このブログでも何度か書いたが、先月から体罰問題が注目されている。僕がかつて勤務していた高校でも、野球部の外部指導員の体罰がニュースとなった。いずれもスポーツや教育の世界で起きていることなので、そういう世界の特殊性として矮小化されているのが気がかりだ。
体罰が問題になるのは、突き詰めると人権侵害につながるからである。世の中には人権は誰かが(自分が?)与えるものだと思っている人もいるようなので一概にはいえないが、基本的に人権侵害は悪である。だから、体罰(とそれを行った人)に対しては批判しやすい。それも、ほとんどの人にとって自分と関係ない世界で起きたことならばなおさらだ。
「体罰」という言葉を「体」と「罰」に分けた時、これは「体」の問題である。しかし、「罰」の方はどうだろうか。
たとえば、桜宮高校の生徒が自殺した原因は「体」だけが原因ではない。彼はキャプテンであるが故に他の部員のぶんまで「罰」を受けていた。はたしてこれはまともな罰といえるだろうか。女子柔道はどういう理由で体罰が行われていたのかイマイチわからないが、一流アスリートが「罰」を受けなきゃいけないようなことは想像しにくい。
「罰」というものは、本来、故意のルール違反に課されるものだ。故意だからルール違反を防ぐことができるのである。無意識の過失や他人のルール違反に課しても何の意味もない。
ところが、どういうわけだか罰を与えると、過失がなくなると思っている人がいる。罰が怖くてミスが減る、そんなことがあるだろうか。「怖い」というのは意識するということだ。意識すれば減らせるミスなら、罰を与えなくても言えば分かる。こうなってくると、スポーツ界だけの問題ではない。
ここで思い出すのが2005年のJR福知山線の脱線事故である。この事故の原因と考えられるものはいくつかあるが、運転士のミスに対する「日勤教育」なる実質的懲罰が原因の一つと考えられている。
JR福知山線脱線事故:Wikipedia
福知山線の脱線事故に日勤教育が影響していたとすると、小さなミスをなくそうとして、大きなミスを招いたことになる。「罰」は何の役にも立たなかったばかりか、たくさんの人の命を奪う大事故にまでつながった。JR西日本は罰の本質が分かっていなかったのである。
僕はここで教育論的に「褒めて育てろ」などというつもりはない。「何をしても罰するな」というつもりもない。ただ、何も考えずに安易に罰を使うなと言いたいのである。JR西日本の「日勤教育」という言葉が象徴するように、教育することは罰することだという観念はいまだに強い。
人権侵害である「体」の問題を考えることはもちろん大事だ。だが、「罰」をどう運用して、それがどんな効果をもたらすか、これらの事件を通して、もっと考える必要があるのではないだろうか。
体罰が問題になるのは、突き詰めると人権侵害につながるからである。世の中には人権は誰かが(自分が?)与えるものだと思っている人もいるようなので一概にはいえないが、基本的に人権侵害は悪である。だから、体罰(とそれを行った人)に対しては批判しやすい。それも、ほとんどの人にとって自分と関係ない世界で起きたことならばなおさらだ。
「体罰」という言葉を「体」と「罰」に分けた時、これは「体」の問題である。しかし、「罰」の方はどうだろうか。
たとえば、桜宮高校の生徒が自殺した原因は「体」だけが原因ではない。彼はキャプテンであるが故に他の部員のぶんまで「罰」を受けていた。はたしてこれはまともな罰といえるだろうか。女子柔道はどういう理由で体罰が行われていたのかイマイチわからないが、一流アスリートが「罰」を受けなきゃいけないようなことは想像しにくい。
「罰」というものは、本来、故意のルール違反に課されるものだ。故意だからルール違反を防ぐことができるのである。無意識の過失や他人のルール違反に課しても何の意味もない。
ところが、どういうわけだか罰を与えると、過失がなくなると思っている人がいる。罰が怖くてミスが減る、そんなことがあるだろうか。「怖い」というのは意識するということだ。意識すれば減らせるミスなら、罰を与えなくても言えば分かる。こうなってくると、スポーツ界だけの問題ではない。
ここで思い出すのが2005年のJR福知山線の脱線事故である。この事故の原因と考えられるものはいくつかあるが、運転士のミスに対する「日勤教育」なる実質的懲罰が原因の一つと考えられている。
JR福知山線脱線事故:Wikipedia
日勤教育の問題
目標が守られない場合に、乗務員に対する処分として、日勤教育という、再教育などの実務に関連したものではなく懲罰的なものを科していた。それが十分な再発防止の教育としての効果に繋がらず、かえって乗務員の精神的圧迫を増大させていた温床との指摘も受けている。日勤教育については事故が起こる半年前に、国会において国会議員より「重大事故を起こしかねない」として追及されている。また、日勤教育は「事故の大きな原因の一つである」と、多くのメディアで取り上げられることになった。事故を起こした運転士は、過去に運転ミスなどで3回の日勤教育を受けていた
福知山線の脱線事故に日勤教育が影響していたとすると、小さなミスをなくそうとして、大きなミスを招いたことになる。「罰」は何の役にも立たなかったばかりか、たくさんの人の命を奪う大事故にまでつながった。JR西日本は罰の本質が分かっていなかったのである。
僕はここで教育論的に「褒めて育てろ」などというつもりはない。「何をしても罰するな」というつもりもない。ただ、何も考えずに安易に罰を使うなと言いたいのである。JR西日本の「日勤教育」という言葉が象徴するように、教育することは罰することだという観念はいまだに強い。
人権侵害である「体」の問題を考えることはもちろん大事だ。だが、「罰」をどう運用して、それがどんな効果をもたらすか、これらの事件を通して、もっと考える必要があるのではないだろうか。