2016年06月

先月から続いていた、舛添都知事の問題は、6月15日に辞職願を提出、21日付で辞職となった。

感情的には、たしかに舛添氏の政治資金の使い方は、我々庶民からすれば、不愉快だ。だが、理屈でいうと、現時点で明確な違法性のあるものはなく、政治資金はどう使っても良いという建前からすればグレーですらない。

舛添氏も、元学者であるなら、謝らず理屈で押し通せばよかった。政治家は人気商売だからしょうがないが、中途半端に感情を受け入れてしまったのが敗因である。どうせ辞任するなら、理屈を押し通して辞任してほしかった。舛添氏の辞任は、政治が感情で動くことを証明してしまったのだ。

ちょっと面白かったのは、都知事選挙で舛添氏を支持していなかった人が擁護し、していた人が批判をしていた(っぽい)ところだ。ということは、舛添氏の当選も、感情によるものだったのだろう。理屈で考える人は、舛添氏には投票しなかった。自分が感情によって当選したのだから、感情を受け入れて辞任するのも分かる。

感情と理屈といえば、イギリスの国民投票によるEU離脱もそうだ。外国から見れば、金融でかせぐイギリスのEU離脱はどう考えてもいいことがない。スコットランド独立住民投票の、大山鳴動して鼠一匹の記憶もあるから、なんだかんだ騒いでも結局踏みとどまるのだろうと、誰もが予想していた。それは、前後の為替や株の値動きに現れている。

理屈でいえば、イギリスのEU離脱は考えられないのだが、実際に住んでいる人の感情は違った。それが今回の結果である。いずれ、感情で動いた報いはくるだろう。もっとも、離脱しないだろうという楽観的な予測自体も、感情にすぎない。だから、いざ離脱となると、慌ててしまうのである。

「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」(『発心集』序・『十訓抄』2-序)

というわけで、明日から7月。毎年恒例、ブログ強化月間なので、よろしくお願いします。
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今年の1月に、公開休止になっていた国文学研究資料館の大系本文データベース(大系本文データベース休止:2016年01月30日参照)だが、再稼働するようだ。

ただし、公開ではないので、アクセスしてもムダ。

本データベースは、岩波書店や校訂者のご了解のもとに 学術研究利用を条件として公開しているため、 アクセス可能な範囲を以下の機関としています。
・大学・短大以上の高等教育機関(国内外)
・公的研究機関
・図書館、美術館、博物館、文書館
・学術文化事業に関係する公的機関
日本古典文学大系本文データベース:国文学研究資料館)

いろいろ思うところはあるけど、こちらからは以上です。
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中国が日本以上の格差社会であることは、今や誰でも知っている。しかし、「〈格差上〉と〈格差下〉の収入が何倍違う」とか言っても、格差を理解したことにはならない。

中国に限らず、ほとんどの発展途上国も同様だが、格差の上と下は、同じ時空に生きていても、住む世界が違う。衣食住すべてに渡って、〈格差上〉と〈格差下〉は違うのである。だから、格差の上下で収入に大きな差があると、〈格差下〉は恐ろしく困窮しているだろうと思うのは、間違っている。

さて、これが僕が先日の北京旅行で食べた朝食。〈格差下〉の朝食である。
豆腐脳

手前の豆腐脳二杯と、肉まんで7元。現在のレートで111円程度。一人前にすると56円程度。これは〈格差下〉でもちょっとゴージャスな朝食だ。普段の朝飯なら、豆腐脳(1人前2元)だけか、プラス油条一本(1元)で十分だ。

こんなものを食べていると、〈格差上〉の中国人から、「あんなヤバい物は食べてはいけない」とか言われてしまう。〈格差上〉の人は食べないのである。僕はいままで〈格差上〉の人が言う「あんなヤバい物」を数えきれないほど食べてきたが、特に具合が悪くなったためしはない。味もたいがい〈格差上〉の食い物よりも美味い。

中国は外食する人が多いので、食中毒になるようなものを出していたら、すぐにバレて商売にならなくなる。だから、食中毒にはあまり心配していない。とはいえ、〈格差下〉の食堂は、どう見ても衛生的には見えないので、なるべく客が多いところへ入るようにしている。

さて、こちらは瑠璃廠にある栄宝斎カフェのカフェラテ。言うまでもなく〈格差上〉用。味は、日本のドトールやスタバとたいして変わらない。
栄宝斎カフェのカフェラテ

なんと一杯45元である。現在のレートで714円。ここが特別に高いわけではなく、スタバも含めてコーヒーはこんなものだ。これを涼しい顔をして飲むのが〈格差上〉である。

カフェラテを飲んでも、さっぱり腹はふくれないが、45元あれば先ほどの饅頭が15皿食べられる。豆腐脳なら22杯。だから〈格差下〉はこんなものは飲まない。水でも飲んでろという話だ。

本当は同じ朝食で比較したかったのだが、〈格差上〉の朝食を食っていないのでできなかった。調べてみると、マクドナルドの朝マックは、日本とほぼ同じメニューで25元(396円)程度なので、これが〈格差中〉ぐらいの朝食と考えてよいだろう。7倍の差があるが、先ほどの豆腐脳と肉まんセットの方がずっと美味いし腹にたまる。

住む世界が違うといっても、同じ空間に住んでいるから、お金は巡る。〈格差上〉から滴った一滴が、〈格差下〉からすると、バケツ一杯に感じられるということになる。これをトリクルダウンという。もうなんだか懐かしい言葉になってしまったが、日本ももっと格差が開けば、トリクるかもしれない。
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『今昔物語集』巻2はいわゆる天竺部で、どうにもワンパターンで面白くないものが多い。大概、現世で何か事件が起こり、釈迦が「それは、前世でこういうことがあったからだ」という謎解き(と言っていいのかわからないが)するという流れである。

しかし、微妙比丘尼語 第(卅一)はちょっと変わっていて、前世も比丘尼本人から語られる。仏(釈迦)は出てこない。以下はすべて微妙比丘尼の語りである。

微妙比丘尼の前世は、ある長者の妻だった。二人の間には、子供がなかったので、長者は別の妻を娶り(一夫多妻制である)、その妻との間に男の子ができた。それを妬んだ第一夫人、男の子の頭に針を刺して殺してしまう。

新しい妻は、第一夫人が殺したことを疑うが、第一夫人は「私は殺していない。もし殺していたら、生まれ変わった先で、夫があれば毒蛇に噛まれて殺され、子供があれば、水死したり狼に食われたりするだろう・・・」と仏神に誓う。その後、第一夫人は死んでしまった。

第一夫人は、死後、地獄に堕ち、その罪が終わった時(地獄にも刑期があるらしい)、再び人間に生まれ変わった。これが微妙比丘尼なのだが、これが例の誓いのために、壮絶な人生を歩むことになる。

婆羅門の子として年頃になった微妙は、結婚し、一子をもうけた。その後、二人目の子供を懐妊した。妊娠中に夫とともに両親の家に行くが、その途中で産気づき出産したため、家にたどり着かず、仕方なく樹の下で野宿する。ところが、寝ている間に夫が毒蛇(コブラ?)に噛まれ死んでしまう。それを見た微妙、悶絶して失神する。

しかたなく、長男を肩にかけ、次男を抱いて、実家へ行く微妙。途中、二人を連れては渡れないほどの大きな川がある。そこで、長男を一旦岸辺に下し、次男を抱いて向こう岸に渡った。渡った先に次男を置いて、長男を迎えに行くと、お母さんが来たのがよほど嬉しかったのか、こちらに来ようとする。長男は、ついに水に入り、流されてしまった。

泣く泣く長男を諦め、次男を置いた岸へ戻ると、次男の姿が見えない。あるのは血だまり。そして、腹の膨れた狼一匹。微妙、再度失神。

夫と子供二人をいっぺんに失い、微妙は一人で実家へ向かう。父と親しい婆羅門に出会い、両親が元気か聞く。すると、実家は火事で焼失し、両親も使用人らも、皆焼け死んでしまったという。微妙、また失神。

しばらく、この僧のもとで暮らすが、微妙は別の男と再婚した。ところが、これがとんでもないDV夫、というかもう単なるキ○ガイだった。

夕暮れ時、酒に酔った夫が帰ると、家の門が閉まっている。門を叩いても、妻は出てこない。微妙は家の中で産気づいていたため、門を開けられなかったのである。子供が生まれると同時に、怒り狂ったDV夫、門をブチ破壊して乱入、微妙を殴りつける。理由を言っても、DV夫は聞く耳を持たない。果ては、生まれたばかりの子供を殺し、蘇(チーズ?)といっしょに煮て、妻に無理矢理食わせた。「こんなキ○ガイとは一緒にいられない」と思った微妙は、あてもなく逃げ出した。

波羅奈国に行き着いて、樹の下で休んでいると、長者の子が来た。この長者の子は、たまたま妻を失ったところで、事情を聞くと、微妙を妻にするという。

ところが、結婚してわずか数日後、長者の子はあっさり死んでしまう。波羅奈国には、夫が先に死んだら、妻を生きたまま埋めるという習慣があったため、盗賊団が微妙を埋めるためにやって来た。しかし、盗賊の頭目は、微妙があまりに美しかったので、埋めたとウソをついて、自分の妻にしてしまった。

この盗賊の頭目も、結婚してわずか数日後、盗みに入った家で殺されてしまう。例の習慣により、微妙はついに生き埋めにされた。

しかし、それから三日後、たまたま狐やら狼やらが墓を掘り起こしたおかげで命拾い。前世の因縁を感じ、出家して釈迦に弟子入りする。そして遂に微妙は羅漢果(阿羅漢果・修行者の最高位)を得た。しかし、いまだに前世で子供を殺したのと同じ部位が痛むという。
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現在、『撰集抄』の電子テキストを作っている。9巻中、巻4までが終わった。

松平文庫本『撰集抄』:やたナビTEXT

『撰集抄』は西行作に仮託された仏教説話集で、説話そのものよりも作者(なりきり西行)の感想(「説話評論」という)が多い。説話の内容は、「どこそこに、こんな遁世者がいた(もしくは、出会った)」というものが多く、説話評論は「有難い話だ。感動した。自分もああなりたいけど、難しいね〜」とぼやく感じのものが多い。

『撰集抄』の前に電子テキストを作ったのが『十訓抄』(宮内庁書陵部本『十訓抄』:やたナビTEXT)だったので、どうしても比べてしまうのだが、ウンチクおやじのひけらかしみたいな『十訓抄』に対して、『撰集抄』はオッサンのボヤキを聞いているようだ。やたらと泣くし(「泣or涙」の検索結果)、「思え侍る」みたいな表現が多いし(「思え侍」の検索結果)、グズグズしていて「しっかりしろよ!」と言いたくなる。そもそも、本来の西行ってこんなキャラクターじゃないような気がする。

現実にいたら、どちらも鬱陶しいのだが、『撰集抄』作者のような、グダグダぼやくオッサンの方が、格段に鬱陶しい。どちらかとサシで飲まなければならないとすれば、僕は迷わず『十訓抄』作者の方を選ぶだろう。

隠者文学とはオッサン文学であり、それは〈ウンチクおやじ系〉と〈ボヤキおやじ系〉に分けられる。隠者文学といえば、鴨長明と兼好法師に代表されるが、長明は典型的な〈ボヤキおやじ系〉で、兼好は〈ウンチクおやじ系〉である。どちらかとサシで飲まなければならないとすれば、僕は迷わず兼好法師を選ぶ。

しかし、〈ウンチクおやじ〉と〈ボヤキおやじ〉は相反するものではなく、同じ人の中に両方住んでいる。長明だって、ウンチク垂れてドヤ顔になるし、兼好だってぼやく。ただ、どちらが大きいか、ということである。

〈ウンチクおやじ〉はウンチクの中にぼやきがあり、〈ボヤキおやじ〉は、ぼやきの中にウンチクがある。『十訓抄』は説話評論よりも説話そのものの方が多い。その沢山の説話から、一言二言ぼやく。これは〈ウンチクおやじ〉の特徴だ。逆に、『撰集抄』は一つの説話に対して説話評論の方が長い。たった一つの出来事から、延々ぼやく。〈ボヤキおやじ〉である。共通しているのは、どちらもオッサンであることだ。

僕は・・・ウンチクおやじかな。たぶん。
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5月は、我らが上司、舛添都知事のどうにもショボい税金のムダ使い問題(舛添知事に学ぶ公金の扱い方:05月21日)だの、伊勢志摩サミットでの安倍首相リーマンショック前夜発言(株価指数で見るリーマンショック前夜:5月29日)だの、なんかもう、いわく言いがたい、政治的なニュースが多かった。

「いわく言いがたい」というのは、なんともモヤモヤするということである。

僕は舛添都知事の支持者ではないので、どうなろうが構わないが、辞めたからといって、よりマシな人になりそうな気がしない。

そもそも、役に立たない銀行作ったり、無人島だのを買おうとした、もっと酷い元知事はいるはずで、そっちはどうなった?テレビを見たら、金で失脚した前知事が、偉そうにテレビで語っていたが、これはどういうわけだ。

安倍首相にリーマンショック前夜に似ていると言われると、世界中から「なわけねーだろ!」という声が聞こえてくるが、消費税増税はやめた方がいいと思っている。素直にアベノミクスが失敗したから増税できないといえば納得できるのだが。まあ、ご本尊にはムリだろうが、それを指摘すべき人たち(つまりマスコミ)がまったく機能していない。

そういえば、パナマ文書の公開も今月だった。僕は外国株取引をして長いので、ケイマン諸島登記の企業なんか珍しくもなんともない。生まれて初めて買った株が、ケイマン登記の企業だった。むしろ、なぜ日本企業はケイマンに本社を移さないのかとさえ思っていた。

法人が税金逃れをしていたとしても、いずれは雇用者なり株主なりに還元される。法人よりも、法人を装った自然人の方がずっと問題のはずだが、こちらは何故か全然出てこない。

ひどくモヤモヤすることばかりである。
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