2016年03月

普段、相撲は見ないのだが、最近は祖母が入院している病院で一緒に見る。今場所も病院で見た。

僕には、先場所よりも、今場所の方がずっと面白かった。今場所は、しばらく豪栄道・稀勢の里・白鵬の三人が一敗で並んだ。いわゆる日本人力士も頑張ったが、ここからの白鵬の迫力はすごかった。もう、絶対に敗けないという気迫を感じた。結果、白鵬は豪栄道にも稀勢の里にも勝って一敗のまま優勝したのである。

優勝は千秋楽に持ちこされ、優勝を決定する白鵬と日馬富士の一戦が、見ていてイマイチな一戦になってしまったのはご存知の通り。

たしかに、お金を払って見に行った人にとっては、優勝決定の横綱同士の千秋楽としては、あまりにあっけなく、面白くなかったかもしれない。しかし、僕はあれが本当の相撲だと思った。

たぶん、白鵬は立会で変化するつもりはなかったのだろう。それは、それまでの取り組みを見ていれば分かるし、優勝決定後の白鵬の発言でも分かる。優勝したにも関わらず、白鵬の表情は嬉しそうには見えなかった。お詫びの言葉も言った。

立会の一瞬で、白鵬が自分に有利な体勢に持って行こうとしたら、思った方に日馬富士が動かず、勝手にすっ飛んで行ったのが真相だろう。日馬富士は今場所あまり調子が良くなく、結果は9勝6敗である。あのあっけない取り組みは、日馬富士の方に問題があったと考えるべきである。

それでも「横綱たるもの、見せる相撲を取るべきだ」と好角家が言うなら、それは八百長に限りなく近いものだと言おう。横綱は鍛えぬかれたアスリートである。見せる相撲を取りたくても、チャンスがあれば勝手に体が動くのがアスリートというものだ。

僕は相撲ファンではないから、相撲が八百長だろうとなんだろうと、どちらでもいい。盛り上がればいいという考え方もあるだろうし、ガチじゃなきゃ盛り上がらないという考え方もあるだろう。

そもそも、僕は、相撲に限らず、日本人の好む競技はすべて八百長だとさえ思っている。問題は、白鵬を批判する好角家が、自らの八百長好きを理解できているかどうかである。
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テレビでショーンK氏を見た時に、僕は胡散臭い奴だと思ったらしい。「らしい」というのは、ほとんど気にしていなかったからだ。僕がテレビで見るたび「こいつ胡散臭い奴だな」と言っていたと、ヨメに言われたので、どうも僕はショーンKを胡散臭く思っていたと分かったのである。

しかし、インチキがバレるに従い、だんだん親近感が湧いてきた。ショーン氏は(詐称していなければ)1968年生まれで、僕と同い年(学年は一つ上)である。年齢を詐称していたとしても、10歳は違わないだろうから、同年代であることに変わりない。

僕たちが中学生・高校生だった80年代、洋楽ブームが来た。テレビでも洋楽番組をやっていたし、FMラジオでは一日中洋楽をかけていた。DJという言葉は、今ではクラブで音楽をかける人のイメージが強いが、当時はラジオの司会者を想起する方が一般的だった。

今から考えると、80年代は不思議とインチキな時代だった。ラジオのDJは英語交じりの日本語か、英語なまりの日本語だった。ところが、ネイティブの人は少なく、ほとんどが日本人か日系人だった。

その代表が今も活躍する小林克也氏である。彼はコテコテの日本人で、独学で英語を学び、留学経験もない。それでも、彼が話す英語はカッコよく聞こえた。なにしろ、当時は学校に外人講師などはほとんどおらず、英語の先生はお国訛りで「ねくすとぅ〜!」なんて言っていた時代である。

ミニFM局が流行ったのもこのころだ。ミニFM局とは、100メートルぐらいの範囲しか電波が届かないなら、免許不要で送信できるという電波法を使って作られた放送局だ。イベント会場なら話は別だが、基本的に誰も聞いていない放送局である。そこで、インチキDJたちが音楽を流していた。

僕達はこの時代のDJに影響を受けた。どんな影響を受けたかは、福山雅治氏のラジオを聞けば分かる。AMはそうでもないが、FM番組を聞くと、どうにもムズムズしてくる。僕自身も校内放送を入れたら、なぜかDJ風になったことがある。最近はそうならなくなった。マイクではなく、校内電話の受話器から放送を入れられるようになったからだろう。今度はなぜかキャビンアテンダント風になったけど。

当時の洋楽自体、なんだかインチキくさいものだった。寂しさをまぎらすはずのオリビア・ニュートン=ジョンはデブ相手にエアロビクスを指導していたし、「シンセサイザーは使わない」と言っていたバンドがシンセサイザーを使い出し、KISSまで化粧を落として直面(ひためん・能用語で面を付けないこと)になってた。僕達の洋楽はそこがスタートラインだった。

こんな状況なら、もっとアメリカなりイギリスに憧れを持ちそうなものだが、それもあまりなかった。当時、アメリカは犯罪多発でヤバすぎた。イギリスは不況と高失業率にあえいで、貧乏臭くて魅力的には見えない。オーストラリアは田舎すぎてそもそも論外。

その点、日本はバブルのとば口に立って景気が良かった。旅行程度ならともかく、今よりもずっと高いコストをかけて留学するより、アメリカ・イギリスを日本に作った方がいい。ショーンK氏が中退したという、テンプル大学日本校も、そんな場所として認識されていた。

伝えられるショーンK氏の本当の経歴からは、そんな〈80年代的ドメスティック英米〉をこじらせて、今まで続けてきた感じがする。しかし、独学で騙し通せるまでの英語力や、話術をつけたのは驚嘆するほかない。当時の若者のほとんどは、〈80年代的ドメスティック英米〉に見切りをつけて、別の方向へ行った。ある者はホンモノを求めて海外へ行った。ある者は音楽方面へ行った。僕は、英語が嫌いになり、日本語へ走って国文学科に行った。

しかし、〈80年代的ドメスティック欧米〉をこじらせた彼は、そのまま僕たち憧れのラジオスターになって、15年間も番組を担当した。これも驚嘆すべきことである。しかし、80年代ならそれでよかったは、21世紀の現代にはホンモノがいくらでもいる。彼が経歴を盛らなければならなかったゆえんである。

おそらくテレビにさえ出なければ、ショーンK氏はずっとレディオスターで続けていられただろう。そう、テレビがレディオスターを殺したのである。

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『今昔物語集』の本朝部(巻11〜31)を入力し終わった。

『今昔物語集』は1000余話からなる、膨大な説話集だが、重要とされるのは本朝部(巻11〜31。ただし巻18・21は欠巻)である。これで一区切り、全体でみれば2/3が終わったことになる。

始めたのが2014年4月なので、ここまでくるのに2年かかった。ずいぶんかかったように思われるかもしれないが、始めた時は本朝世俗部だけでそれぐらいかかるだろうと思っていた。

なにしろ、底本にした『攷証今昔物語集』(芳賀矢一・冨山房)は、漢字カタカナ交じりの宣命書なので、字が小さくて恐ろしく読みにくい。最初の頃は、1ページ入力するだけで頭痛・肩こりがひどく、これだけで10年以上かかるんじゃないかと思った。

漢字も強敵で、異体字や見たこともない漢字がやたらと出てくる。明らかに使い分けされていない異体字は通行の字体に改めたが、それでも使い分けの可能性があるものや、特殊な漢字は、底本通り残すようにした。これが厄介で、普通の漢字変換では出ないから、いちいち探さなければならない。

Unicodeのおかげで、ほとんどの漢字を問題なく表現できるようになったが、それでもどうにもならないものもある。例えば、りっしんべんに悪という字がよく出てくるが、こんな字はUnicodeにはない。「悪」に心が入っているのに、またりっしんべんで心を付けるのも、漢字の成り立ちからすれば妙な話だ。

「悪」という字には、「わるい」と「にくむ」という2つの意味があって、日本語では「アク」と読むと前者で、「オ」と読むと後者になる。これを分別するために、「にくむ」の場合りっしんべんを付けているらしい。ただし、これが『今昔物語集』独自の文字かどうかは分からない。

このように、『今昔物語集』の漢字は、かなり厄介な問題をはらんでいるのだが、とりあえず入力して、全部入力し終えたら、少しずつ直すことにしたいと思っている。

当初、なるべく底本に忠実な本文にしようと思ったが、やっているうちに、どうやっても不可能だということに気づいた。忠実にすると、読みにくくなる。読みにくいということは、検索しにくいということで、これでは電子テキスト化の意味はない。逆に読みやすく手を加えると、時間がかかるだけでなく、『今昔物語集』の文章独特の味が薄れてしまう。

日本古典文学大系や新日本古典文学大系は、底本に忠実に作られているが、読みにくい。新潮日本古典集成は読みやすさを主眼にして、大胆に校訂していてるが、『今昔物語集』独特の味は薄れてしまっている。比べてみると、同じ『今昔物語集』とは思えない文章になっているのが分かるだろう。

やたナビTEXTの『今昔物語集』はその中間にした。「した」というよりも、結果「なってしまった」という方が正しい。しかし、読みやすさと、文章の味の両方を取ると、こうならざるを得ないのではないかとも思う。

天竺部・震旦部を入力していないことを抜きにしても、まだまだ未完成で、間違いも多いと思う。なにしろ量が多いので、ほとんど読み直していない。間違いは遠慮なく指摘してほしい。すぐに直せるのが電子テキストの利点である。

研究者は、完璧な本文を求めたがる。どのみち、完璧な本文なんかできっこないのだ。ならば、完璧をめざすことよりも、まずそこにテキストがあることを優先すべきだと僕は考えている。
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今月末、6年ぶりに中国へ行く。地震の直後に行った台湾も入れれば、5年ぶり。

それはともかく、中国の発展に反比例して、僕のポンコツ中国語はさらにポンコツになっている。発音の方はキアイで何とかするとして、問題は聞き取りである。旅行だから、そんなに難しい言葉が聞き取れる必要はないのだが、あらかじめ耳を慣らしておくとだいぶ違うのだ。

というわけで、耳慣らしのため、久しぶりにアニメ『喜羊羊与灰太狼』を見た。今はYoutubeにかなりアップされていて手軽に見られるのだが・・・。

僕が喜羊羊を知ったのは、2009年である。ホテルのベッドで横になりながら「なんじゃこのゆるいアニメは」と思って見ていたら、すでに流行っていた。

喜羊羊与灰太狼:2009年09月02日

昔は、ドラえもんだのポケモンだの、日本のアニメばっかりだったのだが、次第に喜羊羊の占める割合が増えていった。中国だけではない。ベトナムでは喜羊羊とドラえもんが勝手にコラボさせられて、ドラえ羊羊になってた。
どらえ羊羊

Wikipediaによると、喜羊羊シリーズは2005年から始まり、2009年までが第一部。このころの『喜羊羊与灰太狼』はこんな感じだった。

もう、なにもかもぬるい。キャラクターの造形も、ヌケた声のオープニングも、素人の作ったFLASHアニメみたいなアニメーションも、なにからなにまでぬるい。しかし、これが中国のチビッコにはウケた。中国産アニメは中国人も見ないという常識を、このアニメが破ったのである。

これが今やこうだ。

出てくるキャラクターは全然変わらないのに、音楽もCGも演出も、同じ作品とは思えない変貌ぶり。

前のオープニングはちょっと練習すれば歌えたが、これはもう僕のポンコツ中国語では無理。それどころか、日本語の歌詞が付いていてもちょっと歌えそうにない。かつて変な葉っぱに乗って仲良く丘を滑り降りていた羊羊たちは、わけの分からん汽車みたいなマシンに乗っている。たぶん村長(慢羊羊)の発明品だろうが、昔はしょうもないものばかり発明してたくせに、ちょっと見ない間にずいぶん進歩したものだ。

これが経済成長なのか?爆なのか?

さて、この最新シリーズ、「喜羊羊与灰太狼之嘻哈闖世界」というのだが、「嘻哈闖」が分からない。グーグル翻訳にかけてみたら、こんなの出ました。
ヒップホップブレイク

ごめん、ますます分かんない。
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25年間務めた定時制高校をリストラされた。持ち時数はそれほど多くないので、収入としてはたいしたダメージではない。むしろ清々しい気分である。

25年務めたといっても、学校の統廃合により、場所も学校名も変わってしまっている。法的には同じ学校だが、教員も生徒も卒業生も地域住民も、そんな感覚はないだろう。しかし、僕にとっては、大学を卒業して、一番最初に行った高校だったから、それなりに思い入れがある。

何しろ、大学を卒業したばかりの青二才、もとい22歳、いきなり定時制高校に行って、とにかくびっくりした。僕の中の常識が一瞬に崩れた。

まず、何故だか職員室好きの生徒が多くて、教室に入るよりも先に職員室に来る。誰が生徒だか先生だか分からない。出勤すると、僕の席に勝手に生徒が座っている。電話がかかってくると、その生徒が「はい、都立○○高校定時制です」とか言って出ている。

職員室の近くに、広い会議室があって、ここが喫煙室になっていた。生徒用である。タバコを吸う生徒はもちろん、吸わない生徒まで来ていた。当時は職員室でもタバコは吸えたが、僕も生徒と一緒にそこで吸っていた。おかげで様々な情報を得ることができた。

当時は自動車通勤・通学が許可されていたから、業務用の4トントラックで来る奴がいた。なにやらビカビカ光る車(察してください)で来ているやつもいる。オートバイで来る奴もいる。駐車場は混沌としていた。

生徒もバラエティに富んでいて、下は15歳から上は80歳ぐらいまでいた。絵に描いたようなヤンキーもいれば、戦争経験のある爺さんも、自分の名前も書けないような知的障害者もいた。高齢者や知的障害者がいるクラスはわりとまとまっている事が多い印象だ。個人的に一番やりにくかったのは自分と同い年か少し上の生徒である。ダブりまくって僕と同い年になった生徒が何人かいたのだ。だが、それもすぐに慣れた。

いざ、授業が始まると、一刻も早く授業を終わらせようとする。教科は書道だったから、他の教科と違い主導権はどうしても生徒の方にある。おしゃべりでなんとか時間をまぎらしたが、最後の4時間目になると、どうにもならない。始まっての5分ぐらいで「終わっていいですか」コールが始まる。これをどうにかするのが大変だった。

教科が書道だったおかげで、週二回(当時)行くだけの非常勤講師という立場でありながら、よく生徒としゃべることができた。始めたころは、年齢も近かったから、生徒も話しやすかったのかもしれない。彼らと会話することで、同じ地域で、同じ時を生きていても、自分の全く知らない世界があるということを知った。

定時制だったおかげで、「普通の生き方」という言葉に全く意味がないということを思い知らされた。ただ、自分は普通だと、誰もが思っているだけである。自分の生き方が普通じゃないと思ったら、たいがいの人は不幸になる。心配するな。普通の生き方なんかこの世にはない。

何もかも懐かしい思い出である。始めた当初、その高校に務めるのは、せいぜい2・3年だろうと思っていた。気がついたら25年も経っていた。喫煙室は無くなり、トラック通学もなくなり、高齢者の生徒も、知的障害者も、ほぼいなくなった。教員も同じ人は一人もいない。校舎も生徒も何もかも変わった。でも、定時制的な雰囲気は、ちゃんと残っていると思う。

非常勤だから、25年間勤めても、誰もねぎらってくれないし、送別会もない。それ以前に、僕がそれほど長くいること自体、誰も知らない。一人の非常勤講師が、4月から来なくなるということだけだ。非正規雇用なんてそんなものだ。

だが、そんなことはどうでもいい。僕がこの25年間に得たことからすれば、そんなことはくだらないことである。そして、まだまだ続く。たぶん僕が死ぬまで続くだろう。

ともかく、何があろうとも、したたかに生きること。それがこの25年間で学んだことである。たぶん、僕はこれからも学び続けていくのだろう。
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高卒社会人一年生(もうすぐ二年生)に「重さ」と「面積」と「体積」とは何かを教えている。:togetter

これだけ読むと、ゆとり教育のせいだと思うかもしれないし、底辺校出身だからだと思うかもしれない。いずれも違うと思う。ここからは、僕の経験による推測で、実際どうかは分からない。だが、程度の差こそあれ、これはよくあることだと思って読んでほしい。

おそらく、この人(高卒社会人一年生)は、学校の成績は悪くなかったのだのだろう。「元ラグビー部主将で生徒会長だった」し、この会社への就職も難なく決めているようだ。少なくとも、成績が悪くて留年するような、〈やる気がない〉・〈まったく勉強が出来ない〉生徒ではなかったのだろう。

ラグビー部の主将は、いくら技術的に優れていても、真面目でなければ選ばれない。生徒会も、たぶん誰も立候補せず、先生から「おまえやらないか」とか言われて、「はいっ!やらせていただきます!」とか言ってなっちゃったのだろう。入社してからの態度を見ても、わりと真面目なタイプであることが察せられる。

こういうタイプは、授業も熱心に聞いているし、ノートもちゃんと取っている。提出物もちゃんと提出する。試験範囲が分かっている試験なら、そこそこの点数を取るし、授業態度もいいから成績も悪くない。

ところが、試験が終わってしまえば、きれいさっぱり忘れてしまう。まるでスポンジのように、試験前には知識を詰め込み、試験が終わるとすっかり消えてしまう。

これは、授業を仕事のような作業としてとらえているからである。だから、先生に言われたことをこなして、試験でそこそこの点数を取って、それでよしとする。

しかし、その学問(教科)の本質が分かっていないから、試験範囲がなくなると、とたんに悲惨な結果しか出ないし、応用もきかない。国語で言うと、国文法の活用表は完璧に覚えているが、それが何を意味しているか、理解していない。単語もある程度覚えているが、それと活用が結びついていないので、見たことがないテキストは全く読めない。

それでは授業は面白くないだろうと思うが、こういう人は、授業はそういうものだと思っているから、面白いか面白いかなんかは関係ない。ただ、試験の点数さえ取れればいい。真面目なのである。

これは、学力のレベルには関係ない。いわゆる偏差値の高い学校でも少なからずいる。僕の印象では、定期考査の点数さえ取ればいいと思っているのは、むしろ学力の高い学校の方が多い印象がある。

勉強を作業と思っているのは、本人にとって一つも利がない。それなのにそうなってしまうのは、ちゃんと理由があるはずだ。その理由について、僕自身思うところはあるが、あえて書かない。理由は一つではないだろう。各自、考えてほしい。
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東日本大震災の3月11日が来た。今日は、僕にとってちょっと恥ずかしい話を書こう。

何度か原発反対のような記事を書いているし、原発反対デモにも行ったので、僕がもともと原発反対派だと思っている人もいるかもしれないが、そうではない。

中国株投資を始めた時、最初に原発関連の株を買った。中国は原発が少ないうえに、粗悪な火力発電が多く、大気汚染が問題になりつつあった。そのころすでに、太陽光発電とか、風力発電のようなミーハーな銘柄が話題になっていたが、いずれ、原子力発電が発電の中心になるだろうと思ったのである。

そこへ、東日本大震災が起きた。そのころ日本株を買える証券会社の口座を持っていなかったので、すぐに口座を開く手続きをした。福島の原発事故でガッツリ落ちた東京電力株かウエスチングハウスを買収した東芝株を買うつもりだったのである。

こう書くと、人の不幸を金儲けに使うのかと思われるかもしれない。これには何も言いようがない。投資家というのはそういうものだとだけ言っておこう。

証券会社の口座というものは、申し込んですぐに開けるものではない。手続きに時間がかかっているうちに、だんだん福島の状況が悪化してきて、「これはマジでヤバいぞ」と思った。

結局、東京電力株はやめて、オリエンタルランド(東京ディズニーランド)株を買うことにした。東京ディズニーランドなら、一時的に客が減っても、いずれは戻るだろうと思ったからである。オリエンタルランド株は当時6千数百円代だった。これは十分に利益が出た。

地震が来るまで、僕は原発を信用していた。電力会社が主張していたように、絶対に事故が起きないなどとは思っていなかったが、起きてもチェルノブイリのような大事故にはならないと思っていた。ところが、結果はご存知の通り。いまだに収束したとは言えない状況である。

しばらくして、持っていた中国株の原発関連株も売ってしまった。もう原発に未来はないと確信したのである。あれだけの事故を起こして、原発の未来なんか、信じられるだろうか。

原発のステークホルダー(利害関係者)でもない人が、何故、原発を容認できるか、僕には全く理解できない。原発が安全でないことはよく分かった。大変な損害をもたらすことも分かった。原発が無くても何の問題もないということも、ここ数年で完全に証明されてしまった。唯一の懸念材料だった原油価格すらも、びっくりするぐらい下がっている。

もう原発にペナルティを課さない理由は一つもない。

もし、本当に原発に未来があるなら、どんなにペナルティを課されても、いずれ復活するだろう。僕達にとって大事なことは、信用を損なった原発にしっかりと本気でペナルティを課すことである。原発推進派の立場であっても、それが日本の原発のためになる。
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現在の電子メールを発明した、レイ・トムリンソン氏が亡くなった。

電子メールの生みの親、レイ・トムリンソン氏死去:CNN.co.jp
(CNN) 電子メールの生みの親として知られるレイ・トムリンソン氏が死去した。74歳だった。勤務先の米レイセオンが6日、CNNに明らかにした。
トムリンソン氏は1971年、コンピューター同士で直接的にメッセージをやり取りする電子メールを発明した。

亡くなった・・・と書いたものの、実は電子メールの生みの親が誰か、今日まで知らなかった。レイ・トムリンソン氏はwwwの開発者ティム・バーナーズ=リーや、現代的なブラウザを開発したマーク・アンドリーセンと比べると、イマイチ知名度がない。しかし、考えてみると、これほど私達の生活に影響を与えたものはない。

@を使うルールもレイ・トムリンソン氏が考えたものだそうだ。
しかしこの仕組みは複雑すぎると考え、簡単な方法を考案する中で、送信相手の場所を示す記号として「@」を使う方法を打ち出した。
@に目を付けたのは、ほとんど使われていないにもかかわらず、キーボードにもともと配置されていた記号だったからだという。

初めて8ビットパソコンのキーボードを見たときに、@だけは意味が分らなかった。父に聞いたら、これは単価を表す記号だという。商売をやらなければ使わない記号である。

それが今や、メールアドレスはもちろん、ツイッターのリプライやら、@cosmeやらIDOLM@STERやら、いろんなところで使われている。僕自身、ネット上では「中川@やたナビ」と署名することが多い。@を見ない日はないぐらいだ。

もちろん、メールそのものも画期的だった。なにしろ、それまで地球の裏側にメッセージを届けるには、エアメールかFAXを送るしかなかった。いずれにしても結構なコストがかかるのに、e-mailだと一瞬で、しかも1分ぶんの市内料金(当時は電話でつないでいたため)で送れるのだ。

僕が初めてインターネットプロバイダーと契約したのは、1994年である。ところが、メールを出す相手がいない。当時はインターネットを使う人など、電気通信関連企業のエンジニアが理系の大学生ぐらいだったからである。

だから、自分以外の人とメールのやりとりをしたのは、それから1年後ぐらいである。相手は当時理工学部に通っていた弟で、内容は「卒業祝いは何がいいか」というもの。で、返事は・・・

「チタン製の腕時計」

記念すべき、自分以外の人間から初めてもらったメールは、わずか8文字だった。

レイ・トムリンソン氏に感謝するとともに、ご冥福をお祈りします。
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