2011年08月

今月は、なんだかいろんなことがあった。

まず、イギリスの暴動。ちょうど一年前のそのころ、ロンドンに行ったので、遠い外国の事という感じではなかった。若いギャングの仕業らしいが、なぜその時なのか、なぜ全国に飛び火したのかというのはもっと考えられなければならないと思う。僕はよく分からないが、これを携帯電話とかネットのせいにするのは全く意味がないことだ。

ネットといえば、フジテレビへのデモというのもあった。やっている本人たちは至極真面目なんだろうが、端から見ていると「だからどうした」感しかない。

「若気の至り」は貴重なものなので、若い人はいいけど、いい年した人がこういうのに参加しているのはどうしたもんかなと思う。たぶん、「若気の至り」をしたことがないまま年を取っちゃったんだろうな。

それから、ついにねばりにねばった菅総理が辞職し、野田佳彦氏が首相になった。菅政権がちょっと長くなるという僕の予想(鳩山首相辞任・菅首相誕生:2010年06月05日)は見事に外れた。言い訳するわけじゃないが、もう一つの予想は当たりつつある。

2009年の総括
僕は、来年これで民主党がコケた時が一番ヤバいと思っている。民主党が自民党の存在感を消すことに(今のところ)成功している以上、民主党がダメだから自民党にしましょうとはならないからである。
そこにあるのは、これまでにない政治不信だけ。それが一番怖い。


政権交代以来、自民党はますます存在感が薄くなっている。民主党はなんだかワケがわからない。首相はコロコロ変わる。もう、政治家が全員バカに見える。僕は今ぐらい政治に興味が無くなったときはない。

「解釈と鑑賞」の休刊も、休刊そのものよりもTwitterなんかの反応の方が面白かったのだが、それはまたそのうち書く。
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やたがらすナビのツールカテゴリが見にくくなってきたので、データベースにした。

和漢籍研究ツール・DB検索:やたがらすナビ

現在のところ、ツールカテゴリに入っているものは、リンク切れしていたものを除いてすべて入れてある。一つ一つ確認しているうちに、さらにいろいろ見つかったので、それは順次入れていくつもり。また、現在テキストカテゴリやオンラインソフトカテゴリに属しているものも、必要に応じて入れていきたいとおもう。

エンジンは古典文学電子テキスト検索と同じなので、使い方は基本的には変わらない。しかし、テキストのように作品名とか作者名があるものではなくそのままでは検索しづらいので、タグクラウドを付けた。

タグは僕の主観で付けた。つけすぎるとかえって探しにくくなるし、人文科学のタームは定まっていない物が多いので難儀したが、検索しやすさを考慮してつけたつもりである。

例えば、日本語で「じてん」と言った場合、「辞典」「事典」「字典」と三種類あるが、「辞典」「事典」は「辞典」に統一し、文字の字形を扱うものを「字典」とした。もちろん字形と語義両方を扱っている場合は、「辞典」と「字典」両方のタグがついている。また、中国語では熟語を扱うものを「詞典」、漢字一字を扱うものを「字典」というが、どちらも語義を扱うものは「辞典」としてある。タグは今後煮詰めていくつもりである。

また、はてなブックマークのブックマーク数がでるようにした。これをクリックするとはてなブックマークに飛ぶようになっている。数が多ければいいサイトというわけではないが、閲覧の際のヒントにはなるだろう。
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ぎょうせい(至文堂)刊行の「国文学 解釈と鑑賞」の休刊にはずいぶん反響が大きかったようだ。

『国文学 解釈と鑑賞』休刊への反応:Togetter

少々トンチンカンな人もいるようで、それがまた面白いのだが、今度は同じくぎょうせいから刊行されている「国語と国文学」も発行中止になるらしい。

「国語と国文学」というのは、書く人のための雑誌(「解釈と鑑賞」休刊:2011年08月10日参照)である。それも国文学研究では最高のものといってよい。もし、これが休刊となれば、書く人がいないということになる。これはまさに危機的状況だが、よもやそんなことはあるまい。

「国語と国文学」発行中止のご挨拶:ぎょうせいオンライン
「国語と国文学」は、大正13年に東京大学国語国文学会の編集により、国文学研究成果発表の役割を担う雑誌として、株式会社至文堂より発行されました。平成21年の業務統合後は、当社より発行を続けてきましたが、雑誌経営を取り巻く厳しい状況に鑑み、今年9月発売号(10月号)をもって、弊社からの発行を中止することといたしました。

これがもし休刊なら、いよいよ憂うるべき事態である。

しかし、わざわざ「弊社からの発行を中止する」とあるのだから、他社に移管するということだろう。ちなみに「解釈と鑑賞」の「「国文学 解釈と鑑賞」休刊のご挨拶」には「今年9月発売号(10月号)をもって、休刊することといたしました。」とあって、「国語と国文学」とは対照的になっている。

笠間書院のブログにも、「ただ、「国語と国文学」については、小社ではありませんが、某社に移行して発行が継続されるという「噂」を把握しています。(ぎょうせいが「国語と国文学」の発行中止を発表(ぎょうせいオンライン):笠間書院)」とあるので、移管は間違いないとみていいだろう。

それではなぜ「解釈と鑑賞」は休刊で、「国語と国文学」は存続するのか。ここからは全くの推測だが、出版という商売の視点から見ると、

「解釈と鑑賞」…刊行すると損をする雑誌
「国語と国文学」…損はしないがあまり儲からない雑誌

だったのだろう。「国語と国文学」のような投稿誌は、出版コストもそれほどかからない。それならば残しておいてもよさそうだが、そこに使うリソースを他に振り向けた方が儲かると判断として切り捨てたのである。

逆に言えば、「国語と国文学」は、あまり儲からなくても安定した儲けがあるといえる。それを必要とする出版社も少なからずあるはずだ。

たぶんね。

【2011/09/29追記】
「国語と国文学」は明治書院から発行されることになった。
【雑誌情報】学術雑誌『國語と國文學』を明治書院が引き続き刊行いたします
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もう一つのちょっと良かった品は、ウォーターマン(Waterman)の万年筆。

ウォーターマンといえば高級品のイメージが強いが、僕が買ったのは€8.95。ちょうど1000円ぐらいである。安物なので、ブリスターパックに入って、例のオレンジビックなんかといっしょにぶら下がっていた。

日本でも安い万年筆はあって、昔はどこの文房具屋にも売っていたが、最近はあまり見かけなくなった。履歴書や手紙などに使うのが定番だったが、水性ボールペンやゲルインクボールペンの性能が上がってきたため使われなくなったのだろう。

かくいう僕も万年筆は使わない。文章はパソコンで書くし、手で書かなければならない文書は水性ボールペンで、キアイの入った手紙は筆で書くからである。手紙自体あまり書かなくなったが。

しかし、フランスではまだまだ健在のようだ。ちょっと見たところ、僕が買ったWatermanを始め、Bicとかペリカンなんかもある。インクの色はすべて青で、最初から黒が入っているものはなかった。

日本では見かけないBicの万年筆というのも面白いが、カートリッジがあるかどうか分からないし、ペリカンといえばドイツなので、ここは迷わずWatermanをチョイス。これなら日本でも容易にカートリッジが手に入る。

ブリスターパックに入っていると、どんな良いものでも、安物に見えるものである。いや、たしかに安物には違いないのだが、パッケージから出して手に持ってみると、期待に反して(?)全然安物に見えない。キャップをしておけば、ちょっとオシャレな10000円ぐらいの万年筆に見えるんじゃないだろうか。

万年筆


軸の色は濃いブルーの半透明。高級品には決してない色だと思うが、かといって安っぽさはない。インクの残量が分かるわけではないので、実用的に半透明にしたわけではないだろう。この写真ではよく分からないが、クリップもちゃんとかっこよくデザインされている。

ペン先はこんな感じ。

ペン先


さすがに安っぽいが、ちゃんとブランドのマークや模様まで彫られていて芸が細かい。形状も高級品と何ら変わらない(と思う)。

肝心の書き味だが、非常になめらかで書きやすい。ちょっとざらついた紙に書いても引っかかる感じがない。最近のはどうか知らないが、昔売っていた国産の安物万年筆とは段違いである。ただし、F(細書き)とはいえ、国産よりも線が太いので、細かい字を書くのには向いていないかもしれない。

安物だが字を書いていて楽しくなる万年筆である。ハイテク筆記具も悪くはないが、子供のころから、こういうしっかり作られた筆記具を持てば、乱雑に字を書くこともなくなるんじゃないかと思った。

話は変わるが、Watermanの万年筆にはちょっとした思い出がある。僕の師匠が万年筆を買い替えたいというので、神保町の金ペン堂に連れて行った。師匠の万年筆のペン先を見た金ペン堂のオヤジ「ああ、これは嫌がっているのを無理やり使っている感じですね」といった。

僕は調子に乗って「嫌がっているのを無理やり使っちゃいけないですね(弟子も・・・)」と言ったら、あとで師匠に怒られた。

このとき、金ペン堂のオヤジに勧められて買ったのがWatermanの万年筆だった。
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僕は文房具屋育ちなので、文具にはうるさい。といっても、高級万年筆なんかよりも、安物のどこででも手に入るような実用品に興味がある。

僕の実家で売っていた文房具のほとんどは日本製だった。もちろん値段の高いものの中には、パーカーやモンブランの万年筆もあったが、普段使いの文具はすべて国産である(当時中国産はなかった)。

しかし、唯一例外があった。Bicのボールペンである。



このボールペン、オレンジ色の軸に「速記用」と書いてあった。なんだかプロが使うみたいでかっこいい。かっこいいだけではなく、国産のボールペンに比べて格段に書きやすい。長い時間書いていても全然疲れないのである。何の工夫もない軸だが、これが案外持ちやすい。大学時代、ノートはすべてこれでとった。

しかし、二つ大きな欠点があった。一つは字が下手に見えることである。いや、実際下手だったのだが、より下手に見えるのである。少なくとも公的な文書には使えない。たぶん、漢字には向いていないのだろう。「速記用」というのは「速く書けるが、きれいには書けない」という意味だと合点した。

もう一つは不良品が多いことである。何本も使ったが、インクが完全になくなるまで書けたためしがない。ひどい時は三分の二ほどインクが残っているのに書けなくなってしまう。売る側としても、苦情が多かった。しかし、書きやすいという一点では、国産を凌駕していて、指名買いも多かったように記憶している。

そんなわけで、フランスと文房具という組み合わせは、ファッションや芸術以上に僕のイメージに焼付いた。今回初めてフランスへ行って、スーパーマーケット(Monoprix)で当然のごとく文具売り場を徘徊した。

文房具はその国の文化に根差したものである。その上、日本の文具は優秀だ。外国製品の方が使いやすいということはまずない。デザインなんかは魅力的でも、実際使ってみるとイマイチな品が多いのである。

そんな中から、ちょっと良かった品を二つ紹介しよう。まず、最近流行のロディアのメモ帳



実際買ったのは、中身と同じオレンジ色のカバー付きで一冊€4.5(約500円)。でも、カバーはいらないな、これ。

あちこちで絶賛されているのを見て、どうせ、ブランドとか所有感とか、そういうのだろうと思っていたのだが、これが実際に使ってみると意外に良かった。作りはさすがフランス製だけあって、ざっくりいいかげん(僕は外国文具のそういうところが好きだ)なのだが、とても書きやすいのである。

紙は白紙ではなく、紫色の5mm方眼になっていて、文字が書きやすい。これが裏面にも印刷されているのが親切だ。裏面はあまり使うことがないだろうが、いざというときには便利である。

そして、なんといってもミシン目がいい。ピリピリと気持ちよく切れるのである。力の加減をしなくても、へんなところが破れたりしない。あまりに気持ちいいので、なんだかクセになってしまう。僕はこれだけきれいに切れるミシン目に会ったことがない。

僕の場合、伝言をメモに書いて他の先生の机に置くことがよくある。なにしろ書道の先生なので、いいかげんには書けないが、さすがに白紙だと書きにくい。うまく書けても切り取った瞬間真っ二つなんていう悲劇もよくある。このメモ帳ならそんな悲劇は減ることだろう。

難を言えば、もう少し方眼が薄いほうがいいのだが、これは好みの問題だろう。よくメモを取る人はストロングバイ。

さて、もう一つは万年筆だが、ちょっと長くなったので、次回の講釈で。
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モン・サン=ミシェルへ行った(その1)のつづき。

モン・サン=ミシェルの周りは海というイメージが強いが、実は干潟になっている。かつては確かに海で、干潮時のみ珍島物語のように島に渡れるという塩梅だったが、1877年に対岸との間に満潮でも沈まない道路が作られ(かつては鉄道もあったそうだ)た影響で、徐々に砂が堆積し干潟になったという。

干潮時は広大な干潟が現れる。これはこれですごい。

モンサンミシェルの干潟


海鳥も多いが、見かけたのはカモメばかり。時間帯がよくなかったのかもしれない。

カモメ


これだけ広いと落書きがしたくなるのが人情というものだ。世界中のアホが落書きしている。ベルギー人、フィンランド人、ルクセンブルグ人、メキシコ人、インド人がクロスワードやってたり・・・

落書き2


さらに目を移すと・・・世界一のアホはポーランド人らしい。

落書き2


誇り高き日本人である僕は、座禅を組んでみた。

座禅してみた


もちろん、見えない何かと戦ってみた。

見えない敵と戦ってみた


モン・サン・ミシェルと途中で立ち寄ったレンヌの写真はこちら。
モン・サンミシェルとレンヌ


ついでにパリも。
パリ
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考えてみればちょうど一カ月も前のことになるのだが、日本人大好きモン・サン=ミシェルに行った。このエントリは、8月05日のエントリの続きで、実際に行ったのは7月23日である。

まずは、7月の壁紙の写真を再掲しておく。やはり、ありがちな構図というのは大事である。

モン・サン=ミシェル(1024x768)


修道院をアップで。

モンサンミシェル


モン・サン=ミシェルは修道院だが、どう見ても要塞か監獄に見える。日本の城郭と同じように矢狭間がある。この写真は、矢狭間から外を覗いたところ。足元には石落とし(石垣をよじ登ってくる敵に攻撃をしかける穴)も開いている。

モンサンミシェルの矢狭間


事実、場所が場所だけに、要塞にも監獄にも使われたそうだ。

モン・サン=ミシェル:Wikipedia
百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。
18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。


さて、中に入ってみると、細い上り坂が延々と続いている。観光客でいっぱいだ。日本人だらけだという話を聞いたが、まだ7月だったせいかそれほど多くはない。

観光客


この光景、どこかで見たような気が・・・、九份(九フン)だ。これで日本人だらけだったら完璧である。

台北から電車に乗って基隆に着いた〜:2011年04月02日

とりあえず、見えないなにかと戦ってみた。

見えない敵と戦ってみた1


「こんなに高いと、物資を運ぶのたいへんだろうなー」と思っていたら、エレベータがあった。

人力エレベータ


もちろん、電気なんかない時代だから人力で動かす。大きな車輪みたいなのがあって・・・。

人力エレベータ(駆動部1)


どうやら、この中に入って、ハムスターのように車を回すらしい。

人力エレベータ(駆動部2)


つづく
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先日のエントリで書いた、エライ人のつまらない話を聞いている間、ヒマなのでなぜこの人の話がつまらないか考えてみた。

内容的につまらないのは、僕に興味がない話題だから仕方がない。しかし、興味がない話題ならすべてつまらないかというとそうではない。好きな教科じゃないのに、面白い話をする先生というのはいる。逆に好きな教科を台無しにしてしまう先生もいる。内容以外につまらない理由があるはずだ。

いろいろ考えているうちに、いくつか原因が見つかったのだが、一番よろしくないのは「脱線」が下手なことだろうという結論に至った。

「脱線」というのは、話の中で主題と別の内容を話すことである。いままで僕が聞いた講演なり、授業なりで、話が上手いと思う人は例外なく脱線の仕方がうまかった。

まず、この先生の脱線は、どこから脱線したのかよく分からない。真面目に聞いていると、突然「脱線しました」などと言い出す。どこから脱線したか分からないので、必死にメモを取っていたら、「脱線でした」と言われ、メモが無駄になった感じがする。

そして、その回数が多い。多いというより、間隔が短い。これでは、どこをしっかりに聞けばいいのか、いいかげんでいいのか分からなくなってくる。結果、全部聞かなくなってしまう。

脱線というのは、人前で話すとき相手を飽きさせないテクニックの一つである。脳ミソをリフレッシュして、次の話題への集中に繋げる効果がある。しかし、これが下手だとリフレッシュにならず、ならばやらない方がずっとマシということになるのだ。

うまく脱線できないのは、本題となるべく近い話をしようとするからである。この先生の話は、脱線といいつつ、本題にあまりに近いため、どこから脱線なのか分からなかったのである。各論だと思って聞いていたら脱線だったというわけだ。脱線の効果はリフレッシュ以外の何物でもないのだから、本題なんて無視していい。

例えば、森鴎外の話をしているときに、森鴎外が軍医だったことから、自分が医者にかかった体験なんかを話すのもいいだろう。鴎外の鴎はカモメだから、カモメの薀蓄を話すという手もある。世界初の女性宇宙飛行士であるテレシコワが「私はカモメ(ヤー チャイカ)」と言ったのは、テレシコワのコールサインが「カモメ」だったからで、別にチエホフを意識したものではない。

脱線の内容も、できるだけ現代的で、万人が理解できるものである必要がある。ガガーリンならともかく、テレシコワなんて今や誰も知らないので「ヤー チャイカ」なんて言っても、だからどうしたと思われるだけだ。

先日、レンタルビデオ屋でウルトラQを借りてきたら、第10話「地底超特急西へ」で、宇宙に吹き飛ばされた人工生命 M1号が脈絡なく「私はカモメ、私はカモメ」と言っていた。テレシコワの宇宙旅行がいかに知られていたかが分かる・・・こんなマニアックな脱線の仕方はダメだ。

最後に「脱線しました」というのがまたよろしくない。これさえなければ各論を話しているだけだったのに、脱線宣言をしてしたうから、今まで聞いたのが無意味だということになってしまう。せいぜい「話をもどします」ぐらいにしておいた方がいい。

もっと上手い人は脱線の回収をする。自然と本題に戻っていくのである。これは高等テクニックで、最初から周到に計算して話さなければできない。計算すると大抵つまらなくなる。回収できなければ、中国の高速鉄道のように埋めてしまうのがいいだろう。
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ベランダでゴーヤ(苦瓜)を栽培している(でも節電にはご協力できません:2011年07月03日参照)。これが笑えるぐらいたくさんできる。葛的先生が(頼んでもいないのに)持ってきた瓢箪とはえらい違いである。

ゴーヤと言えば緑色だが、ヨメがみごとにオレンジ色になったものを持ってきた。

熟したゴーヤ


売っているものよりは小さいが、プランターでできるものとしてはかなり大きい。放射能の影響で突然変異したかと思ったが、実はこれ収穫を忘れて熟したゴーヤだった。

見た感じはオレンジ色のゴーヤだが、触るとなにやらふかふかした感じで、とてもゴーヤとは思えない。開けてみてびっくり極彩色。どうみてもトロピカルフルーツの類である。

熟したゴーヤ(中身)


ここまでくれば食べるしかないだろう。まず、赤いゼリー状の物質がついた種をおそるおそる口に入れる。

甘い!

この甘さは、パパイヤとかマンゴーに通じるところがある。南方の果物の味だ。種を吐き出すと、種苗店に売っている種と同じものが出てきた。来年はこれも植えてみることにする。

ついでに皮も食べてみる。やはり甘く苦味はまったくない。食感はかなりマンゴーに似ているが、そもそもが苦瓜なので少し野菜っぽい匂いがする。まあ、食べておいしいものではない。

調べてみると、僕たちが普段食べているのは未成熟な果実だという。タイなんかで青いパパイヤを野菜として食べるのと同じだろう。本来の和名はツルレイシ(蔓茘枝)というらしい。レイシ(茘枝)とはライチのことなので、ゴーヤはそもそも甘いものだったのだ。

ツルレイシ:Wikipedia
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昨日、教育関係の研修会に出席した。なんかエライ人の講演とやらで、つまらないことこの上なかったのだが(余談だが、なぜ教育関係のエライ人の話はほとんど例外なくつまらないんだろう)、その中で唯一興味のある話があった。

小学校や中学校の国語で、文字の書き方を習う課目を何といったか覚えているだろうか?

習字?

ハズレ。正解は「書写」である。

この「書写」という言葉、「習字」と比べると一般的でない。例えば、上の問いに「書写」と正しく答えられた人でも、普段「習字」と言っていたという人は多いだろう。僕は高校で「書道」という教科を担当しているが、生徒の多くは「習字」だと思っていて、僕のことはお習字の先生だと思っている。

ちなみに高校の「書道」は芸術課目の一つで、読みやすく正しい文字を書けるようにする「書写」とは目的が違う。「習字」は「書写」と名前が違うだけで内容は同じだが、「書道」は別である。それでも「習字」と言われるのである。

考えてみると「習字」という言葉は、意外に公式に使われることが少ない。教科の名称だけではない。普段「習字教室へ行ってくる」とか「習字を習っている(ヘンな言葉だ)」というように使われても、実際に行っているのは「○○書道教室」とか「○○書道塾」とかいう名称であることが多い。「習字」という言葉の持つ生命力は恐ろしく強いのである。

講演者の話によると、戦前の教科名は「習字」だった。敗戦後、GHQが習字の授業に全体主義を感じ、禁止されそうになった(されたのか?)。たしかに、半紙に同じ言葉を書いてずらっと壁に貼っていたら、文字そのものを学ぶ習慣を持たない国の人からすれば全体主義そのものに見えるだろう。まして「八紘一宇」みたいないスローガンだったらなおさらである。そこで全体主義を払拭して、教科を残すため名称を変更したのが「書写」という教科の始まりだそうだ。

しかし、戦後付けられた教科名だから、定着しなかったというのは理由にならない。それならば「道徳」だって「修身」と言われるはずだし、「算数」も「算術」となるはずだ。「道徳」にしても「算数」にしても古くからある言葉だが、「書写」だって相当古くから使われている言葉である。

「習字」という言葉が、これほどまでに使われる理由がイマイチ分からないのだが、一つ考えられるのは語感の問題である。

「書写」という言葉には、そもそも文字を書くこと以外の意味はないし、「書き写す」と読んでもただ文字を右から左に書き写すだけみたいで、学ぶこととしてはしっくりこない。「書道」だと「道」という字になにやら精神修養みたいな感覚を覚える。

そうなるとやはり「習字」が一番しっくりくるのではないだろうか。これがもし「書法」だったら・・・これは案外定着したかもしれない。
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