今月の16日、青空文庫の実質的な発起人であり、世話役だった富田倫生氏が亡くなられた。
もちろん、僕は青空文庫には関わっていないし、富田氏とも面識がない。が、青空文庫をあれだけの規模に育てた苦労は理解しているつもりだ。
電子テキストを作ることそのものはそんなに難しいことではない。しかし、それは一人でやる場合にかぎられる。一人やっていたのを二人でやれば単純計算で二倍できることになるが、それをまとめる苦労は二倍を超える。三人、四人と増えていくうちに、まとめるのはどんどん難しくなる。
例えば、青空文庫では「ケヶ問題」というのがある。簡単に説明すると、「関ヶ原」のように「が」と読む「ヶ」をどう表記するかという問題だ。
カタカナの「ケ」と「個」の異体字に基づく「ヶ」は全く別の字だが、形は同じである。一般的には「個」の異体字に基づく「ヶ」は小書きにされるが、活字で印刷されたものにはそうでないものも多い。それを底本通り「ケ」にするか、「ヶ」に直すかが論争になった。富田氏はこれを「ヶ」にし、「底本ではケになっている」という注釈を入れるという方法で統一しているが、これに異論を唱え底本通りにすべきだという意見が対立した。一方、注釈などはいらんという意見もある。
「青空文庫」という一つのサイトでテキストを作る以上、どうしてもルールを統一しなければならない。その一方で、入力するひとの人数が増えれば、ルールに異論を持つ人も出てくる。ここに師弟関係などの上下関係があればいいが、青空文庫はボランティアで上下関係がないから、どうしてもこじれやすい。
これをまとめるのは想像以上に大変なことだったと想像される。いや、まとまっていないのかもしれないが、兎にも角にも、あれだけのテキストを集めた富田氏の情熱と執念には敬服するほかない。
「ケヶ問題」ついて僕は一つの意見を持っているが、ここではあえていわない。だが、読者にとってはゆで卵をどちらから割るかというレベルの瑣末なことであることは間違いないだろう。
前にも書いたが(文学研究者がかかるはしかのようなもの:2013年06月23日)、そこにテキストがあることに青空文庫の意義がある。ケヶの区別だの本文の正当性などという瑣末なことに囚われて、もっとも大事なこの意義を忘れてはいけない。
もちろん、僕は青空文庫には関わっていないし、富田氏とも面識がない。が、青空文庫をあれだけの規模に育てた苦労は理解しているつもりだ。
電子テキストを作ることそのものはそんなに難しいことではない。しかし、それは一人でやる場合にかぎられる。一人やっていたのを二人でやれば単純計算で二倍できることになるが、それをまとめる苦労は二倍を超える。三人、四人と増えていくうちに、まとめるのはどんどん難しくなる。
例えば、青空文庫では「ケヶ問題」というのがある。簡単に説明すると、「関ヶ原」のように「が」と読む「ヶ」をどう表記するかという問題だ。
カタカナの「ケ」と「個」の異体字に基づく「ヶ」は全く別の字だが、形は同じである。一般的には「個」の異体字に基づく「ヶ」は小書きにされるが、活字で印刷されたものにはそうでないものも多い。それを底本通り「ケ」にするか、「ヶ」に直すかが論争になった。富田氏はこれを「ヶ」にし、「底本ではケになっている」という注釈を入れるという方法で統一しているが、これに異論を唱え底本通りにすべきだという意見が対立した。一方、注釈などはいらんという意見もある。
「青空文庫」という一つのサイトでテキストを作る以上、どうしてもルールを統一しなければならない。その一方で、入力するひとの人数が増えれば、ルールに異論を持つ人も出てくる。ここに師弟関係などの上下関係があればいいが、青空文庫はボランティアで上下関係がないから、どうしてもこじれやすい。
これをまとめるのは想像以上に大変なことだったと想像される。いや、まとまっていないのかもしれないが、兎にも角にも、あれだけのテキストを集めた富田氏の情熱と執念には敬服するほかない。
「ケヶ問題」ついて僕は一つの意見を持っているが、ここではあえていわない。だが、読者にとってはゆで卵をどちらから割るかというレベルの瑣末なことであることは間違いないだろう。
前にも書いたが(文学研究者がかかるはしかのようなもの:2013年06月23日)、そこにテキストがあることに青空文庫の意義がある。ケヶの区別だの本文の正当性などという瑣末なことに囚われて、もっとも大事なこの意義を忘れてはいけない。