2013年02月

このブログでも何度か書いたが、先月から体罰問題が注目されている。僕がかつて勤務していた高校でも、野球部の外部指導員の体罰がニュースとなった。いずれもスポーツや教育の世界で起きていることなので、そういう世界の特殊性として矮小化されているのが気がかりだ。

体罰が問題になるのは、突き詰めると人権侵害につながるからである。世の中には人権は誰かが(自分が?)与えるものだと思っている人もいるようなので一概にはいえないが、基本的に人権侵害は悪である。だから、体罰(とそれを行った人)に対しては批判しやすい。それも、ほとんどの人にとって自分と関係ない世界で起きたことならばなおさらだ。

「体罰」という言葉を「体」と「罰」に分けた時、これは「体」の問題である。しかし、「罰」の方はどうだろうか。

たとえば、桜宮高校の生徒が自殺した原因は「体」だけが原因ではない。彼はキャプテンであるが故に他の部員のぶんまで「罰」を受けていた。はたしてこれはまともな罰といえるだろうか。女子柔道はどういう理由で体罰が行われていたのかイマイチわからないが、一流アスリートが「罰」を受けなきゃいけないようなことは想像しにくい。

「罰」というものは、本来、故意のルール違反に課されるものだ。故意だからルール違反を防ぐことができるのである。無意識の過失や他人のルール違反に課しても何の意味もない。

ところが、どういうわけだか罰を与えると、過失がなくなると思っている人がいる。罰が怖くてミスが減る、そんなことがあるだろうか。「怖い」というのは意識するということだ。意識すれば減らせるミスなら、罰を与えなくても言えば分かる。こうなってくると、スポーツ界だけの問題ではない。

ここで思い出すのが2005年のJR福知山線の脱線事故である。この事故の原因と考えられるものはいくつかあるが、運転士のミスに対する「日勤教育」なる実質的懲罰が原因の一つと考えられている。

JR福知山線脱線事故:Wikipedia
日勤教育の問題
目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として、日勤教育という、再教育などの実務に関連したものではなく懲罰的なものを科していた。それが十分な再発防止の教育としての効果に繋がらず、かえって乗務員の精神的圧迫を増大させていた温床との指摘も受けている。日勤教育については事故が起こる半年前に、国会において国会議員より「重大事故を起こしかねない」として追及されている。また、日勤教育は「事故の大きな原因の一つである」と、多くのメディアで取り上げられることになった。事故を起こした運転士は、過去に運転ミスなどで3回の日勤教育を受けていた

福知山線の脱線事故に日勤教育が影響していたとすると、小さなミスをなくそうとして、大きなミスを招いたことになる。「罰」は何の役にも立たなかったばかりか、たくさんの人の命を奪う大事故にまでつながった。JR西日本は罰の本質が分かっていなかったのである。

僕はここで教育論的に「褒めて育てろ」などというつもりはない。「何をしても罰するな」というつもりもない。ただ、何も考えずに安易に罰を使うなと言いたいのである。JR西日本の「日勤教育」という言葉が象徴するように、教育することは罰することだという観念はいまだに強い。

人権侵害である「体」の問題を考えることはもちろん大事だ。だが、「罰」をどう運用して、それがどんな効果をもたらすか、これらの事件を通して、もっと考える必要があるのではないだろうか。
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2月26日といえば、日本人なら誰でも2.26事件を思い出す。そこで、今日は本邦初公開、2.26事件勃発時の祖父の日記を御覧に入れよう。

祖父は当時、24歳。滋賀県出身で東京の紙問屋に丁稚奉公し、このころは新宿の支店を任されていた。本店と住居は港区田村町(現在の西新橋)にあり、そこから市電で新宿に通っていたらしい。

祖父はそのころ日記をつけていた。なにしろ自宅が新橋で、事件の舞台のすぐ近く。事件発生後の4日間の混乱と、それがおさまる様子がよく書けている。なお、誤字も含めてできるだけ忠実に翻刻するようにつとめたが、漢字はすべて新字体に統一した。

2月26日(水曜)雪 
今朝朝から又雪だ。チラホラチラホラと嫌な天気だ。
支店に出勤すべく日比谷まで行ったら電車が来ない。日比谷からは交通は止められ人がワイワイさわいで居る。何事か起った形勢だ。早速市バスに乗って桜田門まで来れば鉄条網を張りめぐらし機関銃を備へ付け兵隊がガンバって居るのだ。
聞けば首相・侍従長・内務大臣等は暗殺されたとか云ふ。愈々恐ろしい事が始まり出した。
雪は次第次第に多く降り出す。なんてひどい天気だ。
仕事は割合忙しい。
夜は電車不通となり仕方なし。省線にかへる。

2月27日(木曜)雪小
今朝は事件も大したこともないらしい。しかし陸軍省附近は三連隊の兵士達で一ぱい。麹町区一帯も大変な兵士だ。何となく気味悪く感じられる。
電車、人は通常通り通過出来た。しかしどうなって行くのか皆目見当もつかない。みだりにデマばかり飛び帝都は益々不安がつのるばかりなのだ。
店の仕事は割合に忙しく配達に閉口してしまふ。
どうも思ふ様に間に合わないので客からは情述は来るし人間は足りず天気も悪いので思ふ様に配達はできず弱ってしまった。売上は前日も多くあり相当あった。
夜早く帰り床やに行く。田村町は佐倉の兵士で大変な警戒だ。

2月28日(金曜)雪
今朝、電車に乗ろうとしたが全部引返し帰ってくるのでとても駄目だと思ひ、省線に支店に出勤す。愈々帝都も不安になるらしい形勢だ。困ったことだ。
芝方面は次第に警戒厳重だ。支店の方は何の関係もない。仕事は割合に忙しい。朝から馬鹿に寒い。
本店は営業中止となり本店より手伝いが来る。午後からは幾分暇となる。晩主人警戒の為来らず。
省線に三人で帰ったのだがアチコチ鉄条網で通行できず。あちこち廻り廻ってやっとの事でかへる。晩前島さん等と赤坂山王ホテル、幸楽に頑張る軍隊を見物。実に物々しいものだ。
将校が盛んに激を飛ばして居り、大変な群衆だった。不安な一夜を明す。

2月29日(土)晴
朝早く主人に起こされる。外を見れば避難民がそれぞれ荷物を手に持ち小学校へかけつけるのだ。どうやら話によると虎の門附近で一戦交へるらしい。市民は一歩も外出せざる様弾丸が飛んでくるかも知れないので安全な場所に居るようラジオより注意があった。一時はどうなるかと思ったが時の経つに従ってダンダン帰隊するもの多く、午前中は殆ど兵火を見ずに鎮定し午前中停止された省線もバスも午後には早通じるようになり急に和やかな情景となる。
午前中は乗物不通のため本店に引きこもり炊出しの手伝いなどする。午後より省線にて支店に行く。
仕事は大した事なし。売上も少なかった。
主人来らず。

3月1日(日)晴後雪
久しぶりに暖かい和やかな小春日和だ。大東京も昨日までの事件も忘れたかのごとき朗かな情景だ。実に東京市民は落ち着いて居ると思った。
京は休みの心算で一生懸命洗濯して居ったら、昨日休んだから支店へ行けと云ふ。折角の休を楽しみにして居るのにと思ったら腹が立つやらシャクにさわるやらってなかった。仕方なし十時過ぎ店に出て帳簿をつける。仕事はしなかった。午後からプイと出かけてしまふ。
先づ日比谷劇場へ行く。仲々よかった。出たらもう外は夕闇に閉ざされて居った。全く早いと思った。

2.26事件は昭和11年(1936年)。この二年半後、祖父は日中戦争のため徴兵され、昭和16年に再度召集(徴兵自体は三度目)され満州へ行く。敗戦後はウズベキスタンに抑留され、昭和23年に帰国し祖父にとっての戦争の歴史は終わる。

それらすべてはこの四日間に起因している。しかし、3月1日に仕事をさぼって呑気に日比谷劇場でレビュー(か何か。実はこの後「新橋キネマ」で映画も観ている。)を観ていた祖父は、これが自分の戦争人生につながるとは思ってもみなかっただろう。

たぶん、戦争というものはそういうものなのだろう。
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僕は教育に体罰は必要ないと思っているのだが、もし体罰が合法化されれば受け入れなければならないだろう。そして、教育に携わっている以上、実際に体罰を行使しなければならない場面も出てくるかもしれない。

しかし、残念ながら成人してからというもの、人を殴った経験がない。だから、どこを、どのくらいの力で、どう殴ればいいか皆目わからない。これはボクサーとか空手家でもないかぎり、ほとんどの人がそうだろう。

これは考えれば考えるほど難しい問題だ。なにしろ、「罰」というからにはそれなりにダメージを与えなければならない。が、怪我をさせてしまっては傷害罪になる。殴り方の分からない者に体罰は荷が重すぎる。

そこでまず、大学の教職課程に「体罰の実践」という講座を義務付ける必要がある。もちろん「実践」なので、定期試験の際には、担当講師を学生が実際に殴って成績をつけるということになる。

それでは現職の教員はどうするか。例の10年に一度の教員免許更新では間に合わない。ここは学校単位で「体罰研修」を開かなければならない。

研修そのものはプロ(戸塚ヨットスクールの先生とか)に任せればいいが、それだけでは習得したかどうか分からない。そこで、管理職(校長・教頭)が全教員に一発ずつ殴られて確認し、教育委員会に報告するようにすればいい。

しかし、これだけではすまない。体罰は一歩間違えると、生涯に残る怪我を残しかねない危険なものだ。たぶん、小学生向きの殴り方と中学生向き、高校生向きでは力の入れ方も殴り方も違うだろう。小学生に対して高校生向きの殴り方をすれば、下手すると死んじゃうかもしれない。大学の授業だけでは心もとない。

そこで、採用時に正しい体罰ができるか確認する必要がある。やり方は簡単だ。教員採用試験の時に面接官(教育委員会)が受験生から一発ずつ殴られればいい。適正なダメージがあるか、怪我はしないかなどで総合的に合否を判定するのである。

教員採用試験は受験生の数も多いので、従来の面接官だけだと数が足りないだろう。それに殴られすぎると正確な判断ができなくなる。ここは是非、都道府県知事、政令指定都市市長殿にも参加してもらう必要がある。「教育をよくするためには体罰は必要だ」と思っているなら、喜んで殴られてくれるだろう。

もしこの制度が導入されたら、僕はまた教員採用試験を受けよう。もちろん、落ちるの覚悟でフルスイングだ。
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昨日、amazonから注文していた岩波新書が届いた。僕はとりあえず奥付を見る癖があるので、裏表紙を開いてみると、著者略歴のところにこんなふうに書いてあった。

19××年 ○○大学大学院博士課程後期退学

意味は通じなくはないが、一般的にはこのような書き方はしない。「博士後期課程退学」が正しい。

学術書を多く出す岩波書店でさえも間違えるほど、文学系(他はどうか知らないので)の大学院の最終学歴というのは分かりにくいものだ。そもそも、退学で終わる学歴というのも不思議な話である。

大学院は「博士前期課程」と「博士後期課程」に分けられる。最短で博士前期課程が2年、博士後期課程が3年である。ごく単純に言うと、前期過程を修了すると「修士」の学位が取得でき、後期過程まで修了すると「博士」の学位が取得できる。

大学院によっては2年の博士前期課程しかないところもある。どうやっても博士がもらえないのに「博士前期課程」というのは妙なので、そういうところは「修士課程」という。「修士課程」と「博士前期課程」は全く同じ意味である。

さて、前期課程に必要な単位をすべて取って、修士論文を書いて審査に合格すれば、学歴は

○○大学大学院博士前期課程修了

となり、もらえる学位は

修士(文学)

である。ここまでは自然科学系と何ら変わりがない。問題はここからだ。

博士前期課程(修士課程)を修了後、博士後期課程に進学し、3年で必要な単位をすべて単位を取ったとする。後は博士論文を出すばかりだが、昔はここで博士論文を出す人はほとんどいなかった。すると、この時点での最終学歴は

○○大学大学院博士後期課程退学

となる。ただし、これではあまりかっこよくないし、中退と区別がつかないので、普通は

○○大学大学院博士後期課程満期退学

と書く。なお、博士論文を提出していないので、学位は「修士(文学)」のままである。

それなら卒業式(学位授与式)はないのかというと、そんなことはない。もしかしたら大学によっても違うのかもしれないが、僕のいた大学では「所定単位修得証書」なるものをくれた。形式は修士の学位記と同じものだ。

昔(20年ぐらい前)は、ここで終わりの人が多かった。文学専攻の人にとって、博士号は50歳過ぎてある程度業績を上げてから取るもので、30そこそこの青二才が取るものではなかったのである。したがって、有名な大学教授でも最終学歴が「退学」になっている人は珍しくない。

ここでさらに分かりにくくしているのが、日本の学位には「課程博士」と「論文博士」の二種類があるということである。

「課程博士」とはその名の通り、博士後期課程の単位を取得したあと、博士論文を提出して取る博士号である。しかし、昔はこれで取る人はいなかった。なにしろ提出した人すらいないので、出したらどうなるのかは分からないが、よほど優秀な人でないかぎり、慣習的に落ちるようになっていたのだろう。

一方「論文博士」は博士後期課程を修了していようがいまいが、大学からそれだけの実力があると認められた上で博士論文を提出して取得する。極端に言えば学部しか出ていなくても、いや、中卒でも取ることができる。ただし、そのぶん審査は厳しくなるので、実際には相当業績がないと取れない。

このように、かつては博士後期課程を満期退学して大学教授になり、業績をあげてから50歳前後で論文博士で博士の学位を取得するというのが普通のパターンだった。戦前などはさらに厳しくて、審査期間が論文提出から10年以上にもおよび、結果が出る前に死んじゃったなんてこともあったという。文学の博士号は簡単には出さないというのが習慣だったのだ。

ところが、僕が後期課程に入ったあたりから事情が変わってきた。文部省(当時)から「自然科学なみに課程博士を出せ!」という命が出て、単位修得後、課程博士を取れるようになった。

とはいえ、僕のころには3年で単位をとって、すぐに博士論文を取る人はいなかった(今の状況は分からないので・・・)。一旦「満期退学」し、数年後復学してあらためて提出、審査を受ける。これに合格すれば晴れて、

○○大学大学院博士後期課程修了

となり、学位は、

博士(文学)

となる。

単位取得後の論文を提出するまでには有効期限がある。大学によっても違うらしいが、僕の大学の場合3年だった。それを超えると、論文博士として提出しなければならなくなり、ハードルが上がる。だから、同じ博士でも課程博士よりも論文博士の方が格上という感じがある。

課程博士をもらう人は、小学生から数えると都合7回卒業式の主役になるということになる。これだけ卒業式の主役を務めると、「あと何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどりつけるだろう」(尾崎豊『卒業』)という気持ちになってくる。

そしてこれが何かの役に立つかというと・・・、おや?誰か来たようだ。
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東京の老舗蕎麦店「かんだやぶそば」が出火し半焼した。営業中のことだったので、客も生きた心地がしなかったろう。漏電が原因らしい。

「かんだやぶそば」火災 都の歴史的建造物
十九日午後七時二十分ごろ、東京都千代田区神田淡路町二の老舗そば店「かんだやぶそば」から出火し、木造二階建て店舗約六百平方メートルのうち約百九十平方メートルと、隣接する十階建てビルなど建物三棟の外壁を焼いた。東京消防庁によると店は営業中で従業員十六人と客約三十人がいたが全員避難し、けが人はなかった。

神田のやぶで思い出す作家は、一般的には池波正太郎らしいが、僕にとっては井上靖である。

僕は大学生のころ、かんだやぶそばの近くの湯島聖堂に住んでいた。ここで井上靖の講演が行われることになった。

当時かなり体が弱っていて、昼食は蕎麦以外食べないという話だった。そこで、当日蕎麦を用意するようにと、湯島聖堂の運営団体、斯文会理事長の石○先生から命令が下った。

さて、困った。ここはあまりに大都会すぎる。近所に出前をしてくれる蕎麦屋がない。しょうがないから「僕がコンビニで乾麺を買ってきて茹でて出すのはいかがでしょう」と言ったら「井上先生にそんなもの出せない」と怒られた。蕎麦は乾麺でも、つゆには自信があったのだが・・・。とはいえ、今から蕎麦打ちを学ぶ時間はない。

湯島聖堂から一番近いそば屋といえば、神田の藪しかない。老舗のやぶそばなら、井上先生も○川理事長も文句はあるまい。問題は配達してくれるかだが、事情を話せば持ってきてくれる可能性もないとはいえない。

ということで、ダメモトで電話をかけてみた。世界広しといえども、神田の藪蕎麦に出前を頼んだのは僕ぐらいなものだろう。

「湯島聖堂斯文会の中川という者ですが、明日の12時にせいろそば3枚ほど届けていただけませんでしょうか?」
「申し訳ありませんが、当店では出前をやっていません」
「そこを何とか・・・。実はかくかくしかじかで・・・、井上靖先生が蕎麦しか食べられないとおっしゃられていて・・・。」
「でも、持って行ける人がいないんです」

ここですばらしいアイディアが浮かんだ。出前をやっていないということは、スーパーカブも岡持ちもないはず。いくら近所とはいえ、やぶそばから湯島聖堂まで徒歩で持って来させるのは酷な話だ。

でも先方が「配達する人がいない」と言うのなら、僕が取りに行けばいいのではないか。これなら文句はあるまい。たった今「持って行ける人がいない」という言質は取った。

「分かりました。それじゃ、僕が伺いますがよろしいでしょうか?もちろん、食べ終わったあと食器はすぐにお返しします」
「それならまあ・・・結構ですが・・・」

話は意外にスムーズに進んだ。

「すみません。それじゃよろしくお願いします。あ、さっき3枚って言いましたけど4枚にしてください」

手数料として蕎麦を一枚増やした。

翌日の昼ごろ、愛車サンバーを飛ばして、やぶそばに行った。飛ばしてといっても、5分とかからないところだ。店員のおばさんは「ご苦労様です」と、快くせいろそばを渡してくれた。が、さすが出前していないだけあって、サランラップなんかかかっていない。慎重に運ばなければ。

かくして、僕は自分の部屋でやぶそばのせいろそばを食べるという、貴重な体験をしたのである。味は・・・もちろん天下のやぶそばだから不味くはないが、美味いとも思わなかった。それに食べ盛りの大学生にはあまりにも少ない。他の人が食べていたキッチン・ジローの出前の方がよかったのだが、手数料が認められたので、僕のぶんはなかった。

たぶんやぶそばは「あの店」で食うから美味いのであって、僕の小汚ない散らかった部屋で食べても美味くないのだろう。だから僕は「あの店」の復活を心より祈っている。
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書道の授業が終わって道具を片付けたあと、床に点々と墨がこぼれていることがある。もちろん生徒には、墨をこぼしたら自分で拭くように言っているが、あまり効果があるように思えない。

床にこぼした墨はすぐに書き損じの半紙でゴリゴリ擦れば数十秒できれいになる。それほど大変なことではない。それなのに彼らはなぜやらないか。これがゆとり世代のモラルの低下というやつだろうか。

僕は「モラルの低下」を嘆いて済ませることは、たいていの場合思考停止の思い込みか、何か作為があるのだと思っている。この場合もなにか理由があるんじゃないだろうか。そう思って生徒の行動をよく観察してみた。すると意外なことが分かった。

生徒は、墨をこぼしたのに拭かなかったのではなく、墨をこぼしたこと自体に気付いていなかったのだ。

ほとんどの場合、墨をこぼすのは自分の席から流しまで歩いていく途中である。前を見て歩かないと人にぶつかるから、硯は見ていない。墨汁の残量が多いとここでこぼれる。

硯から落ちる墨汁の量はごくわずかで、音がするわけでも、硯が軽くなるわけでもない。これが透明な水だったら問題ない。水とは違い白い床に落ちた墨汁は一滴でもかなり目立つが、歩いているときに落とすと、墨が着地したときには落とした人はすでに墨痕の前にいる。仮に下を向いても、落とした本人はなかなか気付かないのである。

気が付かない以上、どんなに「こぼしたら拭け」といったところで拭くことはできない。こぼした本人は単に粗忽者だっただけで、この人のモラルを問うことはできないのである。

そのあとはどうなるか。床に落ちた墨汁は少量でもかなり目立つから、落とした人(一人目)の後の二人目、三人目はおそらく墨が落ちていることに気づいているはずだ。だが、これを拭く者は誰もいない。しょうがないから、教室に最後までいる僕が拭くことになる。

こちらの理由は容易に想像できる。その墨は自分がこぼしたものではないからだ。しかし、このままでは最後までだれも拭かない。授業終了後拭く僕自身、なぜ自分が拭かなきゃいけないのか疑問に思いながら拭いている。

こぼした墨を拭かないことにモラルを問うとすると、問われるべきは墨を落とした人(一人目)ではなく、それを発見した人(二人目)ということになる。しかし、二人目・三人目は何もしていない。第一、僕はこぼした人が拭けと言っている。他人のモラルを問うのは容易なことではない。

モラルの低下を嘆く人は、たいてい一人目のモラルを嘆くだけで、二人目・三人目には考えが及んでいない。さらにその二人目・三人目に自分が含まれる可能性も考えない。もし、考えたら人のことはとても言えなくなるはずだ。

たぶん、モラルとか道徳というのものは、自分が実践するものであって、他人にどうこう言うもんじゃないんだろう。それだけに政治家がモラルだの道徳だのと言いだすと、胡散臭く感じられるのである。
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「今月の壁紙」といっても、ここのところさぼりがちだけど、14日から16日までスキーに行ってきたので久しぶりに作ってみた。今回からノートPCを買ったのを記念して、1366x768バージョンも作ることにした。

そういえば、去年も同じような写真だった・・・。

ニセコに行ってきた 付、今月の壁紙:2012年02月26日

で、今年は福島県の猪苗代。右を見ても左を見てもAussieばっかりだった去年と違って、日本人ばっかり。というか、平日だったので日本人どころかあまり人がいない。

まず、郡山から磐越西線で猪苗代駅に。

磐越西線(1024x768)

磐越西線(1024x768)
磐越西線(1280x1024)
磐越西線(1366x768)

リステルスキーファンタジアのゲレンデから見た猪苗代湖。初心者コースなんで屁ひり腰の人が写ってるがヨメではない。

猪苗代湖(1024x768)

猪苗代湖(1024x768)
猪苗代湖(1280x1024)
猪苗代湖(1366x768)

この日はこれでよかったのだが、次の日から天気が悪くなり、帰る日には大雪で磐越西線が一時間遅れたのだった。
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いよいよ、毎年恒例の花粉症シーズンが近づいてきた。花粉症歴も長くなり、そろそろ第4期「挑戦期」から5期「妄想期」に移行しつつある。なお、この「期」については下記のエントリを参照してほしい。僕が勝手に考案したので、医者に行って「第3期です」とか言わないように。

花粉症を受け入れる階梯:2011年03月06日
4.挑戦期(別名、挫折期)
空気清浄器、マスク、薬、健康食品、お祈りなど、いろいろな花粉症対策グッズを試してみる時期。
しかし、思うほどの効果が上がらず、挫折する。
とりあえず病院へ行きましょう。

5.妄想期
国の林業政策が悪いとか、中国の大気汚染が悪いとか、考えてもしょうがない原因を考え、果ては製薬会社だの、フリーメイソンだの、反日勢力だのの陰謀だと思い込む。
つまり、花粉症とは、日本を裏から操るフリーメイソンが、日本人のやる気をそぐために政治力で杉の植林を進めた結果で、その資金は薬の需要をもくろんだ製薬会社からもでている。最近ではそこに便乗した反日勢力が、大気汚染と黄砂によって攻撃をしかけているのである。
とりあえず病院へ行きましょう。

このままでは、ある日突然ネットなんとかになっちゃったり、陰謀論者になったりするかもしれない。そういえば最近「キモーイ」という女子高生の声が聞こえるような気がする。まずい。ここままでは耳鼻科を通り越して、精神科のお世話にならなければならくなる。

陰謀論者はともかく、ネットなんとかになるのだけは絶対に嫌なので、意を決して耳鼻科の診察を受けることにした。

症状はかなり重い方だと思っている。シーズン中は片時もマスクとティッシュが手放せず、家の中でもマスクをしている。モーニングアタックと呼ばれる朝の発作によって、一時間ぐらいはクシャミが止まらない。そして一重の目が三重になる。そんな状態だ。

一番ひどい時期は春休みで仕事がないのが幸いだが、ときどきシーズンオフにそっくりの症状がでることがある。おそらく杉以外にも何かあるに違いない。そこでアレルギー検査をしてもらった。

花粉症のアレルギー検査というのは、パッチテストみたいなのをやるのだと思っていたが、血液検査だった。注射針を刺すときに目をそらす人がいるが、僕は刺さるところを凝視しないと気が済まない。いつ来るかわからないと怖いのだ。一度「見ていて大丈夫ですか」と聞かれたことがあるが、見ない方が大丈夫じゃないのだ。

この検査は一回の採血で33項目の検査ができる。MAST33というらしい。検査料はちょっと高めで(6000円ぐらい)、もう少し項目が少ないと安くなるそうだ。そう毎年やるもんでもないので、33種類でお願いした。

血液を採ったのが先週の火曜日(2/5)で、今日(2/12)結果が出た。さぞかしいろいろ出るだろうと思っていたのだが・・・。
アレルギー検査結果


「スギだけですね〜」とお医者さんがいう。ヒノキ、ブタクサ、ハウスダストぐらいは持ってるんじゃないかと覚悟していたのだがすべて陰性だった。ありがたいことだが、ちょっと拍子抜けした。

とりあえず「アラミスト」という点鼻薬と、「キプレス錠」という錠剤をもらってきた。どちらも一日一回である。もちろん、まだシーズンに入っていないので効果は分からない。

この薬で、僕は中川1.0から中川2.0にバージョンアップする!(はず)
大嫌いな春よさようなら!
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Kindleで芥川賞受賞作品、黒田夏子氏『abさんご』が出たのに気付いて、サンプルをダウンロードして読んでみた。


75歳という史上最高齢での芥川賞受賞、横組みで漢字をあまり使わない文体など、話題になった作品だが、正直にいうとあまりに読みにくいので、これを買って読もうとは思わなかった。これ、審査委員はちゃんと読んだのだろうか。

読んでいないので、僕がこの作品を論評することもできないが、この作品に触れたことで分かったことが一つある。それは、現在の日本人が使っている漢字仮名交じり文がいかに画期的な表記法かということである。

『abさんご』の文章は、いうまでもなく口語で書かれているが、非常に読みにくい。ほとんど仮名だけで書かれているという点では古典の原本も同じである。しかし、ある程度古典を読んでいる者にとって、古典の原本は『abさんご』より格段に読みやすい。

漢字表記を少なくすると、読みなれた口語の文章が読みにくくなり、普段触れることの少ない古典の文章の方が読みやすいのは不思議な現象である。

おそらくこれは表現のせいだろう。古典の表現は時代によって変化するものの、ある程度類型的で、どのような表現がなされるか無意識に類推できる。だから仮名ばかりで書かれていても読みやすいのである。

それに対して、近代以降の文章は、表現が多様化しているので、仮名だけで書かれると類推できない。だから仮名ばかりで書かれると読みにくい。特に『abさんご』のような独特の表現を使われるとなおさら読みにくくなる。

日本語は音節が少ないから、どうしても同音異義語が増える。その上、英語のように単語ごとの分かち書きをしないから、どこまでが一つの単語か判別しにくい。平仮名だけではどうしても判読が難しくなる。これは仮名表記の不備である。

たぶん、近代以前の文章はそれを〈表現〉で補っていたが、近代以降は〈表記〉で補っているのだろう。逆に言うと、明治以降の日本人は文章に占める漢字の割合が増えることによって、それまでできなかった多様な表現を手に入れたのだ。

漢字と仮名を雑ぜて使うのは古くからあった。漢文訓読体とか和漢混交文とか言われるものがそれである。しかし、それは文学の表記方法としては主流とは言えない。この表記方法が主流となるのは明治以降である。では、なぜ漢字仮名交じりという表記方法が主流になったのだろうか。

古典文学と明治以降の近代文学の内容面での一番の違いは、漢詩文以外の外国文学の影響である。これらの外国文学を翻訳し、利用するには、従来にない表現が必要になる。それが現在私たちが使っている、漢字仮名交じり文を表記方法の主流にする原動力になったのだろう。
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僕が勤務している学校で、近々修学旅行がある。長崎に行くとかいう話で、カステラの話で盛り上がっていた。

生徒A「大浦天主堂の近くのカステラが美味しいらしいよ」
生徒B「へー。東京にもできないかな〜」
生徒A「東京にはないみたいよ」
生徒B「お土産だからない方がいいね。あったら行く必要なくなるもん」

ここまではよかった。この後が問題だ。

生徒B「でその店、どこにあるの?商店街?」
生徒A「は?だから大浦天主堂だよ。有名でしょ?」
生徒B「えーアタシ知らな〜い。コマーシャルとかしてないじゃん。スーパーとかで売ってる?」
生徒A「だから東京にはないって・・・」
生徒B「じゃあなんで有名なの?」
・・・

なんだかイマイチ話がつながっていないなと思っていたが、ここで気が付いた。生徒Bは「大浦天主堂」を「池田模範堂」とか「ヒサヤ大黒堂」みたいな屋号だと思っているのだ。なるほど、そういわれてみれば老舗菓子店の屋号っぽい。

長崎には「浦上天主堂」というのもある。天主堂が共通しているうえに「大浦」「浦上」と名前も似ている。老舗カステラ店「浦上天主堂」と「大浦天主堂」は関係があるに違いない。ここで僕のウソツキスイッチが入った。

中川「ああ、天主堂は有名だな。昔はテレビでコマーシャルもやってた。」
生徒B「へー、聞いたとないけど」
中川「君らが生まれる前だからな。そのころはまだ「大浦」は付いてなくって、ただの天主堂だった。」
生徒A「また始まった」
中川「そのころの社長はもうずいぶん高齢だったんだけど、息子が二人いたんだ。長男は大学出で会社経営を担当してた。次男は職人気質で、家の味を守るため一生懸命働いてた。ところが、社長が死んじゃったんだな」
生徒B「で、どうなったの?」
中川「社長としては、次男に次いでほしかったみたいだが、次男は会社経営にイマイチ自信がない。だから、兄貴に社長のイスを譲ったんだ。長男はもともと店の規模を拡大したかったんだが、親父がそれを許さなかった。父親が亡くなったのを契機に事業を拡大しようとしたんだな。テレビコマーシャルをしていたのはそのころだ」
生徒A「で、事業に失敗すると・・・」
中川「それはまだそれは早い!次男の方は事業を拡大することには、賛成でも反対でもなかった。ただ、天主堂の味が守られればいいと思ってたらしい。ところが、兄の方は店を増やすだけでは飽き足らず、新商品の開発まで始めたんだ。当時流行ってたティラミスとかパンナ・コッタを作るためにイタリアから職人を呼んだりした。挙句の果てには、ポルトガル風ファッションのTENSHUDOっていうアパレルブランドまで立ち上げて、パルコに店を出した。」
生徒A「で、事業に失敗すると・・・」
中川「まだ早いって!昔から勤めていた職人さんたちは面白くない。次男と職人さんたちは天主堂を割って出たんだ。最初はこっちも天主堂を名乗っていたが、長男に訴えられたので自分の名字をつけて大浦天主堂という名前にした」
生徒B「長男の方はどうなったの」
中川「なにしろバブルだったから、会社の規模はどんどん拡大した。でも、やがてバブルがはじけて倒産しちゃった。会社更生法の適用をうけて復活したときに、「大浦の上を行く」という意味で「浦上天主堂」にしたらしい。この二社はいまだにどっちが正統かでもめている。」
生徒A「やっと、事業に失敗したよ」
生徒B「そんなのどうでもいいよ。それでどっちが美味しいの?」
中川「お前はそれしか興味ないのか。それはだな、まあ人によっても違うが・・・修学旅行の栞に書いてあるから、よく読んでおけ。」

#上記の会話はすべて創作です。先生がウソをついてはいけません。
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