2018年07月

今年のブログ強化月間も無事カレンダーを埋めることができた。お疲れ様でした、オレ。

今年のブログ強化月間は、なるべくどうでもいいようなことをダラ〜っと書きたいと思っていた。散歩して、適当に写真とって、コメント付けて、そんなのが書きたいなぁと思っていたのだが、いかんせん暑すぎて、用事もないのに外に出る気がしない。そんなのやったら、命がけになってかえってシリアスなのができそうだ。

それに引き換え、大水害に始まり・オウム事件犯人の処刑・カジノ法案の成立・杉田議員の問題発言など、話題には事欠かなかったが、オウム事件犯人の処刑以外すべて無視した。SNSや他のブログを読んでいると、僕が書く必要のあることなんか一つもないように思われたからだ。

この中でオウム事件だけ書いたのは、なんだか書かなければならないような、義務感みたいなのを感じるからである(タグ:オウム事件参照)。事件当時、自分が学生だったこと、東京に住んでいたこと、新興宗教や自己啓発セミナーなどにハマる人が多かったことなどを思い出すと、オウム事件は他人事とは思えないのだ。

なんだか、暑いうえにいろいろあったから、もう8月半ばになった気がする。あと何日で2学期が始まるだろうとカレンダーを確認したら、まだ一ヶ月まるまる残っている。

ちょっとお得な気分だが、大水害の被災者のみなさんには申し訳ないような気分でもある。
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馬上駿平『重箱の隅から読む名場面』(新典社)を入手したのは、今年の1月。今ごろこれを書いているのは、なかなか読めなかったからである。

新書版で全127ページ。全然長くない。それでも、これを読むのに時間がかかったのは、この本がスルメ本だからである。スルメ本とは、スルメイカのように、噛めば噛むほど味がでる本のことで、こういう本は繰り返し読まないと理解できないし、自然と繰り返し読んでしまう。だから、薄い本でも読むのに時間がかかるのだ。

といっても、文章が難しいわけではない。文章はむしろ平易で読みやすい。しかし、扱っているテーマが「重箱の隅」である。「重箱の隅から読む」とは筆者によると、重箱の隅=「一見何でもなさそうなさりげない言葉」で、それを読む=解釈することだという。だから、この本の読者もざっと読んで分かった気になってはいけない。

対象は近代文学で、向田邦子『思い出トランプ』・志賀直哉『暗夜行路』・夏目漱石『道草』・芥川龍之介『猿』の「さりげない言葉」を題材に、そこに隠された表現・情報を読み取っていく。

重箱の隅に隠された情報は、その読みが合っているかどうかは別にして、古典だとわりと気づきやすい。現代の文章と違うから、おのずと気をつけて読むからである。

近代文学の場合、容易に意味が取れるからついスルーしてしまうものだ。例えば、この本で扱っている『暗夜行路』の「淋しい気がされた」などという言葉は、一瞬「アレ?」とは思うけど、「まあ大正時代はそんな言い方だったんだろう」ぐらいで済ませてしまうだろう。

最初に「スルメ本」などと書いたが、よくよく考えれば、名作と言われる作品はすべてスルメ本である。プロットや名場面だけ理解して読んだつもりになっていたら、もったいないことだ。そういう読み方を、この本は指南してくれる。


こちらも同じ著者による『文法で味わう名文』。こちらは文法なので、さらに読むのに時間がかかって、紹介する機会を逸してしまった。


『文豪たちの「?」な言葉』は、以前このブログで紹介(馬上駿兵『文豪たちの「?」な言葉』を読んだ)した。

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妻の実家に「総合消費料金に関する訴訟最終告知のお知らせ」なる詐欺葉書が2通送られてきた。どちらも、微妙に文章が違うが、法務省管轄支局なる部署から来た体になっていて、強制執行をちらつかせ、期限までに連絡するように促している。

プライバシー保護だの守秘義務で本人が直接連絡するようにと言っているわりに、誰にでも見える葉書で来ているとか、原告の名前が書いていないとか、管轄支局って何の管轄だよとか、そもそも「消費料金」なんて言葉あるのかとか、つっこみどころ満載で、いろいろガバガバなのだけど、とにかく裁判とか訴訟という言葉でビビらせて、電話させようという魂胆らしい。

笑ったのが、連絡先の「国民訴訟お客様センター」なる係。「お客様」とは、法務省もずいぶんサービスがよくなったものだ。さすが、「お客様」を相手にするだけあって、平日は9:00〜20:00、土曜は11:00〜17:00まで「営業」している。そんなわけがない。

一見して分かる詐欺葉書で、こんなんで騙される人がいるのかと思うけど、実際ほとんどの人は無視するだろう。それでも少数の人は騙されるだろうから、どの程度で利益が出るのか、簡単に計算してみた。

葉書の料金は62円で同じ葉書を1000通送ったとする。経費は62,000円ということになる。「訴訟を取り下げる料金」つまり詐取する単価は高すぎてもダメだろうから、せいぜい50,000円ぐらいか。すると、2人、つまり0.2%の人を騙せれば100,000円の売上となり、3,8000円の利益がでる。

わずか0.2%で利益が出るのなら、啓発だけで利益が出ない水準に抑えるのは難しい。オレオレ詐欺防止に銀行が協力しているように、郵便局や騙られた法務省の協力が必要だろう。

【追記】
葉書の写真を載せたのだが、これには管理番号なる番号が書かれている。万一固有の番号だと、検索されて詐欺師に身元がバレる可能性があるので、写真の掲載をやめた。
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メインで使っているコンピュータのOSをUbuntu16.04LTSから18.04LTSにアップグレードした。こういうのはちょっとでも涼しいうちにやっておかないと、面倒なことになる。

バージョン番号の最後にあるLTSというのはLong Time Supportの略で、5年間サポートされる。Ubuntuのバージョン番号は、そのまま年・月になっていて、前の16.04は2016年4月と言う意味だから、今バージョンアップしなくても、2021年までは問題なく使える。しかし、Linuxの場合、ブラウザなど一部を除き、アプリケーションがバージョンアップされない。これではちょっと残念なので、LTSが出る2年に一度、かならずバージョンアップするようにしている。

前回のバージョンアップの時は、こんな感じだった。
OSのアップグレードをした:2016年08月22日

このときは、まっさらな状態からインストールしたので、OSのインストール自体には問題がなかった。今回はアップグレードである。一抹の不安を残したままインストールしたら、案の定日本語入力がうまくいかない。もちろん、中国語もだ。

18.04LTSではデフォルトで日本語入力に使うソフトウエアがFcitxからiBus変更になった。これが原因であろうことは分かったのだが、どうすればいいかわからない。

よく考えたら、そういえば以前iBusを使っていたときに、急に中国語が入力できなくなって、インストールし直したことを記事にしたのを思い出した。

ubuntuを14.04LTSにしたら中国語が入力できなくなった:2014年09月22日

上の記事の「ibus-pinyin」とあるところを、「ibus-mozc」にすれば、無事日本語入力できるようになった。(最後のsudo apt-get install ibus-libpinyinは不要)。辞書もちゃんと引き継げている。もちろん、中国語入力もインストールし直し。そんなわけで、なんとかこのブログを書けている次第。

18.04LTSは16.04LTSとは大きな違いがある。デスクトップ環境がUnityからGnome3へと変更になったのだ。前述の日本語入力の問題もこれに起因している。

こちらが、これまで使っていたUnity。
unity

これが現在のGnome3。
gnome
UbuntuのGnomeはUnityに似せてあるので、一見して違いがよく分からないが、どうもGnomeの方が使いにくい。

例えば一番上にあるバーがムダに場所を取っている。そのバーの真ん中に、時計やアプリケーションのタイトルがあるのも、なんだか野暮ったい。そして致命的なのが、起動も操作もUnityと比べると重い。アニメーションをやめたら少しはマシになったが、それでも重く感じる。Unityは評判が悪かったようだが、僕には理解できない。

18.04LTSでもUnityは使えるのだが、いずれサポートされなくなる。しばらくは併用して、少しずつGnomeに移行するしかない。

ともあれ、これで夏休みの宿題は一つ終わった。
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今年は例年になく(6/29)早く梅雨が開けて、7月に入ってからやたらと暑かった。昨日、今日とちょっと涼しくなり、「あーもうじき秋だなー」なんて思ってもまだ7月だから、これはなかなかお得な感じがする。

それはともかく、ちょっと涼しくなったので、昨日は多摩川のサイクリングロードへ、インラインスケートをしに行った。駅で言うと東急多摩川駅のあたりから、京急大鳥居駅まで、だいたい10キロ程度である。

涼しいといっても、さすがに昼間行く気はしない。夕方4時30分すぎに家を出て、多摩川に付いたのは5時過ぎ。

夕方の多摩川はなかなかいい景色だ。平日だし時間も遅いので、自転車やジョガーも少ない。風が心地よくて、休憩すると、すぐに汗が乾いてしまう。
夕暮れの多摩川
わしの足。
ブーツ
実は、安物のウエアラブルカメラを買ったので、試しにザックのチェストストラップに付けて撮影してみたのだが、これが大失敗。路面と手足しか写っていないでやんの。


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7月6日の死刑執行(オウム事件犯人、合法的に殺される:2018年07月06日参照)につづき、6人の死刑が執行された。これで、オウム事件死刑囚13人全員が合法的に殺されたことになる。

オウム事件死刑囚 残り6人の刑を執行=法務省:BBCニュース
日本の法務省は26日、オウム真理教の一連の事件で死刑が確定していた元教団幹部6人の刑を執行したと明らかにした。
今月6日には元教団代表の松本智津夫(麻原彰晃)元死刑囚ら7人の刑が執行されており、オウム事件で死刑が確定した13人全員の刑執行が終了したことになる。

これに対し、EUは死刑廃止を求める声明を出した。これは7月6日にも出していたので、二回目になる。

7月6日の声明
日本で死刑が執行されたことを受けた、現地共同声明:駐日欧州連合代表部

7月26日の声明
日本で死刑が執行されたことを受けた、現地共同声明:駐日欧州連合代表部

思うところはあるが、なんだかうまく書けないので、僕の言いたいことを箇条書きにする。
  • 人が人を殺してはいけない。たとえそれが殺人犯であっても。
  • ひと月に国家権力によって合法的に13人も殺されたのは、近代国家として野蛮と言う他ない。
  • 死刑は人権侵害である。
  • 刑罰は仇討ではない。
  • オウム信者をバカだと思うかもしれないが、誰でも信者になる可能性はある。
整理できたら、そのうち詳しく書こうと思う。
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途中まで書いていて、下書き保存したまま忘れていたことがいくつもある。今日はネタがないので、花粉症の季節に書いたことを復活させることにしよう。

僕の花粉症歴は長いが、初めて耳鼻科に行ったのは2013年である。その後、目薬を出してもらうようになった以外は、その時からずっと同じ薬を使っている。

ところが、今年の春、とんでもないことが発覚した。

さすがにシーズンだけあって、病院も薬局も混んでいた。診察が終わって、処方箋をだしてもらい、近所の薬局へ行った。混んでいるので、薬が出てくるまでに20分ほどかかった。

「どうせいつものやつだろう」と思っていたら、やっぱりいつものやつだった。あとは説明を受けてお金を払うだけ・・・だと思ったら、薬を見た薬剤師さんがこんなことをいう。

「あれ?ちょっとヘンですね。病院に聞きますので、ちょっとお待ちください」

薬剤師さんは、僕の行った病院に電話をかけているらしい。またしばらく待たされるハメになった。

しばらくして、薬剤師さんに呼ばれて、「やっぱり間違っていたようです」という。実際に出てきたものを見ると、今まで飲んでいたものよりも明らかに大きい。薬剤師さんは「この薬には5mgと10mgがあるんですが、処方箋だと5mgになってます。子供だとこれでいいんですが、大人だと普通10mgの方になります。そのぶん高くなりますが・・・」と言う。

なんと、僕が5年間もらってたのは子供用だったらしい。50歳近いオッサンで、体も標準よりでかいのに、子供用で効くわけがない。

たぶん、電子カルテだから、最初の間違いを延々引き継いでしまったのだろう。薬剤師さんが気づいてくれてよかった。なるほど、医薬分業にはこういう効果があるのかと感心したが、できればもう少し早く気づいて欲しかった。

実際飲んでみると、たしかに今年飲んだ薬の方が効いている・・・ような気がした。
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なんとなく、昨日の記事の続きみたいな感じになるが、『沙石集』は説話は分かりやすいのに、無住が述べる教理(と言っていいのか分からないけど)がやたらと難しい。頑張って読んでみると、ものすごく理路整然と書かれているのだが、それがなかなか面倒くさい。学術論文に近い書き方である。

これは現在同時進行で読んでいる『徒然草』とは対照的だ。同じ仏教的な内容でも、『徒然草』の方は簡潔にかかれており、はるかに読みやすい。ただし、あまり理詰めではないので、文字どおり随筆といった体である。

無住と兼好はほぼ同時代の人だが、同じボーサンでどうしてこうも違うのだろうか。

二人の一番大きな違いは、出家した年齢である。無住が出家したのは18歳、兼好は詳しくは分からないが、30歳ごろと考えられている。片や、若い時から仏法を学び八宗兼学と言われたエリート、片や酸いも甘いも噛み分けた中年に差し掛かって出家した隠遁者。違うのは当然である。

昔、師匠から、「君たちは坊さんというと同じだと思っているけど、坊さんにもプロの坊さん(以下プロ坊主)とアマチュアの坊さん(アマ坊主)がいて、これらは分けて考えなければならない」と言われた。その時はイマイチ分からなかったが、これほど対照的だとよく分かる。

閑居友』の作者とされる慶政は、幼少期に出家し20歳で隠遁したプロ坊主だった。『閑居友』は鴨長明の『発心集』の影響を受けているが、長明の出家は50歳でまったくのアマ坊主である。

たしかに、『発心集』と『閑居友』はよく似ているが、『閑居友』にはプロ坊主の限界があるように思う。具体的には言えないけど、一生懸命面白くしようとして、すべっている感じがするのだ。

しかし、ガチガチのプロ坊主である慶政が、アマ坊主長明の影響を受けたというのは、なかなか興味深い。年齢的には長明の方が34歳も年上だが、遁世キャリアは同じぐらいから始まっている。

慶政は長明をライバルと見ていたか、年長者として尊敬していたか、その両方か。たぶん、複雑な心境で『閑居友』は書かれたのだろう。
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現在、『沙石集』の電子テキストを作っている。漢字片仮名交じりの古活字本だから、文字を読むのはたやすい。字がでかいぶん、今の本よりもよほど読みやすい。

しかし、説話以外の部分の文章が難しい。特に巻一は本地垂迹がテーマだから、難解な言葉がたくさん出てくる。無住も最初の方だから気合が入っているのか、一話がやたらと長い。そんなわけで、一ヶ月かけて巻一がやっと終わった。

沙石集:やたナビTEXT

巻一の最後は、これがまた長いのだが、後半で鎌倉時代後期の浄土信仰の様子を描いていて面白い。

『沙石集』巻1第10話 浄土門の人、神明を軽んじて罰を蒙る事:やたナビTEXT

タイトルの話は最初だけで、後半はほとんど、当時の浄土教(阿弥陀信仰)がいかに隆盛し、狂信的な信者によって猛威を振るったかが描かれている。

浄土教とは、阿弥陀如来の名前を唱えれば(念仏という)、どんな人でも極楽往生できるという教えである。無住の時代には現在でいう浄土宗や浄土真宗・時宗が勢力を伸ばした。

仏教は理屈の宗教である。理屈は面倒くさいものだから、容易に理解できない。だから、鎌倉時代以降、念仏を唱えれば救われるというような、シンプルな浄土信仰はまたたく間に広まったらしい。

しかし、阿弥陀如来だけを頼りにするということから、他は全部ダメというような、一神教的な勘違いが生まれる。当時は法華経信仰や地蔵信仰も流行っていたから、それがターゲットとなる。
中ごろ、念仏門の弘通(ぐづう)さかりなりける時は、「余仏余経、みないたづらものなり」とて、あるいは法華経を河に流し、あるいは地蔵の頭にて蓼(たで)すりなんどしけり。ある里には、隣家のことを下女の中に語りて、「隣の家の地蔵は、すでに目のもとまですり潰したるぞや」と言ひけり。あさましかりけるしわざにこそ。
法華経を川に流したり、お地蔵さんの頭をおろし金代わりにつかって、「隣のうちのお地蔵さんは、すでに目のところまですり潰したぞ」なんて競ったりしていたという。

法華経信仰から念仏へ宗旨替えする人も出てくるが、これもなんだかおかしな方向へ。
また、この国に二千部の法華経読みたる持経者ありけり。ある念仏者、勧めて念仏門に入れて、「法華経読むものは、必ず地獄に入るなり。あさましき罪障なり。雑行の者とて、つたなきことぞ」と言ひけるを信じて、さらば一向に念仏をも申さずして、「年ごろ経読みけんことの悔(くや)しさ、口惜しさ」とのみ、起居に言ふほどに、口のいとまもなく、心のひまもなし。かかる邪見の因縁にや、悪(わろ)き病つきて、物狂はしくして、「経読みたる、悔しや、悔しや」とのみ口ずさみて、果ては、わが舌も唇もみな食ひ切りて、血みどろになりて、狂ひ死ににけり。勧めたる僧の言ひけるは、「この人は、法華経読みたる罪は懺悔して、その報ひに舌・唇も食ひ切りて、罪消えて、決定往生しつらん」とぞ言ひける。
念仏僧に「法華経を読むのは罪を作る」と言われ、宗旨替えした法華経持経者が、まったく念仏はしないで、「今まで法華経なんか読んでた。悔しい悔しい」とばかり言って、舌を食い切って狂い死にしてしまった。勧めた念仏僧は、「これで罪は消えました。間違いなく極楽往生したでしょう」なんて涼しい顔をしている。

もうなんか新興宗教にありがちなアレというほかない。

浄土教といえば、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(歎異抄)」という悪人正機説だが、当然「そうか、悪人の方がいいのか」と思う連中も出てくる。
また、中ごろ、都に念仏門流布して、悪人の往生すべきよしを言ひ立てて、戒をも持(たも)ち、経をも読む人は、雑行にて、往生すまじきやうを曼荼羅に図して、尊げなる僧の、経読みて居たるには光明ささずして、殺生する者に摂取の光明さし給へる様を描きて、世間にもてあそびけるころ、南都より、公家へ奏状を奉ることありけり。その状の中にいはく、「かの地獄絵を見る者は、悪を作りしことを悔い、この曼荼羅を拝する者は、善を修せしことを悲しむ」と書けり。
経を読む高僧と殺生する者(猟師?)を描いて、高僧には光がささず、猟師には光がさしているという曼荼羅を作って、悪人正機を唱えるものもいた。見かねた南都から公家への奏状には「地獄絵を見る者は悪いことをしたことを悔やむが、この曼荼羅を見る者は良いことをしたことを悲しんでいる」と書いたという。

無住は八宗兼学の博覧強記なので、様々な経典や事例をあげて、このようなファナティックな信仰が間違っていることを説くが、いかんせん難しすぎる。これではアホの耳は届かないだろう。

いくら正しくても面倒くさい論理は耳に入らず、シンプルな話を曲解するというのは、いつの世も同じなのである。
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僕の仕事部屋はエレベーターの隣にある。だからエレベーターの前で誰かが会話していると、よほど小さな声でない限り全て聞こえてくる。

以前、同じ階に、ちょっと変わった人たちが住んでいた。おじさんとおばさんの(たぶん)二人暮らしなのだが、おじさんの方はいわゆるオネエ言葉だった。ファッションもいわゆる女装ではないが、だいぶ変わっている。それに対して、おばさんの方は、見た感じ普通の人だった。

二人の関係は分からないが、よほど仲がいいらしく、いつもエレベーターの前で会話をしていた。それが、部屋にいるとよく聞こえてきた。

たいがい、おばさんの方が聞き役で、おじさんの方が、なにやら愚痴を言ったり、泣き出したり、なかなか感情豊かで、悪趣味だとは思いながらも、窓一枚隔てた部屋から、息をひそめて聞き耳を立てていた。もうずいぶん前のことで、具体的には覚えていないが、一つだけよく覚えている言葉がある。

「きれいね〜。わたし、ここから見る夕日が一番好きなの。」

すっかり忘れかけていたが、今日はそこからの夕焼けがきれいだったので、思い出した次第。

夕焼け
明日も暑くなりそうだ・・・。

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