品格は嫌いだのエントリを書いたら、直後に国母選手のユニフォームずりさげ事件があった。あれも要するにオリンピック選手としての品格に欠けるということだろう。自民党の河野太郎氏は、このことでルールと価値観:河野太郎公式サイトで、僕と同じようなことを書いている。
品格はルールではない。なぜか横綱の場合は、品格がルールにあるから面倒なことになったが、国母選手の場合はズボンをずり下げてはいけないというルールはどこにもない。なぜあそこまで責められなければならないのか。
ズボンずり下げが気に入らないなら、新たにそれを禁止するルールを作ればいいのである。もちろんルールは遡っては適用できない。今回はルールになかったからお咎めナシ、次はルールができたからずり下げたらダメ。それでいいじゃないか。
後から勝手に品格というルールを作って、それにあわないという理由で怒られたら、国母選手でなくても舌打ちの一つでもしたくなる。まして、ルールに生きるアスリートにはなおさら納得できないだろう。
そういえば、管理教育全盛の時代、髪の毛の長さはどうとか、スカート丈は膝下何cmとか、くだらないとしか思えないこまごまとした校則があった。ああいうのは今でもくだらないと思っているが、「高校生としての品格」とか言わなかっただけマシである。
仮に校則に「高校生としての品格」しか校則に書いていなければ、教師は恣意的に生徒を罰することできるということになる。分かりやすく言えば「おまえ、気に入らない」ということで、これは国母選手叩きに通じるものがあるだろう。
実名で書いているから、具体的にはいえないが、僕は、全くルールどおりの手続きをとったにもかかわらず、慣習を守らなかったために問題になったことがある。この場合、品格が問われたわけではないが、品格と慣習はかなり近いところにある。
そういう慣習があることは知っていた。が、どうしても守れない事情があったのである。慣習は守れないが、ルールさえ守っていれば文句は言えないはずだと思ったのだが、実際はそうではなかった。
ルールには必ず抜け穴があって、意図的かそうでないかにかかわらずその抜け穴を抜けてしまうことがある。帰国のときはちゃんとしていたそうだから、国母選手は意図的抜けようとしたのではなかったのだろう。
そういうときに、ルールを決める側ができることは、抜け穴をふさぐことだけである。抜けたものを捕まえることはできない。いくら気に食わなくても抜けられた側は素直に負けを認めるしかないのである。
実は、先ほど書いた、僕が慣習を破ったことによって問題になった事件には続きがある。
結局そのことはルールにはならなかった。今では、僕のような手続きをしている人は珍しくはない(具体的に書けなくてすみませんね)。要するに、たいした慣習ではなかったということであろう。
慣習だの品格だのってのは、たいがいその程度のものなのである。
品格はルールではない。なぜか横綱の場合は、品格がルールにあるから面倒なことになったが、国母選手の場合はズボンをずり下げてはいけないというルールはどこにもない。なぜあそこまで責められなければならないのか。
ズボンずり下げが気に入らないなら、新たにそれを禁止するルールを作ればいいのである。もちろんルールは遡っては適用できない。今回はルールになかったからお咎めナシ、次はルールができたからずり下げたらダメ。それでいいじゃないか。
後から勝手に品格というルールを作って、それにあわないという理由で怒られたら、国母選手でなくても舌打ちの一つでもしたくなる。まして、ルールに生きるアスリートにはなおさら納得できないだろう。
そういえば、管理教育全盛の時代、髪の毛の長さはどうとか、スカート丈は膝下何cmとか、くだらないとしか思えないこまごまとした校則があった。ああいうのは今でもくだらないと思っているが、「高校生としての品格」とか言わなかっただけマシである。
仮に校則に「高校生としての品格」しか校則に書いていなければ、教師は恣意的に生徒を罰することできるということになる。分かりやすく言えば「おまえ、気に入らない」ということで、これは国母選手叩きに通じるものがあるだろう。
実名で書いているから、具体的にはいえないが、僕は、全くルールどおりの手続きをとったにもかかわらず、慣習を守らなかったために問題になったことがある。この場合、品格が問われたわけではないが、品格と慣習はかなり近いところにある。
そういう慣習があることは知っていた。が、どうしても守れない事情があったのである。慣習は守れないが、ルールさえ守っていれば文句は言えないはずだと思ったのだが、実際はそうではなかった。
ルールには必ず抜け穴があって、意図的かそうでないかにかかわらずその抜け穴を抜けてしまうことがある。帰国のときはちゃんとしていたそうだから、国母選手は意図的抜けようとしたのではなかったのだろう。
そういうときに、ルールを決める側ができることは、抜け穴をふさぐことだけである。抜けたものを捕まえることはできない。いくら気に食わなくても抜けられた側は素直に負けを認めるしかないのである。
実は、先ほど書いた、僕が慣習を破ったことによって問題になった事件には続きがある。
結局そのことはルールにはならなかった。今では、僕のような手続きをしている人は珍しくはない(具体的に書けなくてすみませんね)。要するに、たいした慣習ではなかったということであろう。
慣習だの品格だのってのは、たいがいその程度のものなのである。