2015年12月

5月の始めに、すぐ近くに住んでいる祖母が脳梗塞で倒れた。なにしろ97歳だから、客観的にみていつ倒れても不思議ではなかったが、普段あまりに元気だったから、突然倒れるとは思わなかった。

全然前兆がなかったわけではない。去年あたりから、生活の不安を訴えていたし、僕も2日に1回ほど訪問していたが、漠然と「こうして来れるのはいつまでだろう」とか考えていた。これは、去年までは考えなかったことだ。

幸い、祖母は寝たきりにはなったものの、車いすに乗った写真を見たら、足以外のどこが悪いのかと思うほどに回復した。

社会的には、夏のデモを忘れることはできない。あれで、僕は政治にコミットした世代と、そうでない世代の違いが如実に分かった。

言うまでもなく、僕らの世代前後(40歳〜60歳ぐらい)は政治にコミットしなかった世代である。この世代のデモに対する反応が、とにかく酷かった。民主主義のルールも、民主主義を守ることの重要性も、何も分かっていない。だから、デモの内容そのものではなく、デモに参加すると就職ができないとか、裏で共産党が糸を引いているとか、金をもらっているとか、醜悪なケチの付け方ばかりする。

世代という区切りは好きではないが、正直、ここまでダメだとは思わなかった。現在、日本を動かしているのは、実質的にこの世代なので、ここが一線を退かない限り、日本は沈む一方だろう。その反面、今年のデモで象徴的な役割を果たした、若い世代の人たちには期待をしている。

最後に、やたがらすナビについて。

今年は、なるべくやたナビTEXTの電子テキスト作成に時間を当てるようにした。結果、『今物語』・『閑居友』を公開し、『今昔物語集 本朝仏法部』と『十訓抄』が作成中である。この2つは来年の夏までには完成するだろう。

この電子テキストには、手応えを感じている。僕のサイトは日本語でしか書かれていないが、海外からのアクセスも少しずつ増えてきた。古典文学テキストの需要は、関係者が想像しているよりもずっと沢山あると考えている。

というわけで、よいお年を。

先日書いたコネクションと出来レースは、僕自身が何らかのレースに負けた恨み節みたいに読めるかもしれないが、そんなつもりで書いたのではない。僕はもうそんなレースに参加するつもりはないし、あらゆるレースに10年以上参加していない。興味がなくなったのである。

このエントリを書こうと思ったのは、例のオリンピックエンブレムが出来レースだったという記事を読んだからである。真偽は不明だが、僕は経験上、日本で行われる人材の公募は90%以上が出来レースだと思っているので、何の驚きもない。

これもパイがあるうちは余り問題にならない。たとえ90%が出来レースでも、10%のまともなレースで才能のある人が吸収できる。ところが、パイが少なくなってくると、同じまともなレース10%でも数そのものが減ってしまい、本来才能のある人が採用されず、コネだけの人が目立ってくる。

諸悪の根源は、出来レースを支える精神性である。先日のエントリで、それを「心優しい日本人」と表現したが、これは本当の優しさではない。人材を公平に求めるという原則を軽視した単なる身びいきである。原則を軽視すれば、そのうちレースが成立しなくなるだろう。

これから、劇的に経済が回復し、人口が増加に転じるのでもなければ、人材募集のパイはどんどん減っていく。だからこそ、よりレースの秩序が求められるようになる。秩序を守るには、たとえ身内であっても切る冷徹さが必要だが、優しい日本人にはこれができない。

自分に関係ない分野だと出来レースを糾弾するくせに、自分の分野だと、優しい日本人になってしまうのだ。これでは出来レースを無くすことなど、到底不可能である。できないなら、最初からコネに戻した方がまだましだ。

さて、どうにも出来レースに勝てそうもない若い人(つまり、コネクションのない人)は、さっさと海外に行ってしまうのがいい。まともな先進国なら、こんな非合理的なことはしないし、途上国なら、たとえ日本のようなことをやっていても、まだ伸びしろがある。もちろん、フェアなレースで勝つのは難しいが、負けたとしても、実力で負けた方が、精神衛生上はるかによろしい。

そうでないなら、レースに参加せず、自分の道を走ることだ。相手がいなければ、負けようがない。

世に出来レースほどバカバカしいものはない。出来レースと知らずに参加させられたレーサーはいい面の皮だし、最初から勝者が決まっているのに、審査員を集めてレースしたふりをするのは、時間と金の無駄遣いだ。

昔は一部の分野を除いて、出来レースなんかほとんど無かった。ただし、〈出来〉が無かったのではない。〈レース〉自体が無かったのだ。あらゆる人材の募集はコネ(コネクション)で行われ、公募なんかしなかったのである。「余人をもって代えがたい」というアレである。

しかし、これではコネのない者には不利になる。というわけで、コネのない者にもチャンスを与えるために、レースを行うようになった。

これが本当にレースとして成立していれば、何の問題もない。ところが、心優しい日本人は、どうしても自分の知っている人、つまりコネのある人を採用しようとする。勝ち負けがはっきり分かるスポーツなどはまだいいが、そうでなければ、業績なんぞどうにでもなる。人格がどうのこのと言いがかりをつけて、対抗馬を落とすことも簡単だ。

かくして、形式上レースをして、実は最初から採用される人が決まっているという、世にもくだらない出来レースが横行するようになった。

レースをしないコネ採用は、前時代的ではあるが、推薦者一人に責任がかかる。問題のある人を推薦してしまえば、推薦した人の責任になるから、その人は推薦者としての信用を失うことになる。問題のある人物は自然にフィルタリングされる。

ところが、出来レースの場合、レースという形式を取っているから、レースの審判全員に責任が分散される。採用された人が問題のある人物だったとしても、「皆さん、某の採用に賛成されたでしょ」ということになり、結局審査員の誰もが責任をとらず、ほっかむりをするということになる。最悪の場合でも、審査員解散で責任逃れ、新しい審査員がまた出来レースで決まるという、訳のわからないトポロジーになる。

結局、フェアなレースになっているかどうかは、常に外部から監視されなければならないし、審査員の責任感にも関わってくるのだが、残念ながら優しい日本人にはそれができないようだ。ならば、レース自体、止めてしまうほうがよほどましである。

さて、ここまで、あえてどの分野の話かは書かなかった。書く必要はない。どの分野だろうと、日本の公募というものは概ねそういうものだからである。
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夫の○『今昔物語集』巻16を入力し終えた。その最後から三番目(巻16 紀伊国人邪見不信蒙現罸語 第卅八に、ちょっと珍しい誤植(たぶん)があった。

左の画像の○である。

この説話は、妻の信心を妨害した夫が、イチモツに蟻に囓られたような痛みを感じて死ぬという話で、○の部分には門構えに牛という字が入るべきところである。この字は本来「閉」の異体字にすぎないのだが、日本ではなぜかイチモツのことを指し、「マラ」と読む。

丹鶴叢書本でもここは門構えに牛が入っているから、『攷証今昔物語集』の底本が、実際に○だったとは考えにくい。また、他の場所にはちゃんと入っているので、意図的な伏せ字でもない。

おそらく、特殊な文字なので、初校の段階では活字が入らなかったのだろう。こういう場合、通常、活字をひっくり返した〓(ゲタ)が用いられるが、『攷証今昔物語集』の場合、異体字や特殊な漢字が多いので〓だらけだったと思われる。

『攷証今昔物語集』は誤植らしきものはいくつか見つかるが、いままで見たところ〓の見逃しは一つもない。漢字にはかなり気を使っていた様子がうかがえる。

となると、なぜこれを見逃したかが気になるが、「マル」と「マラ」の音の近さが関係しているのではないか。

例えば、校正で〓に正しい字を指定したものの、印刷所で、

「おい、小僧、8行目の〓にマラ入れとけ」
「マルっすね、わかりやした親方!」

みたいな感じで、○にされてしまい、その後見逃されてそのままになってしまったのかもしれない。

あるいは、初校では、〓の代わりに本文中では使われない○が入っていたものの、校正の時に「おっとのマルにたちまちにありつきて・・・」みたいな感じで読んでもらって、見逃してしまったのかもしれない。

こういう変換ミスみたいなのは、ワープロ時代以降、よく見られるようになったが、活字の時代(『攷証今昔物語集』は大正3年)の事情を想像すると、ちょっと面白い。
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ホノルル・ダウンタウン(その1)の続き。

ダウンタウンとはいうものの、結構なビル街なのだが、ある一角を抜けると、フォトジェニックな建物が見えてくる。どう見てもアメリカタウンだが、これがチャイナタウンである。
チャイナタウン

ビルにいちいち立てられた年代が書いてある。これは1888年(明治21年)製。
白いビル

こちらは20世紀最初の年、1901年(明治34年)。
チャイナタウンのビル2

チャイナタウンだけあって、干支が付いているビルもある。これは来年の干支、サル。
申年

ビルはアメリカンだが、入っている店はかなり中国っぽい店が多い。
果物屋

この店で、龍眼と釈迦頭(手前のボコボコした果物)を買った。店のおばちゃんが、食べどきのを選んでくれた。英語と中国語と若干の日本語が通じるので、僕のように若干の中国語と英語しかできない人には大変便利。

孫中山(孫文)先生の銅像。
孫文像

孫文は13歳から18歳までをホノルルで過ごした。1894に興中会を興したのもホノルルで、ハワイと関係が深い。

川端では、トランプにいそしむオッサンたちがいる。いろんな中華街に行ったが、ここが一番中国っぽい。ただし、池袋北口をのぞく。
トランプにいそしむ人々

このオッサンたちのすぐ近くに、モヤさまですっかり有名になった、ハワイ出雲大社がある。
ホノルル出雲大社

ハワイ出雲大社の狛犬。レイをかけている。
ハワイ出雲大社の狛犬

社務所のモヤさまポスター。ヌシカンさん、いらっしゃったが、ミーハーな観光客の相手をしていたので、写真はなし。
モヤさまポスター

橋のたもとに中華街の門がある。今まで見た中華街の門の中で、いちばんしょぼい。
チャイナタウン入り口

門の下にオッサンが寝ているのが写っている。このへんはホームレスが多く、近くの公園はホームレスだらけだった。

禁煙標識の前で、堂々とタバコを吸う人発見。かなり人相が悪いので、悪人に相違ない。近寄らないのが吉だ。
悪人

ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
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ホノルルというと、どうしても観光地というイメージがあって、思い出すのはこんな風景である。
ワイキキビーチ

だが、それは観光客向けの顔。ホノルルはハワイ州の州都だから、ちゃんと都市としての顔もある。それがダウンタウン地区である。

さて、ダウンタウンに繰りだそう。まずは、ハワイ州会議事堂。
ハワイ州会議事堂1

入り口にダミアン神父の銅像がある。ダミアン神父はモロカイ島でハンセン病患者のケアにつくし、自らもハンセン病に倒れた偉人である。なんだか顔が怖いが・・・
ダミアン神父

本物も結構強面。
さすが常夏の島の議事堂だけあって非常に開放的な建物である。作られた時代と気候が似ているせいか、ホーチミン市の統一会堂に雰囲気が似ている。
ハワイ州会議事堂

議事堂の裏手にはイオラニ宮殿がある。もと、ハワイ国王の王宮で、王制廃止後は、ハワイ州会議事堂ができるまで行政府として使用された。カラカウア王の誕生日を祝して、装飾が施されている。
イオラニ宮殿

ちなみに、カラカウア王はこの人。
カラカウア王

イオラニ宮殿に見事なガジュマルの木があったので、ぶら下がってみた。
ぶら下がってみた

直後に真似された。
真似された

有名な、カメハメハ大王の銅像も、この近くにある。
カメハメハ大王像

なかなかきれいな建物があったので、よく見てみると、"UNITED STATES POST OFICCE CUSTOM HOUSE AND COURT HOUSE "と書いてある。郵便局兼税関兼裁判所と言う意味だろうか。兼ねすぎだろ。
US郵便局兼税関兼裁判所

このあと僕達はこの先のオフィス街を抜けて、中華街に行った。あまりゆっくり見ている時間はなかったが、ここがなかなか面白かったので、それは次回の講釈で。
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洋服のままワイキキビーチに入るショータ君先日のハワイは、親戚の結婚式だったので、僕のことをポッピンモーと呼ぶショータ君(小学校1年生)も来ていた。なお、なぜ僕がポッピンモーなのかご存知ない方は次のエントリを参照されたい。

今月の壁紙 付、ポッピンモーの秘密:2012年08月29日

で、そのショータ君、僕のところに来て、こんなことを言う。

「ねぇ、ポッピンモー、オレ、ポッピンモーの本当の名前知ってるよ」

これにはちょっとビックリした。名前を知られたことではない。あれだけ遊んであげてるのに、いままで知らなかったことにである。大げさに驚いて、

「え!マジかよー!(こいつ、今までオレの名前知らなかったのかよ・・・)それで、何て名前だ。」

と言ったら、

「〈なかがわさとし〉でしょ」

と答えた。うん、合ってる。

「うーーーーーーん、バレちゃったかぁ。それなら仕方がない。今日からオレは〈なかがわさとし〉だ。で、君は今日から〈ポッピンモー〉ね。おめでとう!ポッピンモー」

「えっ、嫌だよ」

散々人のことをポッピンモー呼ばわりしていて、自分が呼ばれるのはイヤらしい。

「でも、オレの本当の名前を知っちゃったんだからしょうがない。本当の名前が分かったら、ポッピンモーは続けられない。今度は、それを知った人がポッピンモーになるんだ。これからもよろしくな、ポッピンモー」

「じゃあ、ユイナ(妹)をポッピンモーにする」

「無茶言うな。ユイナちゃんは最初から本名知ってるだろ。お父さんもお母さんも知ってるからダメだ」

「えーーーー、じゃあ、オレ、ポッピンモーの本当の名前知らない」

ショータ君、華麗に歴史修正。

「は?じゃあ、もう一度聞くよ。オレの本当の名前は?」

「ポッピンモー!」

「はい、よくできましたー!」

世の中には知らない方がいいことがあるということを、7歳にして知ったショータ君であった。
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昨日紹介したコートと同時に、なぜか大阪万博のパンフレットが出てきた。この万博には僕も行っているのだが、全く記憶がない。今は47歳のオッサンも、当時はおむつをした1歳のガキんちょである。覚えているはずがない。

出てきたのは、万博全体とソ連館のものだけである。ソ連館の表紙はロシア・アバンギャルドを取り戻したかのようでかっこいい。
万博パンフレット

万博全体のパンフレットはこんな感じ。地図とイベントの日程が書いてある。
万博会場地図

各国のスタンプ。一見本当のスタンプに見えるが、実は印刷。
各国スタンプ

ソ連館のパンフレットは会場図と、ソビエト連邦の宣伝になっている。
1階会場図の説明。1階は社会主義の理念がテーマらしい。「序論の部」という理屈臭さが、当時の社会主義国的だ。
ソ連館1階解説

2階・3階会場図。こちらは文化、技術、シベリアの紹介がテーマ。
ソ連館会場図

赤字で書かれた挨拶、「親愛なみなさん!」の社会主義的ウソ臭さがたまらない。
ソ連館パンフレット

それにしても、なぜソ連館なのか。当時、左翼思想が隆盛していたとはいえ、冷戦のさなかでソ連のイメージはそれほどいいものではなかった。それ以前に、社会主義国の展示物なんか、むりやり先生にやらされた文化祭の展示発表を豪華にしたようなもので、たいして面白いものではない。

パンフレットをよく見ると、1階に「タシケントの復興(1966年の地震からの復興と思われる)」というコーナーがあり、3階はシベリア開発がテーマになっている。おそらく、これを見たかったのだろう。

祖父は、終戦から3年間、シベリアに抑留されて、強制労働させられた。場所はまさにウズベキスタンのタシケントである。何をしていたかは詳らかに聞いていないが、「石ころばかりの川原みたいなところを、ろくな食い物も食わされず開拓した」と聞いている。

相当ひどい目にあったようで、晩年、体の具合が悪くなるとすべてソ連のせいにしていた。相当な恨みがあったはずだが、それでもわざわざソ連館に行って、こうしてパンフレットまでとってあるのは、自分が開拓した土地がどうなったか、気になっていたのだろう。
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母が祖母の家を片付けていたら、15年ほど前に亡くなった祖父の洋服が何着か出てきた。サイズ的にほとんど着られないのだが、唯一、このコートだけは着られたので、もらってきた。スーツの上に着るようにあつらえてあるので、大きめなのだろう。
祖父のコート

発見した時は、丁寧に折りたたまれて箱に入っていた。生地には汚れや傷み、虫食いが全くなく、ほとんど着た形跡がない。

ところが、袖を通そうとしたら、あっさり裏地が破けてしまった。試しに全く傷のないところで、裏地を引っ張ってみると、半紙を破るぐらいの力で裂けてしまう。見た目は光沢があってきれいなのだが、長い年月のうちに劣化したらしい。人絹だろうか。

とはいえ、表地は質のよさそうなウールで、これを捨ててしまうのはいかにも惜しい。というわけで、裏地を貼り替えてもらい、僕が着ることにした。張替え代金は35,000円。覚悟はしていたが、なかなかいいお値段である。

このコートはオーダーメイドである。タグには港区芝のテーラーのものが付いていた。祖父が品川区で文房具屋を始めたのが昭和32年(1957年)ごろ。この家の数軒隣がつい最近までテーラーで、遺品にはそこであつらえた服もあったから、それ以前のものであることは間違いない。

状態からみて、さすがに戦前ではないだろう。とすると、祖父がシベリア抑留から帰ってきた昭和23年(1948年)以降ということになる。つまり、このコートはだいたい60年ぐらい前のものと推測される。

さすがにオーダーメイドだけあって、非常に作りがいい。ステッチもしっかり入っている。
祖父のコート(襟)
写真でも伝わると思うが、ものすごく厚い生地で、やたらと重い。量ってみたら、なんと2kg。ちょっとした毛布よりも重い。
祖父のコート(袖)

内ポケットのつくりも丁寧だ。名前の刺繍も今のものより達筆(のような気がする)。
祖父のコート(内ポケットと刺繍)

さて、寒い日に、これを着て仕事に行ってみた。まるで鎧を着ているようだ。重いというよりも、かっちりしている。一日着たぐらいではシワひとつできないし、通り魔にナイフで刺されても通りそうもない。

しかし、最近の軽いダウンジャケットのように、着てすぐに暖かさを感じるものではない。「意外とたいしたことないな」と思って、駅までの道を急ぐと、だんだん暖かくなり、汗が出るぐらいになった。体の芯から温まる感じである。これは今まで着た他の防寒具とはちょっと違う感覚だ。

学校について、暖房の入っていない部屋でコートを脱いでも、まだ暖かい。暖房を入れる必要を感じないくらいである。いくらなんでもちょっとおかしい。そこで気がついた。

コートが重いので負荷がかかり、自分の体が発熱しているのだ、と。

もしあなたがラーメンのことを全く知らなかったとして、ラーメン好きとラーメン嫌いのどちらの人からラーメン情報を得るだろうか。ラーメン嫌いを優先するという人はまずいないだろう。それどころか、ラーメン嫌いの話など聞かないのが普通である。

例えば、ラーメンの情報を聞くのに、ラーメンを嫌いな人に聞いたとする。

ラーメン嫌いは、そもそもラーメンの情報を持っていない。ラーメンをほとんど食べていないからである。数少ないラーメン体験からラーメンの味を語るか、せいぜいたまたま見た『王様のブランチ』あたりからの情報を語ることぐらいしかできない。そんな情報なら、わざわざラーメン嫌いから聞く必要はない。

逆にラーメン好きから情報を得たとする。

彼はラーメンが大好きだから、実際にあちこちのラーメン屋に足を運んでいる。「ここの店は麺が美味い」とか、「かしこの店はスープが・・・」などと、自分の言葉で語れ、その人しか持っていない情報もたくさんもっている。あるいは、自分でも作っているかもしれない。

ことほどさように、ラーメン情報を得るのに、ラーメン嫌いからは聞かないというのは、論理的に正しいのである。

もちろん、ラーメン好きの言うことを鵜呑みにするのもよくない。あまりに好きであるが故の〈贔屓の引き倒し〉があるからである。例えば、「○○のラーメンは野菜がたくさん入っていて美味い」とラーメン好きが言ったならば、「美味い」がそれである。

それが美味いかどうかは、あくまで主観にすぎないから、情報を得る人がどう判断するかにかかっている。それでも、「野菜がたくさん入っている」のは、ラーメン好きが食べ歩いて、比較して言っていることだから間違いないことである。それだけでも十分価値がある。

非常に簡単なロジックだが、これが国のことになると、まったく筋の通らないことになる。

なぜだか、自分は嫌中だの嫌韓だのという宣言をしている人の情報を、嬉々として聞いているのである。興味がないなら、情報を得る必要すらないのに、わざわざ嫌いな人の情報を得ようとするのは奇怪なことだ。たぶん、自分も嫌いになりたいのだろうと思うが、わざわざ嫌いになることに何の利があるのか、僕には理解できない。

嫌中だの嫌韓だの宣言する人は、自分の情報に価値がないと言っているのと同じことである。実際、こういう人の情報が全く役に立たないことは、中国株投資を10年やってよく理解できた。

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