2012年03月

このブログでたびたび書いている、祖母の文房具屋が廃業する。誤解のないように先に書いておくが、祖母はまだ元気だ。元気なうちに店舗として使っていたスペースを住む場所にしようというのである。

この文具店を創業したのは祖父である。もともと新宿の紙問屋に勤めていたが、何度も徴兵され、終戦後もウズベキスタン(あれ?つい最近見たような地名だ)に昭和23年まで抑留された。帰ってきてからしばらくして、勤めていた会社を退職し、今の文房具屋を開店した。

祖父は「起業して金持ちになろう」なんて考える人間ではない。それなのに独立しようとしたのが不思議だったので、理由を聞いたことがある。

いわく「小売店は現金が手に入るから」。当時は手形が不渡りになって回収できないというようなことが多かったらしい。仕事で小売店回りをして、客が手に現金を持って買いに来るのを見て、とても羨ましく思ったそうだ。問屋よりも小売店の方が安定している時代だったのである。

その後祖父は死ぬまで文房具屋を続けた。子供二人(僕から見ると母と叔父)を大人にするまで育てたのだから、昔は十分商売として成り立っていた。町に個人商店があふれていた時代である。

御用聞きに行っていた中小企業も多かった。子供が多かったので店に来る客も多かった。しかし、時代は変わり、中小企業は減り、子供も減り、スーパーまでもが文房具を扱うようになると、だんだん商売として成立しなくなっていった。

それでも祖父が80歳後半まで文房具屋を続けられたのは、年金と軍人恩給という収入があったことと、皮肉な話だが客が減ったためである。

もし、年金と軍人恩給がなければ、もっと早く店を畳まなければならなかっただろう。逆に商売を大きくしていれば、せいぜい70歳ぐらいまでしかできなかった。日本の経済が成熟していったから商売を続けることができ、衰退していったから死ぬまでできたのである。

祖父が亡くなる数年前、店を継がないかと打診されたことがある。僕の答えはNoだ。店を残したいという祖父の気持ちは分かるが、当時はすでにそれだけで生活できるほど売れていなかったし、僕には他にもっとやりたいことがあった。

僕はとてもじゃないがそれはできないと言った。今から考えると、もっと他に言いようがあったんじゃないかと思うが、結果的に祖父を傷つけてしまった。寂しそうだったが、僕にも生活がある。

結局、祖母はそのあとを受け継ぎ、93歳の現在まで毎日店を開けていた。開けていたというだけで、ほとんど収入にはなっていない。

その店がついになくなる日が来た。祖父が亡くなったのは3月28日、奇しくもほとんど同じ日である。

3月26日のエントリで差別を話題にしたら、早速こんなニュースが・・・。

「ボラット」のパロディ国歌が流れて大問題 中東の競技大会表彰式で:映画.com ニュース
クウェートで開催されたスポーツ競技大会の表彰式で、カザフスタン国歌の代わりに、サシャ・バロン・コーエン主演作「ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習」(2006)で使用されたパロディ国歌が流されるハプニングがあった。
(中略)
英ガーディアン紙によれば、クウェートの大会事務局が、インターネットから誤ってパロディ版国歌をダウンロードして使用したという。事件後、カザフスタンチームは謝罪を要求、それを受けて主催者は公式に謝罪声明を発表し、表彰式をやり直している。

問題のシーンはこちら。



パロディ国歌の出典、『ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習』は、簡単に言えばドッキリ映画である。しかし、日本のドッキリとはクオリティもスケールも全然違う。

この映画、カザフスタン人ジャーナリストのボラットが、アメリカ文化を取材したドキュメンタリー映画という体になっている。実際はボラットの正体はイギリスのコメディアン、サシャ・バロン・コーエンで、演じられた映像と、実際にドッキリにひっかけた映像が巧みにミックスされている。

種明かしがないので、なにも知らないで見ると、すべて演技か、すべてドキュメンタリーに見えるかもしれない。実際、僕は何も知らないで見たので、おそろしく下品なギャグ映画だと思ってしまった。

ジャーナリストのボラットもニセモノだが、このカザフスタンも実在のカザフスタンではない。どんな国かはWikipediaの説明が詳しいので引用する。
劇中ではカリウムの世界一の輸出国家で、隣国のウズベキスタンとは険悪である。ユダヤ人に対する偏見が強く、年に一度ユダヤ人追い祭りが行われる。男尊女卑のもと女子の平均寿命が低く、幼女のうちに嫁いで40代を前に老衰死する。(ボラット 栄光ナル国家カザフスタンのためのアメリカ文化学習:Wikipedia

ニセのカザフスタンは、いかにも〈先進国〉に住んでいる人がいだく〈後進国〉のイメージである。恐らくアメリカ人があまり知らない国で、遅れていそうな国として設定したのだろう。実在の国名にしたのは、架空の国名だとばれる可能性があるからである。もちろん実在のカザフスタン政府からはクレームがついたらしい。

『ボラット』は単にアメリカ人をドッキリさせて笑うという映画ではない。ステレオタイプな遅れている国の人を演じることにより、〈先進的〉なアメリカ人の本音を暴いている。ここには、当然差別も含まれる。レイシストボラットの前でレイシストが、面白いように本音をさらけ出すのである。



それにしても、「インターネットから誤ってパロディ版国歌をダウンロードして使用した」って、大学生のコピペ論文じゃあるまいし。

ネットの情報を鵜呑みにしてはいけないよ。
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フィフィが外国人学校無償化問題に言及。:togetter
フィフィさんの発言に対する金明秀さんの反応:togetter

おそらく日本人の差別というのは、例えば白人の黒人差別のように「肌の黒い人は平等に(というのもヘンな言い方だが)差別する」というような明快なものではなく、もっと複雑なものなのだろう。

以前、師匠からこんなことを聞いた。

日本人にはマレビト信仰というものがある。マレビト信仰というのは外来の客人は神様であるという信仰である。つまり外国人は神様であるということになる。神様として扱われる以上、日本人よりも優遇される。

その外国人も長年日本にいると、言葉も上手くなり、習慣も覚える。日本人の側から見ると、だんだん日本人に近づいてくる。すると、とたんに差別され冷遇されるようになるというのである。

師匠はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を例にとって話をしたが、僕はなるほどと思った。

外国人差別などというと、ちょっとピンとこないかもしれない。卑近な例で考えてみると、どこか遠くの地方から転校してきた子供が、最初はなぜだかちやほやされるが、学校になじんできたころにいじめられるというようなことはよくある。これも同じである。

これをフィフィさんの例に当てはめてみると、彼女はまだマレビトの段階にいるのである。フィフィさんの感じた差別はマレビト信仰による優遇が主なものだということになる。日本人と同じではないのだから優遇も差別の一種である。また、こちらは優遇のつもりでも、冷遇と感じることもあるだろうから、本人からすれば優遇ばかりではない。

もちろん、外国人なら何人たりとも嫌いだという、筋金入りのレイシストに会ったということもあるかもしれない。しかし、神様だから必ず日本人の味方がいる。マレビトの段階にある外国人に対する差別は、日本人の味方がいる差別である。フィフィさんが自分の努力で差別を克服できると考えるのは、それが味方のいる差別だからだ。

しかし、二世以降の在日アジア人はそうではない。日本で生まれ育ち、同じ言葉を話し、同じ容姿を持っている。帰れと言われても帰るところは日本しかないのに、冷遇という差別を受けるのである。そして、マレビトの段階にある外国人と違い、日本人の味方のいない差別である。

この二つの差別は全く別物である。どちらも差別される側の努力によって克服することは難しいが、前者は都合のいい優遇のみを取り出すことで、あたかも「克服」されたように感じることはできる。後者は帰化して日本人になりきる他ないが、それでも克服できるとは限らない。これを混同すると、二世以降の在日アジア人の差別も、差別される側の努力で克服できると思ってしまうのである。

おそらくフィフィさんは、白人の黒人差別のように容姿が違う方が差別されると考えているのだろう。少なくとも日本においては違う。むしろ容姿が同じ方が差別されるのである。

先日、国文学者のドナルド・キーン氏が日本国籍を取得した。彼は戸籍名を「キーン・ドナルド」とし「鬼怒鳴門」と漢字を当てたが、これはどう考えても日本人の名前ではない。僕は日本人の心性に詳しいキーン氏が、帰化したが自分は日本人ではないという意味で付けたのだろうと思っている。鬼もまたマレビトである。
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国語の読解問題が苦手な人の中に、問題そのものがおかしいという人がいる。国語の問題に答えなんかないだろうというのである。

もちろん、答えがないものもあるし、そういうものを問題にしちゃう場合もなくはない。いくつもの解釈ができるのに、出題者が一つと思い込んでいる場合や、問題文の範囲外にヒントがあったのにトリミングしちゃった場合もある。しかし、読解問題そのものに疑問を呈する人はそもそも読めていない場合が多い。

国語の読解の問題って絶対おかしいだろ?:カオスちゃんねる

問題文はこちら
70 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2012/02/21(火) 16:03:16.32 ID:ZaIVHg9m0
「彼女に言われたんだ、別れようって……。」
僕は耳を疑った。彼らの仲の良さは高校までずっと一緒だった僕が一番知っている。
「そんな…どうして急に…」
「大学に進学して離ればなれになってから会うことが少なくなっただろ?アイツはそれが嫌だったらしい。」
微笑んでいる彼の顔から後悔と寂しさが伝わってきた。
僕はただ黙って俯くことしかできなかった。

問1 「僕はただ黙って俯くことしかできなかった。」とあるが、
この時の『僕』の気持ちについて最も正しいものを答えよ。

1.悲しんでいる彼を励まそうとするも言葉が見つからず悲しんでいる
2.自分勝手な彼女に怒っている
3.彼らが別の大学に進学していたことに驚いている
4.ざまぁwwwwwwww


これに対する2chネラーのみなさんの解答。

71 名前:マジレスしたい人[] 投稿日:2012/02/21(火) 16:05:38.57 ID:2NqZoGKX0
俺は1かな

72 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2012/02/21(火) 16:05:47.94 ID:KJbB1SUD0
>>70
解答的には1
だが4であって欲しい

74 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 16:08:55.52 ID:oOIl6dkj0
>>70
結局どれとも取れるよね
高校までずっと一緒でよく知ってる友達である彼の顔から後悔と寂しさが伝わってきても
主人公がどんな性格かは書かれていないわけだしもしかしたらとんでもないクズ野郎で
4が正解かもしれない。

87 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[sage] 投稿日:2012/02/21(火) 16:23:43.43 ID:oOIl6dkj0
そもそも1を選ぶ根拠を「国語」の科目で教わってない。
また、『最も正しい』の意味するところも
人として を100%明確に指しているとは断定できない
仮に、 人として正しいと思うもの を指すとしても
これを学ぶ科目は「道徳」である。
こういう屁理屈は試験の傾向と対策を学べてないで片づけれるだろうけどね
自動車の免許試験とおなじようなもんか


なんとなく1が正解というのは分かっているようだが、なぜ他のものでないかは分からないようだ。よろしい、元国語教師がエレガントに説明しよう。

1が正解である理由は後で述べる。

2友人の話を聞いたときの僕のリアクションは「 ただ黙って俯くことしかできなかった。」である。これを怒りを抑えていると解釈するのはちょっと無理がある。もし怒っているならそれなりの表現はあるはずだ。よって2は考えにくいが、可能性としては1以外の選択肢よりは有力。

3「彼らが別の大学に進学していたことに驚いている」は、友人が「大学に進学して離ればなれになってから会うことが少なくなっただろ?」と確認しているから「僕」はすでに知っていると判断できる。はい、3消えた。

4の友人の不幸を喜ぶ「ざまぁwwwwwwww」。人の不幸話を聞いて喜ぶには、それなりの理由がなければならない。例えば「僕」には18年間恋人がいないとか、実は友人の彼女が好きだったとか、ものすごく陰湿な性格だとか、問題文にそれを示唆することが書かれていればありうるが、書いていない。簡単に言えば問題文中に「ざまぁwwwwwwww」と解釈する根拠がないので×。

1は「黙って俯く」ことから、言葉が見つからない様子が見て取れる。また、微笑んでいる友人の顔から「後悔と寂しさ」を感じ取っているため、それを励まそうとするのは自然である。特に問題はない。よって1が適当ということになる。

国語の読解問題というのは、文字通り、読めて、解釈できているかを試している。道徳的なことなど聞いていない。そして、解釈にはかならず根拠がなければならない。

解答者が陰険な性格なら、ついつい「ざまぁwwwwwwww」と解釈したくなるが、試験問題はオマエの性格なんか聞いてねぇんだよ。
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民主党の岡田さんってのはもうちょっとマシな人だと思ってたんだけど・・・

「若者にもきちんと説明したい」 岡田副総理、ニコ生で「消費増税」への理解求める:ニコニコニュース
番組では、司会の角谷浩一氏や視聴者からの質疑応答の時間も設けられた。消費増税は貧困に苦しむ若者たちへの負担増となるのではないかという疑問に対しては、「増税分は全額を社会保障のために使う。医療・介護・年金・子育ての支援は、所得の再分配だ」と返答。また、努力が報われにくい現代の若者に向けて、「デフレ時代は資産の無い若い人には絶対にチャンスだ。安くものが買えるなど悪いことばかりではない」と持論を展開する一幕もあった。

たしかにデフレで安く物が買える。が、給料も減る。「資産のない若い人」は物を買う財源は給料に頼らざるをえないので、相対的には何も変わらず、物価が安くなってもあまり意味が無い。

逆に資産を持っている人は、その資産を作ったときよりも安く物が買える。つまり、岡田さんが言っていることは全くの逆で、

「デフレ時代には資産のある年寄には絶対にチャンスだ。」

が正しい。

だが、残念ながら大多数の年寄はチャンスなんか求めていない。チャンスなんかよりも安心して暮らせる老後を望んでいる。その上デフレが続けば、利息なんか付かなくってもどんどん価値が増えるので、ますますお金を使わない。

岡田さんは、若者相手に喋っている場合じゃないのである。

このブログで前に紹介した(今月の壁紙:2009年12月27日)、学校として使われている校舎では最古の吹屋小学校が閉校になるそうだ。

【写真特集】国内最古の現役木造校舎 岡山・吹屋小学校が閉校:毎日.jp
 築100年を超え、小中学校では現役最古とされる木造校舎の岡山県高梁(たかはし)市立吹屋(ふきや)小学校(西井秀明校長)が過疎化による児童数減少のため今年度で閉校することになり、20日に最後の卒業式が行われた。
 吉備高原のベンガラ産地に1873(明治6)年に開校。これまでに約3000人が巣立った。現在の建物は1900(同33)年に平屋の東西校舎、09(同42)年に2階建て本館が造られた。大正期には児童数が300人を超えたこともあったが、2005年度以降は10人に満たず、今年度は7人。うち3人が卒業した。

高梁市立吹屋小学校

僕が行ったときは冬休みの夕方で、生徒どころか先生もいなかったが、それでも使われている校舎としてのライブ感みたいなものがあった。

生徒のいない学校は死んだも同然。建物は文化財として保存されるようだが、学校でなくなる以上、「生きている」感じはなくなるだろう。

いい時に行ったなと思う反面、ちょっとさびしくもある。
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『方丈記』の諸本:2012年03月13日で、翻刻に著作権はないと書いたが、もう少し詳しく書く。もっとも、僕は法律の専門家ではないので、もし理解に間違いがあれば指摘してほしい。

著作権は特許のように申請して取る権利ではない。著作をすると自動的に得られる権利である。このブログも、僕が書き終わった瞬間に著作権が発生することになるのだが、では「著作」とはだろうか。

これは著作権法の第一章第一節第二条に「著作物」として次のように定義されている。

第二条 この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、当該各号に定めるところによる。
一 著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

ここに出てくる「創作的」というのが、著作権法の重要なキーワードである。簡単に言えばオリジナリティである。僕のブログは僕以外には書けない。だから著作権が発生する。

しかし、翻刻は誰がやっても同じにならなければならないはずである。もちろん、実際には表記や形式などである程度の違いが出てくるが、それは「思想又は感情」を表した違いではなく、単に翻刻の方針にすぎない。

したがって翻刻は創作とはいえない、つまり翻刻には著作権は無いと僕は考える。

では、校訂本文はどうだろうか。

校訂は創作ではない。しかし、先ほどと同じ著作権法の第一章第一節第二条には二次著作物という言葉が出てくる。

これは簡単に言えば翻訳や原作をもとにした脚本などのことを言う。二次著作物は著作物と同様の著作権があるが、校訂は二次著作物と言えるだろうか。二次著作物は上と同じく、著作権法の第一章第一節第二条に定義されている。

十一 二次的著作物 著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案することにより創作した著作物をいう。

後半の脚色・映画化・翻案は無視してよいだろう。問題は「翻訳し、編曲し、若しくは変形」にあたるかどうかである。

日本古典の校訂の場合、そのままではとても読めたものではないので、濁点・句読点等を付し、平仮名を漢字に直し、底本以外に本によって明かな誤り等を直し、いわゆる歴史的仮名遣いに直す(直さない場合もある)。

これは「翻訳し、編曲し、若しくは変形」の「変形」にあたる。人によって全然違うものが出来上がるため、「思想又は感情を創作的に表現したもの」であるともいえなくはない。

したがって、校訂本文は著作権が発生する可能性が大きい。しかし、これもケースバイケースで、近世なんかではほとんど翻刻と同じでよい場合もあるだろう。その場合、著作権が発生するかどうかはちょっと分からないが、作品によって違うというのもちょっとヘンな話である。

なお、漢文訓読に関しては、翻訳そのものなので著作権が発生すると考えて問題ないだろう。
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紅梅。

紅梅(1024x768)

紅梅(1024x768)
紅梅(1280x1024)

白梅。
白梅(1024x768)

白梅(1024x768)
白梅(1280x1024)

いるか。
海豚(1024x768)

海豚(1024x768)
海豚(1280x1024)

トリコロールにしてみました。
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卒業式のシーズンになった。卒業式をおもちゃにしようとする人たちが、今年は特に関西方面に湧いているようだ。

国歌斉唱「口動いてない」教員、校長がチェック:YOMIURI ONLINE
 大阪府立和泉高校の卒業式で、国歌斉唱の際、教職員が本当に歌っているかどうかを、校長が口の動きで確認していたことがわかった。
 口が動いていなかった教員のうち、1人が歌わなかったと認め、府教委が処分を検討している。国歌起立条例を提案した地域政党・大阪維新の会代表、橋下徹・大阪市長は「服務規律を徹底するマネジメントの一例」と絶賛。しかし、その徹底ぶりに反発もある。


絶賛する橋下市長の弁。

橋下市長、国歌斉唱で「口元を見るのは当然」
大阪府立和泉高校(岸和田市)の卒業式で、中原徹校長が教職員による国歌斉唱の有無を口の動きでチェックしていた問題で、大阪市の橋下徹市長は13日、「府教委が起立して斉唱しなさいと職務命令を出し、中原校長は忠実に守った。口元を見るのは当たり前で、やっていない高校の現場がおかしい」と述べ、改めて対応を支持した。


その中原徹校長、歌っているかいないかの判定方法をわざわざ教育委員会に問い合わせたそうだ。
読売新聞の記事について:最年少校長中原徹のブログ
私は、この職務命令が出された際に、起立は容易に確認できますが、斉唱(歌うこと)については、確認が難しいと思いました。確実に確認しようとすれば、誰かが起立しているすべての教職員の口元まで近寄って歌っているかを確かめないといけなくなりますが、これでは、せっかくの卒業式の雰囲気が台無しになり、生徒や保護者のための学校の卒業式としては相応しくないと考え、「どのようにして『斉唱』を確認すればよいか」につき教育委員会に相談しました。
その結果、教育委員会からは、「遠目でよいので起立を確認しつつ、上を向いたり、下を向いたりなど、明らかに歌っていない教職員をチェックしてくれればよい」との指示を得ました。


ヘンなスピーチしちゃった人もいる。

維新府議、卒業祝辞そっちのけ…不起立教員批判:YOMIURI ONLINE
 大阪府守口市の府立高で8日に行われた卒業式で、来賓として出席した大阪維新の会の府議が、国歌斉唱で起立しない教職員を見て、「ルールを守れない教員がいることをおわびします」などと発言、保護者らが「お祝いの言葉もなく、式が乱された」と抗議していたことが分かった。
 府議は「卒業生の皆さんを一番傷つけてしまった」とブログで謝罪した。


大阪維新の会の府議というのは西田馨氏のことらしい。国歌斉唱で起立しない教職員を見て思わず激高しちゃったのかと思いきや・・・

残念な卒業式:西田 薫のブログ
式の始まる前、校長先生に「先日、他校で不起立の件が報道されていましたが、まさか本日はそんな事はないでしょうね〜」っと会場に入る前に歩きながら話をしていました。


最初からやる気まんまんじゃねぇか。

まあ、キモいね。どいつもこいつも。
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前のエントリ(鴨長明の描く地震)で、『方丈記』にある地震の記事を紹介した。そのついでに、大福光寺本の翻刻と校訂本文を公開した。

大福光寺本『方丈記』:やたがらすナビ

すでに、ネット上に『方丈記』のテキストはいくつかある。

方丈記:古典文学電子テキスト検索

しかし、今回僕が公開したもの以外はすべて流布本を底本にしている。実はちょっと前まで松阪大学のFTPで大福光寺本の翻刻が公開されていたのだが、それも今は見られなくなってしまった。

現在、一般的に売られている注釈書は、すべて大福光寺本を底本にしている。大福光寺本は長明自筆という説もあり、最善本であるとされているためだが、ではなぜ電子テキストは流布本なのだろうか。

ネット上の電子テキストは、著作権問題を回避するため、作者の死後50年以上経った著作権切れの本文を使っている。その時代はまだ大福光寺本が発見されていなかった。だから最新の本文を使うことができないのである。

古典文学の著作権というのはちょっと奇異に聞こえるかもしれないが、このあたりは前に書いたので、興味がある人は読んでほしい。個人的には、校訂本文は微妙、翻刻には著作権は認められないという立場である。

古典文学の著作権(その1):2006年8月2日
古典文学の著作権(その2):2006年8月3日

大福光寺本と流布本の簡単な見分け方は、有名な冒頭を読めば分かる。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

で「久しくとどまりたるためしなし。」が「久しくとどまることなし。」になっていれば流布本である。
このように大福光寺本は細部が異なっていて、大福光寺本の方がなんとなく表現が洗練されている感じがする。もっと大きな違いもあり、流布本の元暦の地震の記事には大福光寺本にはない文章がある。

その中にある武士のひとり子の、六つ七つばかりに侍りしが、築地のおほひの下に小家を作り、はかなげなる跡なしごとをして遊び侍りしが、俄に崩れ埋められて、あとかたなく平ひらにうちひさがれて、二つの目など、一寸ばかりうち出されたるを、父母かゝへて、聲も惜しまず悲しみ合ひて侍りしこそ、あはれにかなしく見はべりしか。子のかなしみには、猛き武士も恥を忘れけりと覺えて、いとほしく理かな、とぞ見侍りし。

『方丈記』は諸本が多い。大福光寺本に代表される古本系と、流布本系(この二つをあわせて広本系という)のほか、略本系という五大災厄のない短いものや、真名本という漢字ばかりで書かれたもの(略本の一種)がある。

これらは長明の推敲の過程でできたものとする説と、後人が作ったものという説がある。
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