2016年05月

G7で安倍首相が、現在の状況はリーマンショック前夜に似ていると言ったのには驚いた。僕にはそんな感覚がまるでなかったからである。僕もリーマン・ショックでは痛い目にあったので、二度と同じ目にはあいたくない。ここは人に頼らず、個人的に検証しなければならないだろう。

というわけで、まずはリーマンブラザース破綻(2008年9月15日)ごろまでの一年間のチャートを見てみよう。

日経平均から。
nikkei2251year2008

続いて、ニューヨーク・ダウ。
dow1year2008

日米ともに、よく似たチャートを描いている。このあと、リーマンショックでさらにドカンと下がるが、前夜の段階で、すでにかなり下がっているのが分かる。これはアメリカのサブプライム危機の仕上げとして、リーマンブラザースの破綻があったためである。

今度はここ一年のチャートを見てみる。この形が似ていれば、リーマンショック前夜に似ていると言えるだろう。まず、日経平均。
nikkei2251year2016

なるほど、今年に入ってから株価は右肩下がりで、たしかにリーマンショック前夜に似ているかもしれない。なお、下がった契機は円高である。

では、ニューヨーク・ダウはどうだろうか。
dow1year2016

似てない・・・にもほどがある。日本の株価下落の要因が円高なのだから、日本とアメリカの関係だけでいえば、アメリカは有利になる。似ていないのは当然だ。

これではリーマンショック前夜に似ていると言われても、誰もピンと来ないのは当然だ。もう安心とまでは言えないが、すでに二回の危機を脱しているようにも、長期のボックス相場(一定の変動幅の範囲内で、上がったり下がったりを繰り返す)のようにも見える。少なくとも危機的状況には見えない。

さて、ではリーマンショック後はどうなったか。安倍首相の言う通りなら、その後を見ることで、将来を占うことができるはずだ。

ここでは小泉政権発足から、アベノミクス以前までを見てみる。青がニューヨーク・ダウで赤が日経平均である。
小泉政権から安倍以前

2008年の終わりから、日米ともにドカンと落ちているのがリーマンショック。問題はその後。

リーマンショックまでは、日米の株価は連動しているが、リーマンショックを期に、日本の株価が低迷しているのが分かる。つまり、アメリカの株価は3年程度で復活したが、日本の株価はアベノミクスまで低迷したということである。この間、日本は円高が続いていた。

この関係性は、ここ一年のアメリカと日本のチャートに似ている。どちらも、アメリカのチャートがW字型になって回復しているのに対し、日本のチャートはすでに右肩下がりになっている。また、どちらも円高が要因になっているのも似ている。

どうやら、日本に限定すれば、リーマンショック前夜に似ているというのは間違いではないようだ。このままだと、またぞろ長期低迷の可能性も高い。

しかし、他の国は日本だけを見ているわけではない。それどころか、今の世界経済を支えているのは、新興国とアメリカだから、日本なんかは二の次、三の次である。

簡単に言えば、「このままじゃアベノミクス終わっちゃうよ。政権の危機だよ。円安Please、S'il vous plait、Bitte、per favore!」を安倍晋三語で言うと、「世界経済は大きなリスクに直面しているという認識については、一致することができたわけであります」となるわけである。

書道の授業は楷書で始める。これは、楷書が最も身近な書体だからである。それ以上の理由はない。最初に習うから、一番簡単と思われるかもしれないが、ちょっとのミスでバランスが崩れてしまう、最も難しい書体である。

楷書は石碑を書くための文字として発達した。楷書で書かれる以前は、石碑は篆書か隷書で書かれた。しかし、それらは日常でも使われるものだったから、最初から非日常の書体として成立したのは、楷書だけということになる。その点で、楷書は非常に特殊な書体なのである。

印刷が行われるようになり、楷書は印刷物にも使われるようになったが、それでも普段使いの文字は行書か草書だった。ワープロが普及するまではそうだったから、楷書が書体の主流になったのは、つい最近、たかだか30年前のことだ。

今や、行書や草書で書かれた、手書きの文字を見ることは少なくなった。学校ではほとんど楷書しか習わない。実生活でも、印刷された文字か、スクリーン上の文字を読む方が多い。手書きの文字を見たとしても、ほとんどが楷書か、楷書をベースとしたなぐり書きである。現代人は楷書ネイティブになってしまったのだ。

筆順とか、トメ・ハネ、筆画の向きなど、これらは楷書だから起きるのである。行書・草書であれば、筆順は一目瞭然だし、トメ・ハネ・筆画の向きなどは、筆脈によって自由自在に変わる。そもそも、行書や草書に画数という概念はない。

字形にしても、楷書で書くと違うものが、行書や草書だと全く同じになってしまうことも多い。たとえば、にんべんと、ぎょうににべん、さんずい、にすい、これらは全く同じ形になることがある。示偏(礻)と衣偏(衤)も楷書では点の有無が重要だが、行書・草書なら右半分が省略されて同型になる。

全くの同型でなくても、別の字でほとんど同じ形という例はいくらでもある。これに書く人の癖が加わると、漢字単体で判別するのはほとんど困難である。本来、文字は単独で読むものではなく、文章として読むものだから、これでよかったのだ。

書道を教えている僕が言うのもナンだが、文字の原則は〈読めること〉である。行書や草書が主流だった時代は、書き手もそのつもりで書いている。

繰り返しになるが、楷書はかつて〈特殊な書体〉だったということを、書く人も読む人も忘れてはいけない。
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妻がシャボン玉せっけん歯磨きなるものを買ってきた。



シャボン玉せっけんといえば、無添加石鹸の製造で知られるメーカーである。当然、この歯磨きもそっち系。なお、「シャボン玉」というと、つい「シャボン玉ホリデー」とか思い出しちゃうが、あれのスポンサーは牛乳石鹸である。

さて、使ってみた。

公式サイトにも書いてあるように、泡立ちが少なく、味も薄い。どこかでこんな歯磨きを使った記憶がある。そうだ、昔、ショボい旅館の使い捨て歯ブラシについていた、小さな歯磨きだ。ただし、あれよりははるかに滑らかだ。普通の歯磨きに比べても滑らかだから、研磨剤も少ないのかもしれない。

泡立たないので、なんだかダラダラとよだれが出てくるような気がする。味が薄いから、起きた直後の朝飯前に使うのにはいいかもしれない。これなら、歯磨き無しで磨けばいいんじゃないかと思うが、無きゃ無いで物足りないという人にはいいだろう。

それにしても、普通の歯磨きを使い慣れていると、どうにもインパクト不足である。というわけで、寝る前は、シャボン玉せっけん歯磨きで歯を磨いた後、インパクトのでかさが狂気の域に達している、リステリンオリジナルを使っている。


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先日NHKの記事で見たのだが、通販で買った自転車が壊れて、事故になるケースが増えているらしい。特に折りたたみ自転車での事故が多いそうだ。

もちろん、販売した会社の責任が第一にある。設計や製造にも問題があったのかもしれない。しかし、それだけではこのような事故は防げないだろう。

先の記事では、「突然フレームが壊れた」というようなことが書かれてあった。しかし、それは本当だろうか。経験上、どんな自転車であれ、必ず壊れる前兆というものがある。それを見逃したか、分かっていてだましだまし乗っていたのではないか。

前兆は、異音だったり、体で感じるガタつきとして現れる。普段から自転車に乗っていると、「いつもと違うな」と感じる類のものだ。詳しくなると、それが単にグリスが切れているだけなのか、あるいはパーツが緩んでいるのか、フレームに問題があるのか分かるようになる。唯一前兆がないのはパンクぐらいなものだ。

どこに問題があるか分らなくても、この違和感は決して感じにくいものではない。自転車は運転する人間がエンジンも兼ねているから、自動車やオートバイ以上に壊れる異常を感じやすいのである。しかし、大多数の人は、違和感に気づいていても、そのままにして乗ってしまう。

それが、いままであまり事故にならなかったのは、フレーム(フォークを含む)自体が壊れることがほとんどなかったからだろう。例えば、ブレーキは前後いっぺんに壊れることはまずないから、片方壊れても止まらないということはない。チェーンが切れようが、ペダルがもげようが、よほどの不運でもないかぎり、いきなり自転車から放り出されるようなことはあまりない。

しかし、先のニュースによると、突然フレームが壊れるケースが増えているという。大変危険な事故だが、なぜそうなるのか。

かつて、自転車のフレームは鉄でできていた。しかし、最近は軽量化のためアルミ合金のフレームが増えている。鉄に比べてアルミ合金が弱いわけではないが、金属疲労に関しては鉄とは比べ物にならないほど弱い。

しっかりと組まれた状態で乗っていれば、アルミのフレームでも金属疲労などはそう簡単には起こさない。だが、もしどこかのネジが緩んで、ガタが来ていたらどうか。その部分に衝撃が加わり、金属疲労を起こしやすくなる。すると、アルミの特性上、突然破断する。運が悪ければ、死ぬだけさ。

鉄のフレームは、多少組み付けられたパーツにガタつきがあっても、そう簡単には金属疲労を起こさない。仮に起こしたとしても、アルミと違い、いきなりバッキリ折れるということはない。

昔は異音を放ちながら走っている自転車をよく見かけたが、鉄の自転車はすぐに壊れないので、だましだまし乗ることができたのである。もちろん、最終的には壊れることになるが、フレームより先にパーツが壊れることが多い。

折り畳み自転車は、その機能を盛り込むため、フレームが弱くなりやすい。その上、軽くするためアルミ合金が使われることも多い。ホイールが小径であることが多いので、路面からの衝撃も受けやすい。折りたたみ自転車は、もともと壊れやすい自転車なのである。

いずれにしても、前兆さえ見逃さなければ、大きな故障には繋がらないはずである。何か違和感を感じたら、すぐに自転車屋へ持っていくべきなのだが、折りたたみ自転車は特殊なパーツを使っていることが多く、どこの自転車屋でも見てくれるというわけではない。

その意味でも、バラバラにした自転車を自分で組み直せるぐらいの技術がないかぎり、自転車を通販で買うべきではないのである。
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舛添都知事の一連の疑惑は、公用車を私用に使ったとか、ヤフオクで骨董を買ったとか、海外視察の費用が高いとか、どうにもセコい物件ばかりである。

はっきりいうと、猪瀬前知事の徳洲会からの資金提供問題に比べれば、たんなる税金のムダ使いで、それも個人的なことばかりだから、ぜんぶまろげても大したことはない。おそらく、東大助教授時代から、こんなことばかりやっていて習慣になっていたのだろう。

これで得られる教訓は、公金を扱う時は、小さい額ほど気をつけて扱わなければならないということだ。

金額が小さい場合、本人以外で利益を得る人はほとんどいない。例えば、舛添氏がホテルのスイートルームに泊まっても、利益を得るのは本人とホテルしかなく、そのホテルにとっては、スイートルーム一室の宿泊費程度、全体の利益にはさして影響しない。だから世に現れやすい。

また、数十〜数百万円程度なら、その価値が誰にでも想像がしやすい。もっと安いホテルにしろとか、ファーストクラスをビジネスクラスにしろとか、ヤフオクで骨董を買うなとか、誰でも口が出しやすいのである。

これが億単位になると、利益を享受する関係者が増える。こうなると、関係者は自分の利益を守るため、みんなで一致団結して隠そうとするし、万一バレれても、みんなで潰そうとする。だから、なかなか表に出てこないし、出てきたとしても、結局どこかで有耶無耶になりやすい。

スイートルームの宿泊費と違い、何億とか何十億とかいう物件は、それが適正かどうかすらよく分からない。オリンピックの招致に何億円かかったとか、新しい競技場の建設費が何百億とか言われても、一般庶民には高いんだか安いんだかピンとこないのである。そういうものではないと証明するには大変な労力がいるし、そもそも証明するべき人(つまりマスコミ)が、ご相伴にあずかっていれば、これはどうにもならない。

どちらも公金のムダ使いという点では同じだが、どちらが悪いかといえば、当然何億、何十億の方だ。しかし、そちらは表には出ず、舛添氏のようなショボいムダ使いばかりが表に出て批判される。かくして、大悪党は栄え、コソ泥は滅ぶということになる。

考えてみれば、僕も公金を使う仕事をしている。額は少ないなんてもんじゃないが、少ないからこそ気をつけなければならないなと思った次第である。
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鶴間和幸『人間・始皇帝』(岩波新書)を読んだ。

いうまでもなく、というか、その名の通りというか、最初に中国を統一し、皇帝と名乗ったのが始皇帝である。それだけに始皇帝の業績や人生はよく知られている。

万里の長城の建設や、文字統一、度量衡の統一、焚書坑儒、巡幸とその途中での崩御、巨大な陵墓と兵馬俑、あっという間の秦の滅亡。テスト問題ばりに、キーワードばかりが出てくるのだが、それを繋げようとすると、どうにも心もとない。

これだけの権力を誇り、後の王朝に強い影響を与えた皇帝が、なぜ危険を冒して何度も巡幸しなければならなかったか、なぜすぐに滅んでしまったのか、説明しようとすると、どうにも怪しくなってくる。政治家としての評価も、暴君であったり、賢帝であったり、政治的な意図もからんで定まらない。

『人間・始皇帝』は、実在の人としての側面に光をあて、始皇帝の出生から、秦の滅亡まで、繋がらない事跡をうまくつなげている。事跡の中心は従来通り『史記』で、それを繋げる糊は、近年出土した木簡などの史料である。

筆者によると、『史記』の記述は多くの史料に拠っていて、それなりに信用できるものではあるが、それは司馬遷のフィルターを通して取捨選択されており、出土史料をあわせて見ると、別の観点からの見方ができるという。僕もずいぶん間違えて理解していたことがあった。

巻末には、周辺人物の紹介や、出土史料の紹介、出土史料の成果を含めた年表があり、文章も簡潔で分かりやすいので、中国古代史の知識が乏しくても理解しやすい。

というわけで、ストロング・バイ。


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ちょうど一年前、京セラのセラミック加工セラブリッドフライパンを購入した。

京セラの白いフライパンを試してみた:2015年05月08日

結論からいうと、かなり貼り付きがひどくなった。ハムやベーコン、餃子など、もともと張り付きやすいものでは、ちょっと使用に耐えられないレベルだ。

汚れも、買った時のように簡単には剥がれない。メラミンタワシも試してみた。たしかに見た感じはきれいになるが、復活はしない。

このフライパン、最初からテフロン加工のものほど貼りつかないわけではなかった。セラミックなので、張り付かないことよりも耐久性に期待したのだが、これではテフロン加工よりも悪い。

テフロン加工より油の乗りがいいので、油を塗りまくることで、ある程度張り付きを防ぐことはできる。しかし、使い込んだ鉄鍋のように油に馴染む感じではないから、油の量はかえって多くなる。

期待したのだが、大変残念な結果となった。フライパンはテフロン加工の安いのを買い換えていくか、鉄製のものを育てていくのがいいらしい。
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東急大井町線に九品仏という由緒ありげな駅がある。九品というのは仏教語で、功徳によって浄土に往生するときに、上品上生・上品中生・上品下生・中品上生・・・下品下生の九段階の往生相があるという考え方である。

この駅名の由来になっているのは、浄真寺という、浄土宗の大きな寺である。長年わりと近くに住んでいながら、一度も行っていなかったのだが、連休中、天気が良かったので行ってきた。

門は2つある。一つは東門。
東門

もう一つは総門。総門の前には長い参道があり、九品仏駅からまっすぐ来られるようになっている。
総門

これらの門をくぐると、大きな山門がある・・・のだが、35mmレンズしか持って行かなかったので、木に邪魔されてなんだか分からん写真になってしまった。境内はモミジが多く植えられている。今度は秋に来てみたい。
山門

そこからしばらく行くと本堂がある。本堂の中に入ることができる。驚いたことに、こういうお寺では常識の「撮影禁止」の文字が見当たらない。ストロボを炊いて写真を撮っている人もいるが、何も言われないので、撮ってもいいのだろう。これはすばらしい。ということで、ご本尊の釈迦如来像。
釈迦如来像

ご本尊の左側にあった仏像。なんか螺髪がすごいことになってる。
アフロ螺髪

この本堂の向かいに、「九品仏」の名称の由来になった、九体の阿弥陀如来像がある。建物が3つ並んでいて、その中に、三体ずつあつ。こちらは、その中心にある上品上生の阿弥陀像。
上品上生

それぞれこんな額が付いている。
上品上生額

考えてみれば、仏像というものは、想像力貧困な衆生に仏をイメージさせるために、作られたものだ。本来秘匿すべきものではなく、写真に撮ってどんどん広めるべきものだろう。そういう点で、この寺は信仰の寺という印象を受けた。

ここからちょっと離れたところに、閻魔大王と奪衣婆がいた。
閻魔大王

奪衣婆

総門の近くには、青面金剛が・・・、
青面金剛

あったのだが、なぜかその脇に「玻璃摩権現」という石碑がある。この玻璃摩権現が何だか分からない。
玻璃摩権現

さて、この寺では三年に一度、来迎会が行われる。来迎会とは人が死に臨んだ時、極楽浄土からのお迎えがくる様子を再現したもの。当麻寺で有名だが、関東でやるのはここだけらしい。ここでは「お面かぶり」というそうだ。

次回は、平成29年5月5日だそうだ。これも見てみたいが・・・覚えているかな。
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「さいたま市」の「さ」の字形は規定されているらしい。

【特集】「さ」いたま市の謎 市民融和の象徴、地味に異彩放つ:共同通信47NEWS
合併に当たり、市が発信する文書に書く市名を、2画の「さ」に統一したのだという。関係者は「字形が混在していると、市がバラバラとの印象を与えかねない。統一して融合、融和を強調したかったのだろう」と当時を振り返る。
 さいたま市都市経営戦略部によると、「さ」の統一を検討する際、2画と3画のどちらが正しいのか、国立国語研究所(東京)に照会したという。回答は「ひらがなにおける標準とすべき定められた書体はない」。つまりどちらでも構わないとのことで、結局は2画が「柔らかい印象」との理由で決まったそうだ。

ささ

「さいたま市」の「さ」は上の画像の左ではなく、右と決まっていて、小学校用の地図帳などでは、他の「さ」が付く地名には左の字形でも、「さいたま市」だけは、わざわざフォントを変えて右にしているのだそうだ。具体例は、上の共同通信のリンク先に写真があるので、ごらんいただきたい。

平仮名は、もともと漢字の草書体がさらに崩れて出来たものである。楷書と同じ概念で文字を見てはいけない。

草書や行書は、実際の文字を構成する線とは別に、筆の動きたどる筆脈という線がある。筆脈は実際に線として現れることもあるし、見えない線になることもある。実は楷書にもあるのだが、楷書の場合、筆脈が線になってあらわれることはない。

「さ」を例にとると、下の赤い線が筆脈である。本当は一画目と二画目にも筆脈があるが、分かりにくくなるので省略した。
さ

「さ」という文字を構成する線は、黒い3つの線である。赤で書かれた筆脈を見えないように書いたのが三画の「さ」で、見えるように書いたのが二画の「さ」ということになる。筆脈は意識して繋げたり繋げなかったりするものではなく、筆の勢いにすぎない。同じ人が書いても、繋がったり繋がらなかったりするものである。

便宜上「画」という言葉を使ったが、この言葉自体、あまり平仮名には適さない。すべて筆脈で繋がっているのだから、どの平仮名も一画だといっても間違いではない。

「さ」という平仮名を構成する上で、重要なのは、3つの線だから、二画だろうと三画だろうと、そこにこだわる意味はまったくないのである。国立国語研究所が言うように、「どちらでもよい」にしておくのが正解である。

もちろん、ロゴタイプなどで使う場合、細かい字形が問題になるのは分かる。それは見た目の問題だからである。しかし、上の記事によると、さいたま市の市役所職員は、「さいたま市」と書く時に、わざわざつなげて書いているそうだ。それは全く意味のないことで、滑稽ですらある。

このように、意味もなく字形にこだわるのは、手書きの文字をあまり見なくなってきたからだろう。手書きの文字は、どんなに丁寧に書いても曖昧なものだ。そして、文字は手書きから始まっている。

ハッキリクッキリした活字を中心に考えるから、こんなふうにおかしなことになるのである。

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