2015年08月

昨日のエントリ(8月30日の国会議事堂前デモに行ってきた(その1))の続編を書いていたら、大変なことに気づいた。今日31日じゃないか。このブログは、月の最後の日は「今月の総括」と決まっている。

というわけで、先に8月の総括。

今年の夏休みは、諸般の事情により海外旅行に行かなかった。海外どころか、一泊で草津に行った以外、ほとんど家を離れることさえなかった。おかげで予定していた「夏休みの宿題」をかなり消化することができた。

その夏休みの宿題の一つが、デジカメで撮った写真をクラウドにコピーするというものだった。僕はデジカメで撮った写真をNASに保存しているのだが、これをすべてGooglePhotosにアップロードした。

GooglePhotosは一定の圧縮をかけると(これはGoogleが勝手にやってくれる)、どれだけ保存しても無料である。実際にやってみると、元の写真と大して違いがないので、これにした。

とんでもない枚数なので、なかなか手間のいる仕事だったが、なにしろ10年前からの写真である。記憶の中で最近だと思っていたのが以外に前だったり、その逆だったり、何で撮ったのかよく分からないものが含まれていてなかなか楽しい。

紙にプリントされた写真を整理する時と違って、思い出に浸って一つの写真を延々眺めてしまうこともない。これは不思議な現象である。タイムスタンプで最初から整理されているので、記憶を蘇らせるのが楽なのかもしれない。

10年前といえば、僕はまだ銀塩カメラ(フィルムを入れるやつ)を中心に使っていて、デジタル写真は少ない。そんな中から、「何でこんなのを撮ったんだろう?」というのを一枚だけ紹介する。場所は中国、浙江省の杭州市なんだけど、どこの寺だかよく覚えていない。
鐘男

ゴーン。
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8月30日に、国会議事堂前で安保法制反対の大規模なデモが行われると聞き、行ってきた。

デモとは無関係だが、家を出たら、戸越銀座祭りをやってた。
戸越銀座祭り

全国の商店街が軒並み弱っている昨今、イベントとはいえ、これだけの人出があるのはすごい。しかも、歩いて数分のところに武蔵小山商店街(通称パルム)だの、なかのぶスキップロードだの、商店街だらけ。どれもそれなりに賑わっている。

で、デモである。渋谷から半蔵門線でまず永田町まで行った。ここですでにすごい人で、なかなか外に出られそうにない。
永田町駅

そこで、有楽町線に乗り換えて、桜田門駅に。こちらからは簡単に上がれた。外に出ると、ご覧の通り、戸越銀座祭りとは比較にならない。
皇居前の交差点

前回は、ここから歩道に誘導されたのだが、今日はなんだか様子がおかしい。車道にデモの参加者がいるのが見える。車道でのデモが許可されたのだろうか。

それでもなぜか警察は別の方向に誘導しようとしている。いくら別の方向に誘導しようとしても、目の前に人がいるのだから、誰も聞かず車道の方へ歩く。警察も本気で阻止しようとはしていないようだ。どうやら、警察が車道でのデモを許可したのではなく、歩道に入りきれなくて決壊したものらしい。
議事堂前の道路

車道をどんどん前に進む。次第に人が多くなってくる。
議事堂前の道路2

それにしても、21世紀の日本でこんな写真が撮れる日が来るとは思ってもみなかった。
議事堂前の民衆

お囃子の人たち。
お囃子

コールをする若者たち。本当に若いな。
コールをする人

歩道側にもすごい人数。身動きが取れないレベル。
歩道側

動画も撮ってみた。



僕が撮影した、その他の写真はこちら。下のリンクの写真はご自由にお使いください。

2015年8月30日国会議事堂前安保法制反対デモ:GooglePhoto

なお、参加者は主催者発表で12万人だった。天気が悪かったので、正直そこまでは来ないだろうと思っていたが、予想以上の人数である。
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写真の整理をしていたら、去年行ったトルコ旅行の写真からヘンなマシーンを写したものが出てきた。「これ何だっけ」と、しばらく考えて、やっと思い出した。

場所はカッパドキアからパムッカレへ、バス移動でトイレ休憩に立ち寄ったドライブインみたいなところである。

ここのトイレ、海外では珍しくない有料トイレらしい。そのトイレの入り口にこんな機械があった。
ナゾのマシーン

一見して何の機械か分からないが、僕は勝手にトイレの集金マシーンだと思ってしまった。この写真を見ると、お金を入れる所しか無いのだが、どこからか切符みたようなものが出てくると思ったのである。

で、何気なく1トルコリラを入れると、なにやら機械が光りだして、ヴーという音がしだした。それ以外の動作は何もない。もちろん切符も出てこない。

「なんじゃこれは」と思って、しばらく機械の前に佇んでいると、見も知らぬ親切なトルコ人が、「ここを持ってこの上に乗れ」と身振り手振りを交えて教えてくれた。もちろん、「この上に乗れ」はトルコ語なので、本当にそう言ったかどうかは分からない。下の写真は、後で撮影のためヨメを乗せてみたもの。こんな感じで乗った。

こうして使う

足元がブルブル震えている。ただそれだけ。なんだかさっぱりわからないが、ちょっと気持ちいい。

機械に乗っているだけで、何もすることはない。結構な音が出ているので、まわりからの視線を感じる。目のやり場に困って、目の前の機械を観察してみたら、「MASAGE」と書いてある。ここでやっと分かった。これは長距離ドライブで疲れた人の為の足のマッサージ機らしい。

実際のトイレ料金は、入る直前に、人が集金してた。
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ちょっと前に、「取引先で出されたお茶は飲まないのがビジネスマナー」というのがあった。

出されたお茶を飲むのは失礼です:togetter

これを読んだ時はくだらないなと思ったけど、よくよく考えれば深い問題である。

大前提に、休む理由を言わないのがマナー:2015年08月20日同様、マナーは「相手に対する気遣い」であるとしよう。では、お茶を飲まないのはどういう気遣いか。

これは逆に飲んだ場合を考えれば分かりやすい。お茶を飲めば、いずれは湯のみは空になる。空になったら、相手はまたお茶を入れなければならない。逆にいうと、お茶を飲まないことは、相手にお茶のおかわりを入れさせるという労を取らせない気遣いであると言える。

ならば、飲まないのが絶対的な正解なのだろうか。

お茶を飲まないということは、短時間でその場を立つ意思の表明という解釈もできる。お互いに商談を短く済ませたいならそれでいいが、相手が必ずしもそれを望んでいるとは限らない。相手がじっくり商談をしたい時に、お茶に全く手を付けなければ、それは相手に対する気遣いをしているとはいえなくなる。

また、別の解釈をすると、お茶を出すのは接待の一つである。ということは、出されたお茶を飲まないことは、「私はあなたの接待を一切受け付けません」という意味になる。

これは「私は接待を受けないのだから、あなた(貴社)を特別扱いしません」ということになる。実際、介護保険関連の人は出されたお茶を一切飲まない。いずれお茶が菓子になり、物になり、現金になって、特別扱いを要求するのを防ぐために、お茶すら飲まないのである。

しかし、実際の商談では、必ずしも相手を特別扱いしないのがいい意味を持つとは限らない。大きな利益をもたらす顧客であれば、他の顧客とは違う扱いをしなければならないはずだ。そうなってくると、必ずしも相手の出したお茶を飲まないのが良い結果を生むとは限らない。

このように、お茶を飲むか飲まざるべきかという問題は、その状況によって判断するべきことである。いちいち考えるのは面倒くさいことだが、面倒くさいことを考えるのが、気遣いというものではないか。

マナーにはすべて意味がある。意味を考えないで、「このときはこうする」というのは、相手に対する気遣いではなく、単なる手抜きである。理由も言わずに「このときはこうする」というマナーのセンセーを信用してはいけない。
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閑居友』の入力が終わったので、今度は受験生の友、『十訓抄』の入力を始めた。

宮内庁書陵部本『十訓抄』:やたナビTEXT

最初の方に謡曲『大会(だいえ)』の本説(出典)になった説話がある。

1の7 後冷泉院御位の時天狗あれて世の中騒がしかりけるころ・・・

子供にイジメられていたトンビをボーサンが救ったら、そいつは実は天狗で、恩返しに釈迦が霊鷲山で説法している幻を見せるという、実に面白い話なのだが、『大会』ではどうなってたかなと思って、古典文学電子テキスト検索で検索してみた。

半魚文庫「謡曲三百五十番集入力」と野上記念法政大学能楽研究所が検索に引っかかったのだが、法政大学能楽研究所の方が繋がらない。最初はサーバーダウンかと思ったが、どうも様子がおかしいので、検索してみると、URLが変わっていた。

もとは「http://www9.i.hosei.ac.jp/・・・」だったのが、「http://nohken.ws.hosei.ac.jp/・・・」に変わっていた。いつからか分からないが、数百件がリンク切れになっていたことになる。「hosei.ac.jp」以下は変わっていないので、対処法はわりと簡単である(SQLをすっかり忘れていたので、小一時間かかったけど)。

そこで、やたがらすナビを利用する方にお願いがある。

リンク切れや記述の誤りなど、何か問題があれば、メールでも、掲示板でも、このブログのコメント欄でもいいので、教えて欲しい。すぐに対処できないものもあるかもしれないが、できるだけ早く対処し、利用者の役に立つサイトにしたいのである。
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ビジネスマナーというのは実に下らないものだとは思っていたが、これほど酷いとは思わなかったのが次の記事。

会社を休む理由、これってセーフorアウト!? マナーの専門家に聞きました:キャリアコンパス

西出ひろ子なるマナーコンサルタント・美道家の回答をまとめると次のようになる。

〈セーフ〉
友人の結婚式・身内の結婚式・子どもの病気・身内の病気の看病・通院付き添い・飼っているペットの病気

〈アウト〉
田舎の親や親戚の来訪・町内会の集まり・自転車や自動車のパンク・気分が乗らないから

〈ケース・バイ・ケース〉
マンションの立ち会い工事・人間ドック

そもそも、有給休暇は権利なので、理由なんかいらない。法律的にはどれを取ってもセーフである。

だが、西出氏は「マナーコンサルタント」である。彼女によると、「相手を思いやる心を重視する」のがマナーであるらしい。たしかに、仕事の忙しい時に「気分が乗らないから明日休みますね〜」とか言われたら、いくら権利とはいえムッとくる。これでは相手を思いやっているとは言えない。

とはいえ、権利は権利である。相手を思いやるのも大事だが、権利はそれ以上に大事である。マナーのために権利を放棄するのは本末転倒。両立する方法はないだろうか。

実はこれは簡単な話で、ここでの正しいマナーは、

休む理由を言わない

である。理由を言えば、相手に無駄に気を遣わせることになる。「子供の病気」などといえば、お見舞いを請求しているようなものだし、「気が乗らない」なら不愉快な気分にさせる。言わなければ何の問題もないのである。

同様に、有給を受け付ける方は、

休む理由を聞かない

というのもマナーである。聞いたって、権利なのだから休ませないわけにいかないのである。どうせ休むのだから、理由なんか聞いたって意味がない。

もちろん、緊急の場合は別である。朝になって突然休むのなら、それなりの理由がないと、返って相手に気を遣わせることになる。「相手を思いやる」のなら、理由を言わないのはマナー違反と言っていいだろう。

こういうときはセーフ、こういうときはアウト、そうすれば分かりやすい。しかし、「相手を思いやる」のがマナーであるならば、そんな類型的にまとめたのは本当のマナーとは言えない。

それにしても、美道家って何よ。また、新手のイロモノ書道家が現れたのかと思った。
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帰省ラッシュで混み合う新幹線の「空いてる指定席」 自由席の客が座ったらダメ?:LiveDoorNews

聞くまでもなくダメなものはダメなのだが、新幹線みたいに次の駅までの時間が長いと、「次の駅までぐらいいいんじゃないの?」という気になるのも分らなくもない。

グリーン車のように、サービスが違うならともかく、同じ車両を自由席車と指定席車に分けるからこういうことになる。自由車が満席で立っている人もいるのに、指定車に空席があれば、なおさら得心ゆかないものがある。

以前イギリスの電車に乗った時は、すべてが自由席で、座席指定したい人が自由席の中から指定できるようになっていた。これはなかなかいいやり方だと思った。

下の写真で、座席の背もたれにカードが差し込まれているのが、指定席である。これは始発駅で差し込まれるらしく、この写真のように、カードがあっても誰も座っていない席がいくつもあった。
指定席

このカードがない席はすべて自由に座れる。窓に「Quet Coach」というシールが貼ってあるが、この車両はおしゃべり厳禁。この席を予約した人は、静かな車両を所望したのである。間違ってここに座ってしまったせいで、我々夫婦は二時間無言で過ごすハメにあった。

カードには、どこからどこまでが指定されているかも書かれている。とうことは、それ以外の区間なら、ここに座っても問題がないということになる。これなら満席で立っている人がいるのに、空席があるという矛盾も解消できる。
指定席証

単純なやり方がだ、この方法なら効率よく座席を利用できるのではないか。いろいろ手間もかかるのかもしれないが、今の方法はもう少しなんとなかならないかなと思う。
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5年ほど前、中国福建省に行ったとき、パーキングエリアみたいなところで、客が緑色の洋梨みたような果物を食っていた。売っている所を見たら、グアバである。

それまで僕はグアバの実を見たことがなかった。昔缶ジュースで売っていたを飲んだ記憶があるが、どんな味だったかさっぱり覚えていない。食べてみたら思い出すかと思って、買って食べてみたが、なんだか味も食感もボンヤリしていて、また食べたいという程のものではなかった。

先日、近所のスーパーに行ったら、「オリエンタルカレーコーナー」なるものができていて、オリエンタルカレーの商品が山積みになっていた。

オリエンタルカレー、ご存知だろうか。おそらく日本最古のカレールーである。
オリエンタルカレー

何、知らない?

では、これではどうか。人種差別ギリギリのマスコットキャラクター。昔はどこの家にも、これがついたスプーンがあったはず。
オリエンタルカレーマスコット

まだ分からない?じゃあ、これでどうだ。
ハヤシもあるでよ〜
ハヤシもあるでよ

それにしてもドビーって何だろう?

実は、昔飲んだグアバジュースも、このオリエンタルカレーの商品である。

グアバジュース(缶)

今どき珍しい、250ccのスチール缶。最近のスチール缶は、薄くなってアルミ缶と区別がつかなくなってきたが、これは片手では凹まないほど硬い。もちろん継ぎ目もある。さすがにプルタブは外れない仕様になってた。

中身はこんな感じ。グアバ果汁20%。
グアバジュース(中身)


味はグアバ味としか言いようがないが、のどごしはちょっとトロっとしていて、これまた懐かしい不二家のネクターにちょっと似ている。このころのジュースというと砂糖を入れて甘くしているイメージが強いが、それほど甘くない。グアバの酸味が効いていて、キンキンに冷やして飲むと非常に美味い。

それでは、福建省で食べたグアバの実と比べるとどうか・・・ボンヤリした味だったのでよく覚えていないが、あんまり似ていない気がする。だんだん、僕が食べたのは本当にグアバだったのか、自信がなくなってきた。


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今、騒がれている佐野研二郎氏の東京オリンピックエンブレム盗作問題の報道を読んでいて、これは盗作か否か、似ているか否かが問題ではなく、作風の問題だと思った。

個人的には、似ていることは似ているが、パクリではなく偶然の一致だろうと思っている。単純に幾何学的な形を構成すれば、似たものがでてきても不思議はない。デザインの優劣で言うなら、東京オリンピックの方がはるかに洗練されているとすら思う。

しかし、問題はそこではない。

法的なことは別にして、デザインが芸術であるならば、似ているかどうかよりも、作者と作品がリンクしていること、つまり、作者の作風で作品が作られているかどうかの方が重要である。

何も作品を見て即座に作者が言い当てられる必要はない。作品を見て、作者名を聞いて、「ああ、なるほど、これは佐野さんの作品だ」と感じられればよいのだ。言葉を替えて言えば、これが佐野さんにしか作れない作品でなければならないのである。

作者と作品がリンクしていれば、たとえ先行するそっくりの作品があったとしても、偶然の一致であるという意見に説得力が出てくる。作者の作風に強烈な個性があれば、先行する作品の方が作風をパクったすら言える。そうでなければ、たとえ偶然の一致であったとしても、パクりの疑念を払拭することは難しい。

実際に佐野氏の業績を見てみると、どうも東京オリンピックエンブレムに類似したものを見出し得ない。僕はデザインについては素人なので、プロが見ればどうなのか分からないが、少なくとも彼の名前で検索して出てくるような、ユーモアあふれる作風と、東京オリンピックエンブレムが同一人物の手になるものとは思えないのである。例えば、「東京オリンピックエンブレムの作者は佐藤可士和です」と言われても、騙されてしまうだろう。

もっとはっきり言おう。作品としてつまらないのである。せっかくのオリンピックという大舞台なのに、あっと驚くような物が何もない。作品として、オリンピックにおもねっているのが見え見えなのである。

あまりに良く出来ている、1964年東京オリンピックの亀倉雄策を意識しすぎたのかもしれない。クライアントの意向もあるかもしれない。いずれにしても、佐野研二郎氏が自分の作風を殺してしまった結果、現在の問題が起きていると僕は考えている。
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『閑居友』の電子テキストを公開しました。

底本は現在刊行されている注釈書と同じ、尊経閣文庫本です。例によって、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承で公開します。

尊経閣文庫本『閑居友』:慶政:やたナビTEXT

『閑居友』の内容に関しては、上巻入力完了時に書いた、エントリをご参照ください。

『閑居友』上巻入力終了:2015年07月14日

この尊経閣文庫本『閑居友』、現物は見たことがありませんが、非常に流麗に書かれています。美しい写本というと、いままで翻刻したものの中では、『古本説話集』がありましたが、あれはちょっと癖があって、「達筆すぎて読みにくい」ところがありました。しかし、この『閑居友』は非常に素直に書かれていて、字詰めも無理がなく、実に読みやすく書かれています。

これはらくちん・・・が、しかーし!トラップがありました。仮名遣いがめちゃくちゃでした。

現在、歴史的仮名遣いと言われているのは、契沖仮名遣いといって、江戸時代の国学者、契沖が体系化したものが元になっています。だから、契沖以前の仮名遣いがめちゃくちゃなのは当たり前なんですが、普通めちゃくちゃなりに、なんらかの統一感があります。

ところがこれは、統一感がまるでありません。いや、本人的にはなにかあるのかもしれないけど。
閑居の友

この写本で困ったのが、格助詞「を」を「お」と表記していることが散見されることです。「を」は、「遠」を字母とする現在の「を」か、「越」「乎」を字母とする変体仮名が一般的です。ところが、『閑居友』では、「を」に「お(於)」を使用することがあります。

一例を挙げると、上の写真のAは「きこゑおも」ですが、本来「きこえをも」とあるべきところです。

ならば、ぜんぶ「を」が「お」になっているかというとそうでもなく、Bは「おこないを」となっていて、こちらはちゃんと「を」になっています。ところが、今度は「おこなひ」とあるべきところが「おこない」になっています。これも、すぐ右の行では「おこなひ」となっているので、こいつ、どうやら統一する気が全然ありません。

「え」「ゑ」「へ」や「い」「ひ」が混在しているのはそれほど珍しくないので、混ざっていてもそれほど気になりませんが、これに格助詞の「を」「お」の混在が入ると途端に読みにくくなります。

助詞は付属語なので、そこが分節の最後だと認識します。例えば、Cは「これおみて」で、「これをみて」が正解。「これをみて」と書いてあれば、「これを/みて」と容易に判断できますが、「これおみて」だと一瞬「これ/おみて」だと、思ってしまうわけです。

現代仮名遣いで、助詞の「は」「へ」「を」が残った理由が分かったような気がします。
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