2011年06月

暑い。むちゃくちゃ暑い。

電力不足が心配される夏がもうじきやってくる。ここ二週間ほど、予行演習をやっているようだ。

で、その予行演習の結果だが・・・これ大丈夫そうじゃない?

これから、もっと暑くなると心配している人もいるが、それは暑さに慣れてくることでもある。また、最近は少々節電がおろそかになっていたような感じもある。

というわけで、明日から七月に入るので、恒例の荒行を始める(けど、今年は途中で中止するかも・・・)。
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最近刊行された『正徹物語』(小川剛生訳注・角川ソフィア文庫)を読んだ。



『正徹物語』は室町時代の歌僧、正徹による歌論書である。正徹は『徒然草』最古の写本の筆写者としても知られる。

内容は、詠歌技法、歌語解説、歌体論・創作論、会席作法・故実、古歌・自作の解説、歌人・作品の逸話(小川氏の解説による)と、バラエティに富んでおり、初学者をターゲットにしたらしく、比較的読みやすい文体で、雑然と並んでいる。

『正徹物語』を読んでいると、正徹の和歌に対する姿勢が見えてくる。正徹は「芸術とは何か」ということを真剣に考えていたのではないだろうか。もちろん、当時は今使われているような意味での「芸術」という言葉はなかったが。

日本の芸術は、どんなジャンルであれ、おおむね次のように進行すると僕は考えている。

1・単純な表現により始まる。
2・次第にいろいろな技法が編み出され、それがセオリー化する。
3・セオリーの運用方法により、いくつもの流派に分かれ、セオリーが絶対的なルールに変わる。
4・ルールが細分化され厳密になり、いかにルールを守るかだけがテーマとなる。
5・滅亡する、または、革新が起き1に戻る。

この中で、和歌における室町時代は3に該当する。3は芸術が衰退しはじめる時期であり、表現者にとってルールと表現の板挟みになる、難しい時期でもある。

例えば、本書でいう第118段には、こんな話がある。
ある七夕の会のとき、頓阿とその子供の経賢が出席した。経賢が「七夕鳥(七夕鳥)」という題を取って、歌を詠み、父に見せたところ「これではダメだ」と投げ返された。再び詠んで見せたがまた返された。三度目も返された。
経賢が「どうすればいいのでしょう?」と聞くと、頓阿は「七夕には決まって読む鳥があるでしょう」と言った。そしてまた経賢が歌を詠んで、父に見せると「これは問題なし」と言った。詠んだ鳥はカササギだった・・・。

この話に対する正徹の評は次のとおり。こちらは原文で引用する。
か様に二条家には、少しも異風なることを嫌ふなり。七夕鳥ならば幾度もかささぎを詠むべし、星・鵲ながらいかにも風情を珍しく取りなさむと心ざすべきなり。これが先づはよき体にてもあるなり。但し七夕鳥とあらん題を、五、六首も詠まん時は、雁をもなに鳥をも詠むべきなり。


二条家は七夕の鳥はカササギであるという厳密なルールがある。だが、そのルールに従いながらも、「いかにも風情を珍しく取りなさむとこころざすべき」であると正徹はいう。

小川氏の注によると「か様に二条家には、少しも異風なることを嫌ふなり。」は、伝統と着想を墨守し異風をみとめない二条派への批判であるという。小川氏は専門家なので、他に根拠があるのかもしれないが、ここだけを見る限り、ルールそのものを批判しているのではなく、ルールはあくまで絶対的なもので、それを守った上で新しい表現を目指せと言っているように思える。

正徹のいうとおり、表現は絶えず新しいものを目指さなくてはならない。だが、芸術は作者だけのものではなく、鑑賞者がいて成り立つものである。新しいだけで、セオリーやルールを無視すると、鑑賞者から作品として認められない。とくに、芸術が衰退する3・4の時期はそうなる。七夕の鳥にカササギを詠まなかっただけで、読みもせず捨てられてしまうのである。

いくら画期的な表現を思いついても、「あんなの和歌じゃねぇ」と言われてしまえばそれまでだ。だから、正徹はルールにこだわる。

それでは実際、正徹の歌はどうだったか。正徹の歌は難解なものとして知られ、二条派からは異端とされたそうだ。ルールにのっとっていても異端とされるのである。『正徹物語』には自作の歌の解説があちこちに見られるが、そこにルールと格闘する芸術家の面影が見えるようだ。
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僕と一字違いの古川聡さんがロシアの宇宙船ソユーズに乗って宇宙へ旅立った。アメリカのスペースシャトルではなくロシアのソユーズである。

ソユーズというと、日本初の宇宙飛行士になったTBSの秋山豊寛さんを思い出す。これは1990年12月だった。毛利衛さんが日本初になるはずだったのだが、スペースシャトルの事故で延期になったため、秋山豊寛さんが日本初になったのだった。なお、毛利さんが宇宙に行ったのは約二年後の1992年9月。

もっと古くは、アメリカのアポロとソ連のソユーズのドッキングである。今から36年も前の話で僕は子供だったが、おぼろげにテレビのニュースで見た記憶がある。

ソユーズは最初に宇宙へ行ったのが1967年で、その時着陸に失敗して以来、いくつかの小さな事故はあるが、死亡事故は起きていないそうだ。一方、スペースシャトルはご存知の通り、1981年にデビューして、1986年(チャレンジャー)・2003年(コロンビア)の二回大事故を起こしている。

ソユーズとスペースシャトルの違いは、ものすごく簡単にいうとソユーズが使い捨てであるのに対し、スペースシャトルは繰り返し使えるということである。繰り返し使えるというのが、当時は画期的だった。

飛行機のような形をしていて、繰り返し使えると聞けば、その延長線上にあるのはSFに出てくる宇宙船そのものである。だからスペースシャトルが飛んだとき、自由に宇宙旅行できる時代に一歩近づいたと誰もが思った。

しかし、現在、スペースシャトルは後継機が作られる予定がない。仮に作ったとしても、使い捨てのソユーズ方式のものになるそうだ。結局、安全面でも経済面でもソユーズの方がまさっていたのである。

全く新しい技術というのは魅力的で、一見そちらの方がいいように思える。そうやって人類は進歩してきたのだから当然だ。しかし、新しい技術にも、筋の良しあしがある。スペースシャトルは筋が良くなかったのである。

誤解のないように言っておくと、ソ連に先見の明があったかどうかは分からない。ソ連もブランというスペースシャトルそっくりの宇宙船を計画していたのである。ここまでソユーズを使ったのはたまたまかもしれない。ただ、結果的に古い技術を更新し続けたソユーズの方が良かったのは間違いない。アメリカもアポロを発展させていたら違う結果になっただろう。

「新しい技術」「安全性」「経済性」この言葉を抽出すると、今、多くの日本人に思い浮かぶのは原子力発電である。今回の事故で、原子力発電は筋の悪いテクノロジーだということが露呈してしまった。

ここでアメリカがスペースシャトルを捨てたように、原発を捨てることができるか。宇宙船よりも実用のものだけに、難しいことである。
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この人、たぶん僕の上司なんだけど、またおかしなことを言っている。スミマセン。

「日本は核を持て、徴兵制やれば良い」石原都知事
石原東京都知事:「日本は核を持たなきゃだめですよ。もたない限り一人前には絶対扱われない」「世界の国際政治を見てごらんなさい。なんだかんだ言いながら、核を持ってる人間は、マージャンでいえば一翻(イーファン)ついてて上がれるけど、マージャンやっている人は分かっている、一翻がついていない人間は絶対に上がれない」
 さらに、石原知事は「日本が生きていく道は軍事政権をつくること。そうでなければ、日本はどこかの属国になる。徴兵制もやったら良い」と持論を展開。今の政治の現状を憂う石原知事の発言でしたが、反核団体などを始め、各方面から反発を呼びそうです。

一人前には絶対扱われない
酷い被害妄想だ。
そんなに外国が気になるかね。なさけない。

マージャンでいえば一翻(イーファン)ついてて上がれるけど
パキスタンは核持ってるけど、一人前に扱われてないよね。なにしろ、外国の軍隊が勝手にビンラディン殺しちゃったんだから。
核持っているらしい北朝鮮も一人前に扱われているようには思えない。
中国もあなたからは一人前に見られてないよね。

日本が生きていく道は軍事政権をつくること。
確認するけど、軍事政権って、文民統制できていない政治体制のことだよね。
ミャンマーとか昔の韓国とか、蒋介石政権下の台湾とか・・・。
戦中の大日本帝国でさえ軍事政権ではなかったはず。
軍事政権の国が一人前に扱われた例はないんじゃない?

「核を持つべきだ」とか「徴兵制をしろ」とかいう主張は別にいい。僕は反対だが、主張するのは自由である。しかし、軍事政権という言葉の意味が分かっていない(らしい)政治家がそれを言うなという話だ。軍事政権なんて、市ヶ谷で切腹する覚悟がなければ言ってはいけない言葉である。

そもそも、核だけが一翻という考えが僕には理解できない。経済でも一翻とれるし、文化でも取れるはずである。それ以前に平和(ピンフ)で一翻・・・って書こうと思ったら、ハテブで書きまくられてたよ。
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今月はあんまり写真を撮っていないので旧作から。
2009年のちょうど今頃行った御嶽溪谷で撮った鉄道写真をどうぞ。

青梅線(1024x768)

青梅線(1024x768)
青梅線(1280x1024)
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「蠅叩き」は六月の季語である。

去年の夏、イギリスコッツウォルズ(cotswolds)地方チッピング・カムデン(Chipping Campden)で、こんなものを買った。

その名も、The Amazing FLY GUN!直訳すると「驚異の蠅鉄砲」。

IMGP2967


先端の乳白色の部分をセットして、引き金を引くと、ものすごい勢い(マジでびっくりした)で先端が飛び出し、蠅(または蚊)を射殺するという代物。

売っていたのは、ぬいぐるみだの英国雑貨だのが売っている、ごく普通の土産物屋である。僕はこういう観光地にありがちな土産物屋はあまり興味がないので、買うのはヨメに任せてぶらぶらしていたら、〈いかにも〉なイギリス雑貨の間にこれがぶら下がっていた。

「こういうくだらないお土産は葛的先生に最適!」と思って、慌ててレジで会計していたヨメに渡した。

レジの前には、これまたいかにもな英国風のデブ恰幅のいいおばさんが座っていたのだが、なぜかこれを持っていったとたんに立ち上がって興奮状態。Great!とか言っている。この変貌ぶりが面白い。それまでは粛々とレジ打ってたのに。

よくよく聞いてみると、「それはお土産には最適だ」とか「世界中で売れている」とか「自分の家でハンティングができる」とか言っているようだ。最適なのは葛的先生だけではないらしい。ヨメが僕に「それ何?」と聞くので、飛んでいる蠅を撃つ真似をしたら、おばちゃん「Yes!Yes!」。

なんだか面白いので、蠅を撃つ真似をしつつ「日本には蠅がいっぱいいるぜ」(たぶん間違っているので英文はなし)的なことを言ったら、おばちゃん何か言ってた。聞き取れなかったけど「Yes!Yes!」。後でヨメに聞いたら、じゃあ全滅させられるかもね」的なことを言ってたらしい。

最後に店を出るとき、おばちゃんHave a nice hunting!と言ってくれた。

バスに乗って「驚異の蠅鉄砲」を取り出して、説明書を見て笑った。「お土産に最適」とか「世界中で売れている」とか「自分の家でハンティングができる」とか、ここに書いてあったのだ。どう見ても玩具なのに、「おもちゃにするな」と書いてあるのも笑える。

flygun1


裏も「敵を知れ」とか「撃ち方のtips」とか、大袈裟でおもしろい。

flygun2


それにしても不思議なのは、なぜこれを持って行ったときにおばちゃんが興奮したかである。僕は次のようなシナリオを想像した。

このおばちゃんは、「驚異の蠅鉄砲」を仕入れたさい、さんざん家族にバカにされたのである。

娘「母さん、何でそんなの仕入れたの!普通のかわいいぬいぐるみとか食器でいいのよ。観光に来てハエトリ鉄砲を買う人なんかいないわ!」

母「ぬいぐるみなんか他の店にもあるわ。これからはうちの店にしかないものを売らなきゃ。見て!ここにInternational best sellerって書いてあるわよ。世界中で売れてるのよ!」

娘「そんなの見たことないわ!」

母「だからいいんじゃないの!これは絶対売れるわ!」

もちろん、イギリス的でも、チッピング・カムデン的でもない「驚異の蠅鉄砲」が売れるわけがなかった。母さんがっかり。

ところが、ある日、剃刀のような目をした背の高い東洋人がこれを買った。

母「ほら、売れたじゃない!」

娘「一個だけでしょ!」

母「置き場所が悪かったのよ。これからどんどん売れるわよ!もっと目立つところに置きましょう。」

そんな話をしているところに、一人の英国紳士が現れた。MI6のヒュームである。

ヒューム「数日前、ここで銃を買った東洋人がいなかったか?」
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つい最近刊行された、小松英雄氏の『平安古筆を読み解く―散らし書きの再発見―』(二玄社)を読んだ。



小松氏の本は以前にもこのブログで紹介したことがある(小松英雄『いろはうた』を読んだ:2009年03月22日)。氏の著作はいつも読みやすく、かつ刺激的で示唆にとんでいる。僕にはあまりなじみのない分野の本が多いのだが、どれを読んでも上質な推理小説を読んでいるようで面白い。

今度は「散らし書き」である。僕は滅多に本の予約をしないのだが、今回は迷わず予約した。

散らし書きというのは、仮名書道のまとめ方の方法である。平安時代に始まる日本オリジナルの方法で、漢字の書が行の上下を合わせ、基本的に同じ行間の中で変化を出そうとするのに対し、仮名の散らし書きは、その名の通り積極的に行の上下、行間に変化をもたせつつまとめるのが特徴だ。

散らし書きの例(継色紙):e国宝

散らし書きでは、改行の位置は任意に決められ、句の切れ目や言葉の切れ目は基本的に無視していいということになっている。どこを連綿にするか、どのような変体仮名を使うかというのも同様である。これまで、散らし方はあくまで視覚的なものによると考えられており、現代の仮名書道もその考え方の延長線上に制作されている。

ところが、小松氏は散らし方、改行の位置、連綿(仮名を繋げて書くこと)、変体仮名の字母、筆遣い、誤字脱字、すべて書かれている和歌の解釈を踏まえて、緻密に計算されて書かれているという。これは今までにない考え方である。

僕のような固定観念を持っている人にとっては「今までにない考え方」だが、素直に考えてみると、改行の位置が言葉の意味と無関係にできるというのは、言葉を書いた芸術としてはどうかんがえても不自然だ。

例えば、仮名の授業で高校生に散らし書きをさせた場合、たいがい5・7・5・7・7のどこかで改行する。彼らは歌の解釈なんかは考えないが、考えないからこそ、句の切れ目で切らないと気持ちが悪いのだろう。予備知識がなければそれが当然である。

しかし、古筆の事例をみると、句の切れ目どころか、単語の切れ目でないところで改行してある場合すらある。そこで改行する理由がわからない。だから従来は「視覚的効果を重視して内容とは関係なく改行している」と考えられていたのである。本書で小松氏は和歌をさらに深く解釈することによって、なぜそこで改行されているか考察している。

さて、ここまで書くと、それはコジツケにならないかという疑問を持つ人もいるだろう。たしかに、一歩間違えると、トンデモになりかねない。実際読んでみて、「なるほどなー」と思う部分がある一方で、「そこまで考えて書いているかなー」思えるところもあった。それでも、ここがおかしいとはっきり指摘できないのは、小松氏の解釈が周到で深いからである。

散らし書きの表現に、和歌の解釈が読めるというのは、画期的で魅力的である。小松氏の説に追従する人も出てくるだろうが、凡人がやるとすぐにトンデモになってしまうだろう。いや、この本でさえトンデモ一歩手前ぐらいにあると思う。

新しい研究にはそういうものがつきものだ。今後、これがどう発展していくのか、楽しみである。
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バカが読むと賢くなる。
賢い人が読むとバカになる。

そんなブログを私は書きたい。
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僕は、何を隠そう原発には肯定的だった。だが、今度のことで考えが変わった。少なくとも日本では原発はダメだ。いきなりなくすことはできなくても、今後なくす方向に動いていくほかない。

こう考えているのは僕だけではないだろう。そりゃ、放射能に怯える日々を3か月もすごし、日に日に経済的な被害が大きくなり、全くメドが立たない実態を目の当たりにすれば、もういらないとなるのがアタリマエだ。潮目は変わったのである。

ところが、そういう潮目の変化がまったく読めていない人がいる。

反原発の「自爆デモ」:池田信夫blog
きのう全国150ヶ所で「6・11脱原発100万人アクション」と銘打ってデモが行なわれたらしい。といっても東京でさえ集まったのは200人なので、残念ながら100万人には遠く及ばなかったようだ。

「東京でさえ集まったのは200人」というのはもちろん間違いで、後でクソを投げるように池田氏自ら訂正している。
追記:主催者発表では、東京は「2万人」だそうだ。主催者発表というのは話1/3ぐらいなので、実際は数千人程度だろう。いずれにしても「100万人」にはるかに届かないことには変わりない。

苦し紛れに「いずれにしても「100万人」にはるかに届かないことには変わりない。」なんて言っているが、200人と(池田氏のいうことが正しいとして)数千人ではケタが違いすぎる。彼自身エントリの最初にデモの動画を載せているが、これを見ただけでも200人などということはないことは分かる。

池田氏は経済学者だそうだが、デモ参加者の人数も見積もれないのである。細かい数はどうでもいい。ダブルスコアどころか10倍以上の数字で間違える人の経済学なんて信用できるだろうか。

こういう間違いが起きるのは、池田氏が「こうあってほしい」と思っているからである。「原発に反対する人は少数であってほしい」という願望が「原発に反対する人は少数に違いない」という確信に変わる。これをポジショントークという。恐ろしいことに、映像の見え方まで変わってしまうらしい。

こういうことは学問の世界ではよくあることだ。すべての資料が(まったく関係ない資料まで)自分に都合よく見えてくるのである。これに嵌るか否かで研究者としての技量が試される。願望は学問の敵である。

それにしても、現在起きていることすら見えないこの経済学者は、一体どんなお花畑に暮らしているのだろう。
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親戚にショータ君という、もうすぐ三歳になる男の子がいる。現在、ショータ君のノーミソの中は、トミカ(ミニカー)プラレール(鉄道のおもちゃ)と少々の日本語が詰まっている。

トミカ・トミカ・プラレール〜と歌って、トミカ・プラレールと一緒に走り回っている。

ノーミソの中のトミカとプラレールの割合は、歌と同じトミカ2:プラレール1ぐらいだと思われる。

このままでいけば、ショータ君はカーマニアになってしまうかもしれない。自動車なんかにハマってもろくなことはない。ここはひとつ、僕の手で洗脳してキモい立派な鉄道マニアに育て上げなければ。

と、勝手な使命感に燃えて、ショータ君鉄ちゃん化計画は始まったのである。

以前このブログで撮り鉄のふりをしたが、実は鉄道のことはあまり知らない。このままでは、ショータ君を鉄の道に誘い込むのは不可能だ。だからといって、今から理論武装して鉄ちゃんになるのも無理な話である。第一それほど興味がない。

そこで、ほぼ毎日乗っている赤い電車、京浜急行(京急)に目を付けた。これなら、もう20年以上乗り続けているから、どんな電車が走っているかよく知っている。そのうえ、京急はドレミファインバーターとか、通勤電車なのになぜかクロスシート2つドアの電車があるとか、地下鉄と京成と北総鉄道が相互乗り入れしていて、神奈川方面に行くのに千葉気分とか、ちょっと個性的で面白い。

さらに、京急の駅には、京急グッズが豊富にある。これできゃつの気を引こう。まずはプラレールを品川駅の売店で発見。ドレミファインバーターの音がでるらしい。

サウンドプラレール2100形(R)

2800円・・・

やめた。ちょっと高い。プラレールがこんなに高かったなんて・・・。富裕層め・・・。

いろいろ探しているうちに、ちょっと面白いもの発見。
京急のおもちゃ

京急のおもちゃ説明書

快特品川ゆき・快特羽田空港ゆき 連結でGO!
もう、名前からしてマニアックすぎて、京急を使わない人にはよくわからない。Websiteの説明には次のようにある。
京急金沢文庫駅で行われる連結を再現!
京急2100形(1両編成)と京浜急行新1000形(1両編成)を引きはなして平らなところに置くと、内蔵のゼンマイにより自動的に戻り連結!連結が完了すると走りだす!
この商品のモチーフとなった
「京急金沢文庫駅で行われる連結」とは…(現在ではほとんど行われなくなりました)
8両編成の品川ゆきと4両編成の羽田空港ゆきが金沢文庫駅までそれぞれ別の列車として運転され、金沢文庫駅で両列車が連結され京急川崎駅まで12両編成で運転します。そして京急川崎駅でそれぞれを切り離し、品川駅・羽田空港駅へと向かいます。この連結作業は金沢文庫駅以外でも品川駅や京急川崎駅でも見ることができます。
行先等が異なる連結・空の車両の増結も含めると金沢文庫駅だけで1日に平日で60回以上、土休日は70回以上も行われています。
※2010年5月16日からのダイヤ改正にともない「京急金沢文庫駅で行われる連結」は、ほとんど行われなくなりました)


京急は駅で乗客を乗せたまま、別の方面にいく列車を連結させることがあるのだが、それを模したものらしい。品川駅の増結ではなく、金沢文庫の増結(しかも「現在ではほとんど行われなくなりました」)というところがシブい。

ショータ君にあげる前に自分で遊んでみる。〈快特品川行き・京急2100形〉と〈快特羽田空港行き・京急新1000形〉が二本の糸でつながっていて、この二両を引き離す。手をはなすと、先頭の2100形に新1000形がゆっくり近き、くっつくと同時にものすごい勢いで走り出し壁にぶつかって止まった。これは面白い。

これじゃよく分からないと思うので、動画をどうぞ。僕が撮ったものじゃないけど。



連結したあとの暴力的な速さがまた京急っぽくっていい。あげるの惜しくなってきたな・・・。
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