書は自由で、個性的でないといけないという。その一方で、お手本をひたすら真似るような学習法は、個性を潰すものだという人もいる。
実は僕もかつてはその意見に組していた。実際、公募展などを見ると、どう見ても個性もヘチマもない、師匠の作品のコピーみたようなものばかりが並んでいる。自由でもなければ個性的でもない。
僕の教える生徒たちの中には、誰かが言った「書は個性だ」というようなことを真似して、手本を書かせる教え方に文句をいう奴がたまにいる。大半は、手本がうまく書けないから、言い訳にそう言っているだけだ。自分自身、そういう奴だったからよく分かる。
「じゃあ、その個性的な書を書いてみろ」というと、彼は嬉々として〈個性的な書〉を書き始める。書き終わると、本人、個性的な書が書けたとひどくご満悦だ。
だが、個性的だと思っているのは本人だけで、見てる僕にはさっぱり個性的に見えない。今まで同じような奴を何度も見てきたのである。
面白いことに、彼らが書く〈個性的な書〉はみな同じなのだ。書いている本人は自分の書いたものしか見ていないから、それが自分の個性だと思っているが、たぶん、数年前別の人が書いた〈個性的な書〉と混ぜても、どちらが自分の書いたものか区別つかないだろう。
面白いことに、これが3・4歳の子供だと事情が違ってくる。大いに個性的で、誰にも真似できないものを平気で書く。子供の字であるという共通点はあるにせよ、字形も筆使いも一人一人全然違うものが出来上がって面白い。
なぜそうなるのか。
中学生以上だと、鉛筆やシャープペン、ボールペンを日常的に使っている。だから、筆もそれらの筆記具を持つのと同じように持つ。具体的には、傾けて使うのである。そのまま字を書くと、誰でも一様に、縦は細く横は太くなる。個性的なはずが、誰でも全く同じ線質になってしまうのである。
彼らも、普段使い慣れた筆記具で書くと、それなりに個性的な字形になるが、筆だとそうはいかない。筆管を傾けて書くと、筆の動きは限定されうまく書けない。無意識に普段見ている活字に近づけようとする。かくして、線質も字形もみな同じような〈個性的な書〉が出来上がるのである。
ところが、3・4歳の子供は筆記用具自体を使い慣れないから、さまざまなとんでもない持ち方をする。まさに囚われない、自由である。字形の認識もまだ甘いから、活字の字形などにはとらわれない。字形も線質も本当の意味での個性的な書になる。ごくまれに、大人になってもそういう字を書く人がいるが、それこそまさに天才に違いない。
結局のところ、ある程度年を取ると、人間はどうしても自分の経験にとらわれたことしかできないのである。子供が個性的なのは、経験があまりに少ないから、経験にとらわれようがないだけだ。
そうなってくると答えは簡単で、大人になっても子供の字が書ける天才は別として、なるべくたくさんの経験をして、その中から自分の個性を醸成していくより他はない。
公募展の作品が個性的でないのは、師匠の書を学ぶからではなく、師匠の書しか学ばないからである。他の人の書や古典を学べば、それなりに個性が出てくるだろう。公募展には入賞しなくなるかもしれないけどね。
実は僕もかつてはその意見に組していた。実際、公募展などを見ると、どう見ても個性もヘチマもない、師匠の作品のコピーみたようなものばかりが並んでいる。自由でもなければ個性的でもない。
僕の教える生徒たちの中には、誰かが言った「書は個性だ」というようなことを真似して、手本を書かせる教え方に文句をいう奴がたまにいる。大半は、手本がうまく書けないから、言い訳にそう言っているだけだ。自分自身、そういう奴だったからよく分かる。
「じゃあ、その個性的な書を書いてみろ」というと、彼は嬉々として〈個性的な書〉を書き始める。書き終わると、本人、個性的な書が書けたとひどくご満悦だ。
だが、個性的だと思っているのは本人だけで、見てる僕にはさっぱり個性的に見えない。今まで同じような奴を何度も見てきたのである。
面白いことに、彼らが書く〈個性的な書〉はみな同じなのだ。書いている本人は自分の書いたものしか見ていないから、それが自分の個性だと思っているが、たぶん、数年前別の人が書いた〈個性的な書〉と混ぜても、どちらが自分の書いたものか区別つかないだろう。
面白いことに、これが3・4歳の子供だと事情が違ってくる。大いに個性的で、誰にも真似できないものを平気で書く。子供の字であるという共通点はあるにせよ、字形も筆使いも一人一人全然違うものが出来上がって面白い。
なぜそうなるのか。
中学生以上だと、鉛筆やシャープペン、ボールペンを日常的に使っている。だから、筆もそれらの筆記具を持つのと同じように持つ。具体的には、傾けて使うのである。そのまま字を書くと、誰でも一様に、縦は細く横は太くなる。個性的なはずが、誰でも全く同じ線質になってしまうのである。
彼らも、普段使い慣れた筆記具で書くと、それなりに個性的な字形になるが、筆だとそうはいかない。筆管を傾けて書くと、筆の動きは限定されうまく書けない。無意識に普段見ている活字に近づけようとする。かくして、線質も字形もみな同じような〈個性的な書〉が出来上がるのである。
ところが、3・4歳の子供は筆記用具自体を使い慣れないから、さまざまなとんでもない持ち方をする。まさに囚われない、自由である。字形の認識もまだ甘いから、活字の字形などにはとらわれない。字形も線質も本当の意味での個性的な書になる。ごくまれに、大人になってもそういう字を書く人がいるが、それこそまさに天才に違いない。
結局のところ、ある程度年を取ると、人間はどうしても自分の経験にとらわれたことしかできないのである。子供が個性的なのは、経験があまりに少ないから、経験にとらわれようがないだけだ。
そうなってくると答えは簡単で、大人になっても子供の字が書ける天才は別として、なるべくたくさんの経験をして、その中から自分の個性を醸成していくより他はない。
公募展の作品が個性的でないのは、師匠の書を学ぶからではなく、師匠の書しか学ばないからである。他の人の書や古典を学べば、それなりに個性が出てくるだろう。公募展には入賞しなくなるかもしれないけどね。