2011年05月

なんかもう、いろいろどうしようもないですね。

原発が地震で事故起こしたのは、仕方がないです。絶対に事故を起こさないなんて、ほとんどの人は思ってなかったでしょう。

でも、こんなどうしようもない事態になるとは思ってなかった。

だから騙されたというのです。東京電力が事故は起きないと言っていたのに起きたから騙されたのではないのです。起きた事故に全然対処できていないから騙されたと思うのです。

それでもまだ原発を推進すべきだっていう人がいる。

これだけ被害が広がっていてペナルティは無しで済むと思いますか?少なくともカタがつくまで黙っているのが筋でしょう。

どうしようもないですね。

原発がどうにもならないからだか知らないけど、この期に及んで「菅おろし」とかやっている政治家がいます。

批判するのはいいです。責任を追及するのもいいでしょう。でも、降ろす前にやることがあるはずです。

普段なら、降ろした後で後継を決めればいいかもしれません。

今、そんなことが通用しますか。

「菅がダメだからワシがやる。ワシならこうやる」

誰かがそれを言うのが筋でしょう。

どうしようもないですね。
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きわめて私的な壁紙ですみません・・・。
ヨメが自転車を買ったのを記念して。

自転車(1024x768)

自転車(1024x768)
自転車(1280x1024)

右が僕の自転車。アレックス・モールトンAPB 。
左がヨメの自転車。TREK7.5FX。
場所は平和島の平和の森公園
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小島憲之『ことばの重みー鴎外の謎を解く漢語』(講談社学術文庫)を読んだ。この本、地震の前に二可さんから勧められていて、しばらく読んでいたのだが、あの騒動の中読む機会を失ってしまった。


小島憲之は上代文学ではよく知られた碩学だが、この本では森鴎外が使った漢語を巡って、古今東西の書物を縦横無尽に博捜し、副題の通り〈鴎外の謎〉を解いている。だから、各章題は「赤野」とか「望断」「繁華」とかの鴎外の漢詩等に現れる漢語由来の言葉になっている。

たった今、「古今東西の書物を縦横無尽に博捜し」と書いたが、これではどうも表現が安っぽくっていけない。この本は、ただ手当たり次第文献にあたって解釈をするというようなつまらない本ではないのである。

解釈はもちろんだが、その典拠は何か、鴎外がその典拠、その語を使った理由、明治の人にとってその語はどういう意味があったかなど、鴎外の使ったたった一つの言葉から、深い「読み」を探っている。まさに『ことばの重み』。

とはいえ、いかにも「論文」というようなそっけないものではなく、私事などもからめて、読みやすくあくまで一般書として書かれている。そこが小島憲之という研究者の並みでないところだ。一般書というのは、実は論文を書くのに比べるとはるかに難しい。その人の学問レベルがもろにでてしまうからである。

同じ著者の本に、これとテーマがよく似た『漢語逍遥』(岩波書店)というのも紹介しておく。『ことばの重み』がエッセイ寄りだとすると、こちらは研究書よりで、少々難しいところもあるが、小島憲之の学問の幅広さ、深さに感動するだろう。



というわけでストロング・バイ。
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古典文学電子テキスト検索にはe-国宝のリンクが含まれる。

e-国宝は国立博物館所蔵の国宝・重要文化財の画像が見られるサイトである。非常によくできていて、全画面表示や拡大縮小が自在にできるようになっている。モニターいっぱいにして、最大に拡大すると、書いた人の息遣いまで伝わってくるようだ。

例えば古本説話集なんて、僕はモノクロの影印本でしか見たことがなかった。拡大してみると「アレ?古本説話集ってこんなに上手かったっけ?」という感じだ。写本や古筆が、これだけの高精細の画像で、しかも無料で見られるようになったとは、すごい時代である。

その他にも、貴重な資料がたくさんある。

しかし、古典文学電子テキスト検索には断簡零墨は登録しない方針なので、ここで紹介する。特によく書道の手本にされるものを集めてみた。

一品経懐紙
手鑑「藻塩草」
本阿弥切
久隔帖
秋萩帖
元永本古今和歌集
熊野懐紙
手鑑「月台」
寸松庵色紙
亀山切
高野切第三種
大手鑑
継色紙
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東京都大田区にある磐井神社はそれほど大きな神社ではないが、延喜式内社である。ここの狛犬がなかなかユニークなので紹介する。

まず、右。
磐井神社の狛犬(右)

こちらは左。
磐井神社の狛犬(左)


どこがユニークか分かるだろうか。

興味のない人には分からないかもしれないが、子獅子の数が多いのである。

右の前足に二匹じゃれていて、尻のあたりに一匹乗っかっている。左にも足元に二匹、背中の高いところに一匹いる。合計六匹。

もちろん、子獅子そのものは珍しくない。狛犬は右がメス(獅子)で左がオス(狛犬)になっていて、右のメスに子獅子がいることが多い。普通一匹、せいぜい二匹ぐらいで、ここまで子だくさんなのはちょっと珍しい。

なぜこんなに子獅子がいるのか分からないが、もしかしたら、奉納した人の子供が6人だったのかもしれない。

カメラがショボかったので、写りはイマイチだが、子獅子のアップを二枚ほど挙げておく。

磐井神社の小獅子(右の足元)


磐井神社の小獅子(左の背中)


彫りがとてもいい。動きが感じられ、狛犬・子獅子ともに表情が生き生きとしている。台座の銘も立派な隷書で、誰が書いたか分からないが、明治14年とある。石工は高橋安五郎なる人物。

磐井神社狛犬の銘


磐井神社の境内には、笠島弁天社という神社があるのだが・・・。

笠島弁天社立ち入り禁止"


なんと地震で鳥居が壊れかけていて、立ち入り禁止になっていた。とりあえず、鳥居だけ撮ってきた。

笠島弁天社鳥居
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書道では文房四宝(筆・墨・硯・紙)といって、書道用具そのものに価値があるが、その中でも一番コレクターが多いのは硯だろう。とはいえ、硯の良し悪しというのは、誰が見ても美しく見える宝石などとは違い、分かりにくいものである。興味のない人にとっては、漬物石とさして違いがない。

著名な硯には、歙州(きゅうじゅう)とか、 澄泥(ちょうでい)とかあるが、日本人にとって有名なのは端渓(たんけい)だろう。これなら大抵の人が聞いたことあるんじゃないだろうか。

僕が端渓という硯を知ったのは、夏目漱石の『坊っちゃん』である。たぶん、中学生ごろに読んだと思うのだが、どういうわけか下宿の亭主が端渓硯を売りに来る場面が記憶に残っていた。先日、思うところがあって、あらためて読んでみたら、これがやたらと面白い。

その次には鬼瓦ぐらいな大硯を担ぎ込んだ。これは端渓です、端渓ですと二遍も三遍も端渓がるから、面白半分に端渓た何だいと聞いたら、すぐ講釈を始め出した。端渓には上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、この眼をご覧なさい。眼が三つあるのは珍らしい。溌墨の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、おれの前へ大きな硯を突きつける。いくらだと聞くと、持主が支那から持って帰って来て是非売りたいと云いますから、お安くして三十円にしておきましょうと云う。この男は馬鹿に相違ない。学校の方はどうかこうか無事に勤まりそうだが、こう骨董責に逢ってはとても長く続きそうにない。
夏目漱石『坊っちゃん』:青空文庫


鬼瓦ぐらいな大硯
普通、硯というのは平べったいものなので、鬼瓦というよりは普通の瓦の方が適当だが、たぶん蘭亭硯(蘭亭曲水の宴を彫ったもの)みたいな厚みのあるものだろう。
「鬼瓦」に譬えることで、バカでかい硯を勧められた迷惑感がよくでている。

蘭亭硯:Inomata's Homepage 文房四宝館<1>
上のリンク先にあるのが蘭亭硯。『坊っちゃん』に出てくるのと同じく眼が三つある。

端渓がるから、
「がる」は「痛がる」「粋がる」のように形容詞・形容動詞の語幹に付いて動詞化する接尾語で本来名詞には付かないが、「端渓」という名詞に付けると、自慢げな様子が伝わって面白い。
「ヴィトンがる」とか「東大がる」とか使ってみたい。

上層中層下層とあって、今時のものはみんな上層ですが、これはたしかに中層です、
いかにも、硯好きが言いそうなセリフである。「今時のものは」というのも、端渓がるときの決め台詞。
端渓と一口にいっても、採掘された場所によっていろいろな種類がある。ここでいう「上層・中層・下層」というのは、上巌・中巌・下巌のことだろう。上巌よりも中巌・下巌のほうがいいらしい。
他にも、採掘された場所によって、老坑(ろうこう)だの宋坑(そうこう)だの麻仔坑(ましこう)だのあって、端渓がるには大事な薀蓄だが、どこがどう違うのかイマイチわからない。

眼が三つあるのは珍らしい。
端渓には不純物が含まれるものがあり、それが模様になっていて硯のアクセントになっている。
その一つが「眼」と言われるもの。中巌の端渓には多いそうだ。
上のリンク先の蘭亭硯にも三つあるが、玉川堂のサイトにものすごくわかりやすい眼の写真があった。
玉川堂
一番上の写真に見える、色の違う7つの丸い部分が眼である。
正体は古代生物の化石らしい。この部分は硬くて彫りにくいので、そのままの形で残し、彫り物のデザインとして使ったりする。

溌墨の具合も至極よろしい、試してご覧なさいと、
溌墨(はつぼく)というのは、墨の磨れ具合のことで、いい硯だと早く磨れ、なおかつ理想的な墨汁になるという。実際に墨を磨るのは、値段の高い硯を買うときのお約束である。
また、硯を洗面器の水につけて、乾いた時との色の変化を鑑賞するというのもよくあるパターン。

僕がこれらのことを知ったのは、大学生のとき、先輩に端渓がられた(と言っても売りつけられたわけではない)からである。その時は迷惑だったわけではなく「なるほど、これが端渓か」とか「『坊っちゃん』に出てくる眼とはこれか」と感心した。

今でも書道業界の末席にいるので、端渓がられることはしばしばある。それにしても、現代の端渓がり方と、『坊っちゃん』が書かれた約100年前の端渓がり方がまったく同じなのは面白い。
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ブログネタ
33歳フリーターvs.18歳新入社員、どちらが敬語を使うべき? に参加中!
ライブドアブログでは、ブログのネタを提供してくれる機能がある。いままでそんな機能は使ったことがなかったが、今日はちょっと面白かったので書いてみる。

こんにちは!J-CAST 会社ウォッチです。
ゴールデンウィークも終わり間近。やり残したことがあるかもしれませんが、ここは慌てず休養して週明けからの通常営業に備えたいものです。
さて、会社ウォッチの記事に、多くのコメントが来ています。33歳のフリーターさんが、18歳の新人正社員に対して「敬語で話せ」と言われて納得いかないと憤っています。

☆33歳フリーター「18歳の新人に敬語じゃないとダメすか?」
相手は正社員とはいえ、この間まで高校生だった子。年長のアルバイトには、なんとタメ口で話しているそうです。年齢も社会経験も上のフリーターなのに、雇用形態の違いだけで下手に出なければならないものなのか。さて、ここでお題です。

★33歳フリーターvs.18歳新入社員、どちらが敬語を使うべき?

Q&Aサイトに相談したところ、回答者の反応は「しょせんバイトだから仕方がない」と、正社員の肩を持つものが多かったとか。ブロガーのみなさんの意見はどうでしょう。興味深い投稿については、弊社記事内で引用させてもらうことも考えています。
お題提供元:「J-CAST会社ウォッチ」


さて、僕も国語を教えていた(すでに過去)ので、敬語法について授業をしたことがある。その時、敬語を使わない常体の会話文を提示し、それを敬語を駆使して上品な会話に変えろというプリントを作った。例えば、

A「夕食を食べるか?」
B「はい。食べる」

これを敬語に直せというものである。

正解例は、

A「夕食を召しあがりますか?」
B「はい。いただきます」

こんな感じである。食べるが尊敬語だと「召し上がる」になり、謙譲語だと「いただく」になるというわけだが、面白いことに「AとBはどちらが目上ですか」という質問がよく出る。

「両方同じ立場で、同じ年齢だ」というと、それでは答えられないという。敬語の意味が分かっていない証拠である。

この場合、Aは相手を敬っているので、「食べる」の尊敬語「召し上がる」を使う。Bは自分が食べる行為をへりくだって(相対的に相手を敬っていることになる)、謙譲語「いただく」を使う。お互いに尊敬しているのである。

昔は身分制度があるから、身分の高い人が自分の行為に対して尊敬語を使ったりすることもある。だが、現代に身分制度はない。

身分制度がないから、どんな相手だろうと、相手であるかぎり尊敬の対象にするのが現代の敬語である。年上の人が年下の人に敬語を使っても、正社員がアルバイトに敬語を使ってもなにもおかしくないのである。

さて「33歳フリーターvs.18歳新入社員、どちらが敬語を使うべき?」という質問には、どちらも使うか、どちらも使わないのが正しいとしか言いようがない。もし、自分が敬語を使って、相手が使わない場合、相手はその程度の奴だと思えばいいのである。
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地震の影響というのは意外なところにあるもので、石造りの物が多いお寺や神社では、鳥居や墓石が壊れたりという被害がでている。

僕の勤め先(東京都のどこか)の近くのお寺では、灯籠が原型をとどめないほど派手に壊れた。

壊れた灯籠


残念ながら、この灯籠がまともな姿をしていた時の写真がないが、参考までに以前に紹介した吉備津神社の備前焼の灯籠を載せておく。形は似たようなものなので、どのパーツがどこにあるかは何となく分かると思う。

吉備津神社の燈籠



さて、地震から一カ月以上経って、この灯籠は修復された。

修復?1

修復?2


アレ?なんかものすごく小さくなっちゃってるんですが・・・。
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ある焼肉屋のユッケによる食中毒で、三人目の死者が出た。

僕はユッケを食べたことがない。生肉を食べないようにしているのではない。今まで食べなかったというだけで、たまたま入った焼肉屋でユッケが旨いと聞いたら、たぶん食べてしまうだろう。しかし、仮にこれが中国の店だったら、僕は絶対に食べないだろう。

考えてみると、これはヘンな話だ。生肉のリスクなんて、危険なことはどこの国だろうとさして変わらない。その店が信用できるかどうかだけである。長年通っている店ならともかく、初めて入った店ならどこの国のものだろうと用心してかかるべきである。

「ヤバそうなものは食べない」のは当たり前で、外国なら用心するのに、日本の店というだけで食べてしまう。毒餃子が怖くて中国からの輸入食品を食べないのはマヌケなことだと思っていたが、日本の店だからというだけで信用するのも同じぐらいマヌケなことである。

要するに、日常生活で用心するポイントがおかしくなっているのである。

考えてみれば、生肉に生卵を乗せた料理なんて、これほど危険なものはない。本来そこを用心すべきなのに、どこの国の店だとか、どこ産の牛肉とか、ほとんど関係ないことばかり気にしてしまう。

食べることに関して、用心するポイントがおかしいというのは、例の買占めの時にも感じた。

インスタントラーメンなんか非常食の役にはほとんど立たない。そんなもの作れるなら、たいがいの料理はできるだろう。避難所なんかでインスタントラーメンやカップラーメンが支給されるのは、食べる人数が多いからである。パンは調理しなくてもすぐ食べられるが、一週間ともたない。それよりも、カロリーの高いポテトチップやチョコレートなどの菓子類の方がよほど非常食としての価値がある。

どちらも常識的に考えると当たり前のことである。しかし、僕たちは便利さに慣れてしまって、生きていくのに一番大事な〈食べる〉ということの常識を失ってしまったのである。
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