2008年12月

今年はいろいろなことがあった・・・って毎年いろいろあるんだけど、個人的には結婚したことが大きい。

年前半に家さがしと引っ越し、後半に結婚にまつわるいろいろなこと、そのほか仕事上もいろいろあって、こういろいろあると、短く感じるのかと思ったらそうでもなく、今年の前半にあったことは、なんだか何年も前のことのように思える。忙しいと時間が短く感じられるものだが、やることがありすぎると長く感じるものらしい。

ところで、新婚旅行で行ったハワイの通貨は、いうまでもなく米ドルである。恥ずかしながら、この年になって初めて米ドルというものを手にした。

旅行に行く前に両替した米ドルはみごとなピン札ばかりだった。これが、聞きしにまさる安っぽいお札で、匂いまで刷りたての新聞みたいで安っぽい。なるほど、これならいくらでも刷れるなと思った。

今年の100年に一度とまで言われた金融危機は、簡単に言っちゃうと、アメリカがこのドル札を刷りすぎて信用が落ちたことが最大の原因である。サブプライムローン問題とか、リーマンショックは引き金にすぎない。

今年はドル札ばかりでなく、いろいろなものの信用が落ちた。食品とか、企業とか、政治とか。僕の関係している教育もそうだ。

しかし、ドルの正体が新聞紙の匂いのする安っぽい紙切れだというのと同様、どれももともとたいしたものでもないのに、勝手に信用してきたのではないだろうか。

クビを切られる派遣社員には、同じ非正規雇用の労働者として同情する。突然解雇して、住む場所も失うなんてふざけた話だ。

だが、派遣社員である以上、クビを切られる可能性があるのは分かっていたはずだ。派遣会社にしても、派遣先の企業にしても、そんなものを信用していたのは理解できない。

これは正規雇用の人にもいえることで、正社員になったら安泰と、会社なんてものを信用していたらいつかバカをみるだろう。

来年、それらのものが一気に信用を取り戻すなんてことはまずない。たぶん、そういうウソくさいプレミアム(付加価値)ははげ続けると思う。そんなもの、もともとないものなんだから、仕方がない。

これから、少なくなった信用できるものを探すか、自分だけを信用するかが分かれ道になるだろう。僕は経験として後者を選ぶべきだと思っている。

なんだか暗い話になったが、これはいいことだと思っている。くだらないプレミアムはない方がシンプルで分かりやすい。

最後に一言。

アメリカの硬貨、数字ぐらい書け!DimeとかQuarterとかわかりにくいんじゃボケ!

それではあと数時間になりましたが、よいお年を!
このエントリーをはてなブックマークに追加

23日から27日までハワイ(ハワイ島のカイルア・コナ)に行ってきた。書きたいことはいろいろあるけど、今は忙しくて書けないので、気づいたことを箇条書きにする。

1.コナはコーヒーの産地で有名だが、うまいコーヒーは飲めない。
そういう店はあるんだろうけど、なかなか見つからない。中国でお茶の名産地へ行けば、どこでもうまいお茶が飲めるのとは対照的。

2.へんな鳥がたくさんいる。
何の親戚筋だかわかんない鳥ばっか。

3.海岸が異常に狭い。
ハワイというとビーチだけど、コナのビーチはせいぜい50メートルぐらいしかない。小さい砂浜がいくつもある感じ。あとは溶岩でできた海岸ばっか。

4.地球とは思えない景色。
といっても海じゃない。海はたしかにきれいだが、そんなのは想定の範囲内。黒い溶岩とか、4000メートルもあるのにてっぺんが全然見えない山とか、わけのわからない植物とか、自動車のナンバープレートにも描いてある虹とか、いろいろ。

5.本当にピックアップトラックばっかだなー。
なんであんな車に乗るんだろう。荷物なんか載っていないのに。

6.サイクリングかドライブしたいなー。
道は広いし、ドライバーのマナーがいいので、運転しやすそうだ。

7.日本語が通じそうなところで通じず、通じなさそうなところで通じる。
ここで日本語は通じないだろうと思って英語でしゃべると、おもいっきり日本語で返事されたり、通じるだろうと思っていると全然通じなかったり、ややこしいよ。どっちかにしてくれ。

8.食べ物は基本的にまずい。
ただし、果物とビールは除く。うまい店が見つけられなかったからかも。食材だけど、ばかでかいショウガはうまそうだった。タマネギもうまいらしい。自分で料理すればうまいものが作れそうだ。

9.欧米人もデジ一(デジタル一眼レフ)持ってるのは年寄りだけ。
年寄りが一眼レフ好きなのは日本と同じ。なぜかニコンばっかり。キャノンも少々。それ以外はいなかった。

10.便器の高さがいろいろあるのは何故だろう。
同じトイレなのに、いろんな高さの便器がある。低いのはわかるが、やたら高い便器は誰のためだろう。

11.オバマグッズあんまりなかったよ。
ハワイ(オワフ島だけど)出身なのに。オバマTシャツ買おうと思ったが、一軒しか売っている店がなかった。それもクリスマスで休み。
このエントリーをはてなブックマークに追加

テレビを見ていたら、作法の先生だかなんだかが(僕はこの手の人種が大嫌いである)、12月25日を過ぎて元旦に年賀状が着かない可能性がある場合は、年賀状の日付を「元旦」ではなく「一月吉日」にせよと言っていた。

元旦に着かなかった場合、「元旦」と書いてあったら失礼だというのである。しかし、ちょっと納得できない。

もちろん「吉日」を使うことには異存ない。年賀状でなくとも、一般的に手紙の日付は「○月吉日」にするのが普通だからである。

しかし、一般的に手紙の日付は、着く日を書くのではなく、書いた日を書くものだ。例えば12月25日に出したのならば、「十二月二十五」か「十二月吉日」と書くべきだし、1月1日に出すのなら「元旦」でいいはずである。元旦に出していないのに「元旦」と書くほうが失礼ではないか。

などと、ぐちゃぐちゃ理屈をこねているが、すべてまだ年賀状を書いていない言い訳に過ぎない。久しぶりに書いたと思ったらしょうもない文章でごめんなさい。
このエントリーをはてなブックマークに追加

国立国会図書館の雑誌記事一覧でRSSを配信し始めたらしい。

NDLが記事索引をRSS配信する雑誌への道:egamiday3

これは画期的。で、とりあえず、国文学の主要雑誌のRSSを集めてみた。

国語と国文学
国語国文
文学
國學院雜誌
国文学:解釈と鑑賞
國文學 : 解釈と教材の研究
文学・語学
上代文学
中古文学
中世文学
近世文芸
解釈
説話文学研究
和歌文学研究
日本文学(日本文学協会)

とりあえず、こんなところにしておくが、いずれやたがらすナビの方にまとめようと思う。

蛇足だが、RSSってのはサイトの更新を知らせてくれるもので、例えば上の「国語と国文学」をRSSリーダーに登録すると、最新の「国語と国文学」の目次が分かるというもの。

詳しい使い方はRSS道あたりをどうぞ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

ここのところやたがらすナビのアクセス数が増えている。理由はだいたい察しがつく。卒論・修論の締め切りが近づいているからだ。

そこで、アクセス解析をつけてみた。アクセス解析は気になるから付けない主義だったのだは、つけない方が気になるので付けてみたのである。

まだ付けて三日しかたっていないのだが、予想以上にacドメイン(大学などの教育機関)からのアクセスが多い。もちろん一番多いのは、プロバイダドメインだが。

リンクはブックマークから来るのが多く、「やたがらすナビ」で検索して来るのもブックマークみたいなもんなので、これも含めると半数以上である。常連さんが多いということだろう。ただし、アクセス解析はトップページにしか付けていないので、ほかのページには検索から来る人の方が多いだろう。

他にも運営上いろいろ勉強になることが多いので、しばらく続けてみたいと思う。

念のため書いておくけど、アクセス解析で個人情報の収集などはできない。誰がアクセスしたかもわからない。いまどきそんなことを言っていては、どこのサイトも見られないのだが、それでも気になる人はjavascriptをOFFにして閲覧してほしい

【追記】
失礼しました。javascriptをOFFにしても無駄でした。サイトマップからどうぞ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

採用内定取り消し「悪質企業1か月以内に公表」…厚労相:YOMIURI ONLINE

内定取り消しが増えているらしい。

「取り消すような企業は先がないのだから、あきらめて就職活動をしなおせ」とかいっている人がいる。取り消された人の心情的にはそれでもいいが、もはやこれは彼らだけの問題ではない。

例えば、カレー屋が八百屋からジャガイモを納品する契約をしていたとして、倒産もしてないのに直前になっていらないというなんてことが許されるだろうか。そんなカレー屋は八百屋の信用を失うだろう。

八百屋にあたるものがはっきりしないから、企業は内定取り消しをするのだ。だが、八百屋は確実にいる。彼らはそれが見えていない。

内定取り消しをするような会社は、契約を履行できないような信用できない会社なのである。やっていることは不渡りを出したも同然である。もし、それが上場企業なら、証券取引所がリストをつくって公表すべきだろう。

先がどうなるか分からないのに、内定を出すからこういうことが起きる。昔の就職協定(11月1日内定解禁)があれば防げていたんじゃないだろうか。

企業の都合で就職協定を廃止し、企業の都合で内定取り消し、日本の企業は信用できない。
このエントリーをはてなブックマークに追加

お遍路映画『ロード88出会い路、四国へを見た。

あまり期待していなかったんだけど、予想通り、イマイチ、イマニ、イマサンである。

イマイチは、あまりにベタな展開で先が読めてしまうことである。唯一の救いは、主人公の明日香が最終的に白血病で死ななかったことで、骨髄バンクとのからみもあるのだろうが、これはよい。だが、逆にここまでベタな展開だったのに、アレ?と思う人もいるんじゃないだろうか。

イマ2はリアリティである。リアリティがないのではなく、余計なところであって、大事なところがない。

例えば、白血病の少女が歩き遍路するなんて、絶対に無理だろうと思うと、電車、バスに乗っていたり、ヒッチハイクをしたりして、実はあまり歩いていない。うまく辻褄をあわせている。これなら無理はないが、お遍路=歩きと思う人にとっては感動が薄くなる。

スケボー遍路も、一見リアリティがないが、意外と有効な手段で、僕が遍路したときも、キックボードで遍路していた人がいた。だが、そんなマニアックなアイディアいらん。

反面、ママチャリに乗って20日間程度で遍路なんて絶対に無理だし、明日香の母が偶然娘の写ったテレビを見ているとか、いい塩梅で警察が登場するとかちょっと都合がよすぎる場面が多く、大事なところでリアリティに欠ける。

イマ3はロードムービーとして面白くないという点だ。

四国にはもっとたくさんいい風景があるのに、そこは描かず、桂浜とか道後温泉とか、観光地として有名なところばかりでてくる。お遍路の過程もあまり描かれない。

それはそれでいいとしても、有名な場所なんだから映像で表現すればいいのに、いちいち字幕で説明しすぎだ。桂浜なんて竜馬の銅像でも映せば十分だし、道後温泉も本館でもちらっと映せばだれでもわかるだろう。これでは、まるでサザエさんのオープニングみたいで、観光ガイドでも見せられている気分になってくる。

それに、「疲れ」があまりにも描かれなさすぎ。焼山寺とか、岩屋寺とか、けっこうきつい寺が出てきたのに、街中にある石手寺とか善通寺と同じようにお参りするのは不自然だ。どういうわけか、88番だけがハードそうに描かれていたが、これでは88番についた感動がうすれてしまう。

全体に見て、映画ではなく、途中で殺人事件でもからめて「お遍路殺人事件」として2時間ドラマでやるべき作品である。
このエントリーをはてなブックマークに追加

先月の23日に秦野市の震生湖に行ってきた。

まずは、基礎知識。震生湖とは、関東大震災の時に、渋沢丘陵が山崩れを起こして出来た堰止湖で日本最新の自然に出来た湖らしい。ほら、興味が出てきたでしょう。で、行ってみた。

震生湖は秦野駅から2キロほどである。最初はバスで行こうと思ったが、なんと一時間に一本しかでていない。はやくもショボい雰囲気だ。

震生湖

写真でみるとなにやらいい感じだが、湖とはいうものの、不忍池よりも小さいぐらいで、水もあまりきれいではない。

それに、なんといっても、こんなに目立たない小さな湖なのに、釣り人がものすごく多い。まるで釣堀みたいだ。

釣り人というのは、一人二人でいると、なかなか情緒があっていいものだ。だが、どうも人数が増えると殺伐としていけない。そんなところで釣りしていて楽しいのだろうか。大きなお世話だけど。

寺田虎彦歌碑

湖畔には寺田虎彦の句碑があった。「山さけて成しける池や水すまし」と書いてある。ちなみに「水すまし」は夏の季語で、俳句に使われる場合アメンボのことを指すことが多いらしい。

湖畔に妙な小屋を発見。

井戸?

赤いペンキで書かれた文字が、なにやら禍々しいものを感じさせる。中に井戸が入っているのだろうか。入っているにしてもなぜそれをでかでかと書く必要があるんだろうか。わざわざルビがふってあるのは何故だろう。

とまあ、わざわざ行ったわりに、たいしたことがなかったんだけど、実は震生湖よりも、近くの丘からの景色がよかった。というわけで、いきなりだけど、今月の壁紙。

まずは富士山。ここまでくるとけっこうでかく見える。
震生湖近辺からの富士山(1024×768)
震生湖近辺からの富士山(1280×1024)
震生湖近辺からの富士山(1024×768)

この近くの畑。シルエットがきれいだったので、
畑(1024×768)
畑(1280×1024)
畑(1024×768)続きを読む
このエントリーをはてなブックマークに追加

武田双雲がダサいのは何度も書いた(本当は作品のダサさも書きたいのだが)。あまり繰り返すと、なんだか嫉妬しているみたいでさらにダサいので、もうやめようと思っていたのだが、あまりにアレなんで、書くことにする。

といっても、あまりにマニアックだから、分かる人だけ分かってくれればいいと思う。

書道の作品には必ず署名がある。これを落款という。この署名には必ず、印鑑が捺される。これを落款印という。

落款も作品の一部だから、落款印を見ればその人のセンスが分かる。落款印は、自分で刻る人もいれば、篆刻家に頼んで作ってもらう人もいるが、いずれにしても、ショボイ印を捺していれば「ああこの人はこういうセンスなんだな」と思われてしまっても仕方がない。

で、武田センセーだが、落款印についてこんなことを書いている。

ちなみに私は知り合いの職人に彫ってもらっています。
その人の個性的な作風と人柄が好きなんです。
http://www.fudemojiya.com/inkan/
「落款とはなんぞや」:ふで文字屋.com


そこで紹介されているURLのサイト(何でリンクしてないの?)を見てみると「篆刻アーティスト:竜宮成は、書道家:武田双葉、双雲、双龍の印をすべて彫っています。」と書いてある。これが知り合いの職人らしい。サイトはこちら↓。作品に注目。腰ぬかすぞ。

手作り印鑑

・・・。

たしかに個性的だ。

竜宮成とは名前もふざけているが、作品もふざけている。はっきりいって、初めて刻った僕の生徒よりひどい。

竜宮成先生、まず、ちゃんと捺そうよ。できないなら、せめてフォトショップで赤く塗れよ。

つーか、そんなもん売るな!ヘタクソ!

【追記】
もう一つ竜宮成氏のサイトを見つけた。
篆刻師竜宮成 アートてんこくの世界
このエントリーをはてなブックマークに追加

どんな本文でも、私たちが活字として目にするものは、かならず校訂の手が入っています。それは近代文学でも例外ではありません。

しかし、古典文学と近代文学では方法が違います。古典とは本文の流布の仕方が違うからです。

ほとんどの近代文学作品は、作者によって原稿用紙などに書かれ雑誌などに活字として発表されます。その後、単行本にまとめられます。さらに、別の単行本に入ったり、文庫本化されることもあります。つまり、特殊な場合をのぞいて、原稿は印刷されるのを前提で書かれるわけです。

そこで、何を底本にするかが問題になります。作者が生きている以上、原稿、雑誌、単行本それぞれの時点で作者の手が入る可能性があります。もちろん古典でもそういうことがないとはいえませんが(余談ですが、これが異本ができる理由の一つとなっています)、近代文学の方がはるかにそうなる可能性が高いでしょう。校訂よりも、底本の選定が重要になってくるわけです。

原稿は当然、作者が書いたものです。遺稿でもない限り、それが雑誌に載る前に作者自身の手が入ります。その後、さらに手が入るかどうかは作者によって違います。例えば、芥川龍之介などは、版を重ねるたびに細かく手直ししていたことが知られています。つまり、作者が生きているうちは、作品に作者自身の手が加えられる可能性があるのです。

逆に編集者の手が入る可能性もあります。編集者が勝手に手をいれたり、書き直してしまうこともないとはいえません。

岩波書店から1993年から刊行された『漱石全集』は、できるかぎり夏目漱石の自筆原稿を底本にしていることがウリです。

自筆原稿を底本にした背景には、自筆原稿だけが作者自身によるもっともピュアな本文だという思想があるからだと思います。これは間違っていません。自筆原稿なら、筆跡の違いで第三者の書き込みがあればすぐに分かります。

しかし、これでは刊行後の作者自身による手直しを無視しています。それに編集者による改変があったとしても、作者自身がそちらのほうがいいと思っていたとしたら、それは作者の本文といってもいいのではないでしょうか。仮に漱石が生きていたとしたら、自筆本を底本にすることをどう思うでしょうか。

自筆原稿は研究者にとって、非常に魅力的な資料です。しかし、それをそのまま写真版にして印刷するならともかく、それを底本に校訂本文をつくるのは疑問が残ります。

もうひとつ、近代文学の校訂の問題に、漢字・仮名遣いの変更があります。

近代文学作品を読む場合、全集や初版本で読むという人もいると思いますが、一般的には文庫本で読むことが多いと思います。ほとんどの場合、これらは新漢字、現代仮名遣いに直してあります。

ところが、近代文学作品でも、戦前の作品は、すべて旧漢字、歴史的仮名遣いで書かれていました。

これは機械的に漢字・仮名遣いを置き変えているだけですから、厳密には校訂とはいえないかもしれません。しかし、表記がかわるだけでずいぶん雰囲気がかわります。

新漢字、現代仮名遣いの文庫本で読んでいたときは現代的な印象をもっていた昭和初期の小説が、旧漢字、歴史的仮名遣いの初版本で読んだら、急におじいさんの文章に見えてきたなんてこともあります。

印象だけでなく、新漢字によって解釈が変わってしまう例もないわけではありません。例えば、「芸」は現在「藝」の新字体として採用されていますが、本来は意味の違う全く別の字です。こういう例はそれほど多くはありませんが、漢字の持つイメージは読者に強く作用します。

まあ、こんなことを考えていたら、読めるものも読めなくなってしまうのですが、古典文学であれ、近代文学であれ、本文は決して作者が書いたもの、そのものではないということは、理解いただけると思います。
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ