今月、大川小津波訴訟の地裁での判決が出た。結果は遺族側の勝訴。
大川小学校の津波訴訟 石巻市などに14億円余の賠償命令:NHK NEWS WEB
いうまでもなく、学校というところは、児童・生徒を成長させるところだ。成長の逆は死である。だから、仮にそれが判断ミスだろうと、偶然だろうと、不可抗力だろうと、児童・生徒の死は教員にとって最大の失敗であり、責任が問われるのは当然である。
だから、僕には戸塚宏氏が何人もの犠牲者を出しておきながら、いまだに教育に携わっているのが理解できない。さっさと学校をたたんで、出家しなさい。
話がそれたが、これは教員だけの問題ではない。
安全のためには、マージンが必要である。マージンとは、この津波で言えば、たとえそこまで来ないと予測されていても、とりあえず高い所に逃げるというようなことである。これが社会的に理解されていなければ、教員はその責任を全うすることができない。
こんなのアタリマエのことのようだが、最近、それが理解されていないのではないかと思うことが多いのである。
僕の勤務している都立高校では、気象庁から警報が出ないかぎり休校にならない。出ても、警報が解除されれば、そこから授業が始まる。これは、マッチョカマチョの石原都知事の時代からそうなった。
警報が出ていれば休校になるのは当たり前だ。だが、警報が出ていなくても、家を出て10分後に警報が出ることもある。警報が出なくても危険な場合もあるし、帰る最中に警報が出ることもある。定時制のような夜間の学校では、昼間よりもはるかに危険になる。駅から近い学校と遠い学校でも状況は違ってくる。一律に警報が出てないから安全というのは、どう考えても間違っている。
これはとても危険なことだと思う。石原氏は「学校は休み過ぎだ」と主張して、なるべく休ませないようにした。おそらく社会(当然、親も含む)もそれに賛同したのだろう。だが、そのために安全のマージンが損なわれているのである。
教育というと、なにやら〈鍛えること〉だと思われがちだ。暴風雨の中、学校に行かせるのも〈鍛えること〉だと思われているらしい。だが、そのために、安全のマージンが損なわれている。ちょっと前に話題になった、人間ピラミッドもそうだ。運動会の見世物のために、生徒を危険にさらしている。安全のマージンを考えたら、あんなものは到底できるものではない。
そもそも、教育は〈鍛えること〉ではないし、〈鍛える〉ために死んだら本末転倒である。暴風雨が予報されたのに、からっと晴れたとしても、死ぬよりはよほどいいではないか。
社会を構成する皆さんには、「晴れたのに、学校休みになってラッキーだったね」ぐらいの余裕を持ってもらわないと、教員としては生徒の安全を守るという、もっとも重要な責務が果たせないのである。
大川小学校の津波訴訟 石巻市などに14億円余の賠償命令:NHK NEWS WEB
東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校の児童の遺族が訴えた裁判で、仙台地方裁判所は「市の広報車が避難を呼びかけたのを教員らが聞いた時点で、津波が到達する危険を予測できた」と指摘して、石巻市などに対し原告全員に14億円余りの賠償を支払うよう命じました。この裁判では、津波の到達が予想できたかが争点になったらしい。その点では、状況を知らない僕には何もいうことがないが、これだけの犠牲が出たのだから、学校の責任が問われるのは当然だろう。
いうまでもなく、学校というところは、児童・生徒を成長させるところだ。成長の逆は死である。だから、仮にそれが判断ミスだろうと、偶然だろうと、不可抗力だろうと、児童・生徒の死は教員にとって最大の失敗であり、責任が問われるのは当然である。
だから、僕には戸塚宏氏が何人もの犠牲者を出しておきながら、いまだに教育に携わっているのが理解できない。さっさと学校をたたんで、出家しなさい。
話がそれたが、これは教員だけの問題ではない。
安全のためには、マージンが必要である。マージンとは、この津波で言えば、たとえそこまで来ないと予測されていても、とりあえず高い所に逃げるというようなことである。これが社会的に理解されていなければ、教員はその責任を全うすることができない。
こんなのアタリマエのことのようだが、最近、それが理解されていないのではないかと思うことが多いのである。
僕の勤務している都立高校では、気象庁から警報が出ないかぎり休校にならない。出ても、警報が解除されれば、そこから授業が始まる。これは、マッチョカマチョの石原都知事の時代からそうなった。
警報が出ていれば休校になるのは当たり前だ。だが、警報が出ていなくても、家を出て10分後に警報が出ることもある。警報が出なくても危険な場合もあるし、帰る最中に警報が出ることもある。定時制のような夜間の学校では、昼間よりもはるかに危険になる。駅から近い学校と遠い学校でも状況は違ってくる。一律に警報が出てないから安全というのは、どう考えても間違っている。
これはとても危険なことだと思う。石原氏は「学校は休み過ぎだ」と主張して、なるべく休ませないようにした。おそらく社会(当然、親も含む)もそれに賛同したのだろう。だが、そのために安全のマージンが損なわれているのである。
教育というと、なにやら〈鍛えること〉だと思われがちだ。暴風雨の中、学校に行かせるのも〈鍛えること〉だと思われているらしい。だが、そのために、安全のマージンが損なわれている。ちょっと前に話題になった、人間ピラミッドもそうだ。運動会の見世物のために、生徒を危険にさらしている。安全のマージンを考えたら、あんなものは到底できるものではない。
そもそも、教育は〈鍛えること〉ではないし、〈鍛える〉ために死んだら本末転倒である。暴風雨が予報されたのに、からっと晴れたとしても、死ぬよりはよほどいいではないか。
社会を構成する皆さんには、「晴れたのに、学校休みになってラッキーだったね」ぐらいの余裕を持ってもらわないと、教員としては生徒の安全を守るという、もっとも重要な責務が果たせないのである。