもある。宣和堂電網頁をリンク集に入れたときは、作者が「宣和堂」と名乗っていたので「宣和堂氏ってのもヘンだよなあ」と思い「宣和堂による」としたら、なんかものすごくショックだったようなのであわてて書き直した。

しかし、堂号に対する敬称が分からない。「宣和堂主人」でいいような気もするが、本人「宣和堂の中の人」でいいという。だが、「中の人」では全然敬称になっていない。そこで「宣和堂の中のお方」にした。これならおおいに尊敬している感がある。いや、実際に尊敬している。

小谷野敦氏の田中貴子の「氏」の基準:猫を償うに猫をもってせよにこんなことが書いてあった。

『一冊の本』に連載している田中貴子の文章を読んでいると、やたらと人名に「氏」がついている。「笹川種郎氏」「芳賀幸四郎氏」「原勝郎氏」「サイデンステッカー氏」などである。いずれも物故者である。しかし「小林秀雄」「唐木順三」は呼び捨てである。有名人だから? じゃあサイデンステッカーは無名人なのか? 笹川臨風(種郎)など小林よりひと世代も上の物故者でしかも結構有名なのに氏つけなら、何が基準なのか。「学者」なら「氏」づけということらしい。田中が「学者主義者」であるのは何となく知っていたが、何か空恐ろしい気がするのである。


小谷野氏がいうように、論文などで人名を引用する場合、呼び捨てか、生きている人にのみ氏をつけるのが一般的である。

この「物故者には氏を付けない」というルールを守るのは簡単そうで、意外と難しい。とっくに亡くなったと思っている人が、元気に生きていたりするからである。だからいきおい「とりあえず氏つけとけ」ってことになる。敬称を付けられて怒る死者はいないからである。

で、実のところ田中貴子氏の基準はどうなのかというと、ブログでマイルドに反論している。

「源氏物語嫌い」の弁ーー朝日新聞「にっぽん人脈記」雑感:夏への扉、再びーー日々の泡

なお、池田氏は稲賀先生の恩師であるから、私は「孫弟子」という関係になるのだが、まさか泉下の池田氏はこのような外道の研究をする「孫」が出来るとは思ってもみなかったに違いない。私はここで「池田亀鑑」に「氏」をつけているが、これは直接学んだ方ではないためであり、稲賀「先生」は直接の恩師であるので「先生」をつけているのである。人口に膾炙しており、歴史的に周知されていると思われる人物に「氏」などとつけるのは、かえって失礼に思えて(柳田国男氏、というのは私にとっては据わりが悪い)つけない。私が「池田先生」などと呼んだら、たぶん池田氏が夢枕に立って、「わたしはあなたなど教えた覚えはない」と厳かにいわれるのがおちであろう。


なるほど、気持ちは分かるが、この基準は他人には分かりにくい。余計な詮索をされてもしかたがないだろう。

結局、すべて呼び捨てにするのが一番いいらしい。だが、いままで付けていたのに、いきなり呼び捨てにするというのも、なんか急に態度が大きくなったみたいでよろしくない。

誰か基準を作ってくれないか。何年以前に亡くなった人には氏を付けないとか。
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多摩川を下ってみた(前編)

しばらくいくと、中州が見えてきた。アオサギやウ、頭が黒くなったユリカモメ(ユリカモメは夏毛になると頭が黒くなる)がいる。上陸してみよう。

中州に上陸

この中州は細かい砂でできていた。もっと汚いヘドロのようなものを覚悟していたので、意外だった。

海岸の砂よりももっと細かい砂で、踏むと足が2センチほど沈む。砂だらけになるが、細かいのでサンダルに入ってもじゃりじゃりとした不快感はない。
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