2015年06月

なにしろ個人的な問題が多くて、とても追い切れなかったが、今月は政治・経済に関する様々な問題が出た。その口火を切ったのが、憲法審査会に呼ばれた憲法学者3人全員が集団的自衛権は違憲という結論を出したことである。

「集団的自衛権は違憲です」憲法審査会で専門家3人、全員ノーを突きつける:The Huffington Post
「集団的自衛権は違憲です」――6月4日の衆院憲法審査会で識者として呼ばれた憲法学者3人が、全員、集団的自衛権の行使にノーを突きつけた。この事態に菅義偉官房長官は『違憲じゃない』という憲法学者もいっぱいいる」と述べている。
この会はもともと、立憲主義について各党が推薦する有識者から意見を聞く場だったが、民主党の中川正春元文部科学相が集団的自衛権について質問したところから議論が発展した。今国会で安保関連法案の整備を進めようとしている政府にとって、与党が推薦した識者からも「違憲」とされたのは痛手だ。

三人の憲法学者の中には、自民党が推薦した人もいるので、集団的自衛権は違憲であるというお墨付きが付いたわけである。それでも政府は無理に通そうとしているのは、ご存知の通り。

人には理屈を越えた願望があって、日本を再軍備したいというのが、集団的自衛権を主張している人たちの願望である。しかし、政治は理屈で行われなければならない。願望を優先させて理屈を通さないことを無理という。

僕は、政治や経済というものは、無理をしても必ず〈見えざる手〉によって修正されると考えている。この場合の無理は、憲法の改訂をせずに集団的自衛権を認めるということである。

理屈の通った手続きを取っていない以上、仮に法案が通っても、いずれ修正されるだろう。国民にとって大事なのは、それがいつになるかである。

修正が遅ければ遅いほど、悪影響が強くなる。今ならたぶん何も起こらない。どこまでも無理を続ければ、自衛隊が他国の戦争に参加して、多数の犠牲者が出てから「あの時法案を通したのが間違いだった」となるのである。

これは改憲したい人から見ても、大変な損害である。もし、そんな事態になれば、少なく見積もっても50年以上は憲法改正論議はできなくなるだろう。

ことほどさように、政治上の無理というものは、誰にとっても得することは一つもないのだが、願望を優先するとそれが見えなくなる。

今月出てきた政治的問題は、すべてこの無理に起因している。これまでの政権は、無理でもそれなりの理屈を用意してきが、今の自民党は理屈を用意することすらしなくなった。これだけ無理が多くなれば、修正は近いと予想している。

僕は日本企業に何の期待もしていないので、日本株を買うことは滅多にない。よほど確実に儲かる公算があるか、ネタで買うだけだ。バンダイナムコホールディングス(以下バンナム)の株を買った理由は後者で、僕が妖怪ウオッチファンであることと、本社が品川区の青物横丁近辺にあるからである(近いうちに港区に移転するらしいが)。

朝の通勤電車は誰でもイライラするものだが、京浜急行が青物横丁駅に着いて、サラリーマンがドバっと降りると、「ああ、この人たちは僕のために働いてくれているのね。お勤めご苦労様です」と優しい気持になれる。実は楽天(こちらも近々引っ越すらしい)の社員も相当いるはずだが、そんなことはどうでもいい。株で儲かる儲からない以前に、憂鬱な通勤を気分よく行えるのは精神衛生上たいへんよろしい。

さて、そんなわけで、昨日、バンナムの株主総会に行ってきた。場所は有名人の結婚式でお馴染みグランドプリンスホテル新高輪・飛天の間。自宅から、わずか20分程度。その上、平日なのにたまたま代休で休み。これは僕のために用意してくれたに違いない。

株主総会というと、暇そうな年寄りとか、ヤバげな総会屋とかのイメージだが、そこはおもちゃメーカーだけあって、若い人も多い。子供連れで来ている人もいた。内容は、総会なんて町内会も大企業も似たようなもんだが、ちょっと違うのは、何人もゲームユーザーがやたらとディープな質問をしていたことだ。

会場の外では商品展示をしていた。こちらは、先日神田祭とコラボしたのでお馴染みラブライブ。ラブライブには全く興味がないが、神田明神は結婚式をしたところなので妙な縁がある
ラブライブ

太鼓の達人。15周年だそうだ。この真ん中に居座っている手足の生えた太鼓は、「和田どん」といい、顔の青いのは「和田かつ」というそうだ。Wikipediaによると、大田区糀谷に住んでいるらしい。やっぱり京急沿線だ。
太鼓の達人

一番場所を取っていたのが、ガンプラ(ガンダムのプラモデル)コーナー。こちらは35周年だそうだ。これまた、僕が少年時代、資本主義とは何かを教えてくれた、ありがたい商品(ガンプラの思い出:2007年03月04日参照)である。
ガンダム制服

歴代のガンプラ。
歴代ガンプラ

金型や図面も展示されてた。こちらは昔の金型。
ガンプラの古い金型

今の金型。
ガンプラの新しい金型

ちょっとびっくりしたのは、今のガンプラは一つのランナーで4色まで色が付けられるということだ。何を言っているか分からないかもしれないが、これをごろうじよ。
ガンプラ

普通、この枠には一色しか入らない。昔はそのまま組み立てると真っ白で、それに色を塗って完成させた。おかげで、ガンダム専用の塗料や刷毛も売れるので、たいへん美味しい商売だった。今は、色を塗らなくても、組み立てただけで一応ガンダムになるらしい。

プラスチック工場で働いていた父に聞くと、これは相当難しい技術らしい。これを作る射出成形機の説明が展示されていたが、機械そのものがガンダムカラーだった。
射出成形機の説明

さて、株主総会といえば、お土産である。
お土産

1/144のガンダム(※このキットにアムロは、入っていません)と、太鼓の達人の色鉛筆と自由帳。ガンダムは僕が友達に売りつけて一儲けしていた真っ白のもの。色鉛筆と自由帳は、象が踏んでも壊れないアーム筆入でおなじみ、サンスター文具製。サンスター文具もいつの間にかバンナムグループになっていた。東京生まれ文房具屋育ちの僕には、どちらも懐かしいにも程がある。

もう一つお土産がある。総会の出席票自体も、浅草花やしきのフリーパスになっているのだ。花やしき、お前もか。
お土産2
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Ubuntuを使うようになって二年近く経ったが、Windowsは完全に必要なくなった。しかし、ラベル印刷だけは、どうにもうまくできない。

Windowsで作る場合、excelなどのデータをWordに流し込んで作成するのが一番多いパターンだろう。Ubuntuだと、プリインストールされているLibreOfficeを使って同じようにできるのだが、何故だかやたらと難しい。やり方を書いてあるサイトを見て、やっとできるようになったが、そんなに頻繁にやる作業ではないから、やるたびに忘れてしまい、毎回同じサイトを見ないとできない。どうしてもこの方法でやりたい方は次のサイトをどうぞ。

OpenOffice/LibreOfficeでラベルの差し込み印刷:r271-635

もうちょっとマシな方法はないものかと思って、Ubuntuソフトウエアセンターから探してみたら、gLabelsなるラベル作成専用アプリを発見。これがとても使いやすかった。

インストールはすでに述べたように、Ubuntuソフトウェアセンターから簡単にインストールできる。GNOME用にできているので、他のLinuxディストリビューションでもリポジトリに入っているだろう。

まず、ファイル>新規でテンプレートを選択する。ベンダー(メーカー)、サイズ、型番等からテンプレートを選ぶのだが、日本で主流のエーワンなどは無いので、その場合、「独自のスタイル」タブを選択し、「追加(A)」でテンプレートエディタを呼び出して、数値を入力し作成する。もちろん、新しく作ったテンプレートは保存できる。
新規ラベルまたはカード

テンプレートを決めたら(続行を押す)、ラベルのデザインをする。デザインの方法は、ドローソフトなどと同じで、文字列の枠を作り、文字を入れればよい。文字の大きさやフォント等の設定は枠単位になる。

名刺などのように、全て同じラベルを作るときは、必要なだけ文字枠を作り入力する。文字枠はインライン編集に対応しておらず、プロパティの「文字」というタブに入力する。なお、文字枠だけではなく、バーコードやピクチャーを入れたり、簡単な図形を描くこともできる。
名刺例

郵便物などに貼る、ラベルシールの場合は、まず住所録等のデータを用意する。残念ながらexcel形式等には対応していないので、データをCSV(カンマ区切りのテキストファイル)で保存し直す。

今回は疑似個人情報データ生成サービスで生成したダミーデータを使った。
ダミーデータ

ダミーデータ2.csv

メニューから、オブジェクト>プロパティの結合を選択し、データの書式(カンマ区切りの値)とデータの場所を設定する。

プロパティの結合

レコードの選択はチェックマークを付けたデータが印刷される。通常、最初のレコードは見出しなので、チェックを外しておく。あとはOKを押す。

文字枠を挿入する。右側にプロパティが表示されるので、下の「結合フィールドの挿入」を押す。

ダミーデータの場合、
1・連番
2・氏名
3・郵便番号
4・住所
5・建物
に対応しているので、郵便番号を入れたいときは、3を選択する。

結合フィールドの挿入

このようにして、ラベルに必要な結合フィールドを並べていく。

レイアウト完了
<レイアウト完了>
これで完成。後は印刷するだけ。これを印刷すると、次のようになる。

出力.pdf

データをソートするとか、条件によってレコードを選択するというような、高度な技はできないが、最初のcsvファイルさえちゃんと作ってしまえば、Excel+Wordで作るよりよほど簡単である。
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人は教育を受けたり、様々な経験を積み重ねたりするうちに、だんだん賢くなる。いくら現代の教育に疑問を持っている人でも、これを疑う人はまずいないだろう。しかし、それは本当だろうか。

「賢い」の定義を「知識の積み重ね」に限定すれば、そのとおりである。やっとまともに喋れるようになった五歳児よりも、五十歳のオヤジの知識の方が少ないわけはない。だが、「賢い」の定義に「論理的な思考」を含めるとどうだろうか。

子供は、「あれは何?」「どうして?」としつこく質問をぶつけてくる。「あれは何?」は知識で、「どうして?」は論理的思考である。子供が賢くなろうとする場合、必ずこの2つがセットになっている。それに対し、大人の質問は「あれは何?」で終わってしまうことが多い。筋道を放棄し、結論だけを求めるのが大人の質問だ。それで十分だと、それまでの経験で知っているからである。

実際、子供の質問で答えに窮するのは「どうして?」の方だ。大人が知っているだけで満足していることでも、子供は理由を知りたがる。子供のほうがよほど論理的である。

「どうして?」と聞かれて答えに窮した大人は、「分からない」と言えばいいのに、その場を取り繕うために、デタラメを教えるか、「子供はそんなことを知らなくっていい」とか言ってキレる。そして、賢かった子供は一つアホになる。恐ろしいことに、アホは伝染するのである。

かくのごとく、程度の差こそあれ、人間はだんだん賢くなるのではなく、だんだんアホになるのである。

従来の「人は生まれながらにしてアホで、教育を受けたり経験を積み重ねたりするうちに、だんだん賢くなる」という考え方を、「性阿呆説(せいあほせつ)」と呼ぼう。それに対し、僕は「人は生まれながらに賢く、経験を積み重ねるうちにアホになる」という考え方、「性賢説(せいけんせつ)」を提唱したい。

性賢説の立場に立って考えると、従来の性阿呆説では分からなかった謎が、簡単に解決する。

例えば、日本で最難関と言われる大学を卒業しているはずの政治家や学者が、ちょっと耳を疑うレベルのアホな(論理的整合性のない)発言をすることがある。こういう現象は、性阿呆説ではちょっと説明がつかないが、性賢説なら説明が可能だ。

若い時には賢かったのが、年を取って、だんだん論理的思考ができなくなって、アホになってしまったのである。なにしろアホになってしまったので、自分がアホだと気づかないから、大変たちが悪い。

子供の時は劣等生だったり、学校をドロップアウトした人が、後に天才と言われるようになることがある。これも性阿呆説では説明がつかないが、性賢説なら簡単に説明がつく。アホが天才になったのではなく、孤立など何らかの理由で、成長してもアホにならなかったのだ。子供の持つ論理的思考を保ったまま、知識を付けていったのだろう。

性賢説は、もちろん教育に応用することもできる。

従来の教育は当然、性阿呆説に立っている。簡単に言えば、アホな子供を賢い大人が教育によって賢くしてやるという考え方である。

しかし、性賢説では、大人は子供よりアホなのだから、論理面で賢くしてやることなどどうやったってできない。大人にできるのは、せいぜい知識を与えることと、子供がアホにならないーつまり子供の足を引っ張らないーようにするだけだ。

考えさせる授業だのロジカルシンキングなどというが、先生は子供よりもアホなのだから、「考えさせる」などという傲慢な視線で、うまくいくわけがない。考えさせているつもりで、自分の考えを押し付けるのが関の山だ。これでは知識の詰め込みの方がまだマシである。子供の足を引っ張らないためには、子供に教えてもらうぐらいの謙虚な気持ちでいなければならないだろう。
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古典の入力ばかりしている反動か、最近は漫画ばかり読んでいる。特にkindleで1巻だけ無料だったりすると、ついダウンロードしてしまい、続きまで買って思う壺にハマる。

先月、以前から読みたかった諸星大二郎氏『西遊妖猿伝』の1巻が無料になっていた(今はKindle版648円・紙版1028円)ので、早速ダウンロードしてみた。諸星大二郎だからつまらないわけがないのだが、気がついたら6巻まで読んでしまった。

『西遊妖猿伝』は題名で分かる通り、『西遊記』を元ネタにしている。このような作品は数多くあるが、個人的に原作より面白いと思った試しがない。

『西遊記』は、もともと奇想天外なファンタジーだから、これを題材にしようとすると、どうしてもファンタジー色を増幅する方向に行ってしまう。SF仕立てにするのは、その最たるものだ。しかし、原作があまりに奇想天外で、完成されているので、比べるとどうしても見劣りしてしまう。

しかし、『西遊妖猿伝』は原作に全く見劣りしない。それは、全く違ったアプローチで『西遊記』を改作しているからだろう。

『西遊妖猿伝』は、原作の持つファンタジーの部分を、リアルな人間に戻している。最初から実在の人物がモチーフになっている玄奘三蔵は当然のこと、孫悟空も、猪八戒も(たぶん)沙悟浄も、その他の神仏・妖怪変化も、すべて人間である。孫悟空が大暴れするのは、天宮ではなく長安の宮殿で、悟空の嫌う「弼馬温」という位も太宗皇帝から授かることになっている。玄奘が天竺に行くのも、史実通り国禁を犯している。

つまり、『西遊記』を現実の側に引き戻しているのだが、これは諸星大二郎の作品である。ただ、史実に基づいているだけではない。

諸星大二郎の作品は、歴史や民俗・宗教をうまく組み合わせ、そこにクトゥルー神話的な、禍々しい化け物を、違和感なく登場させて盛り上げるのが特徴である。そう考えると、原作の『西遊記』そのものがそんな感じだが、『西遊妖猿伝』では、あえて『西遊記』の妖怪変化を人間にし、史実を織り交ぜながらも、原作には全く登場しない禍々しい怪物を登場させている。そのため、原作の持つ摩訶不思議な魅力が、全く別の方向で発揮されているのである。

非常に長い作品なので、まだまだ序盤しか読んでいないが、ここからつまらなくなることは考えにくいので、ストロングバイ。


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