どんな人でも、ここはだけは絶対に譲れないという事がある。自分にはそんなものは無いつもりだったが、遍路の体験はそういうことだったらしい。
レイシストに遍路道を汚させるな:2014年04月09日
お遍路の話(その1・遍路道):2014年04月12日
お遍路の話(その2・お接待):2014年04月13日
お遍路の話(その3・寛大さ):2014年04月14日
お遍路の思想に則って、ずいぶん優しく丁寧に書いているが、実ははらわたが煮えくり返っていた。
正直に「私は韓国人が嫌いです」といえばいいのだ。もちろん、それ自体がレイシズムだが、「それはしょうがないですね」というほかない。韓国人に対して、なんとも思っていない人にまで、肝心なことをごまかして嫌いにさせようとする。これが許せないのである。
この件でいえば、「最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを・・・」というゴミクズを貼った人までは、頭のおかしい人が一人いればできることだから仕方がない。だが、許しがたいのは、こんな出処不明の怪文書を擁護する人がいて、「お遍路の経験がある」と書いてある、僕のブログにコメントをしたことだ。
僕に火を点けたのは、最初のエントリのコメントに寄せられた次の部分である。
この人は、お遍路をしたこともないのに「(お遍路の)意味」だの「お遍路の醍醐味」を決めつけている。野球をしたことがないのに、野球の醍醐味を野球選手に向かって語っているようなものだ。ボーサンでもなければ、恥ずかしくてそんなことは言えないだろう。この人が恥知らずだということだけはよくわかった。
それでもまだ醍醐味云々の方は疑問(だよな。反語じゃないよな。)の終助詞がついているから、「そりゃ違うよ」と言える。その前の文の、何故か句点が2つついている「日本の風土・環境の中で行うことに意味があります。。」は何だ。「ます」は丁寧語だが断定の助動詞だ。知りもしないのに勝手に断定するな。
そもそも「日本の風土・環境」って何だ。「日本の風土、環境」が永久不変だとでもお思いか。
僕は、国文学の研究者だった。「だった」というのは、今は論文も書いていないし、研究らしいこともしていないからである。辞めちゃったわけではない。
国文学とは畢竟「日本とは何か」が最大のテーマになる。何十年やっても、答えは出ない。僕がボンクラだからではない。すべての国文学者は一生「日本とは何か」という答えの出ない問いを死ぬまで考え続けるのである。
だから、安直に「日本の風土、環境」などと言われると、「あなた日本の風土、環境がわかってるんですか。そりゃすごいですねぇ〜」とイヤミの一つも言いたくなる。
今回の一件で、レイシストは平気で釈迦に説法をする恥知らずだということだけはよくわかった。僕は疑問を持っているが、日本人は恥の概念が行動規範になるという言説を聞いたことがある。レイシストが中国人・韓国人は恥を知らないと書いているのを見たこともある。だとすれば、連中は日本人じゃないんだな、きっと。
本当は今月書きたかったことがあった。今月の初め、ベトナムに行ってきたのである。それは来月に回すことにするので乞うご期待。
レイシストに遍路道を汚させるな:2014年04月09日
お遍路の話(その1・遍路道):2014年04月12日
お遍路の話(その2・お接待):2014年04月13日
お遍路の話(その3・寛大さ):2014年04月14日
お遍路の思想に則って、ずいぶん優しく丁寧に書いているが、実ははらわたが煮えくり返っていた。
正直に「私は韓国人が嫌いです」といえばいいのだ。もちろん、それ自体がレイシズムだが、「それはしょうがないですね」というほかない。韓国人に対して、なんとも思っていない人にまで、肝心なことをごまかして嫌いにさせようとする。これが許せないのである。
この件でいえば、「最近、礼儀しらずな朝鮮人達が、気持ち悪いシールを・・・」というゴミクズを貼った人までは、頭のおかしい人が一人いればできることだから仕方がない。だが、許しがたいのは、こんな出処不明の怪文書を擁護する人がいて、「お遍路の経験がある」と書いてある、僕のブログにコメントをしたことだ。
僕に火を点けたのは、最初のエントリのコメントに寄せられた次の部分である。
そして、お遍路を巡るということは、日本の風土・環境の中で行うことに意味があります。。決して自国の案内ステッカー通りに行うことがお遍路の醍醐味なのでしょうか。
この人は、お遍路をしたこともないのに「(お遍路の)意味」だの「お遍路の醍醐味」を決めつけている。野球をしたことがないのに、野球の醍醐味を野球選手に向かって語っているようなものだ。ボーサンでもなければ、恥ずかしくてそんなことは言えないだろう。この人が恥知らずだということだけはよくわかった。
それでもまだ醍醐味云々の方は疑問(だよな。反語じゃないよな。)の終助詞がついているから、「そりゃ違うよ」と言える。その前の文の、何故か句点が2つついている「日本の風土・環境の中で行うことに意味があります。。」は何だ。「ます」は丁寧語だが断定の助動詞だ。知りもしないのに勝手に断定するな。
そもそも「日本の風土・環境」って何だ。「日本の風土、環境」が永久不変だとでもお思いか。
僕は、国文学の研究者だった。「だった」というのは、今は論文も書いていないし、研究らしいこともしていないからである。辞めちゃったわけではない。
国文学とは畢竟「日本とは何か」が最大のテーマになる。何十年やっても、答えは出ない。僕がボンクラだからではない。すべての国文学者は一生「日本とは何か」という答えの出ない問いを死ぬまで考え続けるのである。
だから、安直に「日本の風土、環境」などと言われると、「あなた日本の風土、環境がわかってるんですか。そりゃすごいですねぇ〜」とイヤミの一つも言いたくなる。
今回の一件で、レイシストは平気で釈迦に説法をする恥知らずだということだけはよくわかった。僕は疑問を持っているが、日本人は恥の概念が行動規範になるという言説を聞いたことがある。レイシストが中国人・韓国人は恥を知らないと書いているのを見たこともある。だとすれば、連中は日本人じゃないんだな、きっと。
本当は今月書きたかったことがあった。今月の初め、ベトナムに行ってきたのである。それは来月に回すことにするので乞うご期待。