2013年10月

文章を書くのが好きだ。それでも、書けなくなるときというのはあって、今月はそういう月だった。さほど忙しくもなかったのだが、僕の場合、そういう時ほど書けなくなる。

だから、写真ばかりのエントリが多くなってしまった。それでも、7月の終わりに行った津軽旅行は今月中にケリをつけておきたかった。

太宰治は僕にとって、好きとか嫌いとか言う問題以前の作家である。

高校生のころ、太宰の作品を読んで、初めて純文学の面白さを知った。たぶん、太宰の作品を読んでいなかったら文学部なんかには入らなかっただろうし、今頃はこんな冥府魔道に落ちず、ごく普通のサラリーマンでもやっていたかもしれない。

大学に入って、1・2年生で近代文学の論文や評論を読んで「これは僕の求めているものとは違うな」と思った。大学の3年で古典に鞍替えした。太宰、いや近代文学はそこで卒業したつもりだった。

ところが、卒業も近くなったころ、なぜだか突然、師匠が古典と近代文学をテーマに論文を書き始めた。当然、大学院に進学した僕は資料集めを手伝うことになる。

師匠の題材にしたのは主に芥川龍之介だったが、その流れで、初めて大学の紀要に書いた論文が「太宰治「瘤取り」と『宇治拾遺物語』」だった。題名の通り、太宰治の『御伽草紙』所収の「瘤取り」と『宇治拾遺物語』第3話「鬼に瘤取らるる事」を比較したのである。

とても拙い論文だったが、それでも自分の書いたものが活字になる喜びを知った。が、同時に自分の専門は古典なのに、古典絡みとはいえ近代文学がデビュー論文になってしまったという葛藤もあった。自分のしようと思ったこと違うことをしてしまう癖はこのころからずっと続いている。

7月の津軽旅行は、ヨメの企画したものだが、自分の原点を見るような思いがした。来月には45歳の誕生日が来る。これからは、もう一度、いろいろとやり直してみたいと思っている。
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池上線は、もともと池上本門寺にお参りする人を運ぶために作られた。だから「五蒲線」ではなく池上線という。ならば、日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという、洗足池の最寄り駅である当駅は、終端の五反田・蒲田、本門寺のある池上に次いで重要な駅なのかもしれない。

ホームは高架で、池上線ではおなじみの木造。
洗足池駅(ホーム)

高架駅(正確には土盛駅というらしい)なので、駅の手前に立体交差がある。線路側から見ると、こんな感じ。
立体交差を線路から見たところ

道路の方から見たところ。
洗足池(立体交差)

ホームから階段を下りたところの通路。池上線の駅というと木造のイメージが強いが、ここは重厚な鉄筋コンクリートのアーチが美しい。駅の開業が昭和二年とのことなので、そのころのものだろう。
写真右端に見える取ってつけたようなごつい鉄骨は、上の写真の「けた下3.1M」と書かれた鉄骨を支えるためのもの。
洗足池コンコース

駅舎を横から見たところ。化粧板で綺麗になっているが、土台が・・・。
洗足池駅(駅舎)

鉄筋むき出し。ちょっとヤバい。
劣化したコンクリート

入り口は一箇所。
洗足池駅入り口

入り口にあったお願い。ここにお願いを書けというのか、お願いは特にありませんというのか・・・。
お願い


洗足池にも商店街があるが、ここはなんといっても洗足池を紹介すべきだろう。ということで、次は洗足池を散歩する。
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『津軽』で最後に太宰が訪れるのは「小泊」である。ここで、金木の津島家で太宰の子守をしていた「越野たけ」と再会する。『津軽』のもっとも印象的なシーンで、この小説はここを書くために書かれたと言っても過言ではない。

五所川原(深浦の後、五所川原の叔母の家に一泊している)からバスで二時間、小泊に着いた太宰は、刑事ドラマさながらの聞き込みを行い、タケが小学校の運動会に行っているという情報を聞き出す。
溜息をついてその家から離れ、少し歩いて筋向ひの煙草屋にはひり、越野さんの家には誰もゐないやうですが、行先きをご存じないかと尋ねた。そこの痩せこけたおばあさんは、運動会へ行つたんだらう、と事もなげに答へた。私は勢ひ込んで、
「それで、その運動会は、どこでやつてゐるのです。この近くですか、それとも。」
 すぐそこだといふ。この路をまつすぐに行くと田圃に出て、それから学校があつて、運動会はその学校の裏でやつてゐるといふ。
「けさ、重箱をさげて、子供と一緒に行きましたよ。」
「さうですか。ありがたう。」

小泊は『津軽』によると「人口二千五百くらゐのささやかな漁村」である。小学校の運動会に行っていると分かればすぐに見つかるだろうと思いきや・・・。
教へられたとほりに行くと、なるほど田圃があつて、その畦道を伝つて行くと砂丘があり、その砂丘の上に国民学校が立つてゐる。その学校の裏に廻つてみて、私は、呆然とした。こんな気持をこそ、夢見るやうな気持といふのであらう。本州の北端の漁村で、昔と少しも変らぬ悲しいほど美しく賑やかな祭礼が、いま目の前で行はれてゐるのだ。まづ、万国旗。着飾つた娘たち。あちこちに白昼の酔つぱらひ。さうして運動場の周囲には、百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、運動場を見下せる小高い丘の上にまで筵で一つ一つきちんとかこんだ小屋を立て、さうしていまはお昼の休憩時間らしく、その百軒の小さい家のお座敷に、それぞれの家族が重箱をひろげ、大人は酒を飲み、子供と女は、ごはん食べながら、大陽気で語り笑つてゐるのである。

この盛大な運動会をしていた国民学校のグランドはここ。現在は小泊小学校という名前になっている。
小泊小学校のグランド

ついでに正門も。
小泊小学校

結局、運動会のグランドでたけを見つけることができなかった。諦めて帰ろうとして、もう一度たけの家に行った時に、たまたま腹痛で薬を取りに帰ってきたたけの娘に会い、その子に案内してもらい再会を果たす。
「ここさお坐りになりせえ。」とたけの傍に坐らせ、たけはそれきり何も言はず、きちんと正座してそのモンペの丸い膝にちやんと両手を置き、子供たちの走るのを熱心に見てゐる。けれども、私には何の不満もない。まるで、もう、安心してしまつてゐる。足を投げ出して、ぼんやり運動会を見て、胸中に、一つも思ふ事が無かつた。

この時の太宰とたけをモチーフにした銅像が小泊小学校の裏手にある。
タケと太宰の像

前に来た時には、この銅像しかなかったが、今「小説「津軽」の像記念館」という小さな記念館が建っていた。ここに当時の運動会の様子を写した写真があった。

かつて運動会は学校の行事というよりも地域の行事だった。僕の記憶でも小学校三年生ぐらいまではそんな感じで、運動会の朝は号砲が鳴り近所に運動会の開催を告げ、学校の周りには縁日みたいに出店がでていた。昼食は家族や近所の人たちと食べる。だから弁当は重箱が定番だ。低学年だったので、さすがによく覚えていないが、あの状況では酔っぱらったオヤジがいても不思議ではない。

とはいえ、僕の記憶する運動会は、せいぜいレジャーシートを敷くぐらいで、さすがに「百に近い掛小屋がぎつしりと立ちならび、いや、運動場の周囲だけでは場所が足りなくなつたと見えて、・・・」などということはない。この場面、相当誇張して書いてあるのだろうと思ったら、記念館にこの時代の小泊小学校の運動会の写真があった。モノクロの写真ではっきりとは見えないが、たしかに太宰の描いているような、いや、もっとすごい光景がそこには写っていた。

「百に近い掛小屋」は丸太と筵でできていて、想像した以上にしっかり作ってあるようだ。たしかに「百軒の小さい家のお座敷」である。写真にはごく一部しか写っていなかったが、相当な数があるのが容易に想像できる。そして、いちばん驚いたのは、なんとこの小屋、二階建てなのである。どう考えても、運動会よりもこれを建てる方が時間がかかる。これではタケさん、見つからなくって当然だ。

もっとも、小泊小学校のWebsiteの「お知らせ」には、「午前5時30分からテント蜜(ママ)り開始。係が合図します。それまでは絶対にテントおよびアンダーシートを張らないでください。また、場所取り等もしないでください。前日や真夜中に張ったりしないでください。見つけ次第撤去するつもりです。また、無謀な行為が多いようであれば、次年度からテント張りを禁止することになりますので、ご注意ください。」だの「個人用テントの設営場所は各町内観覧場所の後方に設けていますので、そちらをご利用ください。それ以外の場所には張らないでください.また、ゴール付近は、競技に支障をきたすので絶対張らないでください。」だの、やたらとテントのことが書いてあるので、その伝統は今も受け継がれているのかもしれない。

さて、前回行った時と違ったのは、記念館ができていたことだけではない。銅像が増えてた。
幼年修治

「幼年修治」なるほど、たけは子守だったのだから子供の頃の太宰の像があってもいい。

若き日のたけさん

「若き日のたけさん」当然、そのころのたけの像もある。

太宰治メロス風

「青年太宰治 メロス風」ごめん、意味がわからない。
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竜飛を訪れた太宰は、一旦青森に戻り、故郷の金木へ行く。金木については8月に書いた、次のエントリを参照されたい。
太宰治と金木(その1・斜陽館):2013年08月17日
太宰治と金木(その2・疎開の家):2013年08月24日

太宰は金木の生家から、五能線に乗り深浦へ向かい、そこで宿泊する。
完成されてゐる町は、また旅人に、わびしい感じを与へるものだ。私は海浜に降りて、岩に腰をかけ、どうしようかと大いに迷つた。まだ日は高い。東京の草屋の子供の事など、ふと思つた。なるべく思ひ出さないやうにしてゐるのだが、心の空虚の隙すきをねらつて、ひよいと子供の面影が胸に飛び込む。私は立ち上つて町の郵便局へ行き、葉書を一枚買つて、東京の留守宅へ短いたよりを認めた。子供は百日咳をやつてゐるのである。さうして、その母は、二番目の子供を近く生むのである。たまらない気持がして私は行きあたりばつたりの宿屋へ這入り、汚い部屋に案内され、ゲートルを解きながら、お酒を、と言つた。すぐにお膳とお酒が出た。意外なほど早かつた。私はその早さに、少し救はれた。

この宿泊した旅館が、秋田屋旅館で現在「深浦文学館」として残っている。入館料は300円。ここは、竜飛の旅館よりも大きい。
ふかうら文学館

太宰が泊まったとされる部屋はこちら。太宰がこの旅館に泊まったのは、『津軽』の旅と、疎開で金木に帰った時の二回だそうだ。
太宰宿泊の間

『津軽』には、郵便局に行って手紙を出した後、行きあたりばったりの旅館に入ったと書いてある。たしかに数軒隣にに深浦郵便局がある。ここは明治8年からある郵便局(深浦郵便局:Wikipedia)なのでここで間違いないだろう。
郵便局

『津軽』とは何の関係もないけど、ここに至るまでにたくさん見たちょっと怖い看板。
密入国注意

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太宰が三厩の次に宿泊したのは竜飛である。ここにも記念碑がある。

「竜飛岬」という道路案内にしたがって坂道を登り、頂上が近づいてくると、人が集まっている場所がある。そこに石碑のようなものが見えた。これに相違ない。そばに駐車場があったので、車を停めて出ていくと・・・
津軽海峡冬景色

「津軽海峡冬景色」の碑だった・・・。

真ん中に「押してください」と言わんばかりの赤いボタンがある。この記念碑は、実は弾道ミサイルで、このボタンを押すと北○○に向かって飛んでいくなんてことはよもやあるまい。歌謡曲の記念碑だから、曲が流れるに決まっている。と、音が出ることは覚悟していたのだが・・・。

「ちゃららら ちゃらら ちゃらら〜」

あのあまりに有名なイントロが、とんでもない大音響で流れる。記念写真を撮っていた観光客が一斉に僕の方を見た。

最近、こういう音の出る記念碑が増えてきた。オルゴールかなんかの音が出るのが相場である。生歌だったとしても近隣の迷惑になるから、きわめて控え目に出る。

ところが、ここは北のはずれ竜飛岬。近くに人家はない。風も強いし雪も降る。これぐらい大きな音でないと聞こえないことがあるのかもしれない。あるいは、恋に破れた女が乗る青函連絡船に聞こえるようになっているのか。とにかく、石の中の石川さゆりは一曲すべて歌いきった。

この記念碑の先に竜飛岬灯台があり、そこが竜飛岬の先端になる。
竜飛岬灯台


さて、『津軽』に出てくる竜飛は岬の下である。有名な階段国道を下りて歩いて行くこともできるが、また上がってくるのが面倒なので、自動車で下りた。太宰の記念碑はここだった。
津軽の碑

なかなか現代的な記念碑だが、文字は明朝体の活字でおもしろくない。文章は『津軽』からとっている。
ここは、本州の袋小路だ。読者も銘肌せよ。諸君が北に向つて歩いてゐる時、その路をどこまでも、さかのぼり、さかのぼり行けば、必ずこの外ヶ浜街道に到り、路がいよいよ狭くなり、さらにさかのぼれば、すぽりとこの鶏小舎に似た不思議な世界に落ち込み、そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。

この記念碑の裏手に太宰が泊まった旅館「奥谷旅館」があり、現在は観光案内所になっていて中を見学できる。
この旅館の様子は、先程の「そこに於いて諸君の路は全く尽きるのである。」に続けて、次のように書かれている。
「誰だつて驚くよ。僕もね、はじめてここへ来た時、や、これはよその台所へはひつてしまつた、と思つてひやりとしたからね。」とN君も言つてゐた。
 けれども、ここは国防上、ずいぶん重要な土地である。私はこの部落に就いて、これ以上語る事は避けなければならぬ。露路をとほつて私たちは旅館に着いた。お婆さんが出て来て、私たちを部屋に案内した。この旅館の部屋もまた、おや、と眼をみはるほど小綺麗で、さうして普請も決して薄つぺらでない。まづ、どてらに着換へて、私たちは小さい囲炉裏を挟んであぐらをかいて坐り、やつと、どうやら、人心地を取かへした。
「ええと、お酒はありますか。」N君は、思慮分別ありげな落ちついた口調で婆さんに尋ねた。答へは、案外であつた。
「へえ、ございます。」おもながの、上品な婆さんである。さう答へて、平然としてゐる。N君は苦笑して、
「いや、おばあさん。僕たちは少し多く飲みたいんだ。」
「どうぞ、ナンボでも。」と言つて微笑んでゐる。
 私たちは顔を見合せた。このお婆さんは、このごろお酒が貴重品になつてゐるといふ事実を、知らないのではなからうかとさへ疑はれた。
「けふ配給がありましてな、近所に、飲まないところもかなりありますから、そんなのを集めて、」と言つて、集めるやうな手つきをして、それから一升瓶をたくさんかかへるやうに腕をひろげて、「さつき内の者が、こんなに一ぱい持つてまゐりました。」

奥谷旅館(全体)
奥谷旅館

中はこんな感じ。旅館というより民宿に近い。
奥谷旅館(中)

廊下の一番奥、右側に太宰が泊まったという部屋がある。
奥谷旅館(廊下)

これがその部屋。他の部屋は棟方志功や高橋竹山の資料が展示されている。
太宰の間

とりあえず「本州の袋小路」でカッコつけてみた。
海に吠える

さて、「奥谷旅館」の写真で、手前にナゾの物体があるのに気づいただろうか。それがこのコンクリート動物。なぜこんなところにいるのかは分からないが、なんだか寂しげに見えた。
ゴリラ
ラッコ
ライオン
シロクマ
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三厩の義経寺の狛犬の話は、8月のエントリ(狛犬の始まりと旅の始まり:2013年8月5日)で書いたが、太宰が津軽の旅で蟹田の次に宿泊したのが三厩である。

太宰の『津軽』では三厩を「みまや」と読んでいるが、一般的には「みんまや」と表記する。ここは平泉で討たれたはずの源義経が、実は生き延びてここから北海道に渡ったという伝説がある。
厩石の由来

文治五年(1189)、兄頼朝の計らいで、衣川の高館で藤原泰衡に急襲された源義経は、館に火をかけ自刃した。これが歴史の通説であるが、義経は生きていた!

義経は生きていた!大事なことなので二回言いました。

この解説、以前に来た時にも見ていて、四畳半ぐらいの大きさだと思っていたが、改めて見るたら普通の大きさだった。内容にインパクトがあったので、記憶の中で巨大化したらしい。

つづけてこんなふうに書いてある。
藤原秀衡の遺書(危難が身に迫るようなことがあったら館に火をかけ、自陣を粧って遠くの蝦夷が島(北海道へ渡るべし)のとおり北を目指しこの地に辿り着いた。
近くに蝦夷が島を望むが、荒れ狂う津軽海峡が行く手を阻んで容易に渡ることが出来ない。そこで義経は海岸の奇岩上に座して、三日三晩日頃信仰する身代の観世音を安置し、波風を静め渡海できるように一心に祈願した。
ちょうど満願の暁に、白髪の翁が現れ、“三頭の龍馬を与える。これに乗って渡るがよい。”と云って消えた。翌朝巌上を降りると岩穴には三頭の竜馬が繋がれ、海上は、鏡のように静まっていて義経は無事に蝦夷が島に渡ることができた。
それから、この岩を厩石、この地を三馬屋(三厩村)と呼ぶようになりました。

その厩石はこれ。
非常に目立つ奇岩で何か伝説を作りたくなる気持ちは分かる。7月の終わりなのにあじさいが咲いているのが北国を象徴している。
厩石

厩石の前には「源義経渡道之地」と書かれた木と、義経・静御前の石碑が立っている。百歩譲って義経がここに来たとしても、静御前は来ていないと思うが・・・。
源義経渡道之地

先ほどの高札には出典が書かれていなかったが、この伝説については太宰も触れており、江戸時代後期の儒医橘南谿の『東遊記』(『東西遊記』:Wikipedia)にあるという。
『津軽』のこの下り、少々長くなるが面白いので引用する。
れいの「東遊記」で紹介せられてゐるのは、この寺である。
私たちは無言で石段を降りた。
「ほら、この石段のところどころに、くぼみがあるだらう? 弁慶の足あとだとか、義経の馬の足あとだとか、何だとかいふ話だ。」N君はさう言つて、力無く笑つた。私は信じたいと思つたが、駄目であつた。鳥居を出たところに岩がある。東遊記にまた曰く、
「波打際に大なる岩ありて馬屋のごとく、穴三つ並べり。是義経の馬を立給ひし所となり。是によりて此地を三馬屋と称するなりとぞ。」
私たちはその巨石の前を、ことさらに急いで通り過ぎた。故郷のこのやうな伝説は、奇妙に恥づかしいものである。
「これは、きつと、鎌倉時代によそから流れて来た不良青年の二人組が、何を隠さうそれがしは九郎判官、してまたこれなる髯男は武蔵坊弁慶、一夜の宿をたのむぞ、なんて言つて、田舎娘をたぶらかして歩いたのに違ひない。どうも、津軽には、義経の伝説が多すぎる。鎌倉時代だけぢやなく、江戸時代になつても、そんな義経と弁慶が、うろついてゐたのかも知れない。」
「しかし、弁慶の役は、つまらなかつたらうね。」N君は私よりも更に鬚が濃いので、或いは弁慶の役を押しつけられるのではなからうかといふ不安を感じたらしかつた。「七つ道具といふ重いものを背負つて歩かなくちやいけないのだから、やくかいだ。」
 話してゐるうちに、そんな二人の不良青年の放浪生活が、ひどく楽しかつたもののやうに空想せられ、うらやましくさへなつて来た。

太宰もN君も伝説をまるで信じていない。それどころか、不良青年の騙りを想像して面白がっている。

厩石の裏手に小山があり、義経寺(ぎけいじ)につづく石段がある。石段にくぼみは・・・忘れたけど普通あるだろう。そもそも石段だったかコンクリートだったかよく覚えていない。だからブログはすぐに書かなくてはいけない。
義経寺山門

上がったところに狛犬がいる。(狛犬の始まりと旅の始まり:2013年8月5日参照)
本堂はこんな感じ。
義経寺本堂

本堂の裏手には何やら神社のようなものが建っている。
本堂裏

周りにはお地蔵さんがたくさん。以前は本堂の周りではなく、上がって左手の何もない殺風景な広場みたいなところに並べてあって、賽の河原みたいな独特の雰囲気を醸していた。現在そこは芝生の綺麗な庭になっている。
地蔵

そして、三厩港。ここから義経は北海道に渡った!
三厩港
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10月も半ばになったというのに、まるで夏のような日が続いている。これなら8月の始めに行った津軽旅行の写真を出しても違和感はあるまい。というわけで、太宰ネタの続き。

太宰は自らの生い立ちをテーマにした小説をいくつも書いているが、その集大成は『津軽』である。この作品は昭和19年11月小山書店の「新風土記叢書」第七編として書かれた。新風土記叢書がいかなるものかについては、次のページが詳しい。
《「文学の旅」のための連続講座》太宰治の津軽:亀井秀雄の発言

『津軽』本文はこちらをどうぞ。
『津軽』:青空文庫

『津軽』本編で最初に紹介されるのは、蟹田である。5月中旬の17時30分、上野発の急行列車に乗った太宰は、翌日の朝の八時に青森に着く。「T君」に迎えに来てもらい、T君の家で休んだ後、バスに乗って一人で蟹田へ向かう。

太宰は蟹田の観瀾山で友人たちと花見をする。
観瀾山。私はれいのむらさきのジヤンパーを着て、緑色のゲートルをつけて出掛けたのであるが、そのやうなものものしい身支度をする必要は全然なかつた。その山は、蟹田の町はづれにあつて、高さが百メートルも無いほどの小山なのである。けれども、この山からの見はらしは、悪くなかつた。その日は、まぶしいくらゐの上天気で、風は少しも無く、青森湾の向うに夏泊岬が見え、また、平館海峡をへだてて下北半島が、すぐ真近かに見えた。東北の海と言へば、南方の人たちは或いは、どす暗く険悪で、怒濤逆巻く海を想像するかも知れないが、この蟹田あたりの海は、ひどく温和でさうして水の色も淡く、塩分も薄いやうに感ぜられ、磯の香さへほのかである。雪の溶け込んだ海である。ほとんどそれは湖水に似てゐる。

観瀾山公園の入り口。ここから「高さが百メートルも無いほどの小山」に登っていく。
観瀾山公園入口

観瀾山公園から見た蟹田の街。たしかに見晴らしがいい。天気がイマイチだったのが残念である。
蟹田の街

ここには昭和31年8月6日に建立された有名な碑がある。
観瀾山公園の石碑

「かれは/人を喜ばせるのが/何よりも/好きであった/正義と微笑より/佐藤春夫」
碑文

出典はこちら。
誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。
「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」(『正義と微笑』:青空文庫)

文章は井伏鱒二が選び、佐藤春夫が書いたものである。師匠(それも二人)に文学碑を書いてもらったのは太宰ぐらいなものだろう。それにしても、太宰文学碑の語句としてこれほどぴったりなものもないと思う。

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ちょっと、聞いてくださいよ。

オレ、ヤフオク出してるんですけど、出品料ってのがかかるんですよ。月10回の出品までは無料で、11回以降10.5円かかる。たかが10.5円だけど、これは落札されてもされなくってもかかるんで、なるべく払いたくない。

「出品無料キャンペーン」ってのがほぼ毎週あって、この日に出すと無料になるんだけど、それは月曜日・火曜日が多い。オレの場合、この日に手間のかかる新規出品をするのは難しいんで、新規は無料枠で出品して、落札されなかった売れ残りをキャンペーンの時に繰り返し再出品しています。

そんなわけで、実質一度も出品料を払ったことがないんだけど、無料出品10回までの枠はけっこうプレッシャーです。月・火のキャンペーンも、ちょうどいい時間に家にいなかったり、出品し忘れて火曜日の夜に頭を抱えることもあります。

もうひとつ、出品を無料にする方法があります。それが「出品マスター」です。三ヶ月間の落札金額に応じてブロンズ、シルバー、ゴールド、ダイヤモンドとランク分けされていて、ブロンズは30回、シルバーは50回、ゴールドは500回、ダイヤモンドは1000回まで、出品料が無料になります。

でも、出品マスターの敷居は高くって、一番下のブロンズランクでも、三ヶ月で10万円落札されないといけません。ちなみにシルバーは30万円、ゴールドは100万円、ダイヤは1000万円以上。

オレの主力商品は100円200円の文房具なので、ブロンズでも絶対ムリだと思っていました。ところが、今年の8月・9月で、秘蔵のカメラ用レンズを売りまくったら、10万円をオーバーして10月にブロンズランクになりました。

で、「やったー!今月は30品まで出品料無料だー。」とか思ってたんですよ。ええ、ちょっとした優越感というやつですか?出品無料以外にも特典はありますが、例によってYahoo!なんでロクなのがありません。

そしたら今日、ヤフオクのtopにこんなバナーが載ってるじゃないですか?ナニコレ?
0円宣言

ヤフオク0円宣言:ヤフオク
クリックすると、なんとこれから出品料が無料になるっていうじゃないですか。そういえば、今日は出品無料キャンペーンのはずなのに、アナウンスがないからおかしいと思ってたんですよ。

ためしに出品してみたらこの通り。本当に0円だ。
出品してみた


いや、これから出品マスターとか関係なく無料出品枠を気にしなくっていいってのは朗報ですよ。オレ自身「実質誰も払っていないんだから、出品料なんか廃止にしちゃえばいいのに。ケチくさいなぁ」と思ってましたよ。だから何の問題もない。何の問題もないんだけど・・・。

でもね、何でオレが出品マスターになったとたんにこうなるのか。せめて今月だけでも優越感を味合わせてくださいよ。

思えばオレの人生、こんなのばっかりでした・・・。ええ、何があったかは聞かないでください。
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最近、ゆるキャラブームで、大学でもマスコットキャラクターを作る学校が増えてきた。

こんなにいたのかっ!有名大学のゆるキャラたち:NAVERまとめ

國學院大學の「こくぴょん」はなぜかズルムケにしたくなるとか、佐賀大学の「カッチーくん」はどう見てもウナギにしかみえないとか、東京理科大学で「坊ちゃん」は安直すぎるだろうとか、いろいろ言いたいことがあるが、ついに専攻単位でキャラクターを作るところが出てきた。しかも中国文学専攻。これはいじらねば。

愛称募集:立命館大学中国文学専攻
このたび中国文学専攻サイトでは、中国古代の書『山海経(せんがいきょう)』に記載された「帝江」をモデルにイメージキャラクターを作りました。今後ホームページの画像などにたびたび登場させたいと思います。
そこで愛称を募集します!


よろしい、ならば、愛称を考えてさしあげましょう。

『山海経』といえば奇天烈なバケモノのオンパレードだが、「帝江」もそうとうなバケモノぶりだ。「帝江」のプロフィールとお姿はこちら。
帝江(ディージアーン):ファンタジィ事典

これをどうキャラクター化(ぬいぐるみになっている)したかは、上でリンクした愛称募集のページを見ていただきたい。なかなかどうして可愛らしくできている。UFOキャッチャーの景品にしたら人気が出そうだ。しかし、これ、どこかで見たことがある・・・。

しばらく考えて思い出した。かつて、Macのスクリーンセーバーとして人気があったAfter Darkのフライング・トースターに似ている。


となれば、愛称は「Flying○○」でどうだろうか。『山海経』には書いていないようだが、羽が4つもついていれば飛べるに決まっている。あとは○○の部分を考えればいい。

この「帝江」、目鼻がないのが特徴なのだが、『荘子』に出てくる、7つの穴を開けられて死んだ「渾沌」はこいつだと注に書いてあるそうだ。なるほど、穴とはいわないが、マジックで顔を書きたくなる姿をしている。「渾沌」は英語で「chaos」。愛称は「Flying Chaos(フライング・ケイオス、空飛ぶ混沌)」ってのはどうだろうか。

あ、応募資格は立命館大学の学生・院生限定だったか・・・。

【2013/11/2 追記】
愛称募集が終わったので、リンク切れになりました。
「帝江」のお姿を見たい方は立命館大学中国文学専攻 中国古典の世界をご覧ください。

【2013/11/8追記】
愛称は「てこちゃん」になった。
てこちゃんについて:立命館大学中国文学専攻
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