2015年04月

今月、日経平均がついに2万円超えをした。なんと15年ぶりである。最後に2万円を越えたのは2000年4月で、所謂ITバブルである。

当時、僕は投資に興味がなかったが、それでも光通信なんかがIT関連株として話題になっていたのを覚えている。IT関連企業とはコンピュータ関連企業のことを言うのだと思っていたら、単なる携帯電話を片っ端から配るだけの会社が、IT関連銘柄としてもてはやされているのを見て、何だかおかしいなと思っていたら、やっぱりプッチンとはじけた。

2万円はいかなかったものの、18000円代まで株価が上がったのが、小泉内閣時代の2007年である。これは2002年から続く長い景気拡大だったが、2007年7月をピークにアメリカのサブプライムローン危機により、プッチンとはじけた。もう8年も前のことだが、すでに株式投資を始めて数年経っていたので、よく覚えている。

この二つの株高と比べると、今の株高は、何だか様子が違う。どちらも絶頂期には、様々なメディアが株式投資のニュースを出していた。雑誌でいうと、経済誌はもちろんのこと、電車の中吊りにあるような週刊誌でも、「今注目の銘柄はコレ!」みたいな株式投資の特集が頻繁にみられた。

しかし、今回は15年ぶりの2万円代だというのに、そういう盛り上がりがない。よく「アベノミクスの恩恵は(いまのところ)富裕層に限定される」というようなことが言われるが、株式投資は富裕層でなくてもできる。これまでだったら、「この上げ相場で一儲け」となるはずだ。

国が相場を押し上げている官製相場だからだろうか。しかし、官製相場ならば、「政策に売りなし」で、安心して投資できるともいえる。一般誌で特集するようになったら相場は終わりというのがお約束なので、騒がない分まだ先があるという解釈もできるが、逆に投資したくないから騒げないという解釈もある。

そうだとすれば、投資したくない理由は二つ考えられる。

一つは、単純に投資する金がないこと。単純に種銭が少なくて、投資する金がないのである。したくないのではなくできない、そういう若い人は多いだろう。

もう一つは、信用の問題である。これまでの投資で損をすれば、いくら株高といっても、もう二度と投資はしたくないと思うだろう。また、政府を信用していなければ、いつアベノミクスの梯子を外されるかわからないから、種銭があっても投資に及び腰になる。

理由は他にもあるかもしれないが、いずれにしても、なんだかへんな感じがするのである。
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ツタヤの更新のついでに、『ゴルゴ13』(佐藤純弥監督・1973年)のDVDを借りてきた。

この映画、原作者のさいとうたかをが乗り気でなく、「主役は高倉健で、全編海外ロケ、主役以外は全部外国人なら作ってもいい」とムチャを言えば諦めると思ったら、東映があっさり飲んでしまったのでできたというすごいシロモノである。なお、高倉健はゴルゴのモデルである。

とはいえ、ただでさえいろいろムチャなことをするので有名な劇画の実写化である。だいたいこういうのは失敗するのがお約束で、高倉健をモデルにしたキャラクターを高倉健にやらせるのも、筋が通っているといえば通っているが、ゴルゴと高倉健はどちらも別のキャラクターとして個性がありすぎるから逆効果なのではないか。どうせ、ヘンなものだろうとおもったのだが・・・これが思った以上に面白かった。

舞台はイランである。それも、テヘラン・イスファハン・ペルセポリスの三個所。砂漠の中を健さんは縦目のベンツで突っ走る。ペルセポリス遺跡での銃撃戦もかっこいい。役者は健さん以外全部イラン人。かなり実力のある人ばかりらしい。セリフはペルシャ語でしゃべっていて、それを日本の声優があてている。

イランで撮影など、今ではとても考えられないが、当時はパーレビ国王の時代で、今テレビで見るような宗教国家イランの風景とは全然違う。このころは世俗国家なので、昨年行ったトルコに似た、西欧的な雰囲気だ。この映像だけでも、かなり貴重なものではないだろうか。

この映画は基本的に健さんのアクションを見る映画である。だから、原作の『ゴルゴ13』よりもアクションシーンが多い。素手の格闘・銃撃戦はもちろんのこと、自動車はハデに炎上するし、地雷は爆発するし、ヘリコプターも墜落する。どこからどう見ても重そうな縦目ベンツのカーアクションはなかなか見ものである。どんだけ金かけてるんだか。

その分、ストーリーはちょっと薄味。某国の組織から、イランに潜伏する人身売買組織の頭目を暗殺せよという依頼が来て、ゴルゴがそれを遂行するだけ。頭目は例によって正体不明で、影武者が何人もいるのだが、それもわりと簡単に見破られてしまう。さいとうたかをはこの映画をあまり気に入らなかったらしいが、そのあたりが原因かもしれない。

ゴルゴ要素が無駄に多すぎるのも気になった。ゴルゴ要素とは、『ゴルゴ13』ファンならいくつも出てくるアレである。美女と意味なくアレするとか、後ろに立った人をいきなりアレするとか、天井から吊るされてアレとか・・・そこまでするなら健さんの白いアレ一丁も見たかった。

というわけで、ゴールデンウィークにいかがでしょう。


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25日、大妻女子大で行われた、説話文学会の例会に行ってきた。講師は小山聡子氏(二松学舎大学准教授)、上野勝之氏(国際日本文化研究センター共同研究員)、森正人氏(熊本大学名誉教授)の三人によるシンポジウムで、テーマは「モノノケの宗教・歴史・文学」だった。

小山氏の発表は、「囲碁・雙六によるモノノケの調伏ー中世前期を中心としてー」(これが「宗教」)というものである。

もともと、この手のゲームは、神意を聞く占いに用いられたことはよく知られているが、それが中世になると、病気平癒などの調伏にも使われていたそうだ。

題名だけ聞くと、どうやって囲碁や双六でモノノケをやっつけるのかと不思議な感じがするが、小山氏によると、音を立てることが大事だったのではないかという。具合の悪い時に、枕元で囲碁なんかパチパチやられたら、ウザいことこの上ないが、当時の人々は頼もしく聞いていたのかもしれない。とはいえ、資料によると、囲碁や双六で病気を治すなんてアホくさいと思っている人もいたらしい。

続けて、上野氏が「"託宣"の資料的検討ー平安時代を中心にー」(歴史)というテーマで発表した。史料や文学作品に現れた、託宣(人の口を通じて神霊が語ること)の諸相を提示してくれた。

ホンモノである証明に、子供に憑かせるとか(知識がないのにしゃべるからホンモノ)、次回来るときを予告する霊とか、託宣のついでに憑かれてる人が自己主張するとか、託宣の胡散臭さはたまらない魅力がある。

最後は、森正人氏の「モノノケの憑依をめぐる心象と表現」(文学)である。

文学におけるモノノケが、どのように表現されているかを、テキストをもとに検討する。様々な資料から、モノノケの多くは、人の体内に入ることは少なく、ほとんどは人の首や背中に〈のる〉か背面から〈つく〉と考えられていたいう。

妖怪ウォッチの妖怪だって、たいがいそのへんにいるから、これは当たり前のことのようだが、資料をまとめて見たのは初めてだ。逆に言えば、この時代のモノノケ観が今まで続いているともいえる。

森氏の発表で興味深かったのが、『源氏物語』の解釈に関する部分である。

「夕顔巻」で夕顔が「物におそはるる心地」とか「物におそはれたる人」という表現があり、夕顔がモノノケに襲われていると一般的には解釈されているが、この「物におそはる」は「悪夢や胸苦しさによりうなされる」という意味で、モノノケに襲われている様子を描写したものではないという。

となると、夕顔が誰の霊に襲われたかを検討することは無意味になる。僕は『源氏物語』には詳しくないので、これ以上コメントできないが、考え方として面白いと思った。

さて、シンポジウムなので、このあとディスカッションがあったのだが、用事があったので抜けだしてしまったので、どんな討論があったのか分からない。お聞きになった方がいらっしゃったら教えてください。

それでは最後に、電気グルーヴ『モノノケダンス』をどうぞ。

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8.6秒バズーカーのギャグ「ラッスンゴレライ」が「落寸号令来」で、原爆投下を揶揄しているとかいう、ふざけ切った読み方をして、何が何やら、ただ意地悪く反日扱いにしている人たちがいるのを知って、太宰治『十五年間』の以下の文章を思い出した。

太宰治『十五年間』(「文化展望」1946(昭和21)年4月号)
昭和十七年、昭和十八年、昭和十九年、昭和二十年、いやもう私たちにとっては、ひどい時代であった。私は三度も点呼を受けさせられ、そのたんびに竹槍突撃の猛訓練などがあり、暁天動員だの何だの、そのひまひまに小説を書いて発表すると、それが情報局に、にらまれているとかいうデマが飛んで、昭和十八年に「右大臣実朝」という三百枚の小説を発表したら、「右大臣(ユダヤジン)実朝」というふざけ切った読み方をして、太宰は実朝をユダヤ人として取り扱っている、などと何が何やら、ただ意地悪く私を非国民あつかいにして弾劾しようとしている愚劣な「忠臣」もあった。私の或る四十枚の小説は発表直後、はじめから終りまで全文削除を命じられた。また或る二百枚以上の新作の小説は出版不許可になった事もあった。しかし、私は小説を書く事は、やめなかった。もうこうなったら、最後までねばって小説を書いて行かなければ、ウソだと思った。それはもう理窟はなかった。百姓の糞意地である。

意味を解説しなけりゃ分からないのでは、反日だろうが非国民だろうが意味がない。ようは言いがかりを付けて、誰かをいじめたいだけである。

こんな説をまともに信じるのは、太宰の言う通り、「愚劣な「忠臣」」というより外はない。2015年にも、そういう忠臣がいたということを忘れないように、ここに記す。

#当初間違えて「雷寸号令来」と書いていたので訂正。あまりにバカバカしいから間違えちゃったよ。
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『二十四の瞳』の岬の分教場に行った:2015年04月21日のつづき。

二十四の瞳映画村は岬の分教場だけでなく、集落そのものがセットとして残されている。
二十四の瞳映画村

集落はこんな感じ。一つ一つの建物は、セットそのままのもののほか、お土産物屋やレストランなどになっているものもある。
集落

菜の花畑。遠くに大石先生と子どもたちの銅像が見える。
大石先生と子供たち

これが銅像。
ジャンケンする子供たち

で、銅像の題名は、「せんせ あそぼ」らしいが、このプレート、よく見ると書いた人は、流行語大賞を取ったあの人だった。ブッチ、ブッチ、あんたの時代は良かった。冷めたピザとか言ってすみません。あのころは、総理大臣の悪口言ったぐらいで反日とか言う奴はいなかったよ。
小渕さん・・・

前回の分教場の近くに教員住宅がある。といっても、ほかの民家と変わらないのだが、部屋の中まで見られるのがみそ。
教員住宅

実は、ここに行くまで、『二十四の瞳』の映画はおろか原作も読んだことがなかった。なので、ここが大石先生の家だと思っていて、「若い女性の家にしてはなんだかじじむさいなぁ」と思っていたのだが、御存知の通り、大石先生は自転車で遠くから通っているのであって、こちらは引退間際の男先生の家である。

校舎と教員住宅の前は瀬戸内海。
教員住宅の前の海

小物として、いたるところにレトログッズが置いてある。写真の物は、唐箕・バカボン・大村崑。
唐箕・バカボン・大村崑

小豆島は醤油の醸造で有名で、最近「ひしお丼」なるものを名物として押しているらしい。ひしおは醤油のことだから、醤油が主役で、何を乗せるかは店によって違うらしい。映画村のひしお丼は「カリカリ豚ともろみのひしお丼」。雄々しくそそり立つキュウリがキュート。
ひしお丼

映画村の近くは、醤油の醸造所の密集地帯で、自動車で走っていて映画村が近づいてくると、次第に醤油の匂いがしてくる。醤油蔵は、なかなかフォトジェニックな建物が多かったのだが、雨が降ってきたのと、レンタカーを返却する時間が迫っていたので、写真を取ることができなかった。残念。
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春休みに、小豆島と金刀比羅宮、その他もろもろ香川県に行ってきた。で、今日は小豆島。

小豆島といえば、壺井栄『二十四の瞳』である。といっても、『二十四の瞳』に小豆島が舞台であるという記述はなく、壺井栄が小豆島出身であることと、「瀬戸内海べりの一寒村」が舞台となっていることから、映像化される際には、小豆島が舞台となっている。

『二十四の瞳』は二回映画化された。最初は1954年公開の木下惠介監督・脚本、高峰秀子主演のもの、二度目は1987年公開の朝間義隆監督・田中裕子主演の木下版のリメイクである。白状すると、僕はどちらも見ていない。

さて、木下惠介版の「岬の分教場」は、苗羽小学校田浦分校という実際の小学校で撮影された。これは現在でも残っていて公開されている。明治35年の木造建築で、昭和46年まで実際に小学校として使われていたそうだ。
岬の分教場(全体)


こちらが教室。木造校舎で学んだ経験がない上に、なにしろこういう仕事をしているので、あまり懐かしさは感じない。
教室1


1・2年生教室の机。びっくりするぐらい低い。そして綺麗。ここ重要。
一年生の机


こちらは56年生教室の机。
5・6年生の机

なぜ人は小学校高学年になると、机に穴を開けたりのこぎりで切ったりしたくなるのか。この机も、何度もゴルフ場になり、テストの解答用紙に穴を開けたことだろう。

もっとも、この机は一枚板だから、工作しやすかったはずだ。僕らの時代はすでに硬いメラミン樹脂化粧板の貼ってある合板だったから、かなり傷つけるのが難しかった。それでも、机をゴルフ場にしていたのだから、人間のカルマとは恐ろしいものだ。

柱に身長を計る目盛りが付いてた。
身長を計る柱

廊下に立たされてみた。こんなでかい小学生はイヤだ。
立たされてみた

こちらは本物の小学校だったのだが、後に作られたリメイク版では、セットとしてこれとそっくりの校舎が作られた。これは1キロ程度離れた、「二十四の瞳映画村」というところにある。

最初の写真と比べてもらえばわかると思うが、ほとんどレプリカである。違いは少し新しい(といっても30年経っているのだが)臭いがするのと、ガラスが波打っていないことぐらいだろうか。とはいえ、知らなければセットだとは思われないだろう。

一番の違いは立地で、ホンモノは集落の中にあるが、こちらは目の前(写真の右側)が海になっている。撮影用だけあって、フォトジェニックだ。採光もホンモノより良い。
岬の分教場セット(全体)

教室。ほとんど同じだが、ホンモノは3教室であるのに対し、こちらは2教室+職員室。
岬の分教場セット教室

廊下もほとんど同じ。
岬の分教場セット(廊下)

こちらがホンモノの廊下。同じ所で撮ったつもりが全然違った。
岬の分教場(廊下)

大石先生といえば自転車。ロッドブレーキが懐かしい。三角フレームではないのもポイント。大石先生がわざわざ通勤用に買ったから、女性用なのである。
自転車

二十四の瞳映画村は学校以外にも、教員住宅だの生徒の家だのがあって、なかなか面白い。次はそれをご紹介。
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税金の納め方は学校で教えるべきなのか - ファンタジー小説作家の脱税事件をうけて:togetter

「税金の納め方は学校で教えるべき」というのは「学校ではすぐに役に立つことを教えるべきだ」という考えの延長にあるものである。僕は、そういう考え方には批判的で、学校は教養を学ぶところであると考えている。

正直なところ、僕自身、確定申告をするようになって、なぜこんな大事なことを学校で教えてくれなかったのかと思った。もちろん、僕の場合は足りない税金を払う方ではなく、返してもらう方である。確定申告しなくても脱税にはならないが、払いすぎで損をする立場で、全く知らなければ一生払い過ぎることになる。ある意味、脱税で一回とっ捕まるよりよほど痛い。

もし、中学三年生で細かい税金の払い方を習ったとすると、僕の場合、実際に確定申告したのは7年後だった。ここに二つ問題がある。

まず一つは、義務教育期間で税金の払い方を学んで、実際にその時が来るまで覚えているだろうかということである。僕の場合、中学校を出て7年間は、消費税以外の税金を全く意識しないで生きてきた。学校を出て、すぐに就職して源泉徴収されるだけの人であれば、この期間はもっと長くなるだろう。自分に縁のないものをそんなに長く覚えていられるだろうか。

そもそも、学校で税金のことを全く学ばないわけではない。税金の用途、直接税・間接税から日本の所得税が累進課税であることなど、税金の概念について、ある程度のことは学んだ記憶がある。件のファンタジー小説家にしても、その程度のことは学校で学んだはずだ。意図的な脱税で無かったと仮定して、学校で学んだことをすっかり忘れていたということだろう。概念すら忘れるのだから、それ以上のことを学んでも、効果があるとは思えない。

それよりも、もっと大きな問題は、税制は時代によって変わっていくということである。源泉徴収が未来永劫続くとは限らない。税率はいくらでも変る。税金の種類や控除も毎年のように変る。いずれはe-Taxももっと簡単にできるようになって、税務署に行く必要自体がなくなるかもしれない。

具体的な税金の納め方は〈すぐに役に立つ〉ことかもしれないが、〈生涯役に立つ〉ことではないのである。ヘタをすると、卒業後すぐに〈役に立たない〉ことになっている可能性すらある。やる必要があるのは、卒業後、すぐに必要になる可能性の高い、高校の職業科ぐらいなものだろう。

それよりも大事なことは、社会科で学んだ税金の概念を応用し、国語科で学んだ読解力で法律や税金の解説書を理解し、数学科で学んだ計算で税金を計算することである。これなら、学校で学んだことは、未来永劫役に立つ。そこから先は必要に応じて自分で勉強すべきことだ。

すぐ役に立つことは、すぐに役に立たなくなることでもある。学校はそういうことを教える場ではない。
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何かと話題のイスラム教だが、最近イスラム教の経典『コーラン(クルアーン)』を読んでいる。テキストは岩波文庫『コーラン』(井筒俊彦訳)。



その宗教について全く知識がない場合、経典だけを読んでも、さっぱり理解できないのが普通である。例えば、仏教の経典は種類が多すぎるし、抽象的なものが多いから、どれを読んでもそれだけでは理解できない。聖書は仏教の経典よりははるかに分かりやすいと思うが、だからといって読んでもユダヤ教やキリスト教を理解することは難しい。

同様に『コーラン』を読んでも分からないだろうと思って読み始めたのだが、意外にも非常に分かりやすい。

もちろん、信仰している人からは「『コーラン』(それもまだ一部分)を読んだだけで分かった気になるな」と言われるかもしれないが、何も知識がない状態で、小難しい解説書を読むよりも、『コーラン』そのものを読んだほうが、はるかに分かりやすい。

これは仏典や聖書と比べると、具体的に書かれているからである。仏典のように抽象的(具体的な仏典もあるが)ではなく、旧約・新約聖書のように物語的でもなく、あれをしろ・これはするな・神とはこういうものだ、ということが、預言者ムハンマドを通して具体的に語られる。だから、物語的な面白さはないが、非常に分かりやすい。これは成立の新しさ(7世紀)に起因するものだろう。

『コーラン』を読む上で、必要な知識が二つある。

まず、イスラム教はアッラーだけが唯一の神であるとする一神教であり、預言者ムハンマドはアッラーからの啓示を受け、それをまとめたものが『コーラン』であること。

アッラーはユダヤ教・キリスト教のヤハウェ(エホバ)と同じ神で、アブラハム・ノア・モーセ・キリスト・ムハンマドはそれぞれアッラー(=ヤハウェ)の言葉を伝える預言者(人間)であるということ。

簡単に言ってしまえば、神はアッラーのみであり、『旧約聖書』のアブラハム・ノア・モーセ、『新約聖書』のキリストは、アッラーの言葉を伝える人間としてムハンマドの先輩に当たる。

したがって、イスラム教徒にとっては、『旧約聖書』も『新約聖書』も『コーラン』も、すべて同じ神の言葉を記した書物であり、同じように尊ぶべきものである。だが、もっとも大事なのは、最新の神の言葉を記した『コーラン』で、ユダヤ教徒とキリスト教徒は神の言葉を信じないバカヤローということになる。

逆に、ユダヤ教徒からすると、『新約聖書』と『コーラン』は所詮インチキヤローが騙った新興宗教であり、キリスト教徒からすると、『コーラン』はインチキということになる。

いうまでもなくこの対立は現在まで続いているのだが、同じ神を崇拝する宗教の苦悩を、すでに『コーラン』に読むことができるのである。
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コンビニに行ったら、「黄金のプッチンプリン」なるものが神々しく輝いていたので、買ってみた。

なんでも「黄金に輝くはちみつソース」がかかっているらしい。あと、モンレニオンバニラが隠し味だそうだ。何だかよく分かんないけど、うまそうだ。
黄金のプッチンプリン

この写真では分からないかもしれないが、入れ物もいつものプッチンプリンとは違い、黄金に輝いている。ちょっとスケベイスなるものに似ているような気がするが、本物のスケベイスを見たことがないから、本当に似ているのかどうかよく分からない。

黄金プッチン入れ物

いつもは容器のまま食べてしまうが、皿にプッチンしてみた。こんなふうにして食べるのは、いつ以来だろうか。すくなくとも、30年はやっていないと思う。お皿が中華風なのはご愛嬌。

プッチンしてみた

しかし、どことなくコレジャナイ感が漂う。喩えるなら・・・今、一瞬、適当かつスケベな喩えが思いついたのだが、春休み中とはいえ教育者なので自重する。

さて、お味だが、う〜〜〜〜〜〜〜〜〜ん、ビミョー。

とにかく甘い。はちみつソースがかかっているところには、普通のプリンではカラメルソースがかかっている。カラメルの仄かな苦味が、プリンの甘さを引き立てるのだが、これは甘いプリンに甘いソースがかかっているので、味にメリハリがない。

そのうえ、甘さとはちみつの香りで、「モンレニオンバニラの隠し味」とやらが本当に隠れてしまっているような気がする。「気がする」と自信なさげに書いているのは、花粉症で少々鼻がバカになっているからだ。僕の鼻が元気ならば感じられたのかもしれないが、プッチンプリンの魅力は単純明快な旨さだと思うので、そんな複雑玄妙な香りづけをされても困る。

Bigプッチンプリンなので、ちょっと大きい。飽きてきたので、試みに手元にあったウィスキーをかけてみたら、だいぶ旨くなった。やはり、プリンには苦味が必要らしい。カラメルの役割がこんなに大きいとは思っても見なかった。

ウィスキーよりもラム酒をかければもっと美味くなると思うけど、それではもはやプッチンプリンじゃないね。
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