2014年04月

どんな人でも、ここはだけは絶対に譲れないという事がある。自分にはそんなものは無いつもりだったが、遍路の体験はそういうことだったらしい。

レイシストに遍路道を汚させるな:2014年04月09日
お遍路の話(その1・遍路道):2014年04月12日
お遍路の話(その2・お接待):2014年04月13日
お遍路の話(その3・寛大さ):2014年04月14日

お遍路の思想に則って、ずいぶん優しく丁寧に書いているが、実ははらわたが煮えくり返っていた。

正直に「私は韓国人が嫌いです」といえばいいのだ。もちろん、それ自体がレイシズムだが、「それはしょうがないですね」というほかない。韓国人に対して、なんとも思っていない人にまで、肝心なことをごまかして嫌いにさせようとする。これが許せないのである。

この件でいえば、「最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを・・・」というゴミクズを貼った人までは、頭のおかしい人が一人いればできることだから仕方がない。だが、許しがたいのは、こんな出処不明の怪文書を擁護する人がいて、「お遍路の経験がある」と書いてある、僕のブログにコメントをしたことだ。

僕に火を点けたのは、最初のエントリのコメントに寄せられた次の部分である。

そして、お遍路を巡るということは、日本の風土・環境の中で行うことに意味があります。。決して自国の案内ステッカー通りに行うことがお遍路の醍醐味なのでしょうか。

この人は、お遍路をしたこともないのに「(お遍路の)意味」だの「お遍路の醍醐味」を決めつけている。野球をしたことがないのに、野球の醍醐味を野球選手に向かって語っているようなものだ。ボーサンでもなければ、恥ずかしくてそんなことは言えないだろう。この人が恥知らずだということだけはよくわかった。

それでもまだ醍醐味云々の方は疑問(だよな。反語じゃないよな。)の終助詞がついているから、「そりゃ違うよ」と言える。その前の文の、何故か句点が2つついている「日本の風土・環境の中で行うことに意味があります。。」は何だ。「ます」は丁寧語だが断定の助動詞だ。知りもしないのに勝手に断定するな。

そもそも「日本の風土・環境」って何だ。「日本の風土、環境」が永久不変だとでもお思いか。

僕は、国文学の研究者だった。「だった」というのは、今は論文も書いていないし、研究らしいこともしていないからである。辞めちゃったわけではない。

国文学とは畢竟「日本とは何か」が最大のテーマになる。何十年やっても、答えは出ない。僕がボンクラだからではない。すべての国文学者は一生「日本とは何か」という答えの出ない問いを死ぬまで考え続けるのである。

だから、安直に「日本の風土、環境」などと言われると、「あなた日本の風土、環境がわかってるんですか。そりゃすごいですねぇ〜」とイヤミの一つも言いたくなる。

今回の一件で、レイシストは平気で釈迦に説法をする恥知らずだということだけはよくわかった。僕は疑問を持っているが、日本人は恥の概念が行動規範になるという言説を聞いたことがある。レイシストが中国人・韓国人は恥を知らないと書いているのを見たこともある。だとすれば、連中は日本人じゃないんだな、きっと。

本当は今月書きたかったことがあった。今月の初め、ベトナムに行ってきたのである。それは来月に回すことにするので乞うご期待。

最近、またぞろホワイトカラーエグゼンプションが話題になっている。

残業代ゼロ検討指示 首相「時間でなく成果で評価」
安倍晋三首相は二十二日、政府の経済財政諮問会議と産業競争力会議との合同会議で「時間ではなく成果で評価される働き方にふさわしい、新たな労働時間制度の仕組みを検討してほしい」と労働時間規制の緩和を検討するよう指示した。 

あまり指摘している人を見ないし、あるいは当の教員自体が気づいていないのかもしれないが、教育の世界は伝統的にホワイトカラーエグゼンプションである。

教員には残業手当が存在しない。給料がやや高く設定されているのは、そこに残業手当が定額でインクルードされているからである。

教員の給与がホワイトカラーエグゼンプションになっているのは、労働を時間単位で図ることができないからである。教員の仕事は、授業だけではない。バックグランドでやっている仕事が多く、学校の外でやる仕事もある。極端に言えば、国語の先生が家で読書しているのも、体育の先生がキャッチボールしているのも仕事になる。それらを時間に換算することができないので、残業代は定額でインクルードということになっているのである。

つまり、ホワイトカラーエグゼンプションが導入後の未来は、長年それを続けてきた教員の世界を覗けば分かるのである。

ホワイトカラーエグゼンプションの建前は、安倍首相のいうように「時間ではなく成果で評価される働き方」ということだ。ということは、成果を出すために、長時間働くこともあれば、成果が早々にでれば短時間の労働でもいいということになる。

かつて東京都の教員は、出勤すると「出勤簿」に印鑑を押していた。出勤簿には来た日は記録されているが時間は記録されていない。これは「労働が時間単位ではない」証左である。実際、授業が終わって、他に仕事がなくなった先生がさっさと帰るという光景が見られた。

ところが、石原都知事の時代になって、タイムカードが導入された。出勤・退勤が明確に記録されるようになったのである。もちろん、残業しても手当は出ていないし、早く帰りたいときは休暇をとらなくてはならない。

「成果で評価」の方も取り入れられた。しかし、教育の世界ほど成果主義となじまないものはない。どこそこの大学に何人入れたとか、なんとかコンクールで優勝したとか、そんな上っ面のことが「成果」なのである。そして上っ面の成果を上げるために、労働時間だけは伸びていく。

石原元都知事がホワイトカラーエグゼンプションを理解していないのではない。なにしろ彼自身、ほとんど東京都庁に登庁しなかったので有名だったのだ。石原都元都知事はホワイトカラーエグゼンプションの実践者である。

こんな経緯をたどっているので、僕にはホワイトカラーエグゼンプションと言われても、雇用者は仕事をせず、労働者をこき使う方便としか思えないのである。

雇用主の都合のいい時間管理と、働かせるためのマヌケな評価。そんなところがオチだと思うね。
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陽明文庫本『宇治拾遺物語』の電子テキストを公開しました。DokuWiki内の文書なので、検索窓から検索も可能です。

陽明文庫本『宇治拾遺物語』:やたがらすナビ

陽明文庫本は現在、注釈書などの底本に用いられている古本系の善本で、新日本古典文学大系『宇治拾遺物語・古本説話集』の底本になっています。

原典に忠実に翻刻し、読みやすいように、句読点、濁点を加え、踊り字を書き換え、段落分けをしました。仮名遣いや送り仮名は原典のままです。

このテキストは、博士論文執筆のために入力したもので、タイムスタンプを見ると1999年になっています。なんかもうずいぶん昔になっちゃったなぁと感慨深く思います。

今回、公開するにあたり、再度読み直し、おかしいところは再び影印本にあたって確認しましたが、全文を付きあわせたわけではないので、まだ間違いがあるかもしれません。間違いがありましたら、遠慮無くお知らせください。

翻刻ですので、著作権は主張しません(翻刻には著作権はないと考えているため)。ご自由にご利用ください。

前回のエントリで馬上駿兵氏の『文豪たちの「?」な言葉』を紹介したが、その中で取り上げられている言葉で、以前から気になっていた言葉があった。否定をともなわない「全然」である。

馬上氏によると、現代の国語辞書では、否定を伴わない「全然」は「俗な用法」とされるが、昭和40年代ぐらいまでは文学作品の中にごく普通に見られるという。この本では『広辞苑』の「全然」の項の変遷が挙げられているのだがこれが面白かった。

昭和10年の『辞苑』、昭和30年の(『広辞苑』)第一版には否定云々という説明がありません。(中略)そして、昭和44年の第二版で初めて「否定の語を伴って」という説明が出てきます。更に、昭和58年の第三版から、否定を伴わない使い方を「俗」だとする説明が加えられているのです。

現在、否定を伴わない「全然」は、再び使われるようになったが、現代人の全然と、かつての文学作品に見られる全然は、意味において違いがあるという。「全然」には本来「完全に」という意味があり、かつてはおおむねその通りの意味で使われていたが、現在の「全然ステキ」とか「全然おいしい」という表現は、「非常に」のような、後に続く単語を強める意味で用いられているというのである。なるほど、言われてみるとそんな気がする。

僕はこの違いを漢語を意識したものと、そうでないものの違いだろうと考えた。「全然」の「全」はいうまでもなく「すべて」を意味し、「然」は形容詞(国語ではなく、漢語の形容詞)の後につき、状態・様子を表わしている。「自然」なら「ありのままの様子」だし、敢然なら「勇敢な様子」だし、悄然なら「しょんぼりとした様子」である。だから、もともと「全然」は「頭から尻尾まで完全な様子」という意味である。

かつての日本人は、今の日本人よりもはるかに漢文に親しんでいた。だから、「ゼンゼン」という音だけ聞いても、それは「全然」という漢語を直感的に想起できる。

ところが、漢文はだんだん日本人にとって縁遠いものになってきた。今や「然」のつく言葉が漢語の形容詞という意識はほとんどない。

「全然」は日本語での発音がたまたま「ゼンゼン」と同じ音を繰り返す。日本語には擬態語・擬声語をはじめ、「だんだん」や「どんどん」のような、同じ音を繰り替えす副詞がある。「全然」も「だんだん」も同じ副詞だから用法もほとんど同じだ。次第に、漢語としての「全然」が意識されなくなって、同じ音を繰り返す副詞として意識されていくうちに、今の用法になったのではないか。

この考えにはかなり自信があったのだが、これを証明するためには、まず漢語の「全然」の用例を調べなければならない。探し方が悪いのか、あまり用例は見つからなかったのだが、ざっくりと探すと『荘子』第七応帝王に一つみつかった。

明日,又與之見壺子。出而謂列子曰:「幸矣子之先生遇我也!有瘳矣,全然有生
矣!(全然として生くることあらん)吾見其杜權矣。」

やはり、否定は伴っていない。漢語としてももともと否定を伴うものではなかったようだ。

それでは現代中国語ではどうか。そこで中国語の辞典としては『広辞苑』並に権威があるとされる『現代漢語詞典第五版」(商務印書館)で調べてみると、

【全然】 完全地。(多用于否定式)

なんと、「否定文で多く使われる」と書いてあるではないか。これはどういうことだろうか。

ここで、本来、馬上氏のように『現代漢語詞典』の歴代の版(初版は1978年)を比べなければいけないところだが、さすがにそんなものは手元にない。また、それ以前の辞書や、台湾の辞書ではどうなっているか、実際にどう使われているかも興味深いところである。しかし、中国語が専門でない僕には、今のところここまでしか分からない。ご存知の方がいらっしゃったら是非ご教示いただきたい。

だが、単語ならともかく、用法で日本語が中国語に影響を与えたと考えるのは難しい。中国語での否定を伴った「全然」が意識されるようになって、それが日本の辞書に取り入れられ、さらには否定を伴わない「全然」は誤用とまでになったのではないかと考えている。

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馬上駿兵氏『文豪たちの「?」な言葉』(新典社新書)を読んだ。

本書は、否定をともなわない「全然」や、「役不足」の用法(役不足の誤用に見える表現については、僕も太宰治の「役不足」:2013年9月26日で書いたことがある)、「女に別れる(女と別れる)」など、現代の用法としては誤りか、おかしいと見られる表現を、近代文学作品の中から博捜し、それらの言葉がどのように使われてきたかを探求している。

それぞれに用例が挙げてあり、古語との関係や、用法の変遷をたどっている。これを読むと、正しい表現、間違った表現という考え方がいかに安直で浅薄なものかが分かるだろう。

言葉を語る上で重要なポイントは、言葉はあくまで単独ではなく、文や文章の中で使われるということだ。その言葉の前後だけを切り出しても、言葉の使い方は分からない。その点、本書ではその言葉が使われている、作品のコンテクスト(文脈)をしっかり追うことによって、作品の中での言葉の使い方を説明している。

最近、テレビ番組などで、誤った言葉の使い方なるものが、クイズ形式で取り上げられているのをよく見る。なぜそうなるか、番組中で説明されることも多いが、クイズ形式では結局のところ、正しいか正しくないかに帰結してしまう。これでは薀蓄止まりで〈教養〉にはならない。

言葉は誰かが「こう使え」と、決めるものではない。長い年月を経て、習慣の上に成り立つものである。かつて正しかった用法が、現在は間違ったものとなることもある。用法が正しいか、間違っているかよりも、そのプロセスが面白いのである。

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お遍路の話(その1・遍路道):2014年04月12日
お遍路の話(その2・お接待):2014年04月13日のつづき。

この記事を書くにあたって、いろいろなサイトを覗いてみたが、僕が巡礼したのは2001年、そのころよりも、道案内ステッカーの数は増えているようだ。お遍路文化は健在だという印象を受けた。

お遍路というと、あの印象的な白装束、納経帳を想起する人も多いだろう。しかし、実際、そのようなお遍路グッズはあまり大きな意味を持っていない。歩き遍路の人は、菅笠と金剛杖だけであとはスポーツウェアの人が多い。また、ベテランほど御朱印をもらわない。

巡礼というと、何か堅苦しいしきたりがあるように思えるかもしれない。しかし、お遍路にはそれが驚くほどない。

すでに述べたように、巡礼コースは遍路道という名前で存在しているが、そこを歩かなければならないわけではない。順番も番号順に回らなくてもよい。一度に回れなければ、何度かに分けてもよい。各お寺の本堂と大師堂で、般若心経と真言を唱えるのが本来の習慣だが、やっていない人もいる。僕はできなかった。そんな余裕はとてもなかったのである。

途中で電車やバスに乗る人もいる。酒を飲む人もいる。自動車で回る人も、オートバイで回る人も、自転車で回る人も、それどころか、冷房の効いたバスで回る人もたくさんいる。もちろん全て歩き通す人もいる。

どう巡礼しようとも、そこに貴賎はない。もちろん、歩きでない人は歩きの人を尊敬するし、初めて来た人は何度も回っている人を尊敬する。しかし、歩きだから偉いとか、ベテランだから偉いなどというヒエラルキーはない。

ここには、僧も俗も、老人も若者も、男も女も、日本人も外国人も、健常者も障害者も、時には罪を犯した人でさえもいる。宗教的なものなのに、信仰の有無すら関係ない。

すべてを「お遍路さん」として、等しく受け入れるのが四国の霊場なのである。地理的にあまり有利とは思えない四国が、日本の他の霊場よりも巡礼者を集めているのは、お接待の習慣と、この寛大さにあると僕は思う。

と、ここまで書いて、一つ大事なことを思い出した。ほとんどのお遍路さんが持っているであろうものが一つだけある。それが納札(おさめふだ)である。

納札は自分の住所と名前を書く紙で、いわば名刺のようなものだ。札所の本堂と大師堂に収めるほか、お接待をいただいたときや、仲良くなったお遍路さんに渡したりするのに使う。千社札のように休憩所などに貼る人もいる。

ちなみにこの納札はもともと木で出来ていた。これを札所に釘で打ち付けることから、巡礼することを「打つ」という。「順打ち」「逆打ち」という言葉はここから来ている。

ここで最初のエントリ(レイシストに遍路道を汚させるな:2014年04月09日)を書くきっかけになった、貼り紙のことを思い出してほしい。あの貼り紙は2つの点で、お遍路の思想に反している。一つは差別的で寛大でないということ。もう一つは匿名であるということ。四国の霊場会がいち早く反応し差別に反対する声明を出したのは当然である。

さて、最初のエントリから、四回もお遍路関連の記事を書いた。僕のお遍路体験は10年以上前である。こんな機会がなければもう書くことはなかっただろう。

大した記事ではないが、泡沫ブログとしては結構な数のアクセスがあった。その人たちが、僕の文章を読んでお遍路に興味を持つ人もでるかもしれないし、理解が深まるかもしれない。だとすれば、最初のビラを貼ったレイシストも、途中でコメントをくれた人たちも、お接待をしたことになる。

願わくは、この功徳によりて、彼らが瞋恚の炎を滅さんことを。

南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛・・・合掌。
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お遍路の話(その1・遍路道)の続き。

お遍路を語る上で、絶対に欠かすことのできないキーワードが「お接待」である。

お接待とは簡単に言うと、お遍路さんに便宜を施すということである。それは現金だったり、食料や水などの物だったりする。物ではなく道を教えるとか、休憩所や泊まる場所を提供することもお接待になる。道案内のステッカーも一種のお接待である。

お接待として最も一般的なのは現金だろう。僕の場合は自転車だったので、追いかけて渡すというわけにはいかないから、あまりもらわなかった方だと思う。それでも休憩中にポケットにお金をねじ込んでくれる人や、自動販売機のお釣りをくれる人がいて、合計5千円ぐらいはもらった。歩き遍路の人からは、小学生が走り寄ってお金をくれたという話も聞いた。

水や果物、缶ジュースなどをもらったのは数しれない。休憩所にはずいぶんお世話になった。ほとんど野宿したので使わなかったが、善根宿といって、個人や企業があいている部屋で無料で宿泊させてくれるところもある。

お接待の重要なポイントは、原則として断ってはいけないということだ。もちろん、すべて歩きで回るつもりなのに車に乗れと誘われたとか、酒を断っているのに酒をもらうとか、事情があるときは断ってもよい。僕も、もうすぐ結願のときに、米5kg渡されたときはさすがに断った。だが、原則的に断ってはいけない。

なぜお遍路さんはお接待を断ってはいけないか。

お接待には、巡礼できない自分の代わりに巡礼してほしいという意味が込められているからである。遍路は時間も体力もお金も必要だ。そんな条件が合うこと自体、普通の大人には滅多にない。そして、お接待を受けたお遍路さんは、お接待した人の期待を担うことにもなる。

もし、仮に「誰の力も借りず満願を達成しよう」と考えてお遍路を始めたとしても、それは一日と持たないだろう。かならず誰かにお接待されてしまう。ここに至り、お遍路さんは「同行二人」の本当の意味を知る。

「同行二人」とは、一人で歩いていても、つねに弘法大師がついているという意味である。しかし、この弘法大師とは、四国の人々であり、お遍路の先輩や仲間であり、人生において世話になった全ての人であると気付かされるのだ。

歩き遍路がもらうお接待は結構な額(と言ってもせいぜい数万円だろう)になるらしい。生活を切り詰めて、それだけで永遠に回り続けている修行者もいる。逆にお接待目当てのインチキ遍路もいる。

だいたいそういう人は山奥の寺には現れず、平地の人の多いところを回っている。真面目にお遍路している人からは、はっきりいって不愉快だし、バチあたりなことだと思うが、逆に言えば、そういう人たちでさえ生きていけるほど、四国の人々はお遍路さんを支援しているのである。

お遍路を経験した人は、例外なくそんな「お接待」の文化に心を打たれる。そして、後に続くお遍路さんや四国の人のために、自分も何かできることをしたいと思うようになる。僕がここで自分の経験を書いているのもお接待だし、崔さんの案内ステッカーもお接待なのである。

考えてみるとこれはすごいことだ。四国の人々は、お接待という美風によって、現代に至るまで四国を聖地たらしめているのである。その聖地に向かって、日本中、いや今や世界中から人が来る。四国はこれを何百年も続けているのである。これは並大抵のことではない。

少々俗っぽい言い方になるが、これは観光地の理想的な姿である。僕が東京オリンピック招致活動の「お・も・て・な・し」という言葉を空虚に感じたのは、たぶん四国の遍路文化を知ってしまったからだろう。東京オリンピック招致に関わる都の職員は、一度お遍路をすべきだと本気で思っている。

最後にもう一回だけ書くつもりですので、よろしくおねがいします。
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この話題、そんなに引っ張るつもりはなかったのだが、昨夜、枕元に弘法大師様が示現され、世の人に分かりやすく説明せよとお告げをたまわったので、書くことにする。

お遍路とは、弘法大師空海が修行したとされる、四国八十八箇所の寺を巡礼することである。実際には、八十八番目にお参りしたあと、最初の寺にお礼参りに行き、さらに高野山に参るので、一回の遍路でのべ90の寺をお参りすることになる。このように円環状になっている巡礼は世界的にも珍しい。

巡礼はどこからはじめてもよいが、一番札所の霊山寺(徳島県)から始めることが多く、僕も霊山寺から始めた。一番札所から始めると八十八番の大窪寺まで打って結願(けちがん)となり分かりやすい。ハングルのステッカーを貼っているという崔さんは、四回結願したというから、四周しているわけである。

全距離は歩き方にもよるが1200km〜1400km。徒歩で巡礼すると早くても40日はかかる。たまたま出会った、ワンダーフォーゲル部の屈強な大学生がこんなことを言っていた。
ポケモンスタンプラリーのでかいやつだと思って来たんですけど、モンスターを自分で倒しながら進むぐらいきついですね。

このコースを遍路道といい、空海が修行した道とされる。よもや平安時代の無名の修行僧が歩いた道が記録されているわけはないので、伝統的な巡礼コースというぐらいの意味だろう。へんろ道保存協力会のステッカー(おそらく崔さんのも)はこの遍路道を示している。

前回のエントリで、「ゆ」さんという人からコメントがあり、「(崔さんは)土地勘がないためか、必ずしも正しい順路を示してないという指摘もあります」と書いてあったが、四回も結願した人が「土地勘がない」なんてことはありえない。地元の人は自動車で移動することが多いから、むしろお遍路さんの方が道を知っていることすらある。大方、遍路道を知らない人がしたり顔に言っているだけだろう。

遍路道は一種の古道なので、かならずしも札所に最も近く、歩きやすい道とは限らないのである。現在、国道になっていてビュンビュン車が走っているところもあれば、一般的な地図にはない山道もある。人の家の庭先(たぶん本当に庭)のようなところもある。

たしか高知県だったと思うが、遍路道が海岸に出てしまった時には驚いた。そこから先、道がないのである。よくわからないまま、砂浜で自転車を押していたら、突き当たった雑木林の木に保存会のステッカーがあるのを見つけた。しかし、その先はヤブでどう見ても自転車では進めない。しょうがないので、また砂浜を押してもどって普通の道路を走った。

あとでベテランのお遍路さんに「あんなところ、本当に通ったんですかね」と聞いたら、「ああ、あれは船をつかったんだよ」と言われて合点がいった。

こんな感じなので、明確に道があるところもあれば、そうでないところもある。ステッカーは遍路道を知る上で大事な情報源なのだ。僕がステッカーはあればあるほどいいというのはこのためである。

12番の焼山寺66番の雲辺寺など、山のてっぺん(標高800〜900mぐらい)にある札所への山道がきついのはいうまでもないが、現代的な道路になっていれば簡単かというとそうでもない。

たとえば23番の薬王寺と24番の最御崎寺(室戸岬の先端)は75.4kmもあり(二番目に札所間が長い)、夏などは灼熱の太陽と照り返しの中、延々と何もない自動車道路を歩かなければならない。僕は自転車でかなりのスピードを出して走っていたので、歩き遍路の人を追い越していくのがつらかった。

そうかと思うと、高松市のような交通の激しい都市を歩かなければならないこともある。こういうところでは、逆に札所を探すのが難しくなる。

このようにお遍路さんは、多かれ少なかれ、命がけで巡礼している。崔さんのものもふくめて、道案内ステッカーはそんなお遍路さんのために貼られているものだ。そのほとんどは遍路をしない人の目につかないところにある。お遍路をしない人が四の五の言うことではない。

さて、このエントリでは歩く側の立場を書いた。次は四国の人々が、お遍路さんをどう支えているかについて書いてみたい。
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最初に、今お遍路をしている人にお願いがある。もしこのバカげた貼り紙を見かけたら即座に剥がしてほしい。これは遍路道を汚すものだ。

お遍路に外国人排除の紙:nikkansprts.com
徳島県吉野川市川島町川島にあり、四国遍路の巡礼者が利用する休憩所に「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」と印字し、外国人排除を訴える紙が貼られていたことが9日、分かった。
 貼り紙は「最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを、四国中に貼り回っています。『日本の遍路道』を守る為、見つけ次第、はがしましょう」とも記載。「日本の遍路道を守ろう会」の名があった。

「気持ち悪いシール」とは崔象喜さんが貼った、道案内のシールを指すらしい。もちろん許可を得て貼ったものである。
「お遍路」韓国に広がれ 崔さん、道沿いに案内シール:徳島新聞
「お遍路」韓国に広がれ 崔さん、道沿いに案内シール 韓国人の崔象喜(チェサンヒ)さん(37)=ソウル市=が、遍路道の案内用にハングルのオリジナルシールを作り、道沿いに貼るなどの活動を続けている。2010年から歩き遍路をする中でお接待の文化に魅せられ、「韓国人にも経験してほしい」と始めた。今月、4度目の結願を果たし、これまでに貼ったシールは4千枚。近く遍路の案内人である「公認先達(せんだつ)」を申請し、認定されれば外国人女性、韓国人として初めての先達となる。
ステッカーは直径10センチの円形で、札所への道順を示す矢印のほか、日本語とハングルで「同行二人」「お遍路さんを応援します」と記されている。遍路道沿いの飲食店や休憩所に許可を得て貼ってきた。

お遍路をしたことのない人には「札所への道順を示すステッカー」というのが奇異に感じられるかもしれない。以前からこういうステッカーはへんろ道保存協力会が電柱などに貼っていて、歩き遍路はこれを頼りに巡礼していた。道案内ステッカー自体がお遍路文化になっているのである。崔さんのステッカーもこれに習ったものだろう。

へんろみち保存会のステッカーは、基本的に道に迷いやすいところに貼ってあるのだが、それでも見落としてしまったり、方向が紛らわしくて道を間違えたりする。今はスマホがあるから必要性は薄れているのだろうが、疑心暗鬼で歩いた(僕の場合自転車なので走ったのだが)道で、このステッカーを見つけた時の安心感はやった者にしかわからないだろう。

ステッカーは多いにこしたことはない。崔さんのステッカーだって、お遍路さんなら、感謝こそすれ、気持ち悪いなどと思う人はいないだろう。本当にお遍路をしたことのある人なら、何語で書かれていようとも道案内のステッカーを「見つけ次第、はがしましょう」などとは絶対に言わないはずだ。このレイシストは、ロクに遍路道を歩いたことがないくせに、「日本の遍路道を守ろう会」を名乗っているのである。

レイシズムなんて、本質はニンジンの食わず嫌いと同じなのに、「日本の遍路道」などと理由を付けて仲間を増やそうとする。これはすべてのレイシストに共通している。しかし、実体は子供がだだをこねているのに等しい。嫌う相手はニンジンではなくニンゲンなのだから、ニンジン嫌いの子供がだだをこねている方がよほどましだ。

ニンジン嫌いのいうことを聞いて、ニンジン嫌いになるほどバカバカしい話はない。こんな子供以下の主張に耳を貸す必要は一つもない。
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教育勅語の原本が発見された。

教育勅語:原本見つかる 百貨店展示後、半世紀間不明:毎日新聞

そういえば、大日本帝国憲法の原本写真は見たことがあるが、教育勅語は見た記憶がない。そうか、紛失していたのか。たぶん、戦後のゴタゴタで進駐軍にどうにかされたんだろう・・・と思いきや、

原本は1962年に東京・日本橋の百貨店で展示されたのを最後に半世紀の間、行方が分からない状態だった。

なんと、行方がわからなくなったのは、戦後20年近く経ってからである。それも展示に貸し出された後。戦後のゴタゴタ関係ない。ならば日本橋の百貨店―三越か高島屋か白木屋か―がぞんざいに扱ったのかと思いきや、

2012年10月、東京国立博物館(東京都台東区)にある保管庫で、資料整理中の同省職員が木箱に入っているのを見つけた。確認作業を続けていたが、百貨店で展示された当時の文書管理担当者が書いたメモが残されており、明治天皇から出されたことを示す内容だったことなどから、同省は「原本」と判断した。

東博・・・。犯人は文部省だった。

現在、こういう文書は国立公文書館が保管しているが、国立公文書館ができたのは1971年(昭和46年)。それ以前は各省が文書を保管していた。

教育勅語は教育に関連する文書なので、文部省の保管として東博にあったのだろう。文部省から公文書館に移管された文書は他にもあったはずだから、その際に見つからなかったか忘れられていたということになる。

教育勅語は良くも悪くも戦前の日本人のものの考え方に最も影響を与えた文書である。その意味では大日本帝国憲法よりも資料価値は高い。そんな重要な資料すら行方不明になっちゃうのが、日本のお役所なのである。
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