2013年11月

また風邪を引いてしまった。5月のヨーレンキンとは違い、熱はあまり出なかったが、咳が出てしょうがない。鼻詰まりもひどい。鼻が詰まると思考能力が低下する。文章を書くのも面倒くさいので、今月気になったニュースについて簡単に述べることに留める。

◆特定秘密保護法案
正直、自分の中で問題点を整理しきれていないのだが、ようは国家が指定した秘密を流出した場合処罰されるということである。処罰の対象は、それを扱う公務員だけではなく、一般人も含まれるそうだ。
今月バズった「禁無断転載(図書寮文庫所蔵資料画像にはがっかりした:2013年11月02日)」のこととか、個人情報保護法のその後のことなどを考えると、法律の運用が適正になされるかよりも、処罰を恐れて本来公開できるはずの情報まで出てこなくなる方が懸念される。

◆猪瀬知事の徳洲会からの借用書公開
真相はまだ分からないが、あの猪瀬都知事が借用書を掲げる場面は面白すぎた。もったいぶって出した証拠書類が、あんないい加減なものでは面白くならないはずがない。

こりゃ絶対いじられるぞと思ってたら案の定いじられまくってた。

ハッシュタグ #都知事借用書駄コラ祭:togetter
猪瀬都知事の「借用書」が早くもコラ素材としていじられまくりな件:NAVERまとめ

ジェネレーターもできてる。

たいぽ

僕も何か作ろうかと思ったけど、相手が上司なんで自粛しておきます。くわばらくわばら

◆七尾養護学校事件、都議らと都の敗訴確定
こちらも東京都関連のニュース。

都議らと都の敗訴確定=養護学校性教育訴訟—最高裁:ウォールストリートジャーナル
東京都立七生養護学校(現七生特別支援学校)に勤務していた教諭らが、性教育の授業を不当に批判されたなどとして、都議ら3人と都などに約3000万円の損害賠償を求めた訴訟で、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は28日付で、原告、被告双方の上告を退ける決定をした。都議ら3人と都に計210万円の支払いを命じた一、二審判決が確定した。

この事件については、以前このブログで僕の意見を書いたことがある。
七生養護学校の性教育:2009年03月15日

この事件は、当初「行き過ぎた性教育」の事例として話題にされた。「行き過ぎた性教育」は国会で山谷えり子氏によって取り上げられ、当時の小泉首相も同意する意見を述べた。この時、マスコミも肯定的に報道したので、なるほど今の性教育は行き過ぎているかもしれないと思った人も多いだろう。

しかし、実はこの「行き過ぎた性教育」は養護学校で知的障害者を対象にしたものだった。視察の方法も教育現場にドカドカと踏み込み、問答無用で教材を取り上げるという悪質なものである。

たまたまこの「視察」の話を人づてに聞くことがあって、都議(当時)たちの狂気を感じた。〈行き過ぎた〉性教育―いや、彼らの本当のターゲットは性教育そのものだろう―をやめさせるためには、手段を選ばないという狂気である。

僕は、この狂気には、何らかの〈観念〉が関わっていると考えている。
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「清水の舞台から…」 無茶な飛び降り、実は願掛け 江戸時代234人、生存率85%
「江戸時代、ここから234人が飛び降りました」。清水寺の学芸員、坂井輝久さんが淡々と話す内容に思わずハッとした。「清水寺成就院日記」という文献に詳しい。成就院は財務や対外交渉を担当した塔頭(たっちゅう)で、その業務日誌というべき史料だ。1990年代に同寺の蔵の床下から偶然発見された。
 江戸時代の1694年から1864年のうち、欠落部を除く148年分の記録が残る。成就院は境内の事故を町奉行に報告する義務も負い、飛び降りた人の年齢や性別、居住地、動機などを詳細に調査、記録した。
 それによると、全体での死亡者は34人で生存率は約85%。不謹慎だが、意外と亡くならないものだな、と思ってしまった。「当時は舞台の下に木々が多く茂り、地面も軟らかな土でした。今ならこうはいきませんよ」。坂井さんが見透かしたように言う。現在は舞台の下は硬そうな土。木々もまばらだ。

そんな記録もあるのかとびっくりしたが、85%の生存率というのもまた驚きである。しかし考えてみると、着地地点が斜面で、実際の高さが4階建てのビル程度なら案外そんなものなのかもしれない。

実は清水の舞台から飛び降りても観世音菩薩の力によって無事だったという説話は『今昔物語集』『古本説話集』『宇治拾遺物語』にすでに見られる。

一つは検非違使忠明が清水の舞台で、京童(不良みたいなもん)に襲われた時、蔀を脇に挟んで飛行機のようにふわりと飛んで逃げたという話である。(『今昔物語集』巻19-40・『古本説話集』49・『宇治拾遺物語』95)何も持たないで飛ぶよりはずっといいが、絶対に試したくはない。

この説話は、一見、観音信仰と関係ないようだが、当時は清水寺というだけで観音を想起したはずで、実際『今昔物語集』では忠明が「観音助け給え」と祈った後に飛んでいる。

もう一つは、子供を抱いた女が、過失で子供を清水寺本堂前の谷に落としてしまった時に、すぐさま仏の方を向いて「観音助け給え」と祈ったところ、奇跡的に木の葉の溜まった柔らかいところに落ちて無事だったという話である。(『今昔物語集』巻19-41・『古本説話集』49)

このように、清水の舞台から落ちても無事だったという話は、平安時代末期からあるのだが、そのさらに淵源をたどると、『法華経』観世音菩薩普門品第二十五にたどり着く。

『法華経』観世音菩薩普門品第二十五のに次のようにある。
或在須弥峰 為人所推堕 念彼観音力 如日虚空住
或被悪人逐 堕落金剛山 念彼観音力 不能損一毛
 
すなわち「あるいは、須弥山にいて、人に押し落とされそうになっても、観音力を念ずれば、太陽のように虚空に浮いて助かる。あるいは悪人に追われて、金剛山から落ちても、観音力を念ずれば、髪の毛一本も損することはできない」というのである。

『法華経』観世音菩薩普門品は観世音菩薩の現世利益的な側面が多く書かれており、『観音経』という独立した経典としてあつかわれ、観音信仰のベースになった。上記の2つの説話がこれに影響されて発生したものであることは間違いないだろう。

今、再び清水の舞台のことを考えると、本堂には須弥山を模した須弥壇に乗った観音像があり、その前に舞台、そして谷がある。これはまさに、普門品そのものの世界である。ここで昔の人々は、観音力によって落ちても怪我をしないというイメージを作ったのである。

しかし、普門品の観音にしても、平安末期の観音にしても、人に落とされそうになったとか、悪人に追われたとか、ミスで落としたとか、人のピンチを救ってくれる力である。積極的に飛び降りる江戸時代の願掛けとは全く違う。

この願掛け、観音様にしてみれば、助けなければご利益がないことになるし、助けた以上は願いを聞かなければならない。これではまるで脅迫である。江戸時代の人はたくましく、そして、図々しい。
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11月2日に書いたエントリ、「図書寮文庫所蔵資料画像にはがっかりした」は、僕の泡沫ブログにしては大いに反響を呼んだ。今日、件の画像を見たところ、進展があったようなので報告する。

上記の記事で、僕は次のように書いた。
本当はスクリーンショットを載せたいのだが、「禁無断転載」だそうなのでやめておく。上のリンク先を見るのが面倒な人のためにどうなっているか説明すると、影印の上に灰色のゴシック体で「禁無断転載 国文学研究資料館」という文字が斜めに入っているのである。それも一丁の墨付の部分だけで7つ。邪魔臭いことこの上ない。

ここで例示したのは次のページである。

とはすかたり

現在、同じページを見ると、「国文学研究資料館」の文字が消えている。字数が減ったのでかなり可読性が上がった。スクリーンショットを取らなかったので比較できないが、文字色そのものも薄くなっているように思える。

この更新に僕の記事が役に立ったのであれば、それは望外のことである。たとえそうでなくても、この素早い対応には素直に敬意を表したい。

しかし、これで満足することはできない。前のエントリの最後に書いたように、「禁無断転載」の文字は消えるべきだと考えているからである。

まず、法律的には、無断転載しても全く問題がない。理由は、以下の通りである。

1.画像のもとになったものは著作権の概念が発生する以前に書かれたものであること。(著作権がない)
2.平面のものを写した写真そのものには著作権が発生しない。(立体物と違い、創作性がなく、誰が撮っても同じだから)
3.著作権のないものの所有権は、現物にしか及ばないという判例が出ている。(顔真卿自書建中告身帖事件:Wikipedia

すなわち、所有者が国であろうと個人であろうと、一度公開した画像の転載を禁止することは、法律的には不可能なのである。

法律の件は別にしても、僕には無断転載を禁止する意味が理解できない。禁止というからには何かを守るための禁止のはずだが、はてブのコメントにもあるように、これは何から何を守るつもりなのだろうか。

例えば、前のエントリのコメント欄に「お隣の国があんなじゃなかったら、こんな事にはなってないんじゃないかと思います」というのがあった。現状で「お隣の国」がこれを無断転載するほど、これらの作品に知名度があるとは思えないのだが、仮にしたとして一体何の支障があるのだろう。

よもや「お隣の国」の写本として紹介することはあるまい。ならば、転載してくれたら、ただで日本の文化財を紹介してくれるのである。もともと無料で閲覧できるのだから、利益を損ねることはない。サーバーの負担が軽減されて支出は減る。いいことづくめではないか。

むしろ、転載されないほど知られていない方が問題である。

以前、東京国立博物館と上海博物館で行われた「書の至宝展(上海博物館では中日書法珍品展) 」という日中の国宝級の作品を集めた展覧会を、東京と上海の両方で見たがある。東博で行われたときは日本の書にも中国の書にも人が群がっていたが、上海博物館では日本の書、とりわけ仮名の書にはほとんど人がいなかった。自国の作品に人が多いのは当然だが、仮名の名品の知名度の低さに愕然とした。

モナリザを撮る人たちこの写真はルーブル美術館で、モナリザの写真を撮っている人たちである。

ルーブル美術館では、モナリザだろうがミロのビーナスだろうが、展示されているすべての作品を自由に撮影できる。それどころか、有名な作品の前で、イーゼルを立てて模写している人もいる。これは決してルーブル美術館だけではない。海外のほとんどの美術館がそうなっている。

モナリザの絵は、世界中の画集に転載され、模造品が作られて、世界中の人が知っている。それらは、いちいち許可など得ていないから、ルーブル美術館がモナリザから直接利益をあげることはお土産などを除いてほとんどない。

しかし、それらの「無断転載」された資料でモナリザを知って、現物を見るために世界中から人が集まる。これはルーブル美術館だけでなく、フランスという国自体にとっても莫大な利益をあげていることだろう。そして、ルーブル美術館を訪れ、写真を撮った人たちは、またそれを人に見せたりして広めてくれるのである。

文化というものは、このように公開して守られるべきものである。そして公開するならば、一切の制限は必要ない。公開しておいて、無粋な文字を入れるなど情けないにも程がある。これなら隠している方がまだましというものだ。

僕は宮内庁図書寮画像から、「禁無断転載」の文字が消えるのを希望する。
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広い意味でクリエイティブな仕事ールーティンワーク以外の仕事―を頼まれる時に、頼む人には、絵を描いてから頼む人と、そうでない人がいることに気づいた。ここでいう「絵を描く」とは、実際に紙に絵を描くことではなく、頭の中で具体的にイメージしているということである。

たとえば、上司があなたに忘年会の幹事を依頼したとしよう。その上司は「毎年同じような忘年会で飽きたな」と思っており、あなた「例年とは違う忘年会」を依頼してきたとする。

絵を描くタイプの上司は、「例年とは違う忘年会」を依頼をしている時点で、どんな場所で、どんな人が来て、どんな食事が出て、どんな進行で・・・ということを大雑把にイメージする。こういう人は依頼を具体的に例示してくるのですぐ分かる。「毎年居酒屋でやってるけど、たまにはイタリアンとかどうかな?」とか言われたら、それは絵を描いている人である。

絵を描かないタイプの上司は、「いつもよりも賑やかになるように」とか「誰でも気軽に参加できるように」などと、立派なスローガンだけをいう。仮に「会場はどこにしましょうか」などというと「それは君の仕事だから、君が考えてくれ」とかいう。

こういうふうに並べてみると、絵を描く依頼者の方が、具体的なイメージがあるぶん、そのイメージに沿ったものでなければならないので、面倒くさそうな気がする。ところが、僕の経験ではそうではない。

絵を描く人は、さまざまな理由からその絵どおりにならない場合でも、正当な理由であれば納得する。創意工夫して、その人の描いた絵と全く違うものになったとしても、それがその人の描いた絵よりも良ければ文句をいうことはない。

むしろ、絵を描かない人の方がはるかに厄介だ。

絵を描かない人は、スローガンだけあって、具体的なイメージがない。イメージがないから、どうやっても満足することはない。ゴールがないのである。

忘年会の例でいえば、こういう人はあなたの企画した忘年会がどんなに盛り上がっても「俺がイメージしたのとは違う」などという。「イメージ」というからには何かイメージがあるように聞こえるが、実はそんなものはない。ただ感覚的に違うだけだ。すべてが終わった後から文句を言うのもこの人たちの特徴である。

こういう人は嫌がらせで言っているのではない。スローガンさえ言えば、それに合ったものを担当者がやってくれると本気で思っているのである。しかし、そのスローガンどおりにやっても、解釈がちょっとでも違えば満足しない。

こういう依頼主(上司、客、親兄弟、etc・・・)にあたると災難だが、依頼を受ける時点で、依頼主にある程度絵を描かせることで回避することができる。とはいえ、そもそも彼らには絵を描くという発想がないのだから、いくら描かせようとしても「それは君が考えてくれ」になるので難しい。
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ヴァセリンの正式名称をご存知だろうか。これはラベルにちゃんと書いてある。

ヴァセリン表ラベル

この写真を見ると「Vaseline」という商品名に続いて「pure petroleum jelly」と書いてあるのが分かる。「 petroleum 」は「石油」という意味だから「純粋な石油ゼリー」というわけだ。

その名の通り、ヴァセリン(白色ワセリン)の原料は石油である。ヴァセリンは長い歴史を持ち、単独で保湿剤などとして使われる他、塗り薬や化粧品などのベースとしても使われ、安全性の高い物質として知られる。いわば「pure petroleum jelly」は安心の証というわけだ。

表のラベルはおそらく世界共通だが、日本で売られているヴァセリンの裏には日本語のラベルが貼ってある。
ヴァセリン裏面

こちらには「ペトロリウム」という言葉は一切見つからない。「ピュアスキンジェリー」なのか「スキンオイル」なのかはっきりしてほしいところだが、いずれにしても石油由来であることは一言も書かれていないのである。

僕の記憶では、ここにはかつて「ペトロリュームジェリー」と書いてあった。「ペトロリュームジェリー」で検索するとかなりの通販サイトがヒットするので、ヴァセリンが「ペトロリュームゼリー」でなくなったのは割と最近のことらしい。

察するにユニリーバ社(ヴァセリンの製造元)は、ヴァセリンが石油からできていることを日本人からは隠したいらしい。たぶん「ペトロリュームジェリー」では英語の知識がある人にはバレてしまうので、「ピュアスキンジェリー」などというワケのわからない名前に改名したのだろう。

日本では植物など自然由来のものが体に良い物で、石油からできたものは体に悪いという観念がある。それがこの改名に繋がっているようだ。が、しかし自然由来のものにも毒が含まれていることは珍しくない。自然由来だからといって安心だといえるのだろうか。

逆に、世界共通の表のラベルに、石油由来であることが堂々と書かれているのは面白い。ここにわざわざ「pure」などと書いているところを見ると、むしろ石油由来であることが信頼の証になっているように見える。

つまり、日本以外では石油由来のものが体に悪いという観念がないばかりか、下手をすると石油由来だからこそ安心という考え方もあるようだ。たしかに、これだけの歴史を持っていて広く使われているものに害があるなら、とっくに問題になっている筈だ。

ということで、ヴァセリンはまぎれもなく石油からできたものだが、特に問題もないようなので、安心して使ってくれ。

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一人暮らしをしたことのある人なら、一度はご飯にバターをまぶして醤油をかけて食べたことがあるだろう。ないなら、今すぐやってみてほしい。これはマジでうまい。Wikipediaにも「バターご飯」として立項されているが、僕はこれを「貧乏飯」と呼んでいた。

ある程度生活が豊かになってからは、こんな下賎な食い物のことは忘れていたのだが、たまたま魚沼産コシヒカリが某所から送られてきて、突然思い出した。今冷蔵庫にちょっといいバターが入っている。これで貧乏飯を作ったらどうだろうかと。

まず、魚沼産コシヒカリ。普通に食べてみたが、値段ほどの美味さを感じなかった。今は炊飯器の性能がよくなっているので、普段食べている米と比べてびっくりするほど美味くはならないのである。以前、お遍路をした時に、コッヘルで魚沼産コシヒカリを炊いたら、これは感動的にうまかった。こういう環境で炊くと違いが如実に出るものらしい。

バターはカルピスバターである。
カルピスバター

「カルピス」の名前が入っているが、カルピス味ではない。カルピスを製造する際に不要となる脂肪分で作られたバターで、カルピスの生産量以上のものはできないという貴重な一品である。かつては業務用しかなかったが、最近はスーパーで売られることもあり、これは近所のスーパーで買ってきたものだ。

これも、美味いと評判で一時は幻のバターとまで言われたのだが、トーストに付けてみたところイマイチその美味さが分からなかった。このバターは普通のバターと比べると、色も白っぽいしあっさりしている。そこが好きな人にはたまらないらしいが、バターの匂いが好きな僕には少々物足りなく感じるのである。

醤油はヤマサ醤油「鮮度の一滴」
鮮度の一滴

これはごく普通の醤油だが、パッケージが特殊で空気が入らないようになっている。だから黒く劣化しない。その上、醤油自体の表面張力を使って封をする仕組みなので、いちいち蓋をする必要もないというスグレものである。一度これを使うと、従来の醤油は使えなくなる。唯一の欠点は、題字が紫○氏によるものということぐらいだが、これは味には関係がないからどうでもいい。

ちなみにライバル、キッコーマンにも「しぼりたて生しょうゆ」という特殊ボトルを使っているものがあって、これも美味い。なお「生しょうゆ」は「きじょうゆ」ではなく「なましょうゆ」と読むらしい。「きじょうゆ」が普通の醤油を指すのに対し、「なましょうゆ」は加熱殺菌をしていないもの、すなわち「生ビール」と同じ意味だそうだ。

こちらの題字は我らが祥南先生(2013年10月の総括:2013年10月31日 コメント欄参照)の手になる行書フォント。もちろん、題字的にはこちらがオススメなのだが、中身が減ってくると、ボトルを押した時に「ピュゥ〜」という妙テケレンな音がでるという、なんとも微妙な欠点がある。

これらの材料を使って作ってみたのがこれ。作ったといってもご飯にバターと醤油をかけただけである。これをビビンして(かきまぜて)食べる。とうぜん、ビビンしながら味を調整する。
バター飯


で食べてみた。これがびっくりするほど美味い。

この貧乏飯、普通のバターで作ると少々胸焼けすることがあるのだが、カルピスバターの軽やかな香りと、鮮の一滴の新鮮な香りがマッチして、「貧乏飯」などというのが申し訳ないほど上品に仕上がった。カルピスバターは白っぽいし、醤油も新鮮な赤色なので、見た目も昔食べた黄色くどす黒い貧乏飯とは全く違う。

そして、バターと醤油の香りが、魚沼産コシヒカリの甘さを微妙に引き出している。コシヒカリもカルピスバターも単体ではそんなに美味く感じなかったのだが、この組み合わせであらためて美味さが分かった次第。

今回の材料はこちら。
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漫F画太郎(漫☆画太郎)の『罪と罰』1巻〜4巻(新潮社)を読んだ。

なにしろ漫☆画太郎なので、原作ドストエフスキーとか書いてあるが、間違ってもこれを読んでドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ気になってはいけない。それ以前に、漫☆画太郎の漫画は、シワシワのバ○アが××だったり、ブリブリブリだったり、ダンプに轢かれて××だったりするので、万人にはオススメしない。なお、これから少々ネタバレになることも書くが、ストーリー全部書いても問題無いぐらいアレなので、たぶん問題ない。最初から買うつもりの人は、ここでブラウザの戻るボタンを押してほしい。

さて、この物語の舞台はロシア王国。ロシアとはいっても、架空の国である。この国は、男尊女卑が制度化している国で、女性は売春婦か金貸し、女相撲取りぐらいにしかなれない。王国というからには王様がいるのだが、国民は誰も王様を見たことがないばかりか、王様がいることすら気づいていない。国民は誰も知らないが、この国の王位継承は、殺人によって行われる。

主役は二人の男女である。男はエビゾーで原作のラスコリーニコフにあたる。この男は質屋の女を殺害することにより、次代の王となろうとする。女は貧しいながら、大学に通うマヨ。こちらもラスコリーニコフの分身で、エビゾーと王位継承権・・・つまり質屋の女殺しを争う。

マヨには一つの目的があった。それは政治家になって、男尊女卑のロシア王国を変えることである。マヨは様々な経験の中、のんだくれの元官僚マルメラードフに会う。マルメラードフはマヨの大学のOBで、やはり男尊女卑の世の中を変えるために官僚になったが、上司の謀略によってクビにされてしまい、ついにはアル中になってしまった男だった。

「なぜおかみはそこまでして男尊女卑という制度を守ろうとするのか」と問うマヨに、マルメラードフは言う。
「あっしもその正体が知りたくて徹底的に内部資料漁ってみたんですが・・・しかしいくら調べてもこの制度からは出てこんのですわ。原発みたいな旨みやしがらみは・・・」
「内部資料調べてわかったんですけど、この男尊女卑制度っていつできたのか・・・誰が作ったのか・・・全く記録が残ってないんですよ」

マヨはこの制度の元凶が王様にあることに気づき、改めて王位継承に挑戦する。

一方、マルメラードフの娘、ポニョは家計を助けるため、売春婦になり売られていく。売られていった先で、なぜか気の触れた老人(クレイジジイ)に殺されそうになる。実はこの男こそロシア王国の王様だった。ポニョはクレイジジイを倒したかのように見えたが、クレイジジイは復活し大老害という怪獣になって暴れだす・・・。

ポニョの運命やいかに。そして、エビゾー、マヨいずれが王座に就くのか。まだ話は続き、とんでもない結末を迎えるのだが、このぐらいでやめておこう。さすがに最後まで書いたらネタバレにもほどがある。

僕達が日本の社会で生きていく上で、ロシア王国の男尊女卑制度みたいな、よく考えてみるとなぜ存在するのか分からないような制度、習慣はたくさんある。

先日書いた「禁無断転載」(図書寮文庫所蔵資料画像にはがっかりした:2013年11月02日)もその一つだ。なぜ無断転載が禁止なのか、いくら考えても全く分からない。

保守政治家のいう「伝統的な○○」もそうだ。彼らは「伝統的な家族制度」とか「伝統的な食文化」とか安直にいうが、少なくとも僕が古典を通して学んできたものに、彼らの言う「伝統的なもの」が出てきたことは滅多にない。

そういう制度が「いつできたのか誰が作ったか」すら分からない、いや考えないまま、意味のない制度が無批判に墨守されてゆくのは恐ろしいことだと思う。大老害はすぐ近くに潜んでいるのである。


※表紙の画風が違うが、漫画F太郎が描いたのは4巻だけ。
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言うまでもなく、掛け算は前後を逆にしても(2✕3でも3✕2でも)答えは同じである。ところが小学校では「りんご3個入りの袋を2袋買ったら、りんごは全部で何個になるか」というような問題で、3✕2=6個なら○で、2✕3=6個だと×というような教え方をしている場合があるという。

「学習指導要領に書いてある」の回答:石田のヲモツタコト

上の記事の場合、担当教師の「学習指導要領に書いてある」というのは、いかにもまずい言い訳である。学習指導要領にはそんな具体的なことは書いていないし、そもそも、書いてあろうがなかろうが、なぜそうなるのか説明できなければならない。

それではなぜそうなるのか。ここからは僕の推測である。

学校で授業をやっていると、どうしてもある部分を省略したり、ときにはあえて間違っていることを教えなければならないことがある。

僕の担当教科(書道・国語)の筆順を例に取る。筆順については前にも書いたが(筆順の話:2013年07月11日)、実は習慣的なもので、これだけが正しいというものはない。だが、それを説明して理解できる生徒は高校生にすら多くはない。下手をすると、じゃあどんな筆順でもいいんだということになる。

まして相手が小学生なら、これはこういう筆順で書きなさいと教えるしかない。漢字の筆順や字形から、文法、漢文の訓読、文学史、語彙の解釈にいたるまで、そういうものはいくらでもある。言葉は悪いが、僕はこれを〈子供だまし〉と呼んでいる。

もちろん正確に教えたいのはやまやまだが、正確に言ってしまうと大事なところがボケる。重要なこととそうでないことをちゃんと切り分けられる生徒なら問題ないが、生徒というものはかなり優秀でも、余計なことは覚えていて重要なことは忘れるという特質があるものだ。小学校低学年ならなおさらそうだろう。

問題になっている、掛け算の順番の場合はどうだろうか。

掛け算の基本である九九を覚えるのは小2である。最近では、幼稚園から覚えさせるところもあるようだし、親が夏休みあたりに覚えさせることもあるだろうから、仮に、授業で九九を教えていなかったとしても、生徒の半数ぐらいが覚えている可能性もある。

となると、教師として一番恐れるのが、何も考えずに九九を使われることである。「りんご3個入りの袋を2袋買ったら、りんごは全部で何個になるか」という問題を読んで、出てくる「3」と「2」という数字だけを拾って「今、授業で掛け算をやっているのだから、これは掛け算だ。3と2という数字がある。三二が六だから正解は六個だ」となるのは問題の解答としては正しいが、教育的にはよろしくない。

特に最近では考えさせる教育がトレンドになっている。何も考えずに、文章(上のエントリの場合は絵だが)に現れた数字だけを拾って計算するのでは、考えていることにならないのである。ちゃんと考えているか、理解しているか分かる方法はないか。

おそらく、ここで〈子供だまし〉を使っているのだろう。数式的には存在しない、掛ける順番のルールを最初に設定することにより、生徒になぜそういう式になるのか考えさせるのである。これが本当に効果があるのかどうか、小学校の先生でも数学の先生でもない僕には分からない。

個人的には〈子供だまし〉は教育には必要だが、最小限に留めるべきだと思っている。少なくともそれが本当に効果があるのか、十分に検討した上で使わなければならない。また、先生の中でも、子供だましを多用する先生と、そうでない先生がいるように思う。
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7月に行った入谷の朝顔市(入谷朝顔市に行ってきた:2013年07月06日)で買った朝顔が、今頃咲いた。7月に植えてから蔓ばかり伸びて、今まで一つも花をつけなかったのに。

宿根朝顔(昼)


肌寒くなってきた今ごろになって花を付けているのも掟破りだが、なんと朝顔という名前のくせに夜(撮影時刻は午前2時)になってもまだ咲いている。
宿根朝顔(夜)


実は今日もまだ咲き続けている。

もちろん、普通の朝顔ではない。「宿根朝顔」と言われる品種で、このあと蔓が枯れても根は生きていて、来年の夏になったらまた伸びてくるそうだ。こんなに寒くなってから咲くのに南方の品種で、沖縄では朝顔というとこれを指すらしい。

朝顔というのは夏の朝だけ咲いて、秋が来れば枯れるものだと思っていたが、こんなことごとく常識に反する奴もいるとは知らなかった。まさに朝顔界の反逆児である。

ノアサガオ(宿根アサガオ)の育て方:e-グリーンコミュニケーション
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11月1日から、宮内庁が所蔵する資料をネットで公開した。

「五箇条御誓文」などネット公開へ…宮内庁:YOMIURI ONLINE
皇室などに代々伝わる古典籍39万点を所蔵する宮内庁図書寮文庫は、デジタル化した古文書や写真など約1万点の画像を11月1日からインターネットで公開する。(中略)公開されるのは、蔵書のうち、国文学研究資料館(東京都立川市)の協力でデジタル画像化した資料。鎌倉期の天皇直筆の歌集「伏見天皇御集」や「新古今和歌集」(写本)なども含まれる。

検索画面はこちら。
図書寮文庫所蔵資料目録・画像公開システム

さて、早速検索してみた。宮内庁書陵部本の善本で思い出すのは『とはずがたり』である。なにしろ、この世にたった一つしかない天下の孤本である。昭和47年に笠間書院によって影印本が刊行されたため、簡単に見ることができるが、いかんせんあまり印刷が良くない。

デジタル画像なら、高精細の美しい画像が見られるだろうと、いい時代になったなぁと期待して見たのだが・・・ナニコレ?バカにしてんの?

とはすかたり

本当はスクリーンショットを載せたいのだが、「禁無断転載」だそうなのでやめておく。上のリンク先を見るのが面倒な人のためにどうなっているか説明すると、影印の上に灰色のゴシック体で「禁無断転載 国文学研究資料館」という文字が斜めに入っているのである。それも一丁の墨付の部分だけで7つ。邪魔臭いことこの上ない。

他も見てみたが、国文学研究資料館のサーバーに接続されるものはすべてこうなっているようだ。これでは読むのに支障をきたす部分もあるだろう。国文学研究資料館とは研究を邪魔する資料館なのか。

ついでに無断転載を禁じる意味についても考えて欲しい。これらの資料は僕達の収めた税金で管理運営されている。いわば公共の遺産なのである。無断転載に何の問題があるのだろうか。

【2013/11/23 追記】
画像に書かれていた文字が変わった。「国文学研究資料館」が削除され、色が薄くなったようだ。
「図書寮文庫所蔵資料画像にはがっかりした」の続報:2013年11月22日参照
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