2014年02月

水月ホテル鴎外荘に行く前に、東京都美術館で日本画の展覧会を見た。館内で休憩していたらベンチの近くにこんな貼り紙があった。
マッサージ師注意

※マッサージをすると声をかけ金銭を求める等の行為を見かけましたら、お近くの警備員までご連絡ください。

ここに流しのマッサージ師が現れるということだろうか。場所が場所だから、よもやマッサージに名を借りたエッチなサービスではなく、本当のマッサージなのだろう。たしかに、美術館に行くと異様に疲れるから、足つぼマッサージでもしてもらったら気持ちがいいだろう。なかなかいいところに目を付けたものだ。

ここで僕は上海美術館に5時間並んだ時のこと(清明上河図の思い出:2005年08月03日)を思い出した。

博物館の前で暇をもてあます僕達(四人で行った)の前に、まず現れたのは新聞屋だ。新聞をたくさん紙袋に入れて、大きな声で値段をいいながら歩いている。待ち時間を潰すために読む新聞だろうか。いくらだったか失念したが、一元以下だったのは間違いない。新聞としてはやけに安い。

しばらく見ていると、この新聞屋から新聞を買う人がいた。その人は新聞を開きもせず、おもむろに地べたに敷いてそこに座った。

この新聞屋は読むための新聞を売っているのではなく、尻に敷くための新聞紙を売っているのである。新聞屋というより新聞紙屋といったほうが妥当だろう。長時間行列並んで疲れた人は、座りたくなる。だが、地面に腰をおろすのは抵抗がある。椅子もなければ敷物もない、さあどうしよう、そういう需要を狙って現れたのだ。

僕も買ってみた。日付をみると案の定何ヶ月も前のものだ。どうせどこかで拾ってきたのだろう。さっそく尻に敷いて座ってみた。うん、まぎれもなくただの新聞紙だ。それ以上でも以下でもない。

次に現れたのは、もう何がなんだかわからない。派手なライムグリーンのジャージを着て、紙袋を持った男が一人。この謎の男は、行列のいろんな人に声をかけているようだが、だれも相手にしない。

僕達から20メートルほど離れたところで、商談が成立したらしい。客は20代ぐらいの女性、二人連れ。ライムグリーン君、紙袋からバドミントンのラケットを客に渡している。バドミントン用具レンタル業らしい。

この日は冬で寒かったから、バドミントンで温まろう!という趣向だろうか。しかし、どうやらもう一人は渋っているようだ。そりゃ衆人環視の中バドミントンなんかやりたくない気持ちも分かる。

「ほらー、ラケット借りたよ。バドミントンやろうよ〜」
「いやよ。なんでこんなこところでやんなきゃいけないのよ!」

もちろん、声が聞こえる距離ではないし、そもそも日本語ではないのだが、こんな声が聞こえてくるようだ。しかし、一人でバドミントンはできない。ライムグリーン君、諦めたのか、ラケットを返してもらっている・・・ように見えたが違った。

なんとライムグリーン君はレンタル屋から相手屋に早変わりしたのである。なぜか両手にラケットを持って、女の子とバドミントンを始めた。断った女の子は遠巻きに見ている。視線にこの二人と仲間とは思われたくないという感じが出ている。

が、しばらくラリーを続けていたら、制服を着た博物館の係員がライムグリーン君に駆け寄ってきた。ライムグリーン君、あっけなく営業中止。はたして、売上はあったのだろうか。

こういう、いい塩梅に登場する便利な商売は、中国ではいろんな所で見かけるが、ついに東京でも現れたらしい。商売の基本は困っている人を助けることにある。結構なことじゃないか。都美館もけち臭いこと言うなよ。
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上野公園の裏手にある、水月ホテル鴎外荘に行ってきた。行ってきたと言っても、宿泊したわけでも宴会があったわけでも、ましてやお見合いでもなく、森鴎外の旧居を見に行くついでに、鴎外温泉なる温泉に入ってきた。

水月ホテル鴎外荘の外見。見たところただのビルにしか見えないが、玄関をくぐった先に鴎外の旧居がある。
水月ホテル鴎外荘

こちらが鴎外の旧居。鴎外の旧居といえば、観潮楼が有名だが、ここに住んでいたのは、最初の妻、登志子と結婚していた、明治22年の夏から明治23年10月の約一年だけである。水月ホテル鴎外荘のWebsiteによると、この家はもともと登志子の実家、赤松家の所有だったそうだ。そりゃ、別れたら引っ越さなきゃならないのは当然。
鴎外旧居

現在宴会場になっている「舞姫の間」。35畳の大広間で、その名の通り『舞姫』を執筆した場所だという。5時から宴会があるため仔細には見られなかったが、早めに行けば中を見せてくれるそうだ。
宴会場

土蔵。こちらも改装して6席あり、会食などで使えるようにしてある。他にももう一室会食のための部屋があるという。
蔵

廊下から見た庭。古いガラスなので歪んでいる。「あとは若いものにまかせて」みたいなお見合いシーンが目に浮かぶが、そういう用途は非常に多いそうだ。由来からすると縁起悪い気もしなくはないが・・・。
廊下

ガラス戸の鍵。この鍵が当時のものかどうかは分からないけど、懐かしかったのでつい写真を撮ってしまった。僕の実家もアルミサッシになる前は、これをぐるぐる回して鍵をかけてた。
ガラス戸の鍵

玄関
玄関

庭の梅。
梅の花


鴎外は、この家に一年住み結婚生活が破綻したあと、千駄木57番地(現在の文京区向丘2-20-7)に明治23年10月まで住み、さらに千駄木21番地(現在の文京区千駄木1-23-4)の有名な「観潮楼」に引っ越し、これが終の棲家となる。

面白いことに千駄木57番地の家は、鴎外が去った約10年後の明治36年3月、夏目漱石が入居する。漱石のデビュー作『吾輩は猫である』はここで書かれ、苦沙弥先生の家はここがモデルになっている。しかし、その漱石もこの家を3年で引き払っている。どちらも短期間とはいえ、日本を代表する文豪が同じ家に住んでいたというのは、すごい話だ。

「鴎外の湯」は、東京では定番の黒湯である。浴槽はちょっと狭かったが、入った時間(午後5時半ごろ)のためかそれほど客もいなかった。ただし、所詮はホテルの風呂なので、入浴だけの客が使える休憩所などの設備は少ない。

風呂だけの入浴料(タオル・バスタオル付)は1500円だが、あらかじめインターネットで申し込んでおくと1000円になる。もちろん、宴会の時間帯でなければ、風呂に入らずとも鴎外旧居の見学は可能である。
水月ホテル鴎外荘
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『無人島に生きる十六人』は、作者の須川邦彦が龍睡丸船長の中川倉吉から聞いた話をまとめたものである。聞いた話といっても執筆から46年前の話である。昭和16年から17年にかけて、少年雑誌「少年倶楽部」(講談社)に連載された作品で、子供向きに書かれているらしく大変読みやすい。

明治32年、北西ハワイ諸島のパールアンドハーミーズ環礁で日本の帆船龍睡丸が座礁した。乗組員16名は、命からがら無人島に上陸し、ウミガメや鳥の卵などを食べて三ヶ月間を生き延び、全員無事帰還した。

大概の人は、船に長期間乗った経験も無人島に漂着した経験もない。だから、よほどうまく描写しないと、何かこの世のものでないようなファンタジーのような文章になるか、さっぱり情景がわかない文章になってしまう。ところが、この作品は船の状態、船員の様子、美しい海と無人島の情景が、まるで映画を見るように描写されている。

作者の須川邦彦は船長の経験があり、商船学校教授でもあったという(須川邦彦:新潮社)。その経験がこれだけ分かりやすい文章につながっているのだろう。しかしこの作品のすごいのは、それだけではなく、人物描写、とりわけ中川船長の人柄がよく書けていていることだ。「少年倶楽部」編集者の力もあるだろうが、もともと文章のうまい人だったのだろう。

この作品は、青空文庫に入っているので、下記のリンクから読める。

須川邦彦『無人島に生きる十六人』:青空文庫

紙の本で読みたい方は新潮文庫のこちらをどうぞ。kindleでは青空文庫版(無料)が読める。


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つい最近、日展での不正が明るみになったばかりだが、また書道の公募展絡みの問題が報道された。

全日展、架空人物に知事賞 主催者が偽名で書道出展:Yahoo!ニュース・朝日新聞デジタル
文化庁が後援する書道中心の公募美術展「全日展」で、23の県知事賞受賞者が架空の人物だったことが朝日新聞の調べで分かった。主催者が作品を偽名で出展していたことに県は気づかなかった。知事賞の権威失墜は必至で、文化行政のあり方が問われそうだ。

この「全日展」、上の朝日新聞の記事には次のように解説されている。もちろん日展とは無関係である。
〈全日展〉 任意団体「全日展書法会」(東京)が主催し、文化庁や外務省などが後援。書道を中心に水墨画や篆刻(てんこく)などを募集する。1973年から年1回開催し、内閣総理大臣賞や文部科学大臣賞、外務大臣賞に加え、各都道府県が知事賞を出してきた。昨年は11月26日〜12月3日に東京・上野の都美術館で第41回公募展を開催。主催者は2034点の応募があったとしていた。

「文化庁や外務省などが後援」だの「東京・上野の都美術館で第41回公募展を開催」だのを見ると、立派な展覧会のように見えるが、僕は聞いたことがない。調べてみると、龍源齋大峰氏というなにやら武道家みたようなすごい名前の人がトップらしいが、これまた聞いたことがない。

Websiteも実に簡潔。というか、簡潔すぎて審査員が誰なのかすら分からない。今回の報道に関するコメントも見られない(2/19現在)。

全日展

出品規約を見ると、驚くほど沢山の賞があることがわかる。問題になった都道府県知事賞は申請中を除いて44個もある。この賞は各都道府県から出品した人に贈られる賞だというので、その県で一点しかなければ自動的にその県の県知事賞がもらえることになる。ところが出品者がいない県があり、そのままでは該当者なしになるということになりみっともないので、架空の人物に受賞させたということだろう。

書道の世界は、教室と公募展でビジネスが成り立っている。日展・毎日展・読売展を頂点に、小学生からプロの書道家にいたるまで、さまざまな公募展が行われており、出品料や指導する先生への謝礼、貸し額代、表具代などでお金が回るしくみになっている。

本来、展覧会というものは作品を人に見せるものだが、公募展は出品者にハクを付けるためのものになっている。やたらと賞があるのも、会場が大都市になるのもそのためだ。

そこでステータスのない泡沫公募展は賞のインフレを起こすのである。しかし、出品できるだけでステータスになる日展・毎日展・読売展でさえ、所狭しと作品が飾られている。そこに作品を見せようという意図は感じられない。やっていることは泡沫公募展と何ら変わりがないのである。

書道教室でも開こうという人なら別だが、一般の人からすれば、地元から遠く離れた美術館で行われる公募展で、有象無象の作品と所狭しと飾られて、有名無実の賞をもらったところで、金のかかる自己満足にしかならない。作品の展示なんて所詮自己満足だが、同じ自己満足なら地元の公民館にでもゆったりと飾って、友達にでも見て褒めてもらったほうがよほどいい。

これを出品者が減少した泡沫公募展の出来事と笑ってはいけない。これは、公募展ビジネスの終わりの始まりである。もともと下部組織から上納金を吸い上げる形の商売なのだから、下部組織がダメになったら上部組織も枯れるよりほかない。

別の見方をすれば、書道という芸術が本来の姿に戻るということだろう。本来、芸術に賞なんか無用なのである。
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「先生、できましたー!」

生徒が作品を持ってくる。まだ書き始めて10分ほどしか経っていない。どうせ一・二枚しか書いていないに決まっている。

「できましたー」という以上、こいつは教えを乞おうなんて考えていない。本気でできたと思っているのだ。こういう奴は毎年一クラスにつき一人か二人はかならずいるので、もうお約束すぎて腹も立たない。

どういうわけだか、こういうのは必ず女子である。一・二枚書いたらそれでいいと思っている奴は男子にもいるが、そういう奴はわざわざ見せに来ない。来たら難癖付けられるに決まっているからである。

「できましたじゃねぇよ。まだ書き始めてから10分しか経ってねぇだろ」
「だってできたんだもん」
「ホー、大した自信だな。どれどれ、とりあえず見せてみろ」

今日の手本は虞世南の『孔子廟堂碑』である。ごく普通、ばりばりの楷書だ。ところが、持ってきたのは手本に似ていないというレベルじゃない。そもそも似させようという意識が全く感じられない。こいつ絶対に手本を見ていない。

陳曼生「んー、なんじゃこりゃ。誰が陳曼生(ちんまんせい)なんか書けって言った。」
「チンマン・・・・・・セクハラだーーーーーーーー!」
「い、いや、ち、違う。陳鴻寿(ちんこうじゅ)っていう清朝の・・・」
「チンコ・・・・・・セクハラーーーーーーーー!」
「そこで切るな!陳鴻寿は中国の文人で・・・曼生壺(まんせいこ)っていう急須でも有名な・・・」
「マンセイコ・・・・・・セクハラーーーーーーーー!」
「マンセイコってセクハラか?」
「セクハラ・・・じゃないね・・・」
「はい、やり直し」
陳鴻寿:Wikipedia
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僕は音楽、中でもクラシック音楽には全く疎く、実はゴーストライターだったとか、実は耳が聞こえたとかいうニュースを聞くまでは、佐村河内守氏の名前すら知らなかった。

そんなわけだから、音楽的に書けることは何もないのだが、この話を聞いた時に詐欺師にまつわる『宇治拾遺物語』の2つの説話(第5話・6話)を思い出した。

第5話「随求陀羅尼額に籠むる法師の事」は、額を割って「随求陀羅尼」を入れたという傷跡を持つ法師が、実は鋳物師の妻に間男しているのがバレて、鋳物師に額を打ち割られただけだったという話である。これは、真相を知っている小侍の告発によってバレる。

第6話「中納言師時、法師の玉茎検知の事」は、煩悩を断つためにイチモツを切ったという法師が喜捨を求めて師時のもとに来るが、玉袋が以上に大きいことから、イチモツをそこに隠しているのが師時にバレてしまうという話。股間を若い侍にさすらせ、にょっぽりとイチモツが出てきてしまうシーンが印象的だ。

これらの説話に登場する詐欺法師を「誑惑(きょうわく・おうわく、狂惑とも枉惑とも書く)の法師」という。

古来、障害や身体の欠損を持つ人は、普通の人とは違う力を持っていると畏れられた。彼らは人間の姿をしていても、人間ではないと考えられたのである。

「人間でない」というと、現代人はつい動物を想起するが、動物はあくまで動く〈物〉であって、人間とは関係がない。人間でないというのは、神と人間の中間にあるものとして畏怖の対象なのである。これは障害が先天的か後天的かはあまり関係がない。恐山のイタコが盲人であることも、ヤクザが刺青をいれたり指を詰めたりするのも、そういう障害や欠損による畏怖に依っているのである。

佐村河内氏は聾者を装った(正確なところはまだ分からないが)のは、そのような障害による畏怖を利用したのである。クラシック音楽に関心のない人たちまでが彼のCDを買ったのは「耳が聞こえないのにすごい」からではなく、「耳が聞こえないからすごい」からである。彼は「誑惑の法師」だったのだ。

佐村河内氏は芸能人を志望していたらしい。芸能と詐欺は表裏一体である。芸能人は嘘を「これはフィクションだよ」と公言して騙すのに対し、詐欺師はフィクションを隠して騙す。騙される側が積極的に騙されるかどうかという違いだけで、騙して金を取るという点では全く同じなのである。

実力のあるゴーストライターが作曲した佐村河内氏作曲名義、正真正銘一流の演奏家が演奏したCDを一枚買うのと、握手券欲しさでアイドルグループの全く同じCDを何十枚も買うのを比べれてみればいい。どちらが詐欺かといえば間違いなく前者だが、騙され具合は間違いなく後者の方がはるかに大きい。

さて、このあと我々と佐村河内氏はどうすべきだろうか。答えは先ほどの『宇治拾遺物語』に書いてある。誑惑の法師はみんなに袋叩きにされたのだろうか。いや、そうではない。

【第5話】
あきれたことだと人々が聞いて、山伏の顔を見ると、それほど、問題とも思っている様子もなく、少々、真面目くさった顔をして、「その(額を鋳物師に割られた)ついでに籠めたのだ」と平然と言ったときに、集った人々が一度に「ははは」と笑うのに紛れて、逃げていった。

【第6話】
(股間の)毛の中から、松茸の大きな物が、ふらふらと出てきて、腹にぴたぴたとぶつかった。中納言をはじめ、そこに集まった人々、声をそろえて笑った。聖も手を叩いて、ころげまわって笑った。

まるでドリフのコントのように、騙す側、騙される側入り乱れて大爆笑で終わるのである。笑いによって、詐欺が芸能へ変わるということだろう。

せっかく、ここまでおもしろいシナリオを演じたのだから、佐村河内氏には是非常人には考えられない、とびきり笑えるオチを期待したい。

そして僕らは笑えばいいと思うよ。
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今時、日常生活で左利きを右利きに矯正すべきだという人はほとんどいないだろうが、書道となると話は違うようだ。普段は左利きでもいいから、書道のときだけは右で書けと指導する先生が結構いるらしい。

漢字や仮名が右利き用にできているというのはたぶん本当だろう。実際に書いてみると、右手で書いた場合、書いた直後の線を見ることができるが、左で書くと自分の手で隠れてしまう。試しに左手で鏡文字を書いてみると、右で書いた時と同じように書いた線を見ることができる。ただしこれは横画と右払いに限られ、縦画や左払いは感覚が違うだけで関係ない。

しかし、見えなければ書けないというものでもあるまい。目隠ししている訳ではないから、多少手で隠れても全く見えないものでもないし、そもそも見えないのは右へ書いていく画だけである。

右利きなら自動的に右上がりになるかというとそうではない。特に最近は横書きの影響が強いためか、右利きでも右下がりの字を書く人がいる。楷書独特の右払いなんかはいくら教えてもできない人も多い。結局右利きの人にだって書き方を矯正しているのである。

こうなってくると、利き手を矯正する意味が怪しくなってくる。

そこで、試みに右手と左手、両方で書いてみた。僕は右利きである。なお、公平を期すためどちらも一枚ずつしか書いていない。また、僕が得意な字を書いていると思われるのは心外なので、今をときめくあのお方の名前にした。

まず右手で書いたものをご覧いただこう。書道の先生としてはあまり上手くないのは認めるが、一発勝負なのでそのへんはご容赦願う。
佐村河内(右)


そして左手で書いたのがこれ。自分でいうのもナンだが、字形はそれほど悪くないと思う。書く時間は倍以上かかる。線が濁っているところがあるし、起筆(画の書き出し)の入り方がおかしいところがいくつかあるので、見る人が見ればおかしいのはわかると思う。
佐村河内(左)


毛筆で字を書く場合、基本的に筆は垂直に立てて使う。垂直だから右手だろうと左手だろうと条件は同じなのである。だから、ゆっくり考えて書けば、左利きでなくても書くことができる。逆に鉛筆のような傾けて書く筆記用具では上手く書くことができない。

ただし、起筆、収筆、ハネなどの複雑な筆使いは利き手でないので難しい。しかし、これは利き手でないからであって左で書いているためではない。左利きの人は、僕よりも左手のコントロールは上手いはずなので、利き手を変えさせる必要はないと言えるだろう。そもそも、左利きの書が右利きと違っても、それはそれでいいじゃないか。

利き手が違う人には指導が難しいのは事実である。腕の動かし方が違うため、ここはこう動かすと説明できなくなる。しかし、結局のところ筆の動かし方は自分で感得するしかないし、指導する側の都合で利き手を変えさせるというのは本末転倒である。
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いよいよ今年の4月9日でMicrosoftによるWindowsXPのサポートが終了する。

新しいPCを買うのは仕方がないにしても、ハードウェア的にはまだ使えるXP機を捨てるのはもったいないという人は多いと思う。とはいえ、8.1や7を動かすには力不足だし、今どきXPをスタンドアロン(ネットに繋がないこと)で使うのも用途がかなり限られてしまう。

そこで候補となるのが無料でインストールできるPCLinuxだが、Linuxを使ったことがない人でも一番インストールしやすいのはubuntuだろう。

ubuntu Japanese Team

僕は9月にPCを大改造した後、Ubuntuをインストールして使っている。また2008年に買ったEeePC901にも入れて使っている。そこで、4ヶ月使ってみた結果、ubuntuがWindowsXPの代替としてどこまで使えるかを書いてみたい。

1・ブラウザ
一番気になるのがブラウザだが、これは何も問題ない。インストール直後の状態でFireFoxが入っているが、GoogleChromeもオープンソース版のChromiumが簡単にインストールできる。本家のChromeもGoogleからダウンロードしてくればインストールできるが、アイコンが寒々しい以外たいした違いがないのでChromiumで問題ないだろう。

唯一問題があるとすれば、IEでしか閲覧できないサイトではどうにもならないということだが、今どきそんなサイトはほとんどない。

2・アプリケーション
サブマシンとして使うのなら、OSをインストールした状態で必要なソフトはたいがい揃っている。とはいえ、人によってやりたいことはまちまちだから、新たなソフトウェアをインストールする必要がでてくるだろう。
ubuntuではubuntuソフトウェアセンターというアプリからソフトウェアをインストールするのが手軽だ。
ubuntuソフトウェアセンター

これは、androidのGooglePlayやiPhoneのAppStoreのようなものである。必要なアプリを検索して、インストールボタンを押すと簡単にインストールできる。

3.UI(ユーザーインターフェース)
UIとは簡単に言えば使い勝手のことだが、デフォルトの状態でWindows8よりははるかに使いやすいと思う。
Windowsと違い、LinuxはUI(デスクトップ環境という)を簡単に変えることができる。インストール直後のUnityというデスクトップ環境が気に入らなければ、別のものに変えればいい。

下の写真がそのunityである。左にあるのがランチャーで、ここからアプリを起動する。WindowsXPでいうスタートメニューとタスクバーに当たる。
unity

ランチャーにないものは、一番上のボタン(かWindowsキー)を押して検索する。ここではアプリだけではなく保存したファイルなども検索できる。
unity2

こちらはLXDEというデスクトップ環境。使い勝手はWindowsXPに近く、Unityほど多機能ではないが軽い。左下のヘンなマークがWindowsでいうスタートボタンだ。ちょっと古くて非力なパソコンにはこれを使うとよい。僕もeeePC901ではこちらを使っている。これもubuntuソフトウェアセンターからインストールできる。
LXDE


4.安定性
サーバーやスパコンで使われているためLinuxは安定しているというイメージが強いが、デスクトップとなると話は別である。安定性ではWindowsにはかなわない。とはいえ、頻繁にフリーズしてストレスが溜まるというほど不安定なわけでもない。
フリーズしたときのために、次の操作をどこかに書いておくといいだろう。Windowsで言うCtrl+Alt+Deleteである。

Alt+PrtScr(SysRq)+R+S+E+I+U+B

やり方はAltキーとPrintscreen(Sysrq)を同時に押してRSEIUBと順番に押していく。それぞれに意味があるが、最後のBで再起動すればOK。Windowsのctrl+Alt+Delと比べると指が釣りそうになるが、この方法なら安全に終了できる。ただし、これでも動かない場合(カーネルパニックという)があるので、そのときはリセットボタンを押すしかない。

5.起動時間
むちゃくちゃ早いのでびっくりする。
9月に改造した僕のPCでは、OS選択画面からログイン画面まで、WindowsXPが18秒、ubuntuが8秒だった。
もちろん、起動時間はPCの性能に比例するが、WindowsXpよりは早い。

6.OSのインストール
OSのインストールというと面倒くさいイメージがあるが、ubuntuのインストールはWindowsをインストールするよりもはるかに簡単である。ディスクに空きさえあれば、Xpと併存させることも簡単にできる。

WindowsXP機にubuntuをインストールする作業は次のような流れになる。

1.Ubuntuの配布サイトからイメージファイルをダウンロードし、DVDに焼くかブータブルUSBメモリを作る。
2.Windowsを終了し、DVD、またはUSBメモリから起動する。
3.インストール

2でDVDやUSBメモリから起動するのは、OSのインストーラーではなくOS自体なので、インストールしなくても使うことができる。これで起動できれば、UbuntuはそのPCで問題なく動くということになる。UbuntuはWindowsのディスクを読み書きすることができるので、Windowsが壊れた時にこのDVDを使ってファイルを救助するという技もある。

詳しいインストールの仕方はこちらを参照されたい。
Linux最強のディストリUbuntu 13.10のインストール方を解説するスレ!:IT速報
Ubuntu 13.10 のインストール:金子邦彦研究室
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池上線を利用する人にとって、一度も降りたことがなくても印象的な駅が雪が谷大塚駅である。というのは、上りの五反田行き、下りの蒲田行き、以外に雪が谷大塚行きという電車があるからだ。

もちろん、雪が谷大塚に着いたら、その先へ行く電車が隣のホームに待っているなんてことはない。急行による追い越しもないので、乗る駅で次の電車を待たなくてはいけない。これが通勤時間帯に多いものだからイラッとくる。

さて、その雪が谷大塚駅だが、駅そのものはあまり面白くはない。まずは改札。ビルの二階にある。
雪が谷大塚(改札)


ホームもいたって普通。池上線的には真ん中にホームがあるのが珍しいが、ほかの電車ではアタリマエ。
雪が谷大塚(ホーム)


屋根を支えるのも普通の鉄骨。
雪が谷大塚(ホームの柱)


駅の入り口は2つあって、一つは中原街道側に面している。石川台駅から続く高圧線の鉄塔が駅舎をまたいでいる。
雪が谷大塚駅入り口1


商店街側から見た駅舎。左が踏切で、右側が商店街になる。写真には写っていないが、この右端にもう一つの入り口がある。
雪が谷大塚駅

ここから、電車がぬっと出る感じがいい。
雪が谷大塚駅を出る池上線

この踏切から、駅と反対側の線路を見ると、ちょっと面白い風景が見られる。これが雪が谷大塚の最大の特徴だろう。
雪が谷検車区1

これは、池上線・多摩川線共通の車両基地で雪が谷検車区というそうだ。複雑に絡み合った線路と、ずらっと並んだ電車がなかなかの迫力である。

別の角度から撮ったところ。このあたりは家が建て込んでいるので、すぐ近くで見られる。
雪が谷検車区2

電車の洗車機。
洗車機

最後に池上線お約束の駅前商店街。雪谷商店街という。
雪谷商店街


次は御嶽山です。
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昨日のエントリ(2014年1月の総括:2014年01月31日)を書いている時に、舛添要一氏のプロフィールを調べたら「法学士」と書いてあった。

はて面妖な。舛添氏はかつて東大の助教授だったはず。東大の助教授が学士なわけがない。修士か博士の間違いではないのか。しかし、間違いではない。

学士とは大学4年間で所定の単位をとった人のもらう称号である。今では学位になっているが、かつては学位ですらなかった。その後大学院の修士課程2年で修士、さらに博士課程最低3年で博士となる。舛添氏が法学士なら彼は大学院には行っていないということになる。

高校までとは違い、大学の先生に必要な資格というものはないので、学士で教授になっても差し支えない。だが、通常そういう人は、戦前の制度下で学士になったか、相当な業績を積んだ市井の学者ぐらいである。舛添氏は若くして東大の助教授だったからどちらも当てはまらない。

Wikipediaによると、東大にはかつて学士助手という制度があったらしい。なお、この制度は2005年に廃止されたらしい。

学士助手:Wikipedia

東大の法学部といえば、官僚や法曹界の予備校みたいなものだ。法曹界にせよ官僚にせよ、若くして高給取りになれるのだから、優秀な学生は金がかかるばかりでまともな就職ができるか分からない大学院なんかに行かず、みんな官僚になってしまう。

これでは困るので、学部を卒業したあと、任期付きの助手(現在の助教)をして給料をもらいながら勉強できる制度を作った。ここで助手をしながら論文を書くと、東大もしくは東大の息のかかった大学の助教授になれる。それだけに学士助手はそう簡単になれるものではなかったらしい。

とはいえ、助手はあくまで助手であって、大学院生ではない。学生として授業に出ることはないので、修士となるのに必要な単位は取れない。博士なら単位がなくても論文博士で取ることもできるが、論文修士というものは存在しないので、博士号を取るまでは学士のままということになる。かくして舛添氏のように学士のまま東大助教授ということになる。

これは、国外的にはかなり奇妙に映るだろう。なにしろ最高学府(誤用)の助教授が学位を持っていないのである。例えるなら、超難関進学校の先生が高卒みたいなものだ。

もちろん、博士号を持っていてもさっぱり勉強しないボンクラもいるので、学位を持っていればいいというものではない。しかし、最高学府(誤用)の東京大学がつい最近まで、これほどの学位軽視をしていたとは驚きである。
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