2019年11月

僕にとっては『とはずがたり』の電子テキストを完成したのが、今月の重要な出来事だったのだが、そんなことよりも、ニュースやらワイドショーやらで話題になっていた、桜を見る会には驚かされた。

安倍首相が人の税金使って私物化してたとか、ならず者やら詐欺師やらまで招待されてたとか、もちろん許されることじゃないが、安倍政権なんてそんなもんだと思ってるから今更驚かない。驚いたのは官僚の劣化である。

彼らによると、桜を見る会の名簿は全て廃棄済みだという。紙はシュレッダーで裁断し、PCからも削除して復元できないんだそうだ。

今時、個人の年賀状名簿だってPCで作成・保存する。名簿というものは後々の資料になるものだから、少なくとも何年かは保存するのが個人レベルでも当たり前だろう。まして役所なら、サーバーなりクラウドなりに保存して共有するのが普通だろう。桜を見る会の名簿データなんか、大した容量食わないんだから、永久に保存することだってできる。仕事が出来ないにもほどがある。

もちろん、官僚の言っていることなんか信用していないが、信用したとすれば、日本の役所の仕事は個人レベル以下ということになる。ウソならウソで、もう少し頓智の利いた巧妙なウソを言うべきで、それが出来ないなら諦めて資料を提出するほかない。どうにも日本の官僚は劣化しているという他ない。

反安倍政権の人たちの中には、官僚が政権によってコントロールされていて、しかたなくこんなバカなことをやっていると思っている人がいる。僕はそれは間違っていると思う。

こんな誰が考えても無理筋な擁護をするのは、官僚にとって安倍政権ほど都合がいい政権はないからである。おそらく彼らは安倍首相の宿願である憲法改正への協力をちらつかせて、要望を通しているのだろう。それが証拠に、消費税は予定通り10%になったではないか。もし安倍首相が官僚をコントロールしているなら、消費税値上げを中止して支持率を上げ、高い支持率を武器に憲法改正に邁進できたはずである。

もちろん、彼らは本気で憲法改正なんて面倒くさいことをするつもりはない。憲法改正に協力しているフリをすれば自分達の要望が通るのだから、こんなに便利な政権はない。そりゃ一日でも長くやってほしいに決まっている。

それにしても、政治家は選挙で落とすことができるが、官僚をクビにすることはできない。こんな陳腐な言い訳しか思いつかないアホ官僚に支配されている国は、ちょっとヤバいと思うよ。
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昨日、やたナビTEXT『とはずがたり』が完成し、ブログの記事を書き終わってから、「これで何ページになったのかな」と思って見てみたら、なんと3700ページピッタリだった。こいつは縁起がいい。
3700ページ
それから、「これで何作品目だ?」と思って数えてみたら、こちらは何と20作品ピッタリだった。



さすがに20作品になると、作品リストもなかなか壮観だ。中には『方丈記』みたいな短い作品もあるが、何しろ長いにもほどがある『今昔物語集』があるので、文句は言わせない(誰に?)。それにしても、われながらよくやったものだと思う。

ちょっと残念なのは、20作品あっても、これらのテキストがやたがらすナビのテキストだとあまり知られていないことだ。理由はだいたい分かっている。現代の人はサイトをトップページからたどるのではなく、Googleなどの検索サイトから目的のページに行き当たる。これではサイトの一部とは認識されず、ただネット上に目的のテキストがあったというだけに感じられる。

例えば、「今昔物語集 原文」というキーワードで検索すると、やたナビTEXTの『今昔物語集』が一番上に出るが、ここから来た人は自分が読んでいるテキストを、やたナビTEXT『今昔物語集』とは意識しない。読んでもらえるだけで御の字であるが、それではちょっと寂しい。

20作品ではまだ少ないのだろう。これは僕のライフワークだと思っているので、もちろんまだまだ続けるつもりだが、この節目に小休止しようと思う。とりあえず、少なくとも今年いっぱいは『宇治拾遺物語』のバージョンアップとその他のページの手直しをしたい。

実は次の作品が決まっていないだけなんだけどね。
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『とはずがたり』の電子テキストを公開しました。

とはずがたり:やたナビTEXT


いつもどおり、翻刻部分はパブリックドメインで、校訂本文部分はクリエイティブ・コモンズライセンス 表示 - 継承(CC BY-SA 4.0)で公開します。

僕の師匠は『とはずがたり』の初期の訳注(角川文庫)を書いた人で、よく「一つの作品を通して注釈をやると実力がつく。論文は書けなくなるけどな」と言っていました。まあ注釈をやれば実力がつくのは当たり前ですが、今回『とはずがたり』のテキストを作って、言っている意味がよく分かりました。

そりゃ、こんなのやったら実力付くよ!!

「論文は書けなくなるけどな」の意味も分かりました。

こんなのやってたら論文なんか書いてる暇ねぇよ!!

まあ、僕の場合そうでなくても書けないんですけどね。

『とはずがたり』は、とにかく知識が試される作品です。内容はWikipediaのとはずがたりの項におまかせしますが、ちゃんと理解するにはさまざまな知識を必要とします。言葉・歴史・地理・有職故実・仏教・民俗・和歌・音楽・説話・平安朝の物語、そしてなにより女心。ちょっと僕には手に余ります。難しさについては、『とはずがたり』は難しい:2019年07月15日にも書きましたので、あわせて読んでいただければ幸いです。

そんなわけで、いつものようにテキストをポンと出すだけでは不親切だと思ったので、注釈とまではいきませんが、いつもよりも多めに注を付けました。また、説話集などとは違い、前後を読まないと理解できないので、各ページに前後のページ及びホームへ戻るリンクも付けました。

読みやすいように工夫したつもりですが、それでもこのテキストで通読するのは難しいと思います。活字本としては新潮日本古典集成で読むことをオススメします。省略されがちな会話文の主語など、分かりにくい部分が本文のわきに赤字で補われているので、読みやすいと思います。

とかく衝撃的な巻一〜三までが話題になる『とはずがたり』ですが、やはり最後まで読まないとこの作品の本当の良さは理解できません。ぜひ通読してみてください。


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大学入試英語民間試験の件なんだけど、なんだかよく分からなかった。何がよく分からないのかすらよく分からなかったのだ。で、最近うっすらと分かってきた。なんで文科省が大学入試に口を挟むのかが理解できなかったのだ。

大学入試ってのは、大学に入る学生を選考する試験である。どんな学生がその大学の入学に値するかは、専攻とか教育方針とかによって変わってくるはずだ。大学が100あれば100の試験があるべきだ。逆に言えば、各大学が入学生を選考するための試験なのだから、文科省が口を挟む余地はない。

これが卒業に必要な単位として英語民間試験を入れなきゃいけないというなら、まだ理解できる。監督官庁として文科省には学校教育の質に口を出す権利があるからだ。しかし、入試に口を出すということは、学校の質ではなく、受験生という人間の質に口を出していることになる。そんな権利が文科省にあるものか。

大学も大学だ。そもそも筋が違っているのだから、「ウチの大学では英語の民間試験を選考に含めません」とはっきり声明を出せばいい。多くの大学がそうすれば、民間試験を選考に含める大学は人気がなくなるから、いくら文科省が喚こうが、やがてどこも選考に含めなくなるだろう。補助金やら許認可権やらあるから断りにくいんだろうが、そんなことに唯々諾々と従っているようでは、日本の大学なんて先は見えている。

大学入試は入学者の選考試験であり、それ以上でも以下でもない。多くの人が入試ごときを〈人間の価値を決める試験〉だと思いこんでいるから、こういうおかしなことになる。入試が〈人間の価値を決める試験〉というなら、入試だけ受けて大学なんか行かない方がいい。合格と同時に中退したほうが、金がかからないし、ムダな時間も省けるだろう。

なぜ民間試験の導入かというのは、巷で言われている通り、利権の問題に違いない。最初から教育なんて二の次で、業者に金を回すことしか考えていないのだ。案の定、延期が決まったら、関連企業の株価が下がった。ザマーミロ。真面目に商売をしないで、邪悪なことをするからこうなるのだ。

英語民間試験延期にベネッセなど戸惑い、株価も影響:日刊スポーツ
受験料は5800〜2万5850円。50万人の受験生がリハーサルを含めて複数回受験することで100億円規模の需要が見込まれていた。それだけに影響は大きく、ベネッセの株価はこの日、73円安、日本英語検定協会から事業を受託していたエデュラボはストップ安(1000円安)となった。
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10月といえば、ラグビー・ワールドカップである。10年ほど前に日本開催が決まったとき、10年あるとはいえ時期尚早じゃないかと思ったのだが、結果は全勝でプール戦を勝ち上がりベスト8。僕が間違ってました。そして、今日は決勝。イングランド対南アフリカ、12対32で南アフリカの勝ち。

僕はラグビーファンというわけではないが、にわかファンでもない。卒業した高校がやたらとラグビーが強く、二年生のときには花園で全国優勝をした。正月、夜中にスクールバスに乗って大阪まで行き、試合終了後、そのままスクールバスで帰ってきたのをよく覚えている。帰りのバスに挨拶に来たラグビー部コーチの、涙でぐしゃぐしゃになったブサイクな顔は今も忘れられない。

そんな高校なので、体育の授業の半分はラグビーだった。だから、ルールなどはある程度知っている。

前にボールを投げると「スローフォワード」という反則になる。誰がどう聞いても英語の「throw forward」である。これはアホな高校生である僕にもわかった。ところが、体育の先生は、前にボールを落とすと「ノッコン」という反則だという。発音の問題もあるが、どうにも英語に聞こえない。六根清浄のロッコンぽく聞こえるが、漢字があてられそうにもない。

テストにも「ノッコン」と書いて○をもらった記憶があるので、先生もノッコンだと思っていたのだろう。英語の「knock on」だと知ったのは卒業した後のことだ。もっとも、前にボールを落とすのがなぜ「knock on」なのかはいまだに分からない。

ついでにいうと体育の残りの半分は柔道だった。僕はほぼ帰宅部なのに、そのころすでに身長が180センチあったから、体育の授業のときはラグビー部だの柔道部だのの真のデカブツと組まされた。そんなわけで、体育の授業は恐怖しかなかった。

さらについでにいうと、当時はラグビーも柔道もノーパンでするものだった。ラグビーはともかく、柔道の方はパンツを履いているのがバレると、その場で脱がされた。これもいまだになぜノーパンだったのかよく分からない。危険だからというのだが、何が危険なのか、皆目見当がつかない。

話を戻そう。体育の授業では、ラグビーの文化についても習った。いくつか挙げてみよう。

  • レフリーには絶対的な権力がある。抗議はできないし、観客を追い出す権利すらある。
  • トライを決めてもガッツポーズしてはいけない。自分一人でできたトライではないから。
  • アマチュアしかいない(当時)。
  • 監督はベンチに入れない。選手の自主性を重んじるから。

今では少々変わっているものもあるようだが、そのころはそんな感じだった。ラグビーというのはずいぶんとこだわるスポーツだなと思った。

中でも、ラグビーの思想として一番有名なのが、試合終了を意味する「no side」である。「試合が終われば敵も味方もない」という意味で、かつては控室も敵味方同じだったという。

ところが・・・
あんたには理解できないだろうな。というか、ラグビー見てないだろ。
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