2014年07月

さて、なんだかんだで、7月も今日で終わり。ブログ強化月間も終了である。ご苦労様でしたオレ。

今年のブログ強化月間は、特に後半、日付の変る12時ぎりぎりに書くことが多かった。

ネタ切れのせいではない。ネタはあって、内容はすべて頭の中にあるのに、いざ書いてみると、途中で論理が破綻したり、うまくまとめられなかったりする。しょうがないから、別のすぐに書けることで代替したり、ダメなところを書かないでごまかしたりして、やっとのことで更新する。

つまり、頭の中にあるものは、完成しているつもりで、実は完成していないのである。これが、文章にしてみるとよく分かる。

ときどき、驚くほど非論理的なことを言う人がいる。固定観念で喋っているなら、非論理的でもまだ理解できる。だが、理屈で喋っているつもりで、さっぱり論理的でない人は、固定観念でしゃべる人よりも厄介だ。なにしろ、本人は説得力があるつもりで言っていても、聞いている方はまったくそうではないのだから。

こういう人は、よほど頭が悪いのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。自分自身、文章にしてみて、やっと「これはおかしいな」と気づくことが多い。いつもは、そのまま後日書くことを期待して放置してしまうから、これはあまり目立たないが、今月のように期限を定めると、それがよく分かる。

おかげで、たくさんの書きかけの残骸が残った。これから、残骸を整理しなければならない。
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生活保護との“逆転現象”が解消へ:NHKニュース
今年度の最低賃金について話し合う厚生労働省の審議会は29日夜、全国平均で時給を16円引き上げ、780円とする目安を示しました。
これによって最低賃金で働いた1か月の収入が生活保護の受給額を下回るいわゆる「逆転現象」が初めて、すべての都道府県で解消される見通しになりました。(中略)
最低賃金を巡っては1か月の収入が生活保護の受給額を下回るいわゆる「逆転現象」の解消が課題で、現在、北海道、広島、宮城、東京、兵庫の5つで逆転が起きていますが、目安どおりに引き上げられた場合、初めて、すべての都道府県で解消される見通しになりました。

最低賃金が低すぎることは問題だが、それを生活保護と比較することに何の意味があるのだろう。

生活保護の受給額は、簡単に言えば「人間らしく生きていくために必要な最低金額」である。それは、単純にその時の物価によって算出されるべきものだ。

物価はいうまでもなく、需要と供給で決まる。賃金はそれを決める要素の一つだが、それはあくまで「要素の一つ」に過ぎない。為替や輸入材料の価格など、さまざま要素がからみあって物価は決まる。本質が違うのだから、生活保護の受給額と、最低賃金を比較することには何の意味もない。

賃金そのものも需要と供給で決まる。最近、供給(つまり働き手)が減って、時給が高くなっているという。これが進めば、どこでも最低賃金を上回る給料を出すようになる。そうなってくると、最低賃金という取り決め自体が無意味になる。

最低賃金は給料が上がったところで、必ずしも上がるわけではない。最低賃金と生活保護が比較できるなら、最低賃金を方便に、生活保護を据え置くこともできるということになる。

そもそも、生活保護受給額は一定で、最低賃金は働いた時間によってもらう額が変化する。働いた時間が少なければ、最低賃金が上がったところで、生活保護受給額を下回ることだってあるはずだ。ますます比較の意味がない。

本来、最低賃金と生活保護受給額は比較するべきものではない、というより、比較してはいけないものなのである。
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僕が初めて自分の金で買ったカメラはCONTAX G1だった。このカメラはレンズ交換式だったが、ズームレンズが存在しなかった。

その頃はそういうものだと思っていたから、フレーミングのために前後に動きまわるのも、レンズを付け替えるのも、さほど苦にはならなかった。それに、狛犬写真を撮るのがメインだったから、レンズも28mmと45mmだけ持っていけば事足りたのである。

コンパクトカメラ以外で、ズームレンズを使うようになったのは、デジタル一眼レフを買ってからである。これが今も使っているSIGMA17-70mm F2.8-4 DC MACROである。※アフィリのは後継品。

シグマ17-70mmを試してみた:2007年12月24日


銀塩換算で25.5mm-105mm、ズームレンズとしては明るく、ズーム全域で20cm(CCDからの距離)まで寄れる。大概のものは撮れる万能レンズである。

銀塩の時代はレンズの描写がどうの、コントラストがどうのと結構気になったが、デジタルになったら、あまり興味がなくなった。パソコンである程度補正できるからである。結局、これ以外のレンズを買うことなく今日に至った。

だが、先日、あるブログを読んでいたら、PENTAX純正のDA35mmF2.4ALなるレンズが紹介されていた。銀塩換算で55.5mm。標準レンズである。値段は18,000円程度。気がついたら、アマゾンでポチってた。


ベトナム旅行に行ったのはこれを買った後だったが、標準レンズの単焦点では心もとないので、持って行かなかった。というわけで、昨日(今月の池上線(千鳥町駅):2014年07月28日)初めて使った次第。

まず感じることは、とにかく軽い。SIGMAのズームレンズは550gもあるのに対し、これは130gしかないのだから当たり前だ。レンズが小さいからかばんから取り出すのも楽ちん。

しかし、レンズが軽くなったぶん、シャッター音がやたらと響く。シャッターそのものは変わっていないのに、なんだかパカーンという安っぽい音が鳴り響くのである。騒々しいところで撮っているから、周りには聞こえないだろうが、撮っている僕には、ちょっと気になる。

最初に書いたように、単焦点には慣れているつもりだったが、すっかり感覚を忘れているのには驚いた。どこに立てばフレームに入るのか、見当を外してしまうのである。

後ろすぎればいいのだが、たいがい前すぎて被写体がフレームに入りきらないのである。そこで、つい左手でリングを回そうとするが、それはピントリングなのでズームしない。「あっ、これズームじゃなかった」と思って、ファインダーを覗いたまま後ろに下がると、千鳥町とはいえさすがにそこは大都会東京、車に轢かれそうになる。都会は危険がいっぱいだ。初めて単焦点を使う人は、人の少ない所で撮ったほうがいい。

後ろに下がりすぎて、池に落ちるとか、木に頭をぶつけるとか、それが単焦点の「趣」だと思っていたが、結構命がけである。ベトナム戦争の時代は単焦点が主流だったから、それで地雷を踏んでサヨウナラしちゃった戦場カメラマンもいたに相違いない、と訳のわからない感慨にひたった。
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「今月の」なんて言っているが、4月3日以来の池上線シリーズ。千鳥町駅である。

ちょっと技術的な話をすると、いつもはシグマ17-70mm F2.8-4 DC MACROというズームレンズを使っているが、今日は先日衝動買いしたペンタックスのDA 35mmF2.4ALを使っている。この話は後日したい。

さて、千鳥町である。あまり縁のない駅で、正直、島忠・HOME'Sがある駅という印象しかない。まあ、見てみよう。

下りホームと電車。
千鳥町のホームと電車

下りホームはご覧のように鉄骨と石膏ボードでできた安普請。池上線のホームは、半分だけとか部分的に安普請というパターンがけっこうある。道路拡張のためだろうか。
下りホームの鉄骨

上りホームは、池上線らし白く塗装された木造。電信柱が貫通しているのもお約束。
上りホームと電柱

上の写真にも二つ写っているが、この駅、なぜだか物置がたくさんある。イナバ物置かヨドコウかは知らないが、一般家庭にあるものと何ら変わらない物置がこれだけたくさんあるのは珍しい。
物置

石川台駅のときに書いた高圧電線は「千鳥線」といい、千鳥町が終点(始発か?)である。だから、五反田方面を見ると、線路をまたぐ高圧鉄塔が並んでいるが・・・
五反田方面の線路

蒲田方面はすっきりしている。
蒲田方面の線路

入り口はこんな感じ。五反田方面のりば。
千鳥町(五反田方面のりば)

同じく蒲田方面。
千鳥町駅(蒲田方面のりば)

踏切。妙に背の低い電信柱がある。しかも傾いているような・・・。
千鳥町踏切

この塗装を隈取に似ていることから「歌舞伎塗装」というらしい。
かぶき塗装

かぶき塗装2

駅前の薬屋。
「保険調剤」は分かるけど、「世界の国旗」って何だろう。
世界の国旗を売っている薬屋

池上線のお約束、商店街。道幅が広いので、他の池上線沿線の商店街にありがちなごちゃごちゃ感がない。
千鳥町商店街

線路沿いにあった質屋。これほど絵に書いたような質屋はなかなかない。
質屋

線路沿いに咲いていた花。名前が分からないので、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。
花

というわけで、次は池上線命名の由来になった池上駅に参ります。
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これから、夏休みに入り、海外旅行をする人も増えてくるだろう。また、留学で9月から海外に行く人も多いことと思う。そういう人が一番心配なのは、コミュニケーションの問題である。実は、これは語学の出来不出来にはあまり関係がない。

日本人は「間違えたら恥ずかしい」とか、「笑われたくない」とか思って、ついコミュニケーションに消極的になりがちだ。そうなってくると、語学力はあって、ちゃんと喋れるのに声が小さくて伝わらなかったり、間違えるはずのないところで間違えたりする。

だからよく「恥ずかしいと思ってはいけない」とか、「恥をかくつもりで喋れ」とか、「間違ってもいいんだ」などというアドバイスを見るが、「恥ずかしい」というのは心理の問題なので、そんなことを言っても意味がない。

そこで、逆に「笑われたくない」という心理を逆手に取るのである。かのマリーアントワネットも「笑われたくなければ、笑わせればいいじゃない」と言った。積極的に笑いを取りに行けば、笑われても勝ったという気持ちこそすれ、恥ずかしさはない。

では、どうやって笑わせればいいか。僕の研究によると、笑いとは意外性に於いて発生し、意外性のトリガーとなるものは二種類しかない。一つは言葉遊びで、もう一つはボケである。

言葉遊びとは、例えば駄洒落のようなものを言う。しかし、外国語で駄洒落を言うのは相当な語学力が必要だし、よほど現地の文化に精通していないと、駄洒落であることにすら気づいてもらえないかもしれない。また言い古された駄洒落だと、意外性がなく全く面白くない。これは高等テクニックなので諦めよう。

その点、ボケは簡単だ。言葉も必要ない。相手の予想しないことをすればいいのだ。

それもそんなに難しいことをやる必要はない。例えば、レストランで注文するとき、メニューの料理名が書いてある場所でないところを指差して「これをください」という。その程度で十分。突然メニューを頭に載せて皿回しよろしくくるくる回すとか、パラパラ開いてお経を唱えるとか、そんなシュールなことをしても、ちょっと頭のおかしい人だと思われるだけだ。簡単なことで十分笑ってくれる。

ボケが優れている点は、もう一つある。それは、失敗はすべてボケのせいにできるということだ。仮に何か意図しない失敗して、「笑われた」としても、それはボケたのだから「笑わせた」のである。過程はどうあれ、相手を笑わせたら、こっちの勝ちである。

どこの国であっても、笑いは平和をもたらす。笑いながら怒る人は世界広しといえども竹中直人だけだ。笑わせて以後のコミュニケーションは円滑になるだろう。海外では笑わせたら勝ちと心得よ。

そういえば、以前、国連で笑われたのを理由に「シャラップ!」と言った人がいたが、せっかくの勝ちを彼は台無しにしたのである。もったいないことだ。
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『ビン・ラディンを探せ! スパーロックがテロ最前線に突撃!』を見た。

監督のモーガン・スパーロックは、『スーパーサイズ・ミー』で30日間、マクドナルドの食品だけを食べ続けてどうなるかを試すという、文字通り体を張ったドキュメンタリーで知られている。『ビン・ラディンを探せ!』では、ビン・ラディンを探しに(この映画は2008年公開)、世界中の「ヤバイ地域」を旅する。

彼がビン・ラディンを探すのは、まだ生まれていない、自分の子供の未来を脅かす存在を排除するためである。そのために、父スパーロックは、体を鍛え、護身術を学び、語学を学んで、宿敵ビン・ラディンを探しに世界を旅する。

ビン・ラディンが「子供の将来を脅かす存在」だというのは、当時のアメリカ人にとっては共通の感覚だったのだろう。それを排除するために戦争するのは、アメリカの大義名分だった。「子供の未来のためにビン・ラディンを探す」というのは、一見ジョークに見えるが、それを確認する意味がある。

そして、スパーロックは、妊娠中の妻を置いて、ビン・ラディンを探す旅に出かける。行き先はエジプト・モロッコ・イスラエル・サウジアラビア・アフガニスタン・パキスタンである。これらの地で、ビン・ラディンはどこにいるか、アメリカをどう思うかを現地の人々にインタビューして回る。そこに住んでいるのはいうまでもなくイスラム圏の人々であり、アメリカ人の目からみて「危険な国」の人々である。

そこに住んでいる人たちがどういう状況に置かれているか、何を考えているかは、僕には上手くまとめられないので、是非この映画を見てほしい。

最後、スパーロックはパキスタンに行き着くが、ビン・ラディン探しをやめる。この三年後、ビン・ラディンはパキスタンで殺害されるので、もう少しのところまで追い詰めていたのだ。

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さて、ブログ強化月間も残すところあと一週間となった。

学校も夏休みに入り、時間ができたが、時間ができれば書けるようになるというものでもなく、ついに壁にぶち当たってしまった。今日は11時半になってやっと書き始める始末。どうしよう。

というわけで、今日は壁にぶち当たった記念に、壁写真でお茶を濁すことにする。

こちらはサイゴン大教会の壁。なんでこんな写真を撮ったのかよくわからないが、たぶん空気抜きの穴に何かくるものがあったのだろう。
サイゴン大教会の壁

ちなみにサイゴン大教会はこちら。フランス植民地時代の1863年から1880年にかけて建設されたそうだ。
サイゴン大教会

もう一つ、こちらは僕の祖母の家の壁。
おばあちゃんの家の壁

この家、隣の家との隙間が数センチしかなかったので、築60年近いはずだが、今まで誰もこの壁を見たことがなかった。もちろん、10年前に他界した祖父は、この壁を見ていない。

そんな壁が、隣の家の建て替えに伴い、初めてその姿を現した。じきに隣の家が建って、この壁を見ることはできなくなるはずだ。これは、そんな貴重な写真なのである。
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野村證券の営業がまるで果たし状:市況かぶ全力2階建

野村證券では、取引額の大きい顧客には営業担当者が毛筆で手紙を書くというのは有名な話で(と言っても僕がもらったことがあるわけではない)、なにを今更と思って見たら、なるほどこれは果し状だ。


まず、字がでかすぎる。そのため、行間も詰まりすぎに見える。字を一回り小さくして、行間はこのままにすれば、かなり果し状感が減るだろう。

もう一つ気になるのが、段落最初の一字下げである。これはしない方がいいと思う。

ちょっと検索してみたら、手紙文でも一字下げすべきだと書いているページが多かった。本来一字下げは活字のルールである。原稿用紙は、印刷するための用紙なので、一字下げする。ワープロで手紙を作成する場合は、一種の印刷だから一字下げしてもいいが、手書きの場合は字下げしない方がいいだろう。特にこのような巻手紙だと、違和感バリバリである。

次に折り方。


これは完全に間違えている。これでは経本だ。

巻手紙なのだから、後ろから巻いていくように折るのが正しい。この際、気をつけることは、相手の名前に折り目が来ないようにすること。これは失礼にあたる。

手紙の最後は、日付、自分の名前、相手の名前の順になるが、相手の名前の後には、すこし白紙を残しておくようにする。ここは、形式的に相手が返事を書くための紙である。便箋で書く場合に、白紙を一枚付けることがあるが、あれと同じ。「ご返事の紙はこちらで用意しました」という心遣いである。

ちょっと面倒なことを書いたが、実の所そんなに難しく考える必要はない。相手を敬う気持があれば、自然と妙な手紙にはならないものである。敬っていないから、聡を恥と間違えるのだ。恥を知れ!大幅減点だ。

さて、この野村證券の巻手紙、聞くところによるとそうとうノルマがきついらしい。さすがはヘトヘト証券と言われるだけのことはある。それでは相手を敬うことなんか難しいだろう。そんな手紙に効果があるのかと思ってちょっとググってみたら・・・

野村證券のすごい新人
一見、普通のお礼状なのですが、なんとこの長さ。私に筆文字で書かれているのだ。とある会社にお邪魔していたときに、お会いしただけなのだが、それだけでこの長さ。
 野村證券の入社一年目の新人。大学では野球一筋できたそうだ。ボールとバットを金融商品にかえて、日々、重たいかばんを持って歩いている。会った時も汗だくであった。
 社長相手に一生懸命に売り込んでいる姿に「いまどき、こんな好青年もいるのだなぁ」と感動。しかもかなり勉強しているようだ。

こうかはばつぐんだ!
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僕は、ネットで顔を出すことに全く抵抗がない。だから、このブログでも何度も顔が写った写真を載せているし、プロフィールの写真も僕の顔写真だ。

SNSはGoogle+とFacebookを使っている。Google+の「顔」はこのブログのプロフィールにあるものと同じだが、Facebookは違う。どうも、「Face」とか言われると、まともな顔を出したくなくなるのである。ご存じの方もいらっしゃると思うが、そうでない方も多いので、今日はこれまでに使ったFaceを並べてみる。

最初のFaceはこれ。2010年の自転車旅行で行った、福建省泉州市で撮った写真である。

福建省泉州市

この時は、ウケ狙いでも何でもなく、単に「顔が分かるような分からないような写真」を選んだらこれになったのだが、怪しいという声が多かったので、そっちの路線で行くことにした。

その結果がこれ。単にスキー帽にサングラス、マスクをしているだけだが、かなり怪しさが増したように思う。
スキー帽

夏になったら、さすがにスキー帽は暑苦しいので、涼しげに撮り直した。
タイガー&ドラゴン

着ているのは、タイガー&ドラゴン柄のアロハシャツで、わざわざこのために買ったのではなく、以前から持っていたものがタンスの中から出てきたのでこれを着た。このアロハシャツに関するエピソードは常識はもろくも崩れる:2006年07月18日を参照されたい。

また涼しい季節になって衣替え。今度は武蔵小山商店街(パルム)の店で買った、ハロウィン用のズラをかぶっている。肩の上でこっちを見ているのは、フランス出身のモノ・プリ男君。
武蔵小山商店街で購入したズラ

怪しさを追求するのも飽きてきたので、叫んでみた。着ているのは祖父の形見のガウン。といっても祖父は一度も着ていない。
祖父の形見のガウン

現在のFaceはこれ。ホーチミンで買ってきた、日焼け防止帽子にグラサンで鉄壁の構え。
ホーチミンで購入
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小保方さんの学位取消し問題で、早稲田大学の調査委員会から報告書が出た。

博士号「取り消し該当せず」=調査委、草稿誤提出と認定―早大・小保方氏論文:Yahooニュース-時事通信
理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーが2011年に早稲田大大学院で博士号を取得した論文について、早大の調査委員会(委員長・小林英明弁護士)は17日、文章や実験画像の流用は誤って草稿が提出されたことが原因で、博士号の取り消し規定に該当しないとの調査報告書をまとめた。

この結果は、批判が多いとうだが、僕は妥当な判断だと思う。

早稲田大学の「博士号の取り消し規定」は公開されている。学位取消に関する条項だけを挙げてみる。

早稲田大学学位規則
(学位授与の取消)
第23条 本大学において博士、修士または専門職学位を授与された者につき、不正の方法により学位の授与を受けた事実が判明したときは、総長は、当該研究科運営委員会および研究科長会の議を経て、既に授与した学位を取り消し、学位記を返還させ、かつ、その旨を公表するものとする。
2 研究科運営委員会において前項の議決を行う場合は、第18条第2項の規定を準用する。
3 第1項において博士学位を取り消された者は、再び博士学位の授与を申請することはできない。

早稲田大学では、「不正の方法により学位の授与を受けた事実が判明したとき」のみ学位が取消しできるとなっている。「不正の方法」の解釈が問題だが、それは調査委員会の報告書にある。

「先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会」調査報告について:早稲田大学
(2) 学位取り消し規定の解釈と適用「不正の方法」
不正行為を広く捉え、過失による行為を含むとした上で、「著作権侵害行為、及び創作者誤認惹起行為は不正行為にあたる。」と認定した。但し、「不正の『方法』」といえるためには、不正行為を行う意思が必要と解釈すべきであるため、過失による不正行為は「不正の方法」に該当せず、「不正の方法」に該当する問題箇所は、序章の著作権侵害行為及び創作者誤認惹起行為など、6 箇所と認定した
(3) 学位取り消し規定の解釈と適用「不正の方法により学位の授与を受けた」「不正の方法」と「学位の授与」との間に因果関係(重大な影響を与えたこと)が必要と解釈すべきであるところ、本研究科・本専攻における学位授与及び博士論文合格決定にいたる過程の実態等を詳細に検討した上で、「上記問題箇所は学位授与へ一定の影響を与えているものの、重要な影響を与えたとはいえないため、因果関係がない。」と認定した。

これは、簡単に言えば、不正のがあったことは間違いないが、それは合格に大きな意味を持っていないということである。

スポーツで喩えると、反則はあったが、それは勝敗には大きな影響を与えていないということだ。この判断の根拠は、報告書に長々と書かれているが、読んでも素人の僕にはさっぱりわからないので、妥当かどうかは判断できない。

不正とは別に、論文の妥当性については次のように書かれている。
1. 本件博士論文の内容の信憑性及び妥当性
「本件博士論文には、上記のとおり多数の問題箇所があり、内容の信憑性及び妥当性は著しく低い。そのため、仮に博士論文の審査体制等に重大な欠陥、不備がなければ、本件博士論文が博士論文として合格し、小保方氏に対して博士学位が授与されることは到底考えられなかった。

不正の有無にかかわらず、本来学位が与えられる内容ではなかったという。審査後に、論文の内容がオソマツだったら学位を取消すという規定はないので、これでは取消すことはできない。

そういう規定がないのをヘンだと思われるかも知れないが、これは仕方がない。学問というものは日々進化するものだからだ。地動説が唱えられる前に、天動説を証明する論文で学位を取ったとして、あとから地動説が正しいと証明されても、妥当ではないとして、天動説の論文を出した人の学位を取り消すことができるだろうか。

それよりも重要なのが「博士論文の審査体制等に重大な欠陥、不備がなければ」という点である。提出論文の内容以上に、審査体制に問題があったことを認めているのである。

これもスポーツで喩えると、勝敗の決定には不正は関係ないが、内容的に勝った試合ではなく、審判に問題があったということだ。これは試合の主催者(ここでは早稲田大学)にとっては、大変な勇気である。なにしろ、これまでに出した全ての学位と、大学の信用を損ねることになるからである。

すべてを小保方さんに押し付けて、学位を取り消してしまえば、話は簡単だったのである。そうせずに大学側の責任を認めた、調査委員会の結論は評価すべきだと思う。
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