2013年06月

今月23日、東京都議会議員選挙があった。七月の参院選の前哨戦として注目された選挙だ。

結果は大方の予想通り、自民は全員当選で29議席を確保し圧勝、民主は議席を半分以下に減らして15議席で大敗。公明・共産を下回り都議会第4党になった。

その他の政党は、公明が全員当選で23議席を維持、共産は17議席で倍増、みんなの党は7議席、維新は34人を擁立したものの1議席減らして2議席、東京・生活者ネットワークは、選挙前より1つ多い3議席だった。

僕の住む品川区選挙区では、自民二人と公明、共産の候補が当選し、民主の現職二人が落選した。

東京都議会議員選挙(2013年6月23日投票) 品川区選挙区:政治山
  1. 25140 田中豪 自民 現 都議会議員
  2. 22862 山内晃 自民 新 元品川区議、無職
  3. 21016 伊藤興一 公明 現 都議会議員
  4. 15338 白石民男 共産 新 政党役員
  5. 12951 神野吉弘 民主 現 都議会議員
  6. 12478 馬場裕子 民主 現 都議会議員
  7. 9367 飯山直樹 みんな 新 会社役員
  8. 8076 筒井洋介 維新 新 会社役員

4位で当選した白石氏は共産党の新人で31歳。こう言ったら失礼だが、普通に考えればそれほど当選する可能性は高くない候補である。一方、落選した民主党の二人は現職で、特に馬場裕子氏は都議会議員をすでに4期務めているベテランだ。

神野氏と馬場氏の票を足すと25438票となる。これはトップ当選だ。もちろん、考え方の違いもあるだろうから単純に足した数にはならないだろうが、それでも候補を一人にしていれば、民主党は一議席をとれたのは間違いない。

一方、共産党の方は簡単だ。共産党は、すべての選挙区に候補を立てるのが特徴だが、どうせ二人当選するなんてことはまずない。何も考えずに一人ずつ立てればいい。それがこの結果である。たぶん、今回の選挙では、あちこちでこんなことが起きていたのだろう。

戦略がまずいと言ってしまえばそれだけだが、民主党は現職二人である。どちらかがよほど高齢だったりすれば「そろそろ引退はどうかね」とかいって立候補させないこともできるだろうが、なかなかそう都合よくはいかない。まして候補者の考え方が違ったりすると、どちらを立候補させないようにするかなんて簡単にはいかないのは分かる。

しかし共倒れになったのでは意味がない。ここで僕は、政権内部で足の引っ張り合いをした結果、自民党に政権の座から引きずり降ろされたことを思い出す。

国政選挙はやり方が違うので、ここまで差が付くかどうか分からないが、民主党は戦略を考えないと、同じ轍を踏むことになるだろう。

さて7月はブログ強化月間です。
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読まず嫌いは誰にでもある。僕にとって田中英光はそういう作家の一人だ。

まず、ロサンゼルスオリンピックのボート競技選手というのがいけ好かない。だいたい文学が好きな人間というのは、スポーツマンとは対極にある。その上、太宰治の墓前で自殺して死んだとなれば、そりゃやりすぎだろと辟易する。

はっきり言って、こんな作家の本を金を出して買おうとはまず思わない。もっとも、それ以前に現在新刊で読める本がないのだが、幸いにして著作権保護期間が切れていて青空文庫でタダで読める。青空文庫万歳!

オリンポスの果実:青空文庫


読んでみて、大変な衝撃を受けた。やはり読まず嫌いはいけない。

内容は1932年のロサンゼルスオリンピックにボート競技選手に選ばれた坂本が、ロサンゼルスに向う船の中で陸上選手熊本秋子に恋心をいだくという、ただそれだけ。果実というくせに何の果実もない。坂本のモデルは田中英光本人で、熊本秋子は相良八重というロサンゼルスオリンピックの走高跳選手がモデルである。

坂本との間にはびっくりするぐらい何も起こらない。どこそこで秋子を見つけて話しただの話せなかっただの、二人の仲が噂になってチームメートに冷やかされただの、とるに足りないエピソードがちらほら出てくるだけだ。その上最後は「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。」である。

だが、ロサンゼルスに向う船中や米国での情景描写、坂本の心理描写が秀逸で、それだけで読まされてしまう。何も起こらない、片思いかどうかすらわからない恋心を描く・・・僕はこれを童貞文学と命名した。

しかし、この小説は青春まっさかりの若いときに読んでも面白くないかもしれない。28歳になって女房子供ができてから書いたという設定(設定だけでなく実際そうなのだが)になっていることからも分かるように、若者向きではなくオッサン向きの童貞文学である。

田中英光がスポーツマンだというのは誤解だった。もちろんオリンピック選手なのでスポーツマンには違いないが、むしろ体がでかいというだけでオリンピック選手にまでされてしまった繊細な文学青年という印象を持った。この繊細な心が、後に太宰治の墓前で自殺するという衝撃的な事件につながったのだろう。

僕も体は無駄にデカい。現代ではせいぜい「何かスポーツをやっていたんですか?」とか聞かれてムカッとくるぐらいだが、時代が時代なら、無理やり何かスポーツをさせられていたかもしれない。もっとも田中英光のような繊細な心は持ち合わせていないので、その点はまだマシだろう。

それにしても坂本君、物を紛失する。それもどう考えても失くしちゃいけないものばかり。オリンピック日本代表で舞い上がっているのは分かるが、もう少し気をつけてほしいものだ。あまりにひどいので見せしめにリストにしてみた。
  • 日本代表ユニホーム
  • 一時的に預かっていた副監督M氏のコダック(カメラ)
  • $150入りのがま口
  • デレゲーション(代表団)バッジ
  • $5入りの財布(盗まれた)
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以前、Twitterで青空文庫のテキストを批判して、青空文庫呼びかけ人グループの富田倫生氏に反論された人がいた。

「青空文庫」はアブナイ?:Togetter

近代文学のテキストには言いたいことがたくさんあるが、この件について僕は微笑ましく見ていた。本文の正統性を疑うのは、文学研究を志した人ならだれでも通る道だからである。小谷野敦氏はこれを「中二病」になぞらえた。

歴史中二病:猫を償うに猫をもってせよ
文学のほうで中二病をこじらせると、『芥川全集』なんぞで研究ができるかと言い、初出の雑誌を見るようになり、遂には生原稿を見ないと研究は出来ないと思い込むに至る。美術のほうはもっと分かりやすく、画集で見たってダメだ、欧米の美術館で本物を見なければ研究とはいえないと思い、一般の美術好きを「本物も見てないくせに」と軽蔑するのである。

大学で文学を学ぶと、必ず本文批評というものを習う。これは、簡単に言うと〈正しい本文〉は何かを究める方法である。

本文批評は文学の研究では必須の知識だが、ここで一つの価値観が揺らぐことになる。

文学部に来るような連中は、それまでにも多かれ少なかれ文学作品を読んできたはずだ。下手をするとそれだけが自慢だったりする。それなのに、その本の本文は〈正しい〉本文ではないという、恐ろしい現実に向き合わなくてはならないのである。

大抵の人は、文庫本で小説を読む。新潮文庫なんかは、旧字体を新字体に、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに直してある。そんなものが〈正しい〉本文なはずはない。全集で読まなければ、いや、初出で、作家の書いた原稿があるなら原稿で・・・となる。

こうなってくると〈正しくない〉本文で作品を読んでも意味が無いような気がしてくる。さらに作品を読むこと自体が減ってくると、中二病も病膏肓である。下手をするとそのまま死ぬので気を付けた方がいい。

中二病にかかった人は、自分はたいして作品を読んでいないくせに、『芥川龍之介全集』を全巻読破した人をバカにする。しかし、〈正しい〉本文で『羅生門』だけを読んだ人と、〈正しくない〉本文で『芥川龍之介全集』を読んだ人のどちらが芥川の作品を理解しているかといえば、後者であるのはいうまでもない。

文学の場合、歳をとればとるほどたくさんの作品が読め、理解が深くなる。若い研究者よりも長年本を読んできた読書家の方がよほど作品を理解しているということがたくさんあるのだ。そういう若さゆえのコンプレックスがこの中二病を悪化させる原因でもある。

もちろん、研究の対象にするなら、原典にあたるというのは基本中の基本である。しかし、それよりも大事なことは〈読む〉ということだ。文学研究の基本は本文云々よりも常に〈読む〉ことから始まるのである。

最初の青空文庫の話にもどると、青空文庫の本文を批判するのは問題ない。もちろん、それにはちゃんとした根拠がなければいけないし、それはボランティアで入力している人たちものぞむところだろう。しかし「青空文庫のテキストは信用できないから読むな」となると、どうだろうか。

文学に関係したものが「読むな」というのは、大変な矛盾だ。僕なら「青空文庫があるんだから芥川の作品ぐらい全部読め」という。

青空文庫はそこにテキストがあるということだけで十分価値がある。そして僕の見たところ青空文庫の本文はかなり気を使って作成されており、決して悪いものではないと思う。

そもそも、文学研究的にいえば、すべての本文(たとえ自筆原稿であろうとも)は疑われるべきもので、素人がやっているからダメとか、大学やら出版社の信用がどうのというなら、それは研究者の驕りという他ない。
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正式名称は「けいきゅうトレイン収納BOX」。
品川駅構内のセブンイレブンで見つけて衝動買いした。1800円也。

持ち帰るときはこんな感じで折り畳まれている。工具などは不要で、簡単に組み立てられる。
けいきゅうトレイン収納BOX(組立前)


屋根の上はスポンジが入っておりイスになる。値段のわりにしっかりできていて、80キロまで大丈夫だそうだ。ちなみに僕は約81kg。座ってみたが、特に不安な感じはしない。
けいきゅうトレイン収納BOX


側面。快特三崎口行き。昔(平成7年まで)、この電車は京急蒲田駅に停まらなかった。間違えて乗って多摩川を越えたときの悔しさ、情けなさがよみがえる。もっとも、そのころはこの電車じゃなかったけど。
けいきゅうトレイン収納BOX(側面)


写真の2100形のほか、ステンレス車両の新1000形青い塗装の600形がある。電車の好きな、ちょっとだらしがない子供のいる家はストロング・バイ。

なお、この収納BOXは京急各駅のセブンイレブンだけでなく、通信販売でも買える。

トレイン収納ボックス:おとどけいきゅう
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一つのツイートから何か書くというのはあまり好きではないんだけど・・・

東とおる(日本維新の会 総務会長):Twitter
生活保護を受給する若者が増えている。もらえるものはもらわな損という意識が蔓延しているのだろうか。自立ということを目標にする教育が欠けていた。目標を達成することのできる自立型人間の育成が急務である。

この人は「もらえるものはもらわな損という意識が蔓延しているのだろうか」なんて言っているが、さすがに40歳も過ぎるとそういう言葉はあちこちで聞いた記憶がある。ただし、若者からではない。

中小企業のタコ社長とか、農家のオッサンとか、学者とか、老人とか・・・ナントカ助成金だのナントカ恩給だのナントカ年金だの、たいがいが「もらえるものはもらわな損」だし、実際にそういう言葉を何度も聞いた。

そもそも政治家自体、政党助成金とかいう、意味不明としか言いようがない助成をうけているではないか。ちなみに日本維新の会は27億1578万円ももらうらしい。このセンセーの言葉を借りれば、日本維新の会にも自立するということを目標にしてほしいものですな。

これをもらう権利がありながら辞退しているのは共産党だけである。唯一こういうことをいえる資格があるのだが、その共産党は絶対にこんなことは言わない。これは大変な皮肉としか言いようがない。

そもそも僕には「もらえるものはもらわな損」の何が悪いんだか分からない。制度が存在する以上、もらう資格があれば「もらわな損」である。生活保護をもらうのが恥なら、各種助成金も恩給も年金もなんだって恥である。だいたい「生活保護」という名前がよろしくない。「生活助成金」に変えるべきだ。

「もらえるものはもらわな損」だが、仮に収入が生活保護支給額を下回っても、僕はしばらく生活保護をもらうつもりはない。

生活保護は資産があるともらえない。僕の資産なんて大したことはないが、それでも何年かは働かないで生活できるだけはある。仕事をやめて、資産をうまくすりつぶせば、目出度く生活保護が受給できるわけだが、そんなことは絶対にしない。

資産を失って生活保護をもらうよりも、資産をキープして細々と稼いだ方が得だからである。言葉を換えて言えば、今の立場では「もらった方が損」と考えるからだ。

むやみに生活保護を批判する人の多くは、この資産という考え方が抜け落ちていることが多い。いくら支給額が多くても、資産を作れなければ、支給を止められた瞬間に死ぬしかないのだ。生活保護はそんなにオトクな制度ではない。

若い人には資産がないが、将来的に資産が作れるならば、ほとんどの若い人は生活保護を受給するよりも仕事をする方を選ぶだろう。もし、東センセーのいうように「もらえるものはもらわな損」で「生活保護を受給する若者が増えている」とすれば、彼らが資産を作ることを不可能だと考えているからである。

その責任は誰にあるか。少なくとも、若者でも教育でもないことは間違いない。
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駅の階段でスカートの中を盗撮する男とか、下着泥棒とか、男はみんなパンツに欲情するものだと女性は思うらしい。だが、そんなことはない。そういう人もいるというだけだ。僕はパンツを見ても劣情をもよおすことはない。

だが、ここに究極のパンツ好き男が現れた。

覗き異常執着「生まれ変わったら“道”になりたい」…側溝に入り下着を仰ぎ見ていたド変態の「目が動いた」:MSN産経ニュースWest
道路脇の側溝に身を潜め、何も知らずに歩く女性の下着を仰ぎ見る−。そんな誰も思いつかないようなハレンチな行為に出た男が兵庫県警に逮捕された。現場は、神戸の名門女子大や女子高へと続く通学路。暗く狭い溝の中で、女性が通りかかるのをじっと待ち、下からスカートの中を見上げていた男は「生まれ変わったら『道』になりたい」と…。こんな男の“異常行動”は、薄気味悪さや気持ち悪さを通り越し、女子大生たちや付近の住民らに恐怖心すら植え付けていた。(中略)
東灘署によると、側溝は幅約35センチ、深さ約50センチ。会社員はこの狭い空間であお向けに寝転がり、息を潜めて女性が通りすぎるのをひたすら待ち続け、犯行に及んだ。のぞき穴はわずか縦2センチ横10センチ。側溝の中からふたに顔を近づけ、食い入るようにのぞき込んでいたという。

「幅約35センチ、深さ約50センチ」の側溝で、「あお向けに寝転が」って「わずか縦2センチ横10センチ」の穴から覗いていたというから凄まじい。しかも3時間である。一歩間違えたら死んでしまう。ほとんど修行僧の域に達している。

そう考えると「生まれ変わったら“道”になりたい」と言う言葉もなんだか仏教的に思えてくる。そもそも「生まれ変わる」という考え方自体が仏教思想だからである。

仏教では死後、生前の行いなど(業・カルマ)によって地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天のいずれかに生まれ変わる。あらゆる生物はこれをぐるぐると繰り返す。これがいわゆる輪廻(りんね)である。

それでは「生まれ変わったら“道”になりたい」とは何を意味しているのだろうか。生物でない「道」に生まれ変わることなどできるのだろうか。

実は「道」も仏教では重要な概念だ。「道」という字の持つ本来の意味は現在と同じ「道路」だが、中国哲学のフィルターを通して「道理」や「万物の根源」を意味するようになった。そこから漢訳仏典ではサンスクリット語bodhi(菩提)の訳語として当てられるようになる。

「菩提」とは一切の煩悩から解放された状態である。この状態に至った者を「仏陀(ブッダ)」といい、もう輪廻することはない。そして、仏陀になることを成仏(じょうぶつ)という。日本では人が亡くなることを「成仏する」というが、本来は亡くなっただけでは成仏したとはいえないのである。

さて、件の男の煩悩は、ただひたすら女性のパンツを見たいというものだった。単にパンツを見るだけなら他にもいくらでも方法がある。側溝でのぞきは苦行にもほどがある。

狭い側溝に身を隠しひたすらパンツを覗くというのは、土中でミイラになるまでひたすら読経するという即身仏を想起させる。そう、彼はまさに女性のパンツを見ることによって、その煩悩を克服し、成仏しようとしたのである・・・わけないな。
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だいたいこの時期になると、授業で使う書道用具を大量に買い込むのだが、今年はあまりに値段が高騰しているのでびっくりした。

特にひどいのは中国製の紙。白連という半紙(唐紙という)は、去年一〆(1000枚)2,310円だったのが、3,570円になっている。作品用に使う本画仙(宣紙)にいたっては、半切一反(100枚)が去年3685円だったものが、6,562円である。

輸入品以外には存在しない印材も高くなっているし、原料のほとんどが輸入品である筆も高くなっているような気がする。これは、アベノミクスによる円安と、中国での人件費の高騰のダブルパンチが原因だろう。

書道用品は経済の影響を受けやすい。僕が大学に入ったときは、本画仙は今よりももっと高くて買えなかったから、台湾製の紙を使っていた。いい紙を使いたいが、墨、筆、硯と違い、一回書いたらそれで終わりなのが辛いところだ。

その後、本画仙は円高で安くなり、値段を気にせず使えるようになったが、二十数年前は高校生に使わせるなんてとんでもない紙だったのだ。それをあいつらは・・・まあ、よそう。生徒に罪はない。

これらの紙は現在でも人の手で漉かれている。日本の手漉き和紙が高いのはご存知の通り。それを考えれば、今の値段でも高くはないのかもしれない・・・けど困ったなぁ。
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祖母の家の電話機が壊れたので、電源のいらないシンプルな電話機を買った(電源のいらない電話機を試してみた:2013年04月21日)のだが、なかなか電話に出てくれない。一度、家のすぐ近くで携帯電話で電話をかけて、窓から観察してみた。まったく電話が鳴っていることに気付いていないことが分かった。

電話機の音量は、前のものと比べてそれほど小さくなった感じはしないが、あきらかに音色が高くなっている。祖母は会話に支障をきたすほど耳が遠いわけではないのだが、高齢なので高い音は聞き取りにくいのかもしれない。

いずれにしても、このままでは、何か事故で出られないのか、気付いていないだけなのか分からない。なにかいいものはないかとamazonで探してみたら、電話の着信音を大きくする機械があった。その名をフラッシュリンガーという。お値段は1600円ほど。


これがフラッシュリンガー。電話がかかってくると、上の白く光っている部分がLEDで赤く点滅し、通常の着信音よりも大きな音が出るという極めてシンプルな機械である。

フラッシュリンガー

取り付けは簡単。本器のモジュラージャックに電話線をつなぎ、本器から出ている線を電話機に繋ぐだけ。もちろん外部電源は不要。本体はクギなどで壁掛けにできる。

入力側はモジュラージャックなのに、出力側は本体から直接ケーブルが生えている。このケーブルは意外に短く、45cmほどしかない。電話の近くに置いて、単に音を大きくするとか、着信を分かりやすくする目的ならこれでもいいが、本器と電話機を離れた場所に置くことはできない。

接続部

実際使ってみると、電話機単体だと67dbなのに対し、これを使うと75dbまで上がった(androidのアプリで計測なので数値は参考までに)。体感でもあきらかに音が大きくなっているのが分かる。

音質は電話機単体の音よりもやや低い音で、はっきり言ってかなり耳障りな音である。実際に試してみたところ、祖母は確実に電話に出るようになった。耳が遠く、なかなか電話に出ない高齢者のいる家や、騒々しい工場などの電話には便利だろう。

なお、本器は着信音を大きくするのとは逆に、着信音を無くして光だけで電話が来たのを知らせるという使い方もできる。

電話機本体の着信音を0にし、本器の横に付いているスイッチでこちらの着信音を消す。すると、着信すると赤いフラッシュだけが点くようになる。このフラッシュはかなり目立つ。

切り替えスイッチ

こちらは赤ちゃんのいる部屋の電話とか、深夜にやたらと電話がかかってくる人には便利だろう。
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北條民雄『いのちの初夜』を読んだ。この作品は著作権切れのため青空文庫で読むことができる。したがってキンドルで読めば無料。

いのちの初夜:青空文庫


北條民雄は1933年にハンセン病を発病、翌年患者として国立療養所多磨全生園に収容され、その後小説を書きはじめ、1936年に亡くなったという特異な経歴を持つ作家である。

そのため、北條民雄の作品はすべて療養施設が舞台となっている。療養所のルポルタージュ的な作品が多く、描写力にも優れており、当時の療養施設(と言う名の隔離施設)とそこに隔離された人たちの生活がよく分かる。中でも『いのちの初夜』は文学作品としての完成度が高い。

この作品のテーマは『いのちの初夜』という不思議な題名そのものに表されている。

尾田はハンセン病(作品中では癩病)と診断され、半年後療養所に入る。何度も自殺しようと考えるが決意しきれず療養所に入る。当時、ハンセン病はゆっくりと進行する不治の病で、療養所に入ると出てくることはできなかった。

尾田は療養所で、その特異な世界とそこに生活する患者たちを見る。再び自殺を思い立つが、やはり死ぬことはできなかった。
その時かさかさと落ち葉を踏んで歩く人の足音が聞こえて来た。これはいけないと頸を引っ込めようとしたとたんに、穿いていた下駄がひっくり返ってしまった。
「しまった」
 さすがに仰天して小さく叫んだ。ぐぐッと帯が頸部に食い込んで来た。呼吸もできない。頭に血が上ってガーンと鳴り出した。
 死ぬ、死ぬ。
 無我夢中で足を藻掻いた。と、こつり下駄が足先に触れた。
「ああびっくりした」
 ようやくゆるんだ帯から首をはずしてほっとしたが、腋(わき)の下や背筋には冷たい汗が出てどきんどきんと心臓が激しかった。いくら不覚のこととはいえ、自殺しようとしている者が、これくらいのことにどうしてびっくりするのだ、この絶好の機会に、と口惜しがりながら、しかしもう一度首を引っ掛けてみる気持は起こって来なかった。

尾田は死のうとしても死ぬことがきないことの葛藤に悩む。尾田の世話をしていた佐柄木(彼もハンセン病患者である)は「とにかく、癩病に成りきることが何より大切だと思います」とアドバイスをする。

この佐柄木の言葉が「いのちの初夜」という題名に繋がってくるのだが、なぜそうなるかは是非読んでほしい。命とは何か、生きることとは何かを考えさせられる作品である。
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先月は例の溶連菌のせいで「池上線」ができなかった。この際、全部ヨーレンキンのせいにしちゃえばいい。というわけで、今月は戸越銀座駅。

西島三重子の『池上線』には「角のフルーツショップだけが灯りともす夜更けに商店街を通り抜け踏切渡った時だわね」という歌詞がある。この駅は後に池上駅と判明するが、池上線には商店街と踏切のある駅が多数あり、どこの駅か議論になったらしい。

そして五反田駅を出た池上線が、最初に商店街を通る駅が戸越銀座駅である。
踏切

ちなみに戸越銀座は、初めて本家の銀座(中央区)以外で銀座を名乗った由緒正しい商店街である。これにはちゃんと理由があって、関東大震災の後、銀座の瓦礫を再利用して通りを作ったことによる。
戸越銀座商店街

さて、戸越銀座駅にもどる。ここの入口は最近改修されきれいになった。こちらが改修後。
現在の改札

改修前。違いが分からないのは心が濁っているからだろう。これでも改修に何か月もかかったのだ。
以前の改札

木の柱、梁で波板の屋根を支えている。田舎のローカル線の駅みたいな感じだが、通勤・通学の時間ともなれば人でごった返す。
ホーム

柱

ここはもともとベンチがなかったらしい。今は新しいベンチが置かれている。
ベンチ

水飲み場はたぶん土管。ここで水を飲んでいるのはヨッパライだけ。
水飲み場

待避所。工事のオッサンなんかが電車に轢かれないようにここに退避する。各ホーム一カ所しかない。
待避所

駅を後ろから見ると、こんな感じ。
裏から見たところ

最後に、電車が停まっているの図。
ホームと電車


さて来月は荏原中延に参ります。
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