2016年08月

今月のはじめ(8月8日)、天皇の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」があった。7月の報道のときにネタにした(今上天皇譲位かと事情通:2016年07月13日)ので、何か書こうかと思ったが、どうにも文章がまとまらなかった。いちいち解釈していると、とんでもない長さになってしまうのである。それだけ良く出来た文章であるとだけ言っておこう。

7月の時点では、虚偽の報道だという宮内庁からのコメントもあったが、今上天皇が生前譲位の意思を述べているというのは間違いがなく、天皇は国政に関する権能を有しないという、日本国憲法第4条の趣旨を十分に配慮して語られたものであったと思う。なお、正確な内容には宮内庁の象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば(平成28年8月8日)を参照されたい。

しかし、「ではどうすればいいか」は難しい問題だ。天皇の希望を聞いてしまえば、憲法に反することになる。だから、あくまで国民の意見として、どうしたらいいかを考えなければならない。

僕は天皇の定年制にはメリットしかないと考えている。

これは、昭和天皇崩御の時の混乱を知っている人であれば、だいたい賛同いただけるだろう。天皇は、毎日のように体調を報道される。僕が「下血」という言葉を知ったのはあの時だ。まるで死ぬのを待っているようで、どうにも嫌な気持ちがしたものだ。

崩御したらしたで、今度は自粛の嵐。「自粛」はあくまで自粛だから、何を自粛したらいいのかわからず、とりあえず自粛する連中が出てくる。近所の女子大学は皇居に近いという理由で学園祭を自粛したが、もっと皇居に近い僕の大学は自粛していなかった。

そういえば、過激派によって、都内の神社に時限発火装置を仕掛けられたということもあった。なぜ、天皇が崩御すると神社に時限発火装置を仕掛けるのかよく分からないが、そのせいで都内の警備は厳しくなり、全国から警察官が動員された。僕も大変面倒なことに巻き込まれたのを思い出したのだが、長くなるので、明日書くことにする。

さらに、改元である。当時は今ほどコンピュータ化されていなかったからほとんど影響はなかったが、今なら改元にかかるコストはもっと上がる。万一、どことは言わないが、どこかの銀行がボケをかませば、被害は甚大である。

当時はバブル期だったから、それでも経済に与える影響は軽微だったが、おそらく今なら日経平均株価を二割ぐらい下げる影響があるだろう。いつ来るか分からない、だが確実にくる災難を、放置していいのだろうか。

何歳を定年にするか、今の天皇をどうするかは、議論が必要だろう。ドサクサに紛れて「憲法を変えなければならない」とか言っている人がいるらしいが、「第二条  皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範 の定めるところにより、これを継承する。」とあるので、定年制なら皇室典範を変えるだけでよいだろう。

さて、デメリットだが、僕には一つも思いつかない。だれか教えてくれ。
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もともと狛犬が好きで、神社や寺に行ったら、必ず狛犬を探していたのだが、贔屓(ひいき)の引き倒し:2016年01月10日を書いて以来、石碑の下のカメさん、亀趺にも興味がでてきた。

先日行った、山形県鶴岡市の荘内神社のカメさんが面白かった。荘内神社は、創建が明治10年と新しく、それほど見るものはない。とりあえず、お参りをして、いつものように狛犬を探したが、どこにも見当たらなかった。

帰ろうとして、もう一度振り返ったら、境内のすみの方に、それほど大きくない石碑が立っている。篆額には「贈従三位酒井忠徳公頌徳碑」とある。酒井忠徳は庄内藩の第7代藩主で、藩校の致道館を作った人である。

この碑の下にはカメさんがいる。ところがこのカメさん、遠目で見ても、なんとなく様子がおかしい。石碑とカメの大きさが合っていないし、カメがすっきりしすぎている。
アール・デコ亀(全体)
近づいてみると、無機質な直線で構成されている。メカガメラというのがいたら、たぶんこんな形をしているだろう。
アール・デコ亀(前)
後ろから見たら、だれもこれがカメの尻尾だとは思うまい。
アール・デコ亀(後)
カメの台座も、幾何学的なデザインである。これはアール・デコ様式に違いない。

そう思うと、つるつるに磨き上げられた石碑そのものも、アール・デコっぽく見えてくる。日本でアール・デコが流行ったのは、昭和の初期と聞くが・・・
昭和3年4月建之
予想通り、昭和3年4月。

江戸時代の藩主の頌徳碑に、当時最先端のデザイン。今見てもモダンである。このあと、昭和5年の昭和恐慌を経て、日本はファシズムの時代へと突入してゆき、こんな斬新なデザインは全く作られなくなる。

さて、最後になったが、荘内神社そのものの写真をば。
荘内神社

こちらは本殿側から参道を見たところ。どこまでもまっすぐ。
荘内神社参道
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今年の夏休みの宿題の一つがOSのアップデートだったが、すべて終了した。こういうことは、普段やってしまうとドツボにはまってさあ大変になる可能性があるので、仕事に支障をきたさない夏休みにやっておきたかったのである。

一つは妻の使っているWindows8.1を10にする作業だった。妻はネットでの悪評を気にして、なかなかアップグレードしなかったのだが、ついに、
Window10アップグレードの勧め
こんな妙に慇懃無礼な画面が出るようになり、アップグレードを決意した。

実際やってみると、やたらと時間がかかったものの、思いのほかスムーズにできた。それほど複雑な使い方をしていないせいもあるが、ファイルも環境もそのまま移行できたし、今のところなんの問題もない。使い勝手もWindows8.1よりは使いやすいと思う(あんまり使ってないけど)。

もう一つは、僕がメインで使っているUbuntu。

今までは14.04LTS(2014年4月リリースの意)で、LTS(5年サポート)なので2019年まで問題なく使えるし、Windowsのようなアップグレードもできるのだが、デュアルブートにしていたWindowsXPを削除してディスクを有効に使うため16.04LTSをクリーンインストールすることにした。

ディスクをフォーマットしてからのインストールだから、Windowsほどの時間はかからない。だが、OSをインストールしただけではどうにもならないので、いちいち使っていたアプリをインストールし直さなければならない。ここで引っかかった。

Ubuntuのソフトウェアは、基本的にはandroidでいうGooglePlayのようなアプリを使ってインストールする。これが、14.04LTSでは「Ubuntuソフトウェアセンター」だったのが、16.04LTSでは「Ubuntu Software」に変わった。名前も似ているが、アイコンは全く同じで、全く別のアプリである。

こちらが、以前のバージョンにデフォルトで入っていた「Ubuntuソフトウェアセンター」
Ubuntuソフトウェアセンター_046
これが「Ubuntu Software」
Ubuntu Software
一見してわかるように、新しいものの方が洗練されているし、動作も早い。

「こりゃ便利だね」と思ったのだが、使ってみると、あって当然のソフトウェアがない。検索しても、カテゴリから探しても見つからないのである。一瞬リポジトリから外されたのかと思ったが、だとしたら外されすぎだ。

そこで、いろいろ見ていたら、カテゴリ>システム>その他に、以前のUbuntuソフトウェアセンターがあるのを発見した。同じくソフトウエアのインストールによく使われるSynapticもここにあったので、この2つをインストールしたら、すぐに目当てのソフトウェアを見つけることができた。

というわけで、デフォルトのUbuntu Softwareは役に立たないので、最初にUbuntuソフトウェアセンターとSynapticをインストールするのがオススメ。問題は使い勝手だが、実はこれ以外は14.04とそれほど変わっていないので特に問題なし。

なんだかんだ文句を言っているが、昔に比べたら格段に楽になった。昔はファイルをバックアップするのに一苦労だったし、ソフトもいちいちCD-ROMでインストールしなければならなかった。今はすべてネットワーク上にあるので、この手の〈下ごしらえ〉はほとんどすることがない。
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SEALDs解散
昨年の今ごろは、国会前デモに行って、何度も〈おいしい写真〉を撮らせてもらった。その役者の一人(一グループ?)がSEALDsだった。
決壊直後

僕はいつのころから、「世の中をどうするか」よりも、「世の中がどうなっていくか」が気になるようになった。だから、国会前デモに行ったのは、僕の主張がどうということではなく、あのデモがどうなるかを見たかったのだ。

あのデモを通して、僕が思っていた以上に日本がダメであることと、思っていた以上に若い人に期待が持てることを確信した。

人にはいろいろな主張がある。だから、安保法制賛成だっていい。その文脈で、国会前に集まった人たちを批判してもいい。

しかし、「デモをしても変わらない」とか、「デモなんかしてたら就職できなくなる」とか、「共産党がバックに・・・」とか、デモの主張ではなく、デモそのものにケチをつける言葉が、いい年をしたオッサン・オバサンから出てきたのが、残念でならない。正直、先進国日本を支えてきたと(思われる)人たちが、こんな程度の低いことを言うとは思わなかった。そしてそれはまだ続いている。

先進国には先進国のフォーマットがあって、その一つが民主主義である。デモが自由にできなかったり、デモをやったら就職できなくなったり、共産党が非合法になったりしたら、それはまともな民主主義国家ではない。たとえ、その主張に反対だったとしても、デモ自体に反対するのは民主主義を否定する行為である。

デモ参加者は金をもらっていると言ったアホな政治家もいた。それが何の根拠もないウソであることはいうまでもない。一度でもウソをついた者は信用しない。そんな当たりまえのことさえ出来ないのが、今の日本人であることもよく分かった。

SMAP解散
気になって、平均年齢を計算してみたら、41.5歳である。ついでにいうと、V6が39.4歳、TOKIO37.3歳、嵐36.9歳、Kinkikids37歳。

よく頑張ったなとは思うが、もういいだろ。アイドルは。
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ここのところ、蔵書を整理するのに追われている。

僕の蔵書は自宅・祖母の家・実家の3ヶ所にあるのだが、祖母の家を貸家にする可能性がでてきたので、蔵書を整理する必要が出てきた。最終的には、実家に送ることになるが、そうなると完全な死蔵になり、読むことも、売ることも、捨てることもできなくなる。それでは意味がないので、できる限り処分しておきたい。

蔵書というと大層なものに聞こえるが、金銭的な価値のあるものはそれほどない。しかし、それはあくまで市場価値であって、僕にとっては単なる値段以上のものがある。

僕の師匠は、とにかく本を買えという人だった。先輩もそういう人たちばかりだったし、大学が神保町に近かったから、学生時代は手当たりしだいに本を買った。専門と直接関係無いものでも、興味があるものはとりあえず買った。そのころは、本さえ買えば、読まなくても賢くなると思っていた。

本は必要なときに買えばいいと思われるかもしれない。また、買わなくても図書館で済ませることもできる。しかし、いつ、何が役に立つかわからないのが本というものである。

適当に買った本が10年以上後になって役に立つこともあるし、これは必要だと思った本が、ほとんど役に立たないこともある。本そのものは役に立たなくても、巻末に付いている広告が役に立ったり、オマケの月報が役に立ったりすることもある。だから、本を手放すのは難しい。

それだけでなく、買った本には、それぞれに思い出がある。僕の場合、大概が苦しい思い出ばかりだが、それだけにどんな本でも手放すのに抵抗がある。いくら本を入れてもまだあまる書庫でも買えればよかったが、残念ながらそこまでの甲斐性がないのだからしょうがない。
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今日からリオデジャネイロオリンピックが始まった。

なにしろ四年に一度しかないから、なかなか難しいとは思うが、一度は海外でオリンピックを見るべきだ。開催国へ行けという意味ではない。どこでもいいから、日本以外へ行って、テレビで見るのである。こんな簡単(?)なことで、世界の見方が変わってくる。

当然のことだが、日本のテレビで見るオリンピックは、日本人選手の活躍を中心に放送される。逆に言えば、別の国に行けば、その国の選手を中心に放送される。ここまでは誰でも理解できるだろう。しかし、実際に行ってみると、その程度の違いではないことに衝撃を受ける。すくなくとも、僕は受けた。

2000年のシドニーと、2004年のアテネのとき、僕は中国で自転車をこいでいた。自転車に乗っている時間が長かったから、テレビを見る時間はそれほどなかったのだが、それでも宿に着いたら寝るまでは必ずオリンピックを見ていた。

中国のテレビには、スポーツ専門チャンネルがあり、オリンピックのシーズンは延々とオリンピックの映像を流している。ところが、僕が見る限り、そこに日本人選手が現れたのは数回しかなかった。日本人選手が、活躍どころか、ほとんど出場していないようにさえ見えたのだ。

僕が見たのは中国のテレビだから、中国人選手の活躍を中心に放送する。これは当然だが、それだけではなく、放送される種目も中国人選手が活躍する種目が中心になる。日本人選手が出ていない種目や、予選落ちするような種目では、日本人選手の姿を見ることはない。

これが思っている以上に多いのである。日本も中国も沢山の選手を派遣し、結構種目がかぶっているのに、これである。もっと別の国に行けば、オリンピックに日本人がまったく出ていないように見える場合もあるだろう。出場選手が少ない国では、オリンピックそのものの中継がないこともあるらしい。そういう国では、「オリンピック??何それ美味しいの?」だろう。

なんとなく、世界が注目するオリンピックは、世界中が同じ風景を見ていると思い込んでしまう。しかし、実際に見ている風景は、開会式と閉会式以外は全く違うものなのだ。これは、こうして文章で説明しても理解しずらいかもしれない。実際に外国に行って見るのが一番だ。

比較的分かりやすいスポーツでさえこうなるのだから、政治・経済や文化など、その他の分野ではもっと見ている風景が違うことは容易に想像がつく。経済でいうと、日本人は日本円と米ドルの関係を主に見て「円安だ」「円高だ」というが、アメリカ人は日本円との関係を中心に経済を見ているわけではない。見えている風景が違うのである。

最近、テレビでやたらと日本を讃える番組が増えた。「世界で尊敬される日本(人)」みたいな本も出ている。こういうのを見ると、日本でオリンピック中継をみているように、世界で日本(人)だけが活躍しているように感じるかもしれない。

しかし、その〈世界〉が相手にしているのは、日本(人)だけではない。百歩譲って、日本(人)が尊敬され、活躍していたとしても、それは日本(人)だけのことではないのである。
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