2015年03月

正直、「今月の総括」に政治の話を書くのは飽きたのだが、今月の二つの問題発言には触れないわけにはいかない。一つは、三原じゅん子議員の「八紘一宇」発言と、安倍首相の「我が軍」発言である。

「八紘一宇」は太平洋戦争中に、他国侵略のスローガンとして用いられた。よもやこの言葉を現職の政治家が言うとは思わなかったが、三原議員は「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」だと思っているらしい。

たしかに「八紘一宇」は『日本書紀』に由来しているが、あくまで由来に過ぎず、『日本書紀』に「八紘一宇」という言葉は出てこない。この言葉は『日本書紀』の「兼六合以開都、掩八紘而爲宇」に基づいて、大正時代に田中智學という人が作った造語である。この言葉に価値観を吹き込んだのは田中智學で、たかだか百年程度の歴史しかなく、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」ではない。

そもそも「兼六合以開都、掩八紘而爲宇」は対句になっている。対句は対であることに意味があり、対句の片方を抜き出して言葉を造っていること自体、「八紘一宇」という言葉が、恣意的に作られた、あまり素性のいいものではないことが分かる。

問題は自民党の政治家が、こんな問題のある言葉を、「日本が建国以来、大切にしてきた価値観」だと思い込んでいることだ。当選して5年、一体何を勉強してきたのだろう。

一方、安倍首相は、自衛隊を「我が軍」と表現したが、これは大変な失言である。

日本国憲法九条第二項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とあり、「我が軍」というと自衛隊が「陸海空軍」であることを認めてしまうからである。

実質的に軍であっても、あくまで〈自衛隊は、軍隊ではない〉ということによって、憲法違反ではないとしてきたのである。これを首相が「軍」と言ってしまうと、憲法違反であることを認めたことになる。ならば、自衛隊を廃止しなければならない理屈になる。

自衛隊を違憲と考えてきた人たちは、「軍と名が付いていなくても、『その他の戦力』じゃないか」という論拠を持っていたわけだが、首相自身が軍と認めたのだから、自衛隊の存在は誰もが認める違憲になってしまったのである。

言葉のことを言うと、「言葉狩りではないか」という反論がでる。しかし、政治は言葉が全てだ。八紘一宇発言からは、三原議員が八紘一宇という言葉の本当の歴史を知らないことが伺えるし、我が軍発言からは、安倍首相の憲法を軽んじる姿勢が伺える。

さらに、これらの問題発言に対する批判の少なさは、国民の政治への興味の無さを伺うことができるとも言えるだろう。政治に興味を失った国の政治家としては、あるいはふさわしいのかもしれない。
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人として生まれてきたからには、誰でも一度はGoogleストリートビューの通行人になりたいと思うものだ。

僕は今まで2回、ストリートビューの撮影車を見かけている。

一度目は、家の近所の道幅の狭い住宅街で、怪しいプリウスがゆっくり駐車場から出てきた。隣をすり抜けると、ドアにGoogleのロゴがある。その時は、まだストリートビューのサービス自体が始まっていなかったので、Google営業車か何かだろうと思った。

二度目は、先月の終わりである。この時は後ろからゆっくりと、撮影車に抜かれた。車はやはりプリウスで、以前は小さなロゴだけだったのに、今は大きなGoogleMAPの柄が入っている。前回とは全然違う場所だったが、やはり住宅街だったので、それほどスピードが出ていない。これはチャンスだ。

しばらく、早足で追いかけて、引き離されそうになったら小走りして、100メートルほど付いていった。抜かれる前にも撮影していたはずだから、これなら念願のストリートビュー通行人になれるに違いない。

あれからひと月、そろそろ通行人になれた頃だろうと思い、撮影車に会った場所を確認したみたが、僕らしい人間は写っていなかった。Web版とandroidアプリ版、両方確認したみたが、やはりない。残念!

そのまま、自分にゆかりのある所をあちこち見てみたら・・・・。あっ!

ストリートビューに写ったおばあちゃん


うちのおばあちゃんが写ってた。

ところで、androidって、電源ボタンと音量下げボタンを同時に押すと、スクリーンショットが撮れるって、知ってました?

Androidスマートフォンのスクリーンショットの撮り方:マイナビニュース
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もうすでに死語になっているような気がするのでちょっと説明しておくと、かつて、はしかは子供が必ずかかる病気で、「はしかのようなもの」というと、若い頃に一度はハマってしまう物事をいう。このブログでも、一度タイトルとして使ったことがある。

文学研究者がかかるはしかのようなもの:2013年06月23日

このはしかがついに撲滅されたという。これで「はしかのようなもの」は、完全に死語になった。

はしか:日本で「撲滅」 WHOが認定:毎日新聞
厚生労働省は27日、世界保健機関(WHO)が同日、日本をはしか(麻疹)の「排除状態」にあると認定したと発表した。「排除」は、日本に土着するウイルスによる感染が3年間確認されない場合に認定される。日本の認定は初めて。
はしかは高熱や全身の発疹などが出るウイルス感染症で、肺炎や脳炎を合併して死亡することもある。日本では2007年、10代から20代の若者を中心にはしかが全国的に流行し、対策が進む海外から「はしか輸出国」と批判された。このため、予防指針を示して排除に向けた取り組みを進め、15年度までの排除認定を目指していた。

2007年の大流行のことは、このブログで記事にしている。ある日、学校に行ったら、副校長から「はしかにかかったことがあるか、予防接種を受けたことがあるか」と聞かれて、流行していることを知ったのである。
はしか:2007年05月19日
今日は行く先々の学校で、副校長から「はしかにかかったことがあるか、予防接種をしたことがありますか」と聞かれた。なんでも、非常勤をふくめた職員全員に聞くことを義務付けられており、どちらもない人は、安く予防接種を受けられるのだそうだ。


「日本に土着するウイルスによる感染が3年間確認されない場合に認定される。」ということは、2012年には撲滅されていたことになる。2007年の大流行から、5年で撲滅できたのはすごいと思うが、「対策が進む海外から「はしか輸出国」と批判された」ということは、外圧が無ければ撲滅できないのかという、ちょっと情けない気もしなくもない。
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昔は今よりもおおらかだった。

僕もそう思う。例えば、僕の実家は文房具屋をやっていたが、僕の母は小学生の僕に店番をさせて、よく買い物に行っていた。ところが、二時間経っても、三時間経っても帰ってこない。なんだかおかしいなと思って店の外に出ると、数十メートル先で、近所のおばさんと立ち話していた。それほど田舎ではない。埼玉のベッドタウン(死語)の話で、人口は今よりも多かった。

しかし、両親に聞いてみると、自分が子供のころはおおらかだったと言うし、祖父母に聞いても同じである。それでは「昔は今よりもおおらかだった」という感覚はいつまで遡れるのだろうか。

最近『今昔物語集』の中に、この感覚を見つけることができた。どうやら、平安時代の人も「昔は今よりもおおらかだった」と思っていたらしい。

巻29第12話 筑後前司源忠理家入盗人語 第十二:やたナビTEXT

源忠理が方違えのため、自分の家から出て近所の小家で寝ていた。すると、夜中なのに外から人の声がする。耳を澄ませて聞いてみると、盗賊どもが自分の家に押し入る算段をしているらしい。泥棒の会話から、自分の家で使っている侍が、なかだちをしていることも分かった。

忠理は一計を案じて、この盗賊に一泡吹かせるのだが、その部分、『今昔物語集』には次のように書かれている。

近来の人ならば、明るや遅きと、宿直をも数(あまた)儲け、彼の「仲するぞ」と云つる侍をも搦め置て、入来らむとせむ盗人をも尋ねて、別当にも検非違使にも触るべきに、其の比までは、人の心も古代也けるに合せて、其の筑後の前司が心直しき者にて、・・・

近頃の人ならば、夜が明けるや遅きと、警備を厳重にして、あの「仲立ちするぞ」と言った侍をも捕まえて、入ってこようとする泥棒も逮捕して、別当にも検非違使にも突き出すはずだが、その頃までは、人の心も昔風だったのに加えて、その筑後前司が心のまっすぐな人で、・・・

忠理が何をしたかというと、家財道具一切を別の場所に移動して、家を空にしたのである。侍の導きにより、盗賊達は忍びこむのだが、家探ししても何もない。騙されたと思った盗賊たちは、例の侍をボコボコにして縛って帰って行った。

盗賊の仲立ちをした侍は、ちょっと忠理からいじめられただけで、追い出されなかった。さすがに居づらくなったのか、自分から出て行くのだが、ここでも「昔の人」の考え方の違いと捉えられている。

然れば、近来の人の心には替たりかし。其の仲しける侍は、其の事とも無くて、其の所をば出て去にけり。

忠理がいつの人かイマイチはっきりしないが、10世紀後半の人らしい。『今昔物語集』の成立はこれまたはっきりしないが、12世紀前半だろうと言われている。100〜200年ぐらい前の出来事という感覚である。今でいえば、明治時代ぐらいの感覚だろうか。

たぶん人は、永遠に「ちょっと昔はのどかだった」と思い続けているのだろう。面白いことに、これが「すごく昔」になってくると、全然のどかな感じがしない。なにしろ、自分のところの使用人が、窃盗団の仲立ちをしちゃうのである。
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さて、今日は卒業する皆さんに、是非お話しておきたい事があります。「人と言う字は人と人が支えあっている」というガセネタを流した国語教師がいるようですが、あれは真っ赤なウソです。
人

【人】
左の縦棒が手で、右が足を表しています。人は常に一人です。こんなウソを教えるとは、とんでもない先生もいたものです。最近やっとウソを認めたようですが、遅すぎます。(武田鉄矢が「金八先生」の名言を完全否定 「“人”という字は支え合っていません」:LivedoorNews)

しかし、安心してください。人が二人並んだ字もあります。
従

【从=従】
人が二人並ぶと「従う」という意味になります。人は二人以上になると、一人がもう一人を従わせるものなのです。仲良く同じ方向を向いていても、実は右の人が左の人に従っています。たぶん嫌々です。

右向きに人が並んでいる字もあります。
比

【比】
人は二人になると、お互いを比べます。左の人が右の人を見て、あいつの方が金持ってるとか、モテるとか、比べています。

もう一つ、二人並んだ字があります。
北

【北】
この字は、人がお互いに背中を向けています。「北」という字です。現在では方角を表すことが多いのですが、もともとは人が背を向けた形で、「背(そむ)く」という意味でした。今でも「敗北」という熟語に「北」が入っているのは、その名残です。人は従い、比べたあと、仲違いして背を向けるものなのです。

人は二人いても、支えあったりしないということを、漢字は教えてくれます。では三人ならどうでしょうか。

衆

【众=衆】
三人の人の上に何か乗っていますね。これは目です。誰かが人々を監視しているのです。監視されている人は同じ方向を向いています。監視されて、同じ方向を向かされるのが人というものです。

さて、漢字は人は一人で生きるもので、誰かを頼ってもろくな事にならないということを教えてくれています。皆さんも、簡単に人を信用してはいけません。そいつは、あなたを従わせようとしているのかもしれないし、あなたと比べて妬んでいるのかもしれないし、そもそもあなたのことが嫌いなのかもしれません。

・・・というようなことを、昔、中学校の卒業生に喋ったら、憐れむような目で、「先生って悲しい人だね・・・」と言われた。
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3月2日に書いた記事が予想外にバズってしまった。

なぜ大阪の弁当給食がまずいのか:2015年03月02日

上の記事は、橋下市長を批判するつもりで書いたのではない。自分の経験と見聞から、この給食は餌と言われても仕方がないレベルだった可能性が高く、それにはちゃんと理由があるということを言いたかったのである。

「橋下市長を批判するつもりで書いたはない」というのは、どんなに不味くても、給食は必要だと思うからである。

中学校で教えていたころ、一日の食事のうちで、給食だけがまともな食事だという生徒がいた。親は夜の仕事で、毎日その生徒に夕食を買うためのお金だけを渡していた。彼の夕食はカップ麺やお菓子だった。見るからに不健康そうで、授業中寝てばかりいた。

この生徒の場合は貧困というよりネグレクトに近いものだったが、格差が広がり続ける今、給食の重要性はますます増してくるだろう。今の学校給食は、戦後の欠食対策から始まったが、再び同じ意味を持ちつつあるのだ。

だから、「デリバリー式給食など、不味いからやめてしまえ」と言う気にはとてもならないのである。その一方で、生徒がカップ麺やお菓子よりも美味いと感じるものでなければ、永久にそんな食事が定着してしまうのではないかという危惧もある。「食育」という言葉は嫌いだが、「食育」に意味があるとすれば、そういう生徒の食習慣を直すことだろう。

だから、あのエントリーは橋下市長を批判するどころか、応援するものである。何もない所から、給食の施設を作り、まともな給食を提供しようとすれば、時間も金もかかる。できる限り早く導入するなら、デリバリー式以外はない。しかし、デリバリー給食で済まそうとすれば、どうしても味が悪くなる。

橋下市長は、生徒が贅沢を言っていることにしたいようだ。しかし、中学生も市民である。政治家が恫喝して市民の意見を握りつぶしているのである。不味いことを認めた上で、なぜ不味いのか、今後どうするつもりなのかを語るのが、まっとうな政治家の仕事だと思う。
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生徒の発言に市議愕然、橋下氏「ご飯一粒残したら、親に怒られた。食育を」
 27日に行われた大阪市議会の代表質問で、橋下徹大阪市長(大阪維新の会代表)と民主系市議団の福田賢治幹事長が市立中学校の給食事業をめぐり論戦になった。福田市議は「『給食ちゃうで、餌やで』という子供がいる」と述べて味が不評であることを強調。これに橋下市長は「僕の子供が言ったら、大激怒だ」と反論し、逆に子供への「食育」の必要性を訴えた。
 給食は業者に弁当の配送を委託するデリバリー方式を採用。衛生上の理由からおかずが冷蔵保存されるため、「冷たくておいしくない」などと評判は芳しくない。

この仕事を始めてから20年以上になるが、給食を食べなかった年はない。さらに、昼は中学校で給食、夜は定時制高校で給食を食べるという時期が長かった。今は中学校はやっていないが、定時制高校は週三回行っているので、いまだに給食を食べている。だから、給食にはちょっと詳しくなった。

その経験でいうと、生徒から「餌やで」と言われるのは、相当不味い給食である。この記事では、冷めていることが指摘されているが、おそらく問題はそこではない。

学校給食にはいくつかの方式がある。学校の給食室で作る「自校式」と、給食センターで作って、区域内の学校に分配する「センター式」がポピュラーである。最近は、合理化のため、一つの学校の給食室で作って、その学校以外の学校へ配送するグループ式とか、上の記事にあるような、弁当業者に作らせる方法(上の記事に合わせて、デリバリー式とする)もでてきた。

味はだいたい次のような感じ。左が一番美味く、右になるほど不味くなる。

自校式>=グループ式>センター式>>>(超えられない壁)>>>デリバリー式

自校式とグループ式は、栄養士さん次第で、美味くも不味くもなる。栄養士さんがアレだと、センター式の方がまだましということも理論上は無くはない(なかったけど)。だが、デリバリー式の不味さは次元が違う。

かつて、東京都の定時制高校の給食は、どんなに生徒数が少なくても、すべて自校式だった。これは人件費と光熱費がかさむため(給食費そのものは300円ちょっとだが、実際は1食2000円ぐらいかかっていたらしい。)、石原都知事の時代になってから、合理化が進み、グループ式や業者によるデリバリー式が増えた。

グループ式はともかく、デリバリー式になった学校は悲惨だった。中学校と違い、定時制高校は給食を食べるかどうかは自由である。とはいえ、短い時間(定時制の給食時間は25分程度しかない)内で食べに行くのは不可能なので、ほとんどの生徒は給食を食べる。

ところが、その学校はあまりに給食が不味いから、全生徒の3分の1程度しか食べていない。給食を食べない」生徒は、コンビニで弁当を買うか、9時まで我慢していたのである。

この給食の不味さはハンパではなかった。保温器に入って来るので、決して冷たいわけではない。もっと根本的に不味い。

とにかく、一味足りないのである。実際、密かに塩を持って行って、おかずにちょっとふりかけてみたら、だいぶマシになった。ただし、衛生上の理由から、給食室への持ち込みは禁止されているので、これは反則である。

この業者は、僕がその学校に行って一年後に、指定を外されたため、目出度くグループ式になったのだが、その時、なぜあれほど不味かったのか、いろいろな人に聞いてみた。

学校給食業者の指定を受けるのには、衛生基準等がものすごく高く、普通の仕出し屋では、簡単に取れないらしい。この業者が外されたのも、衛生基準が新しくなり、採算が取れなくなったのが理由らしい。

普通の弁当業者以上の衛生基準を満たそうとすれば、それだけでコストがかさむ。その上、牛乳を必ず入れなければならないとか、何品以上(20品程度だったと記憶している)の食材を使わなければならないとか、何カロリー以上でなければならないとか、給食は規格が厳密に決まっている。

必ず入れなければならない牛乳でお金を取られ、食材数を増やすための野菜で取られる。おまけに、年間の給食費は決められているので、その年、万一食材が高騰したときのための金を取って置かなければならない。2月から3月頃、急に給食が豪華になることがあるが、これは余ったお金を使い切るためである。

となれば、採算に合う給食を作るには、栄養価には関係ない調味料、特に値段の高い味噌・醤油・酒・だしなどをケチるようになる。さらに悪いことに、温度が低いと、味を感じにくくなるので、さらにまずく感じられる。これが、デリバリー式給食がひと味たりない理由である。

僕は大阪市の給食を食べていないので、この推測があたっているかどうかは分からないが、生徒が「餌」と表現している以上は、冷めていることだけが問題ではないのは間違いない。冷めていたら不味いのなら、親の作った弁当だって不味いはずだ。

調味料を使うのは人間である。だから、中学生が「餌」と表現したのは、あながち間違っていないのである。
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世の中は信用で成り立っている。

信用とは、「この人(or法人or物)は以前こうだったから、今後は信用できる(orできない)」ということである。つまり、信用とは過去の実績を反映するものである。

クレジットカードのクレジットとは、まさしく「信用」という意味で、ちゃんと返済していれば、信用が付き利用限度額が増えていく。もちろん、これはお金だけではない。

先日、安倍首相は、民主党議員の質問に対して、ヤジを飛ばした。ヤジを飛ばすこと自体がおかしいが、さらに悪いことに、ヤジの内容が全くのウソだった。これは、安倍首相自身認めている。

安倍首相、「日教組に補助金」発言を訂正 ヤジへの説明:朝日新聞デジタル
安倍晋三首相は23日午前の衆院予算委員会で、民主党議員にヤジを飛ばしたことへの説明で「日教組(日本教職員組合)は補助金をもらっている」などと20日に発言したことについて、「補助金(をもらっている)ということは私の誤解だった。正確性を欠く発言だった」と訂正した。民主党の山井和則氏の質問に答えた。

安倍首相のヤジをもう一度考えてみる。

まず、〈質問される側〉がヤジを飛ばすこと自体が信用を損ねることである。もちろん、〈質問する側〉ならいいというものではないが、常識的に考えて、これから反論する機会が与えられている、〈質問される側〉がヤジを飛ばすのは、質問を妨害する行為にほかならない。

このヤジは西川農相(当時)をかばうものだったのだが、そのかばい方が「お前らもやってるだろう」というのはいかなるものか。これは高校生が「あいつもやっているのに、なんで俺だけが叱られなきゃいけないんだ」というのと同じことである。言うまでもないが、疑惑が事実であれば、仮に民主党議員も同じような問題を抱えていたからとて、許されるものではない。こんなのでかばえると思っている人間は信用できない。

一番ひどいのが、その「お前らもやってるだろう」が、全くの思い込みのデタラメだったということである。簡単に言えば、安倍首相はウソを言ったわけで、ウソが一番信用を損ねるのは言うまでもない。

この一連の安倍首相の態度は、もっとペナルティを課されてしかるべきものだと思う。ところが、たいした問題にはならず、支持率もそれほど低下していない。それは何故だろうか。

簡単に言えば、大方の日本国民は、首相が野党のガセネタを流したところで、自分とは関係ないと思っているのである。だが、ウソとつく人間は誰にでもウソをつく。それが、いずれ自分に向けられる可能性を考えなければならない。

また、日本国民は信用をその程度にしか考えていないということもできる。信用できない人物を支持する人間が、信用されないことはいうまでもない。
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