2016年02月

最近、どうにもブログを書こうという気がおきなくて、つい見ぬ世の人を友としてしまう。おかげで、『十訓抄』も『今昔物語集』もずいぶん進んだ。その代わり、ブログの方は今日を入れて5回しか書いていない。

太平洋戦争時の、戦況を伝える公式発表のことを大本営発表というが、あまりにデタラメだったから、「信用できない公式発表」を意味する言葉として使われている。

それでも、戦争は海彼で行われているし、正確な戦況が分かっているのはごく一部だから、内地にデタラメを伝えてもバレないだろうというのはわからんでもない。しかし、驚くべきは、21世紀情報化社会の今、数字がはっきり出る経済で大本営発表が行われることだ。

今月はGDP速報値がマイナスになった。いたずらに発射したマイナス金利黒田バズーカも、あっという間に効き目が失せて、円高株安になっている。日経平均株価は16000円代で、チャートを見れば、どうみても下げトレンドだ。

それにしても、国債までマイナス金利になったのには驚いた。銀行が国債を買ったため、国債価格が上がり、金利が低下したためだという。

国債は金利を定めて国から発行される。したがって、国債を持っている人がもらう金利は一定である。しかし、その国債を別の人に売ると、当然、売る人は買った値段よりも高く売る。国から払われる金利は一定だが、最終的に償還される額は、最初の人が買った額と同じなので、合計して実質的に金利が減ったことになる。

国債の価格が上がっていくと、償還される額と受け取る金利を足しても、購入額に足りなくなる。これが国債のマイナス金利である。常識的に考えれば、最終的に損すると分かっている国債を買うバカはいないのだが、銀行がこれを買うのは、いずれ日銀が国債を買ってくれるだろうという思惑があるからである。ふざけた話だ。

どこからどうみても、アベノミクスは終わっているとしか思えないのだが、ご本尊はいまだに訳のわからないことを言って、アベノミクスの成果は上がっているという。まあ、ご本尊はしょうがないにしても、こうなってくると、普通自民党内からも野党からも、もっとプレッシャーがかかりそうなものだが、それもない。たぶん、汚すぎて誰もアベノミクスの尻拭いをしたくないのだろう。

しかし、尻拭いを先に延ばせば延ばすほど、尻は汚れてくる。正直、もう見たくないぐらいクソだらけの汚い尻になっている。汚いものからは目を背けて、見ぬ世の人を友とするにしくはない。
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言うまでもなくひどいレイシズムだが、それ以前に、なんだか哀れだなと思ったのがこの記事。

小林よしのり「外国人観光客は目障りだ」:BLOGOS
外国人観光客が来るのが何でそんなにいいのだろう?
観光客の爆買いなんか当てにして経済回そうなんて姑息すぎる。
(中略)
銀座に行けば、観光バスと、中国人だらけで、銀座の高級感がぶち壊れて妙に景色が薄汚れた感じになってしまった。
寿司なんかコメに魚乗せてりゃいいくらいの舌しか持たないくせに、たった6・7人しか座れない高級寿司店に予約入れるのも不愉快だ。
中国人は回転寿司に行けばいいのだ。
(中略)
そこに外国人韓国客、特に中国人が来るから、食い歩きしたり、祇園で座り込んだり、舞妓さんの進路を妨害し、取り囲んで写メ撮ったり、直接舞妓さんに触ったりして、最悪な状態になっている。
しっとりした落ち着きの中で散歩するなんてことはもうできない。

銀座にしても、京都にしても、昔っから観光地である。京都はともかく、銀座は違うと思われるかもしれないが、地域住民よりも、わざわざ電車に乗ってくる人の方が多いのだから、やはり観光地なのである。

銀座によく行く人たちに、銀座がどういう街か聞けば、人によって違う答えが返ってくるだろう。ある人はショッピングだというだろうし、ある人は高級クラブ、歌舞伎や映画を見る、画廊を回る、中古カメラ屋をひやかす街でもある。京都なら歴史的な興味が多いだろうが、それでも来る人によって違うだろう。

銀座も京都もディズニーランドと同じ、テーマパークなのである。ディズニーランド同様、様々なエリアがあって、客は観光客向けに作られた、好みのエリアで遊ぶ。それだけの話だ。テーマパークだからこそ、味が分かるかどうかは別に、どこにでもある回転寿司ではダメで、高級とされる店に行かなければならないのである。

新参の客を嫌がる小林氏もまた、所詮テーマパークの客に過ぎない。商売している側からみれば、新規の客を排斥しようとする古参客ほどウザいものはない。文句ばかりいうくせに金は落とさない。東京ディズニーランドは入場料を値上げした。古参客を追い出すためである。

しかし、京都や銀座がテーマパークと違うところは、たとえ観光地であっても、ちゃんと地域住民は生活していて、知る人ぞ知るエリアがあるということだろう。本当に銀座や京都が好きな人や、旅なれた旅行者、地元民はちゃんと心得ていて、観光客が多い所には行かない。表通りで中国人が爆買いしていようが、修学旅行生がドカドカ団体で来ようが、あまり気にならないのである。

これが気になるのは、外国人観光客と同じレベルでしか、京都なり銀座なりを楽しんでいないからである。「銀座の高級感」とか「しっとりした落ち着きの中で散歩する」だとか、安っぽい言葉の端々にそれが出ている。ディズニーランドの入場料が値上げされて怒っている高校生みたいで、実に情けない。
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あなたが学校の先生だったとして、1年生の時から担任している二人の生徒がいたとしよう。

A君は入学当初から成績優秀で、常に90点以上をキープしていた。B君は一年生のときは平均点以下で、たいがい40点ぐらいしか取れなかった。

しかし、A君は二年生になり成績が伸び悩み、三年生になって70点台はザラ、80点取るのがやっとになってきた。一方、B君の方は、次第に成績を上げてきて、三年になったら50点以上は確実に取り、平均点以下になることはなくなった。

現時点でA君とB君の差は、まだ30点近くもある。単純に成績だけを比較すれば、B君はA君の足元にも及ばない。しかし、この二人から受ける印象はどうだろう。

先生からみれば、A君は努力不足で、B君はかなり努力したように感じる。もし、それぞれに言葉をかけるなら、A君に対しては「もっとしっかり勉強しろ」と叱るだろうし、B君に対しては「よく頑張った」と褒めるだろう。

その上、A君が30点の差を鼻にかけて、B君のことをバカにしているとしたら、先生はどう感じるだろう。

まあ、そういうことです。
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歯舞読めず「はぼ、なんだっけ」 島尻沖縄北方担当相
元島民らでつくる「千島歯舞諸島居住者連盟」が主催する北方領土ネット検定を紹介しようと、島尻氏が手元のペーパーを読んだ際、「千島、はぼ、ええっと、なんだっけ」と言葉を詰まらせた。その直後、近くにいた秘書官が島尻氏に「はぼまいしょとう」とささやいた。

Twitterだの、はてブだのには、「ど忘れだからしょうがない」とか、「本質とは関係ない」とか、島尻大臣を擁護する意見がちらほら見えるが、その担当なら忘れるはずがない言葉というものがある。それを忘れるのは、端的に言って、担当する資格がないということである。

忘れるはずがない言葉とは、他の職業で例えると、次のようなものだ。

国語教師
「最初の勅撰和歌集は、コキン・・・ええっと、何だっけ」

音楽教師
「トルコ行進曲の作者は、ヴォルフガング・アマデウス・モー・・・ええっと、何だっけ」

バスガイド
「右手に見えますのは、浅草寺のカミナリ・・・ええっと、何だっけ」

スパゲッティ屋
「ご注文のアーリオ・オーリオ・ペペロン・・・ええっと、何だっけ」

僧侶
「カンジーザイボーサーギョージンハン・・・ええっと、何だっけ」

安村
「安心してください。履いてい・・・ええっと、何だっけ」

ね、ダメでしょ。「はぼまい」が言えないのは、けっして小さな問題ではない。
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『今昔物語集』に出てきた、源満仲に対する源信のオルグがあまりにあざやかだったので感動した。

『今昔物語集』巻19 摂津守源満仲出家語 第四:やたナビTEXT

源満仲(多田満仲)の息子に、源賢という比叡山で修行する僧侶がいた。いい年した満仲が殺生を好むことを心配し、出家させたいと思って、叡山横川の源信僧都に相談した。源信僧都は『往生要集』で知られる高僧である。

源信は、「あの満仲を出家させれば、満仲だけでなく、それに殺される命も救うことができる。こりゃすごい功徳だ」ってなもんで、源賢の申し出を快諾。同じ叡山の高僧、覚雲阿闍梨・院源君と三人で、満仲のオルグに出発。

1.権威付けする。
修行のついでに、満仲の屋敷に源信・覚雲阿闍梨・院源君の三人の高僧が来訪(という設定)。息子の源賢、「とんでもない高僧がいらっしゃった!」と大騒ぎする。オヤジの満仲も慌てたところで、「あの三人は、天皇が召しても山を下りない人たちですよ。この機会に、是非説法してもらいましょう」と提案する。

実は、偶然でも何でも無く、来訪も源賢のセリフも、すべて源信の仕込み。役者やのォー。
「・・・己(※源信)は、此の二人の人を倡(さそひ)て、修行する次に、和君(※源賢)の御するを尋ねて行たる様にて、其へ行かむ。其の時に、君、騒て、『然々の止事無き聖人達なむ、修行の次に、己れ問ひに坐したる』と守に宣へ。己等をば、聞て渡たらば、其れに驚き畏る気色有らば、君の宣はむ様は、『此の聖人達は、公けの召すだに、速に山を下ぬ人共也。其れに、修行の次に此に御したるは希有の事也。然れば、此る次に、聊の功徳造て、法を説かしめて、聞き給へ。此の人達の説き給はむを、聞き給てこそ、若干の罪をも滅し、命をも長く成し給はむ』と勧よ。然らば、其の説経の次に、出家すべき事を説き聞かしむ。只物語にも、守の身に染む許、云ひ聞かしめ進(たてまつ)らむや」

源信は説明不要の高僧なのだが、住む世界が違う満仲には権威付けが必要だ。それも息子が言うと説得力がある。俗の最高権威である天皇にも従わないとなると、満仲にとっては、源信らが天皇以上の権威者であると感じられたはずだ。

そんな、天皇にも勝る三人の高僧が、偶然自分の家に来る。そんな偶然に満仲は仏縁を感じるのである。聖人たちの説法は、より有り難く聞こえることだろう。偶然じゃないんだけどね。

2.考える隙を与えない。
さすがに叡山を代表する高僧の説法は効く。感動した満仲、一両日中に出家したいと申し出る。源信はこう答えた。

「出家するなら、明日が吉日だ。明日を逃したら、とうぶん吉日は来ない」

もちろん、デタラメ。こういうふうに熱中した者は、2日以上経つと、考え直すだろうという算段である。役者やのォー。
心は、「此る者は、説経を聞たる時なれば、道心を発して、此く云にこそ有れ。日来に成なば、定めて思ひ返なむ」と思て云なるべし。

満仲は「じゃあ、今すぐにでも」というが、源信はそれも日が悪いと断り、次の日を主張する。満仲、出家への期待でワクワクが止まらない。

翌朝、満仲は出家する。オルグは無事成功。だが、これでは終わらない。

3.後戻りできなくする。
鷹狩の鷹、魚取りの罠、武器甲冑など、殺生に関係するものはすべて破壊。おまけに、郎等50人余りも一緒に出家させる。
其の間、鷹屋に籠たる多くの鷹共、皆足の緒を切り放たる。烏の如く飛び行く。所々に有る簗に人遣て破つ。鷲屋に有る鷲共、皆放つ。長明(長明は意味不明)有る大網共、皆取りに遣て、前にして切つ。倉に有る甲冑・弓箭・兵仗、皆取り出して、前に積み焼つ。年来仕ける親き郎等五十余人、同時に出家しつ。

ここまでしたら、もう後には引けない。

4.奇跡を起こす
次の日、どこからともなく、なにやら妙なる音楽が聞こえてきた。満仲が源信らに、「あれは何の音楽でしょう」と聞くと、聖人たちは「さて、なんでしょうね。極楽の迎えが来るとこういう音楽が聞こえるそうですが・・・とりあえず念仏しましょう」ととぼけて、声を揃えていい声で念仏する。役者やのォー。

満仲が障子を開けると、なんということでしょう、そこには金色に輝く菩薩さまが、手に蓮華を持って行列しているではないか。満仲、感動で涙にむせびつつ拝み倒す。

たぶんこんな感じだったのだろう。


もちろん、すべて仕込み。金色に輝く菩薩様はすべて、源信が雇った役者。役者やのォー。
兼て、「若し信ずる事もや有」とて、菩薩の装束をなむ、十具許持たしめたりける。只、笛・笙など吹く人共を少々雇たりければ、隠の方に遣して、菩薩の装束を着せて、「新発の出来て、道心の事共云ふ程に、池の西に有る山の後より、笛・笙など吹て、面白く楽を調へて来れ」と云ひたれば、楽を調へて、漸く来たるを・・・

「若し信ずる事もや有」ってのは、「こんなのに騙されるやつおらんやろ」という気持ちが含まれているのだが、満仲はあっさり騙されてしまった。満仲はコワモテのイメージだが、案外いい人なのかもしれない。

出家してすぐの人を「新発意(しんぼち)」という。かくして、満仲は1000年後の今日まで新発意呼ばわりされるハメになったのである。

それにしても、源信の一連のスキーム(枠組みをもった計画)はよく出来ていて、現代の新興宗教やマルチ商法、詐欺の手口に通じるものがある。平安時代には、そんな方法がすでに確立されていたのだろう。
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