2011年12月

今年は3月の地震とそれにまつわることに終始した一年だった。余震は来なくなったが、余波はいまだに続いている。

百聞は一見にしかずといい、これまで個人的には何度もそれを感じる経験があった。しかし、3月の東日本大震災ほどそれを感じたことはない。

東北地方沿岸部を襲った大津波。津波が街を襲えば、パニックムービーみたいな混沌とした感じになるのだろうと思っていた。しかし、普通に道路を走っている自動車が、ゆっくりと波に飲み込まれてゆく様子を、テレビに映ったリアルタイムの画像で見たときは、パニックムービーよりもはるかに底知れぬ恐怖を感じた。

僕の住む東京23区では、たいした火災も起きなかったし、家屋の倒壊もほとんどなかった。地震がおさまって、最初に家を出たときに「あれ?いつもと変わらないな」と思ったくらいである。ところが、地震の後、まったく想定外のことばかり起こった。

地震がくれば、食料などの買占めが起こる、ここまでは予想できる。しかし実際に起きて、どういう人たちが、どういう物を、どういう心理で買占めしているか、そしてその結果どうなるか、こんなことまでは実際に買占めが起きるまで分からなかった。

地震によって原発事故が起きるところまではある程度予想できた。しかし、現在に至るまでカタの付かないほどの大事故になるとは思わなかった。これほど経済的なダメージが大きいとも思わなかった。何より、これだけの事故が起きて、まだ現実を直視できない人たち―原発推進派の人たち―がいることが予想できなかった。

挙げればきりがないが、その他もろもろ沢山の〈想定外〉があった。これじゃあいくら〈想定〉しても追いつかない。

どうやら、非常事態を想定するのは必要だが、それよりも、想定できないことが起きたときに、どう対処したらいいかを考えることが大事なことらしい。これが、地震から得た僕の教訓である。

そして、今年の最後を締めくくる一言。

1000ゲット!!

いままで読んでくれてありがとう!これからもよろしく!よいお年を!
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今年の三月、東日本大震災に伴う原発事故がおきた。故障した原子炉はコントロール不可の状態になった。そして今月の初めごろ、野田首相から冷温停止宣言が出た。実際には「冷温停止状態」というあいまいなものだが、宣言をした以上、政府は原発をある程度コントロールできているとお墨付きを付けたことになる。

しかし、実際には壊れた原子炉の内部がどうなっているかは知る術がないのは明白で、少なくとも冷温停止宣言で一安心という日本国民はほとんどいないだろう。要するに信用されていないのである。いや、日本国民だけでなく、世界からも信用されていないようだ。

冷温停止宣言:海外メディアは厳しい見方:mainichi.jp
東京電力福島第1原発の原子炉が「冷温停止状態」になったと日本政府が宣言したことについて、国際原子力機関(IAEA)や米国などは評価する声明を発表した。その一方、海外メディアは「原発の安全が確保されたわけではない」などと宣言を疑問視し、日本の原発事故対応に厳しい目を向けた。
現政権の立場からすると、国民を安心させるために、作業工程が順調に進んでいるということをアピールしなければならない。しかし、根拠もなく冷温停止宣言をすると逆に信用をうしなう。難しい立場だが、様々な判断により冷温停止宣言をしたのだろう。

僕が「冷温停止」という言葉で思い出すのが、菅前首相である。もうすっかり忘れられちゃっている感があるが、彼は退陣の時期を原発の冷温停止としていた。

実際にはその前に退陣に追い込まれたわけだが、もし菅氏がまだ首相をやっていたら、今冷温停止宣言を出して辞めただろうか。菅氏が政権を延命するつもりなら、たぶん、この時点では冷温停止宣言は出さなかっただろう。

「信用」という点でいえば、そっちの方がマシだったかもしれない。

もちろん、菅氏の方が野田氏よりも良かったなどと言うつもりはない。これは判断の問題ではなく、立場の違いである。だが、その立場の違いが信用に大きくかかわってくるのである。
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毎年恒例の「東京都の高等学校書道科教員による書展」をやります。
その名の通り、都内国公立・私立高校の先生の展覧会です。

日時:平成24年1月6日(金)〜8日(日)
   午前11時〜午後6時(6日は午後1時から)

場所:新宿文化センター 地下1階展示室

教員展葉書(平成23年度)


毎年恒例とかいってますが、去年(というか今年)は3月18日からの予定で、東日本大震災により中止になりました。

今回は何も起こらないでほしい・・・。
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ヤフオクを試してみた(その1)のつづき。

前回の手続きで、出品することができるようになった。あとは、出品するだけである。

必要なものは、
  1. 商品
  2. 商品の写真
  3. 商品のデータ
の三つ。商品のデータは商品の状態、重さ、大きさなどで、入札する人の判断材料になる。

なにしろ初めてなので、確実に売りたい。記念すべき初めての商品は何にしようかと、いろいろ考えたのだが、このブログに乗せるためにすでに写真を撮ってあった、シャルマントランプに決定。これならそれほど大きくないので、送るのも楽そうだ。

シャルマントランプ

懐かし玩具(シャルマントランプ):2011年12月04日

ということで、これに決定。カテゴリを決め、フォームに必要事項を入力する。

フォームはこんな感じ。UIがださいのはYahoo!のお約束。

ScreenClip


難しいのが、開始時の価格をいくらにするかである。

送料は出品者負担も選択できるが、基本的に落札者負担である。落札する方からすれば、送料も含めた金額が予算になる。つまり、送料も含めて始値をつけなければならない。今、売っている商品よりも安ても、送料を含めて上回ってしまえばだれも買わないのである。

一応、目安として他の出品者の付けた値段が参考になるが、それで入札されていなければ参考にならない。今回出品するのはちょっと特殊なカードなので、そもそも高いのか安いのかよく分からん。

とにかく最初が肝心。今回はとりあえず誰かに落札してもらって取引の一連の流れがわかればいい。オークションなんだから適正価格は市場が決してくれるだろうということで100円にした。

オークションの期間は出品者で設定できる。これも一見長ければ長いほどよさそうだが、たしかに目につく可能性はあがるが、結局入札されるのは終わるぎりぎりの一日程度なので、長ければいいというものでもないらしい。

さて、記念すべき最初の出品だが、始値の100円で落札された。つまり、入札者は一人だったわけである。商品にもよるが、こんなものらしい。

オークション終了後は、取引ナビという掲示板のようなもので、出品者と連絡を取り、送り先・送り方・入金方法を確認し、入金を確認後に梱包して商品を送る。

すべて終了後、出品者、入札者をお互いに評価して、完全終了。この評価も入札者の判断の決めてになる。

とまあ、こんな具合なのだが、元から儲けようとは思っていないものの、ちょっと手間がかかりすぎる。

ちなみに、手数料は、出品自体が月10点までは無料で、11点目から10.50円かかり、落札されると落札価格の5.25%かかる。

なお、今僕が出している商品はこちら。

hepxi:Yahoo!オークション
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今さらながらYahoo!オークションを試してみた。

今回、やってみたのは入札する方ではなく、出品する方。例の(フリマで文房具を売った:2011年11月13日)の文房具(や玩具)を売るためである。

なにしろ、今まで一度も入札したことがないので、敷居が高い。

まず、Yahoo!Japanのアカウントを取る必要がある。最近Yahoo!のサービスは使っていなかったが、なにしろインターネット歴15年以上なので、これはすでに持っていた。

次にヤフオクのユーザー登録をする。これは連絡用のメールアドレスを決めるだけのことなので、あっという間に終わる。これはYahoo!Japanのメールアドレスでも、その他のアドレスでもOKだ。登録すると、Yahoo!から確認のメールが来て、第一段階終了。

これだけで、とりあえず4999円までの入札に参加できる。だが、今回は出品しなければならない。

出品するためにはYahoo!プレミアム会員なるものにならなければならない。会費は月額346円。会費は入会した月は無料で、退会した月は一月分の支払いになる。

Yahoo!オークションの5000円以上に入札でき、出品できる他、次のような特典がある。
ほかにもいろいろあるみたいだが、月346円出すには若干ビミョーな内容。しかし、出品しなければならないのでやむを得ない。

これで、入札はすべてできるようになったが、出品の場合、これだけでは終わらない。

出品を希望する人は、Yahoo!ウォレットの申込みページに住所、氏名など必要事項を入力する。Yahoo!ウォレットはYahoo!の有料サービスでお金を払ったり、もらったりすることができるサービスで、これに申し込まないと出品できない。

申し込むと、数日後Yahoo!Japanから佐川急便の受取人確認配達で封筒が送られてくる。これは、受け取り時に佐川急便の配達員が受取人の身分証明書を確認するというもので、たとえ家族であっても受け取ることができない。送られてきた封筒の中に、パスワードが書いてあり、それを決められたページに入力することで、晴れて出品ができるという寸法だ。

けっこう面倒だが、いたしかたない。(つづく)
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本を切るということ(その1)のつづき。

書籍の本質はデータである。データがなければ、それは紙を束ねたものにすぎない。現代では「紙を束ねたもの」以外にデータを保存・閲覧する方法が出てきたから、「紙を束ねたもの」は必要ないという人もでてきたのである。

僕たちは美しく装丁されたものを長年「書籍」だと思ってきた。だから、データだけのもの・・・例えば、表紙も扉もなく、ノンブルも打っていない紙の束を本とは言わない。たとえそこに文豪の小説が印刷されていても、それは本とは認められないだろう。逆にどんな駄文が書かれていようとも、書籍の体裁になっていれば、それは疑いなく書籍である。つまり、書籍とは〈書籍の外形をしたもの〉として理解しているのである。

しかし、書籍が今のような形になる前、書籍はデータそのものだった。

かつて、書籍は写本という形で読まれた。写本とは手書きで書き写した本のことである。もともとの著者がいて、それを書き写し、さらにそれを書き写して、作品は読まれていったのである。

現在残っている古典はそうやって現代まで生き延びていった。しかし、不思議なことに著者自筆本やそれを写したと考えられる本は驚くほど少ない。

例えば、『源氏物語』は平安時代に書かれたものだが、写本は室町時代以前には溯れない。これは『源氏物語』だけではなく、多くの古典が成立時期からかなり下ったものしか残っていない。

これが何を意味しているか。

昔は作品はデータそのものだったのである。データだから、コピーしてしまうと、コピー元の価値が小さくなる。あたかも、市場経済の需給バランスのごとく、流布すればするほど、コピー元の価値は減って行くのである。代行業者によってスキャンされたもとの本が廃棄されたり、オークションに売り出されたりするのとよく似ている。

それではコピー元はどうなるのだろうか。当時のコピーは手書きだから、注意深く書き写しても間違いは当然おこる。それでも原本の価値が下がるというのは、現代人の感覚では理解できないが昔の人たちはそう考えていた。

コピー元がどうなったか、正確にはよく分からないのだが、一つの例として古筆切が上げられる。

古筆切とは、古い写本の一部を切ったもののことである。これは、長い年月のうちに自然に切れてしまったのではない。筆跡を鑑賞するために意図的に切ったのである。だから、古ければ古いほどよい。平安時代の仮名で書かれた筆跡はほとんど古筆切としてしか残っていない。

例えば首尾そろった『古今集』の写本があったとする。これを適当に切り、掛け軸にしたり、折帖に貼りこんで手鑑というコレクションにしたりするのである。切ればたくさんの人の手に渡るので『古今集』はバラバラになってしまう。

『古今集』は歌集であることに意味がある。それをぶった切ってバラバラにしてしまうのは僕たちの感覚では理解できないが、当時の人々に罪の意識はない。コピーがあれば、コピー元は切ってしまっても構わないという感覚なのである。

古筆切は室町時代に多く作られたが、つい最近まで作られていたらしい。もしかしたら、今もどこかで秘蔵の古典籍にカッターを当てている人がいるかもしれない。

このように、歴史的にみると書籍はデータそのものだった。それが明治になって、活版印刷が日本に入り、西洋式の装丁が施されるようになって、書籍の外形が重んじられるようになった。

現代人が「本」と言われて連想するのはその形である。だから、件の作家はその形を崩されるのが不愉快になのだ。たぶん、江戸時代以前の作家なら、スキャンするために本を裁断したとしても、何とも感じないだろう。

そもそも日本の本は装飾が過剰だ。外国の本で、カバーがかかっているうえに、箱に入って、帯までついているような本は滅多にない。日本人は書籍を〈形ある物〉として見る習慣が強くついているのである。日本で電子出版がなかなか進まない要因は、そんなところにもあるのかもしれない。

繰り返すが、書籍の本質はデータである。作家や愛好家がどう思おうとも、電子書籍は書籍がもとの姿を取り戻すことにほかならない。
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スキャン代行業者のことは、以前このブログで取り上げたことがある(自分のマヌケを棚にあげて:2011年09月07日)。僕はスキャン代行業者が違法とはいいがたく、何の問題もないという考え方に組する。

その後、出版社が抗議文を業者に送ったりしていたが、ついに作家がスキャン代行業者を提訴した。彼らの言い分が実にトンチンカンで面白い。

スキャン代行業者提訴で作家7名はかく語りき:eBook USER

内容は上のリンク先を読んでもらえれば分かると思う。名のある作家ともあろうものが、これほど説得力のないことを語るのは不思議としかいいようがない。

彼らの主張の一つは、スキャン業者は違法だから提訴したというものである。だから違法性を疑わないのは無理もない。しかし、なぜ違法なのか、明確に言っている人は一人もいない。それどころか、違法性そのものにはまったく言及しない人すらいる。

一番重要なのはこの点なのに、ここに踏み込んだ発言がないのは、彼らが事態をよく把握していないという証拠である。唯一、分かっていそうなのは大沢在昌センセーだが、反対に把握していないっぷりが一番面白かったのは『北斗の拳』でおなじみのこの人。

知ってもらうことが一番大事――武論尊
僕も含めてなんですが、インターネットとか電子の世界にまったく疎く、ついて行けない方は結構おられると思います。そうした僕たちの知らないところで今何が起こっているのか、こういうことが起こっているんですよ、ということを誰かが教えていかないといけない。知ってもらうことが僕は一番大事だと思ってる。そうじゃなければどんどんおかしな世界に入って行ってしまう。


「僕も含めて〜ついて行けない」というからには「誰かが教えていかないといけない」の「誰か」には自分が含まれていないことになる。自分が知らないことを人に知れ(僕は知るつもりないけどね)という、大変シュールな主張である。こっちからすると、一体何を知ればいいのか、さっぱりわからない。

彼らは本質的な問題点が理解できないまま、心情に訴えかけようとする。なるほど、法律論よりも心情に訴えた方が理解されやすいという目論見かもしれないが、本質が分かっていないから「本を裁断するな」という、おそろしくオソマツなものしかでてこない。

裁断された本、私はあれを正視に堪えない――浅田次郎
裁断された本、私はあれを正視に堪えない。自分の書いた本があのように手足もバラバラにされ、さらにはネットオークションで売りに出される、結果的にこういうことまでやる業者の方々に対しては、何ら正当な論理が私には感じられません。


“本”の尊厳が傷つけられている――林真理子
 浅田さんもおっしゃいましたけど、そこに本当に無残な本の姿がありますが、本屋の娘として、物書きとして、“本”というものの尊厳がこんなに傷つけられる世の中になるということをとんでもないことだと思っております。単なる利益だけではなくて、私たち物を書いている人間、そして本の尊厳を守るために今日ここに加わりました。


出版された本は作家のものではなく、買った人のものだ。漬物石にしようと、枕にしようと、カッターマットにしようと、作者にどうこう言われる筋合いはない。第一、売れなかった本は、それこそ裁断して捨てられる運命にある。一度も世に出ることなく、シュレッダーの露ときえるのだから、文句があるなら先にそっちに言えということになる。

書籍というものは、書かれた内容(データ)に価値があり、物自体の価値は副次的なものである。装丁や挿画は内容と無関係ではないが、だからと言って美術書を除いて主役にはなりえない。多くの人は中のデータに用があるので、これで心情に訴えようというのは無理がある。

しかし、自分の書いた本を裁断されたくないという気持ちは分からなくもない。僕自身、装丁を見るのが好きで、少なくとも現代の日本では、本と装丁は不可分のものだからだ。

それはあくまで「現代において」であって、これからは違うかもしれない。形としての本よりも、データだけがやりとりされる時代が来る。音楽がレコードからCDへ、そしてネット配信へ移ったように。

いや、これからだけではない。実は昔も書籍とはデータだけがやり取りされるものだった。書籍はその元の姿に戻ろうとしているのである。これも、音楽と同じである。(つづく)
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先日書いたやる気がないなら辞めろ:2011年12月11日がはてなブックマークでホッテントリ入りし、このブログとしてはちょっとびっくりするぐらいのアクセスがあった。

あくまで「このブログとしては」であって、他のアルファブロガー(若干死語)とか言われる人たちからしたらたいしたことないんだろうけど、いつもの30倍ぐらいのアクセスには驚いた。

はてブのホッテントリ入りはたぶん初めてではないが、ここまで増えたことはない。ツイッターが広く使われるようになったのが原因の一つである。

せっかく、反応があったのだから、ムダにしない手はないので、はてブのコメントから気になったのを選んで、コメント返ししてみる。

やた管ブログ:やる気がないなら辞めろ:はてなブックマーク

件の上司は熱血以前に差別主義者なんだろうけど、一般的に熱血漢は成果より気の持ちようを重視するよね。で、成果を出すやつに嫉妬する。「誠意がこもってない」とか「要領がよすぎる」とか言って足を引っぱる。

差別も嫉妬も、本人はしていないつもりだから質が悪いです。
人間の感情として、そういうものを持っているのが当たり前だという意識で自分と対峙しなきゃいけませんな。
自分も含めて。

「言葉を換えて言えば、やる気がないのがあたりまえなのである」…すごく納得した。ただ、サラリーマンになるための面接で (やる気のある前提で) 夢を語らせるようなお国柄じゃ、その事実を受け入れるのは酷く難しい。

ほんと、日本の面接ってわけわかんないですよね。
最初から「やる気のある前提」なんですから、ありゃ就職希望者と人事の小芝居です。
いかにうまく小芝居が打てるか、そんなんで採用決めちゃっていいのかと思いますよ。
採用ってのは、企業にとって最も重要な投資案件なのに、なぜこんな小芝居が重要視されるのか、僕には理解できません。

いやいや、その矛盾は学校でも同じで、教育というものは自己責任下で行われるものではなくて、年長者の義務・年少者の権利であるという概念が欠けている日本の教育現場も異常なんだよ

一概には言えませんが、僕は学校で「年長者の義務・年少者の権利であるという概念が欠けている」とは思いません。
実際「やる気がないなら辞めろ」などとは、まともな先生なら言わないはずです。
僕が「言いたくなる」「いいそうな言葉」と書いたのは、「実際には言えないが」という意味を含んでいます。
ただし、一部の私立学校は別です。「やる気がないなら公立へ行け」ですから。

「多くの日本企業は学校の劣化コピー」はどうなんだろ。日本の学校は軍隊の劣化コピーだけど,そこからさらに孫引きしてるのかね。

僕はそう思っています。
ただ、軍隊ってのは教育機関でもあるので、学校が軍隊のやり方を真似するのは、それなりに筋が通っていると思います(僕自身はそういうやり方は嫌いですが)。
しかし、日本企業が学校のコピーをするのは、それほどの〈思想〉がないのではないでしょうか。
たとえば、多くの日本企業のオフィスは、学校の職員室に酷似しています。欧米のオフィスはパーティションで区切るのが普通ですね。
あれも、単に学校の真似しているだけで、何の批判もなく今に至っているのだと思います。「劣化」という言葉を使ったのはそういう意味です。

儒教発祥の国 中国より酷い日本の儒教思想。諸悪の根源は儒教。

僕は儒教由来だとは考えていません。
ただ、儒教の間違った理解に基づくものである可能性はありますね。
儒教では上司にも「徳」が求められます。
単純に「上司が偉い」だったら、それは本来の儒教ではありません。
中国人社員の反感を買ったのは、この熱血上司が徳を示せなかったことにも一因があるんじゃないでしょうか。

学校の場合は、そこで行われているのが懲役じゃなくて教育ならば「やる気」の喚起が重要になってくるので、「やる気がないなら辞めろ」というセリフは仕事の場合とは別の文脈ではあるがやはり責任の放棄を意味する

これはその通りです。
ですから、まともな先生は「やる気がないなら辞めろ」などとは言いません。僕も言ったことないです。
ただ「言いたくなる気持ち」は分かってほしいなと思います。教師だって人間だもの。

学校っていう仕組みが日本に落としてる陰の部分はいろいろあるよなと。

学校のせいにしちゃいけないと思うんですよね。
創業者がとりあえず学校をモデルにして会社の仕組みを作った。それはしょうがないです。
でも、後に続く人がそれを無批判に継承しちゃっている。
そこが問題なんだと思いますよ。
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なんかすごくメカっぽくってカッコイイのを発見!懐かし文具とか書いているが、一見しただけでは何に使う道具か分からない。

可変二穴パンチ


ロゴもかっこいい。

マックス旧ロゴ


Max(マックス株式会社)といえば、ホッチキス(ステープラーが正式名称)の代名詞である。どこのオフィス・・・どころか、どこの家庭にでも一つはあるんじゃないだろうか。こんなロゴは見たことがない。一体いつのだろう。

しかし、これでピンときた。これは二穴パンチだ。今では穴の幅が規格化され一定だが、これは穴の幅が変えられようになっているのである。次の写真は穴の幅を小さくしたところ。下の二本の棒は紙の大きさにあわせて引き出すらしい。可変二穴パンチと命名。

幅を最小にしたところ


とはいえ、自由に変えられたのではかえって不便だというので、一般的に使われる80mm幅のところに目盛が打ってある。

目盛


裏には紙のカスを取り出すところがついているが、左右両方を開かなきゃいけないのはちょっと面倒くさそう。

裏面
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予想通りというかナンというか、恒例の漢字能力検定協会主催「今年の漢字」が「絆」に決まった。

2011年「今年の漢字」:漢字能力検定協会
「絆(ハン・バン/きずな・ほだす)」が表す2011年とは・・・
日本国内では、東日本大震災や台風による大雨被害、海外では、ニュージーランド地震、タイ洪水などが発生。大規模な災害の経験から家族や仲間など身近でかけがえのない人との「絆」をあらためて知る。
人と人との小さなつながりは、地域や社会などのコミュニティだけでなく、国境を越えた地球規模の人間同士の「絆」へ。
SNSをはじめとするソーシャルメディアを通じて新たな人との「絆」が生まれ、旧知の人との「絆」が深まった。
また、国際社会ではいくつもの民主化運動が起こった。
一方、ワールドカップで優勝した、なでしこジャパンのチームワークの「絆」には 日本中が感動し勇気づけられた。


我ながら、先見の明があるというか、見通しのよさに驚いた。

なぜか「絆」がいけ好かない:2011年11月18日
「絆」再び:2011年12月07日

「絆」がいけ好かないのは僕だけかと思ったら、そうでもないらしい。

時代の風:「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環:毎日.jp
「絆」連呼に違和感=精神科医・斎藤環:はてブ

今ところ、もう書きたいことはないんだけど、あれ書いているのって清水寺のボーサンだよね。

仕事とはいえ「断ちがたい煩悩」という意味の漢字を書かねばならないとは・・・心中お察し申し上げます。
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