2013年08月

今月の16日、青空文庫の実質的な発起人であり、世話役だった富田倫生氏が亡くなられた。

もちろん、僕は青空文庫には関わっていないし、富田氏とも面識がない。が、青空文庫をあれだけの規模に育てた苦労は理解しているつもりだ。

電子テキストを作ることそのものはそんなに難しいことではない。しかし、それは一人でやる場合にかぎられる。一人やっていたのを二人でやれば単純計算で二倍できることになるが、それをまとめる苦労は二倍を超える。三人、四人と増えていくうちに、まとめるのはどんどん難しくなる。

例えば、青空文庫では「ケヶ問題」というのがある。簡単に説明すると、「関ヶ原」のように「が」と読む「ヶ」をどう表記するかという問題だ。

カタカナの「ケ」と「個」の異体字に基づく「ヶ」は全く別の字だが、形は同じである。一般的には「個」の異体字に基づく「ヶ」は小書きにされるが、活字で印刷されたものにはそうでないものも多い。それを底本通り「ケ」にするか、「ヶ」に直すかが論争になった。富田氏はこれを「ヶ」にし、「底本ではケになっている」という注釈を入れるという方法で統一しているが、これに異論を唱え底本通りにすべきだという意見が対立した。一方、注釈などはいらんという意見もある。

「青空文庫」という一つのサイトでテキストを作る以上、どうしてもルールを統一しなければならない。その一方で、入力するひとの人数が増えれば、ルールに異論を持つ人も出てくる。ここに師弟関係などの上下関係があればいいが、青空文庫はボランティアで上下関係がないから、どうしてもこじれやすい。

これをまとめるのは想像以上に大変なことだったと想像される。いや、まとまっていないのかもしれないが、兎にも角にも、あれだけのテキストを集めた富田氏の情熱と執念には敬服するほかない。

「ケヶ問題」ついて僕は一つの意見を持っているが、ここではあえていわない。だが、読者にとってはゆで卵をどちらから割るかというレベルの瑣末なことであることは間違いないだろう。

前にも書いたが(文学研究者がかかるはしかのようなもの:2013年06月23日)、そこにテキストがあることに青空文庫の意義がある。ケヶの区別だの本文の正当性などという瑣末なことに囚われて、もっとも大事なこの意義を忘れてはいけない。
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今月もあとわずか。ここで大変なことに気が付いた。

今月の池上線を忘れてた・・・。」

で、さっそくカメラを持って家を出たが、なぜだか電車に乗るのが面倒くさい。駅まで歩く途中、以前戸越の国文学研究資料館はこうなった:2012年09月12日という記事を書いたことを思い出した。この時はまだ工事中で、公園の名前も分からなかった。

品川区戸越(本当は豊町)の国文学研究資料館は、ごく一部の人には青春の甘酸っぱい思い出の場所だが、現在は「文庫の森」という公園になっている。なんの変哲もない公園に、遠方からわざわざ行く人も少ないだろう。それに、ここは何かのついでに行けるような場所でもない。

でもどうなったか気になる。そんなあなたに代わって、国文学研究資料館跡に行ってきた。

池上線戸越銀座駅、都営浅草線戸越駅から来た人は、ここを通って行った人も多いはず。かつては突き当りの森の中に国文学研究資料館の建物が見えた。建物が無くなった今、この近辺はずいぶん明るくなったように感じる。
資料館への道1


資料館の前の道。戸越公園駅からだとこの道を使ったかもしれない。塀が無くなったのと、右側の建物が建て代わったので、こちらも雰囲気が変わった。
資料館への道2


案内図。旧三井文庫の書庫があることから「文庫の森」という名前になった。今年の2月23日に開園したそうだ。
文庫の森(案内板)


入り口は何か所かあるが、資料館時代の入り口はここ。
文庫の森入り口


入り口の右手に、公園名の由来になった旧三井文庫第二書庫がある。「こんな建物あったっけ?」というような存在だったが、ついに主役になったようだ。中は防災備蓄倉庫。
旧三井文庫第二書庫


トイレも文庫のデザインに合わせてある。
トイレ


きれいな喫煙所もありますよ。
喫煙所


国文学研究資料館といえば池。資料館の一階で、池を眺めながらジュースを飲んでいた人も多いはず。池の位置は変わっていないが、形は変わったような気がする(昔の池をよく覚えていない)。
池


建物のあったところは、芝生の広場になった。
国文学研究資料館跡地


どうにも「国文学」の要素が無くなってしまい残念だが、国文学研究資料館は無くなったわけではなく立川にあるのだから仕方ない。唯一、池の橋が「八橋」になっているところに「国文学」の名残を感じる。
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太宰治と金木(その1・斜陽館)はこちら。

弘前高等学校を卒業した太宰(太宰治と弘前:2013年08月19日参照)は、東京帝国大学文学部仏文科に入学する。その後、心中とか、左翼活動とか、自殺とか、薬物中毒とか、心中とか・・・波乱の東京生活に入り、ついには生家から絶縁されるわけだが、そのへんは津軽とは関係ないので割愛する。

昭和13年、井伏鱒二の紹介による石原美智子との結婚を期に、生活が安定し始め、原稿の依頼も増えてくる。母親の死を契機に絶縁状態は緩和され、昭和19年に小説『津軽』を発表する。

しかし、太宰自身の安定と反比例するように、戦争は激しくなり世情は悪化していく。東京にいては危険なので、妻、美智子の実家のある甲府へ疎開したが、ここも空襲で焼け出され、昭和二十年七月、一家を連れて生家の金木へ疎開する。

この時、太宰一家が住んだのは斜陽館ではなく、長兄文治の結婚を期に建てられた離れである。この離れは、もともと斜陽館とくっついていたのだが、斜陽館売却のとき曳家によって母屋から離れた位置に移動し、その土地を買った別の人の所有になった。それ以来、ずっと所有者が使っていたが、2007年から一般に公開している。入館料は500円で、所有者の方の案内もしてもらえる。

太宰治疎開の家:太宰屋

「疎開の家」は凝った造りではあるが、建築的な価値は斜陽館に比べるべくもない。しかし、疎開したときの太宰は作家としての絶頂期で、戦争末期にもかかわらず、ここで沢山の作品を書いている。三鷹の家などはもうないので、太宰が作家になってから唯一現在まで残っているのがこの家である。

「太宰治疎開の家」はここが入り口になる。斜陽館からは案内が出ているのですぐにたどり着ける。だが、この通りに面した建物が「太宰治疎開の家」ではなく、この家のさらに奥にある。
入り口


ガイドさん(実はここの所有者)が見せてくれた、斜陽館との位置関係を表す地図。津島家の敷地の広さが分かる。
母屋との位置関係


「太宰治疎開の家」の間取り。
間取り


故郷に帰った太宰のもとには、昔の友人や地元の文学青年らが毎日のように面会に来たという。その中には、あまりありがたくない「親友」もいたらしい。

「酒は無いのか」と突然かれは言った。
 私はさすがに、かれの顔を見直した。かれも、一瞬、工合いの悪そうな、まぶしそうな顔をしたが、しかし、つっぱった。
「お前のところには、いつでも二升や三升は、あると聞いているんだ。飲ませろ。かかは、いないのか。かかのお酌で一ぱい飲ませろ」
 私は立ち上り、
「よし。じゃ、こっちへ来い」
 つまらない思いであった。
 私は彼を奥の書斎に案内した。『親友交歓

その書斎がこれ。書斎と言っても、もともと書斎として作られたわけではないので、ただの六畳間である。
太宰治書斎

太宰はここで春の枯葉冬の花火パンドラの匣トカトントン(作品名のリンクはいずれも青空文庫。以下同じ)など、23もの作品を書いた。

最初に「母親の死を契機に絶縁状態は緩和され」と書いたが、その様子を描いた小説『故郷』にこの洋間がでてくる。
洋間

廊下を歩いて洋室へ行った。洋室は寒く、がらんとしていた。白い壁に、罌粟(けし)の花の油絵と、裸婦の油絵が掛けられている。マントルピイスには、下手な木彫が一つぽつんと置かれている。ソファには、豹の毛皮が敷かれてある。椅子もテエブルも絨氈も、みんな昔のままであった。私は洋室をぐるぐると歩きまわり、いま涙を流したらウソだ、いま泣いたらウソだぞ、と自分に言い聞かせて泣くまい泣くまいと努力した。(中略)日が暮れた。私は母の病室には帰らず、洋室のソファに黙って寝ていた。この離れの洋室は、いまは使用していない様子で、スウィッチをひねっても電気がつかない。私は寒い暗闇の中にひとりでいた。

写真の左側に見える「マントルピイス(マントルピース)」はフェイクで、正体はワインの瓶を入れる奥行の浅い棚である。その上の電気スタンドが置かれているところに「下手な木彫」があった。これは新潮日本文学アルバム『太宰治』の81ページにある写真で見ることができる。この「下手な木彫り」はそんなに下手なものでもないらしく、現在は別の人の所有になっているそうだ。

「洋室のソファ」は御覧の通り作り付けで、右側のスプリングがかなりヘタっていた。座ってみたが、ヘタっていなくともあまり寝心地はよくなさそうだ。

サンルーム。床が寄木でできている。この家は一見、よくある普通の民家だが、よく見ると細部に意匠を凝らしているのが分かる。
サンルームの床


斜陽館と比べるとどうしても地味で見逃しがちだが、ガイドの方もよく勉強していて話も面白いので、金木に行ったら是非立ち寄ってほしい。
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弘前の下宿での自殺が未遂に終わった太宰は、期末試験を受けず病気届を出して近くの大鰐温泉に行き、冬休みをそこで過ごしたらしい。その後東京帝国大学に進学しているので、期末試験を受け無くても落第しなかったわけだが、そんな命がけのボイコットは嫌だ。

さて、僕たちは「喫茶万茶ン(太宰治と弘前:2013年08月19日参照)」に行ったあと、ねぷた祭りを見るつもりだったが、時間が余りまくったので大鰐温泉に行った。

弘前から大鰐温泉はJR奥羽本線で大鰐温泉駅へ行くのと、弘南鉄道大鰐線で大鰐駅に行く二つの方法がある。僕たちは土手町にいたので、駅が近くにある大鰐線をチョイス。

これが大鰐線の始発駅、中央弘前駅。なかなかフォトジェニックな駅である。それにしても「弘前中央」じゃなくって「中央弘前」なのはなぜだろう。

なお、大鰐線は大鰐温泉に行くための電車なので、温泉の入浴料と往復の切符がセットになっている切符があり、かなりお得なので、温泉に行く人は慌てて普通の切符を買わないようにしましょう。というか間違って買って払い戻した。

太宰はここから乗ったのかと思ったが、後で調べたら大鰐線の開業は戦後だった。おそらく、奥羽本線で行ったのだろう。
中央弘前


大鰐線のプラットホーム。なんか既視感が・・・。ちなみに一時間に一本ぐらいしか電車がない。
弘前中央駅のホーム


乗ってみるとますます既視感がある。なんか懐かしいような・・・。

つり革がりんごと岩木山をイメージにしたものになっているが・・・
つり革(表)


座席に座って裏を見ると、
つり革(裏)

東急百貨店!

そりゃ懐かしいわけだ。東急からの払い下げらしい。これなら昔乗っていたぞ。

で、終点大鰐駅のホーム。白塗りの木造に東急の電車。懐かしいを通り越して、池上線にしか見えなくなってきた。
大鰐駅のホーム


ホームから外に出ると、やっぱりローカル線の駅。というか終点なのにショボいにも程がある。
大鰐駅


ついでにJR大鰐温泉駅も。
大鰐温泉駅


スキーを持ったピンクのワニさんがお出迎え。
大鰐のワニさん


え?温泉ですか?

いい湯だったよ。
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8月1日から筑摩書房がにamazon Kindleストア、楽天koboイーブックストアで電子書籍を配信し始めた。

まだ電子化されたものは少ないが、これから筑摩書房の名著たちが電子書籍で読めるようになるのは楽しみだ。
ちくまの電子書籍:筑摩書房

Kindleストアでのラインナップはこちら。楽天は・・・まあ、いいだろ。

筑摩書房:Kindleストア

外山滋比古『思考の整理学』とか、網野善彦『日本の歴史をよみなおす』とか、益田勝美『火山列島の思想』 とか、名著が並んでいるが、今回紹介するのは、阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』である。

歴史学は、書かれたものをもとに過去を考える学問である。書かれたものといっても、その信憑性が重要になるので、日記や正史に比べて、物語や伝説、説話の類は資料的価値の低いものとなる。

たしかに、説話や伝説は史実そのものではない。史実をもとにしていても、なんらかのフィルターがかけられているので史料にはなりえない。だが、そのフィルターを取り去ることにより、史実が見えてきたり、フィルターそのものを研究することによって別の歴史的側面が見えてきたりする。

『ハーメルンの笛吹き男―伝説とその世界』は、誰もが知っている「ハーメルンの笛吹き男」の伝説から、伝説がどのように成立したか、中世ヨーロッパの社会状況をどのように反映しているか、また、伝説がその後どのように変化していったかを論じている。

例えば本書では、楽師に対する中世ヨーロッパの社会的差別に光を当てている。差別は人の心理によるものだから、まともな史料の中にはなかなか出てこない。だが、まともな史料ではない、説話や伝説の持つフィルターは、人々の心理そのものによってできている。このフィルターを通して史料を見ると、当時の人々の心理がはっきりと見えてくるのである。

一読をお勧めする名著だが、ちょっとお高いのが難点だ。

筑摩書房の本は、もともと高い本が多いのだが、『ハーメルンの笛吹き男』は文庫版が798円なのに対し、Kindle版は700円である。もうちょっと安ければ(500円ぐらい)、文庫版を持っていても、電子書籍版を買ったのだが・・・。

なにしろKindleで読みなれた目には、文庫版は字が小さすぎる。

というわけで、kindle版の購入はこちらでどうぞ。


「紙の本がいい!」という人はこちら。
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昭和二年三月、太宰は青森中学校の第四学年を修了して、官立弘前高等学校(現在の弘前大学)に入学する。当時、弘前市内在住者以外は、寮に入ることになっていたが、母親の希望で、病弱を理由に(病弱でもなかったが)親戚筋の藤田豊三郎方に下宿し、そこから学校に通うことになる。

この太宰が下宿した家は、現在「太宰治まなびの家」として入場無料で公開されている。
太宰治学びの家


玄関を入ると、太宰がお出迎え・・・って、いきなりこの写真かよ。
学びの家(入り口)

あごの下に手を当てているが、スティーブ・ジョブズではなく、芥川龍之介の物まねである。今年の五月に発見された、芥川龍之介の名前がたくさん書かれたノートも(太宰治が中二病こじらせた黒歴史ノートが発見される参照)この時期に書かれた。

太宰がいかに心酔していたかが分かるが、芥川は昭和二年七月二十四日に自殺してしまう。それも、その二か月前に太宰は芥川の講演を聞いている。そのショックがいかに大きかったかは想像に難くない。それを考えれば、この写真に出迎えられるのも、あながちおかしくないのかもしれない。でもちょっとビビる。

まず一階の座敷。広いことは広いが、斜陽館みたいな豪邸ではなく、普通の家である。
学びの家(座敷)

ちょっと珍しいのが、この神棚。説明してくれた人が、神様の上を歩くのはいけないから、こうなっているんじゃないかと言っていたが、たぶんそれで合ってると思う。
学びの家(神棚)

こちらが、二階にある太宰の下宿した部屋。弘前高校時代、太宰は義太夫にはまり、左側の窓際でうなっていたという。
太宰の勉強部屋

太宰は、ここで二学期の期末試験前(昭和四年12月10日)に最初の自殺を図っている。それと関係があるかどうかは分からないが、長押に太宰が書いた数式の落書きがある(数学が苦手だそうだ)。
長押の落書き


太宰とは無関係だが、「学びの家」の前には弘前厚生学院という専門学校があり、その中に弘前偕行社というかつての陸軍将校倶楽部だった美しい建物がある。明治40年の建築だそうだ。弘前はフォトジェニックな建物が多い。
弘前偕行社

旧弘前偕行社:弘前厚生学院

「学びの家」から弘前大学までは歩いて10分とかからない。よくこんな都合のいいところに親戚がいたもんだ。
弘前大学


弘前大学には、旧制高校時代の卒業生名簿を刻んだプレートがある。
こちらには太宰(津島修治)の名が見える。
卒業名簿(太宰)

真ん中へんに「山崎年一」とあるのが、太宰の愛人で玉川上水で一緒に心中した山崎富江の次兄。
卒業名簿(山崎年一)

太宰が学んだ時代の建物で唯一残っているのが、外国人教師館
外国人教師館

弘前大学には弘前大学資料館といって、太宰のノート等が展示してある施設があるのだが、写真を撮っちゃいけないなどとケチくさいことを言うので、建物すら撮らなかった。

弘前大学資料館

こちらは弘前のメインストリート、土手町にある喫茶店「万茶ン」。昭和4年オープンで、弘前高校時代の太宰も通ったという、東北最古の喫茶店だそうだ。もちろん建物は建てかわっているが、調度品には当時のものも多い。
万茶ン
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太宰治は、大正12年3月青森県立青森中学校に入学し、金木を離れることになる。創作を始めるのはこの時期で、自ら執筆、編集、装丁を行った同人誌『蜃気楼』を発行する(通巻12号まで)。

この青森中学校の様子は『思ひ出』『津軽』に次のように書かれている。
それなのに、学校はちつとも面白くなかつた。校舎は、まちの端れにあつて、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにゐる教師たちは私をひどく迫害したのである。(『思ひ出』)

この中学校は、いまも昔と変らず青森市の東端にある。ひらたい公園といふのは、合浦公園の事である。さうしてこの公園は、ほとんど中学校の裏庭と言つてもいいほど、中学校と密着してゐた。私は冬の吹雪の時以外は、学校の行き帰り、この公園を通り抜け、海岸づたひに歩いた。謂はば裏路である。あまり生徒が歩いてゐない。私には、この裏路が、すがすがしく思はれた。初夏の朝は、殊によかつた。(『津軽』)


青森中学校(現青森県立青森高等学校)は現在移転しており、かつての所在地には青森市営野球場(合浦公演スタジアム)がある。ちなみに太宰とは何の関係もないが、写真に写っている石碑は、日本プロ野球史上初の完全試合を記念する石碑。
青森市営球場


太宰が中学校時代歩いたと思われる海岸。公園の松林を抜けると、すぐに砂浜になっている。
合浦公園の海岸


公園は松林になっていて、真ん中にきれいな池がある。なるほどこれなら「浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来」るかもしれない。
合浦公園の松並木

合浦公園の池


ちなみに、僕が今教えている高校は、授業中でもモーターボートレースの音が聞こえたり、新幹線の音が聞こえたりする。情緒もへったくれもない。
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太宰治ほどブランド力を持った作家は日本にいないだろう。漱石、鴎外、芥川龍之介、三島由紀夫あたりが二位争いをするが、太宰の一位は、もうダブルスコア以上のぶっちぎりの一位で異存はあるまい。

今回、津軽地方を旅して、その感想はますます強くなった。津軽地方が歴史的な文化遺産に乏しいことを割り引いても、石碑やら銅像やら記念館やら「太宰治の○○」があちこちにある。

さて、太宰治と津軽地方といえば、なんといっても金木から始めなくてはならない。太宰治(本名・津島修治)は明治42年(1909年)6月19日、青森県北津軽郡金木村(現在、五所川原市)で生まれた。

津島家は青森県でも有数の大地主だった。津島家の豪邸は、津島家が手放した後、斜陽館という名で旅館になっており、現在は金木町(現五所川原市)に売却され太宰治記念館となっている。

斜陽館の建築はともかく異様である。これは、小作人をビビらせるためのハッタリ建築である。普通、豪邸というものは、敷地の奥の方にあるものだ。ところが、斜陽館は通りに面している。豪邸を見せてビビらせようという魂胆である。

この家は和風の家に不似合な、高い煉瓦塀で囲まれていて、その煉瓦塀には鉄格子やら鉄扉がついてる。これは小作争議対策だという。

斜陽館

津島家の金持ちっぷりは半端じゃない。今の斜陽館のでかさもすごいが、実は前後の土地も津島家のものだった。その名残は現在でも見られる。

青森銀行金木支店

この写真は何の変哲もない銀行だが、斜陽館の道路を挟んで向かいである。ここはかつて津島家が経営する金木銀行で、昭和13年に第五十九銀行(青森銀行の前身)に買収された。

その奥にみちのく銀行が見えるが、こちらは元は警察署で、津島家への小作争議に対応するため、ここに作られたという。後には五所川原市金木庁舎があるが、これも津島家と無関係ではあるまい。津島家は自治体をも動かす権力を持っていた。

斜陽館に一歩中に入ると、広い土間がある。この土間の突き当たり(写真でいうと後方)に米蔵があり、ここに小作人が米を持ってきたという。
土間


内部は洋風の部分がある。これは階段。ここだけ見ると、古い洋館に見えるが、これもハッタリ仕様である。
階段


巨大な仏壇。鶴亀燭台(鶴再び:2010年03月01日参照)があるので浄土真宗大谷派であることが分かるが、このハデな仏壇は北陸なんかでよく見る形式だ。
仏壇


津島家には米蔵とは別に土蔵がある。太宰は子供のころ、ここの石段で食事をするのが好きだったと『津軽』のタケの言葉にある。
土蔵

まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。


その他、斜陽館の写真はこちらをどうぞ。

斜陽館:Google+
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最近、バイト君の好ましからざる行為(冷蔵庫に入るとか)がTwitterやFacebookで出回り、店が大打撃をうけるという事件が頻発している。

これについて、ネットの使用を免許性にしろだとか、あいつらは低学歴だから世界が違うとか、もうヤケのヤンパチみたいな話がでているが、SNSがあるから表に出てきたことで、多かれ少なかれもともとあったことなのだという意見は共通しているようだ。

突然だが例によって中国を例に出す。

ご存知の通り、中国の貧富の差は大きい。あれだけ収入に開きがあると、貧乏人は食べるものがないんじゃないかと思うかもしれないがそんなことはない。中国では(おそらく他の発展途上国でも)金持ちの食べるものと貧乏人の食べるものが違うのだ。金持ちの食べるものと貧乏人の食べるものの値段の差は、物によっては10倍ぐらいになるものもある。

それなら金持ちの食い物よりも貧乏人の食べ物の方がまずいかというと、そんなことはない。むしろ、その辺で食べる屋台飯の方が、高級レストランよりもうまくて量も多いことだってある。値段の違いは味の違いではない。

金持ちの食べ物と貧乏人の食べ物を分けるのが信用である。どんなにうまくても、金持ちは貧乏人の食べ物を信用していないから絶対に食べない。最近になって「段ボール肉まん」とか「下水から作った油」とか「病死した動物の肉」とかいう食への不信が出てきたのは、それだけ貧しい人が豊かになってきたからである。

これを例のコンビニアイスに当てはめてみればいい。コンビニでアイスを売っているのは、低賃金のバイトくんだ。彼らは冷蔵庫に入ったのがばれてクビになっても、また別のバイトを探せばいいだけだ。

これを全部高賃金の正社員にしたら、クビにされたら惜しいから冷蔵庫に入る奴はいなくなるだろう。しかし、人件費がかさんでコンビニアイスは100円以下では売れなくなる。信用のあるアイスを食べたければ、信用のある店で高いアイスを食べるしかないのである。

貧乏人は貧乏人の食べ物しか食べられない。そして、貧乏人には貧乏人の対処の仕方がある。中国の屋台はたいがい目の前で調理しているが、あれはおかしなものを出していないことを証明するためだ。あれが、裏で何か作って表に出していたら誰も食べないだろう。貧乏人の食べ物を食べるときは、信用できないぶん細心の注意を払う必要がある。

コンビニでアイスを買う貧しい僕たちのできることは、せいぜい下の方にあるアイスをほじくり出してくることぐらいだ。それがイヤなら、コンビニなんかでアイスを買うのはやめることだろう。
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僕の家ではエアコンを入れることがほとんどない。特に寝室のエアコンは、ずいぶん前の人が設置したものらしく、旧式で消費電力も音も大きいのでほとんど使わない。

その代り扇風機を使うのだが、いままで一台しか持っておらず、いちいち寝るたびに移動するのは面倒くさいので、寝室用に新たに購入した。寝室なので、あまり目立たない方がよかろうということで、HITACHIの縦型の扇風機にした。
HITACHI 縦型扇風機 HSF-700


この手の扇風機にも、山善などのいわゆるジェネリック家電が多いのだが、買ってすぐに壊れてしまった経験があり、どうもイメージがよくない。安いので壊れてもそれほど金銭的ダメージは大きくないのだが、でかいので壊れた後の処分が面倒くさい。天下の日立なら壊れないとは言えないが、すでに不信感を持っている以上、ジェネリック家電を買う気にはならない。

この扇風機、風呂上りにガーッと風を浴びて涼むのには向いていない。普通の扇風機のように風が固まりででてこず、強にしても弱く感じる。それよりも、寝室や居間で、長時間、窓からの風替わりに使うのに向いている。

僕は普通の扇風機の首振り機能が好きではない。「来るぞ、来るぞ」と風が来るのを心待ちにして、いざ「キターッ!」と思うとあっという間に過ぎ去っていく。それが定期的に続く、あの感じが嫌いなのだ。とはいえ、ヨメがいる以上、風を独り占めにするわけには行かないし、当たりっぱなしは体にもよくない。

縦型扇風機の場合、同じ首振り機能を使っても、あまりそういう感じがしない。首を振っている感覚よりも、窓からの風が強くなったり弱くなったりする感じに近い(強弱をつける機能もある)。風切音もそれなりに出るが、普通の扇風機の音よりも、自然の風の音に近いと思う。

寝るときに使う場合、「お休みモード」なるものがあってこれがよくできている。「お休みモード」にすると、液晶表示が暗くなり、動作音が消える。2時間ないし10時間で徐々に風力が弱くなって、スイッチが切れる。もちろん、これとは別にON OFFタイマーもある。
操作パネル

リモコン

一つ難点を挙げるとすれば、「ワレワレハウチュウジンダ」がイマイチなことだろうか。

羽のないダイソン製とは違い、この扇風機でもできなくはないが、やはり「宇宙人度」では従来の扇風機の方が勝る。もっとも、寝ながら「ワレワレハウチュウジンダ」をやる人はいないと思われるので、たいした難点ではないかもしれない。

夏の夜、窓を全開にして風を入れて寝るのが好きな人にはストロングバイ。
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