2019年12月

毎年好例の今年の漢字は「令」だった。いかにも、「平成から令和になったから「令」でいいいだろ」と決められたっぽい。いくらなんでもそれは安直すぎるだろうと思ったが、よくよく考えてみると、そのイイカゲンさがいかにも今年の日本を象徴しているような気がして、案外これはいいのかもしれない。

僕は以前から日本人ぐらいイイカゲンな国民はいないんじゃないかと思っていた。それが確信に変わったのが今年である。「日本人ぐらい」というと、「あの国はどうだ、かの国はどうだ」という人が出てくるだろうが、他の国のことなんかどうでもいい。イイカゲンさを他の国と比べる時点で十分イイカゲンである。

イイカゲンさもさることながら、日本人は自分達がイイカゲンであることにまるで気づいていないらしい。イイカゲンなくせに自分たちはマジメでイイカゲンではないと思いこんでいる。

例えば、日本人は自分達は遵法意識が高いと思い込んでいる。遵法意識が高いとは、すなわちイイカゲンでないということだ。しかし、本当に遵法意識が高いのなら、サービス残業なんか問題にならないはずだし、横断歩道で人が待っていれば車は止まるはずだ。実際はどうかはご存知の通り。習慣や雰囲気が法律や規則すら超越する、これをイイカゲンと言わずして何をイイカゲンと言うか。

例の「桜を見る会」なんてその象徴である。税金のムダ遣いといっても、その額はたかが知れている。そういう点でいえばたいした問題じゃないのかもしれない。しかし、イイカゲンさでいえば、これほど酷いものはない。イイカゲンに招待客を決めて、イイカゲンに名簿を管理して、イイカゲンな答弁で有耶無耶にしようとする。なにもかもイイカゲンなことを、いちばんイイカゲンではいけない機関がやっている。

どうにもならなくなった入試制度改革とやらもそうだし、ついに東京ではマラソンできなくなったオリンピックもそうだ。すでにイイカゲンの弊害は出ているようだ。来年以降、こういうイイカゲンに起因する問題はもっと出てくるだろう。

それ以上に恐ろしいのは、役人や政治家がイイカゲンであるヤバさに国民が気づいていないことである。だから、イイカゲンな首相が歴代最長の政権になる。普通はイイカゲンな首相などさっさとお引き取り願うところだが、国民がイイカゲンだから、イイカゲン首相が政権を保てるのだ。だいたい、「他に適当な人がいないから」なんて理由で憲政史上最長の政権を保てること自体イイカゲンである。

イイカゲンな人間が信用されないように、イイカゲンな国は信用されない。政府のイイカゲンを許している国の国民も信用されなくなるだろう。今はどうかしらないが、すぐにそういう時代はやってくると思っている。

一ついいことを思いついた。改元の記念に「令」という字にイイカゲンという訓を与えてはどうだろうか。令和と書いて「イイカゲンに和す」。今の日本にはぴったりじゃないか。
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あっというまにあと2日で今年も終わり。毎年好例、今日は今月の総括、明日は今年の総括。なんだか、つい先日書いたような気がする。

11月の中ごろに『とはずがたり』のテキストを完成し、20作品という節目を迎えたこともあって、電子テキスト作成はしばらくお休みしていた。やたナビTEXTを始めてから5年ぐらい経つが、これだけ長くテキスト作成をしなかったことはない。

その間、他のコンテンツを見直したり、デザインを変えたりした。といっても大きな変化はないはずだが、最近はスマホで見る人が多くなっているので、ごちゃごちゃしたところをシンプルに書き換えた。

どんなことでもそうだが、しばらく止めてみると、今度は無性にやりたくなるものだ。これは、僕の生活の中に電子テキストを作るという作業が完全に組み込まれたということだろう。1月に入ったら、なるべく早いうちに再開したい。

まずは長らくサスペンドしている『古今著聞集』の再開から始めようと思っている。これは長い作品なので一年では終わらないだろう。その他、『三宝絵詞』・『宝物集』・『雑談集』あたりを考えている。

ちょっとだけ書いた(白川郷で竹馬に乗った:2019年12月27日参照。)が、クリスマスあたりに飛騨高山に行ってきた。これも正月明けにでも書こうと思っている。
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今年もあとわずか。去年に引き続き(年賀状の素材あげます:2018年12月26日参照)、例によって妻にボツにされたネズミのイラストを公開する。年賀状の素材としてぜひ使ってほしい。

著作権は主張しないので、無断で自由に使ってもらってかまわない。別の方面からクレームがくるかもしれないが、これはあくまでオリジナルである。
み1
み2
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先日、白川郷へ行ってきた。「合掌造り民家園」なる野外博物館に竹馬があった。自由に乗っていいらしい。竹馬には自信があるが、なにしろ最後に乗ったのは40年以上前である。全然乗れないか、昔と同じく乗れるか、ちょっと試しに乗ってみた。まあ、インラインスケートと違い、こけそうになったら飛び降りればいいだけだから、ズデーンとはいかないだろう。

最初ちょっと手間取ったが、すぐにカンを取り戻した。見よ、この勇姿。それにしても、自分が竹馬に乗っている姿なんか初めて見た。
竹馬に乗るわたくし
これは十分にcontrollableだと確信したので、uncontrollableのふりをして写真を撮っている妻に襲いかかったら、本当にuncontrollableになって、飛び降りる間もなくコケた。竹馬には乗っても調子に乗ってはいけない。
こけた
家に帰ってからGoogle PhotoにUpしたら、勝手にパノラマ写真にされた。さすがGoogleのAIだ。でも、ちょっとバカにされているような気がするぞ。
こけるまでのプロセス
結局、全然乗れなかったわけでも、昔と同じように乗れたわけでもなく、飛び降りることもできなかったのだから、何一つ予想通りにはいかなかったわけである。
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自由自在に動かせる山田照明のデスクライトを買ってから(山田照明のZ-Lightを試してみた:2017年02月27日参照)、モニターアームが欲しくなった。

モニターアームとは、デスクトップパソコンのモニターを支持するアームである。デスクライト同様、モニターの角度や高さを自由自在に変えられるようになる。また、スタンドが無くなるので、机のスペースを有効に使えるようにもなる。

僕の場合、モニターを見ながら手書きの書類を書くことがあるし、机を広く使いたいことも多い。それに、掃除もしやすくなる。モニターの下にはホコリが溜まりやすいのだが、附属のスタンドでは移動するのも面倒くさい。

なんだかんだ理由を書いたが、何といってもモニターアームはかっこいい。モニターアームに限らず、マイクアームとか照明のアームとか、アームと名の付くものはプロの機材という感じがしてかっこいいじゃないか。

というわけで買ってみた。モニターアームにはさまざまな種類がある。大別すると、一度固定したら動かすのが面倒なタイプと、自由自在に動かせるタイプである。動かさない方は数千円で買えるが、僕の用途ならちょっと高くても動かせたほうがいい。

調べてみると、エルゴトロンというメーカーのものが評判がいいようだ。amazonの自社ブランドamazon basicのモニターアームがエルゴトロンのOEMだそうで、本家に比べるとかなり安いので、先日のサイバーマンデーセールのときに注文した。お値段は9,398円。

箱を開けてみるとこんな感じ。二階建てでみっちり収まってる。
開封
パーツはこれだけ。さすがに重いモニターを支えるだけあって、かなりしっかり出来ている。僕の場合、机の奥行きがないので、現在のところ一番右の腕木は使っていない。
モニターアームパーツ
組み立ては簡単。モニターの背面にあるVESAマウントにアームを付け、クランプで机に付けたパーツに差し込むだけ。取り付けるだけなら工具は不要。工具が附属しているが、これは調整用。配線をかっこよく這わせるための結束バンドまで付いている。

こんな感じでモニターが付く。腕木はもう一本足せるので、普通の事務机でも大丈夫だ。写真には妙なストラップが垂れ下がってるけど、気にしないでください。
モニターアーム
アームを使う前はこんな感じ。
使用前
アームを使うとこんな感じ。
使用後

ほぼ同じポジションにしているので大差ないが、一番奥に持っていくと・・・。
一番離したところ
ここまで机が広くなる。

僕の場合、机が横に長いので、右のモニターを見て左で書くということをよくやるのだが、その場合はこうするといい。まずは年賀状の宛名書きにこのポジションで使うことになるだろう。せめて宛名ぐらいは手書きにしたいからね。
左向き
縦位置にもできる。縦に長いexcelシートなんかを見るのに便利らしいが・・・僕はあまり使わないかな。それにしても、今のモニターはあまりに長いのでびっくりした。
縦位置
もしかしたら、気づいた人もいるかもしれないが、実はこのモニターには余計なものが付いている。
余計なもの
これは、もともと付いていたスタンドのネックである。外せるはずだが、さしこんであるだけなのに、なぜだか固くて抜けない。せっかくモニターアームを使っているのに目障り。残念。
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やたナビTEXTも20作品を越え、なんだかTOPページがごちゃごちゃしてきた。

今時、TOPからアクセスする人なんかほとんどいない。やたがらすナビに来る人のほとんどは、検索かSNSから来るので、途中のページから来て、TOPページなんか見ることもなく去っていく。

だから、TOPページなんかどうでもいいといえばいいのだが、やはりTOPはサイトの顔である。それなりに格好つけないと信用されない。

今は約7割がスマホ等のモバイルからのアクセスである。新しいTOPページはパソコンで見ると少々殺風景に見えるが、スマホで扱いやすいように思いっきりシンプルにした。
やたがらすナビTOP
やたがらすナビには、国会図書館のRSSを使って、最新の雑誌論文を紹介するページがある。これもタブを使って見やすくした。アクセス数の多いページではないが、なかなかいい感じになったのではないかと思っている。
雑誌情報TOP
そんなヒマがあれば、もっと中身を充実させたいという思いもあるが、使いにくいサイトでは話にならない。今月いっぱいはいろいろ試行錯誤するつもりなので、こうしたほうがいいとか、これはダメだという意見があれば、ぜひ教えてほしい。
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2017年10月から、すこ〜しずつ進めてきた、陽明文庫本『宇治拾遺物語』のバージョンアップが終わった。これによりバージョン番号が上がり2.0になる。



1.1からの変更点は次の通り。

1.誤りを訂正した。
このテキストは、もともと僕が20代のころ論文に引用するために作ったもので、「多少間違えていても引用時に確認するからいいや」ぐらいのつもりで作っている。もちろん、最初に公開したときや1.1にしたときにかなり直したのだが、それでも間違いが多くて、やっていていままで公開していたのが申し訳ない気がしたほどだ。作業を始めた時は、1.1もアーカイブで残しておこうかと思っていたが、あまりにも訂正が多かったので、1.1は削除することにした。

2.形式を他のテキストと合わせた。
1.1は翻刻に句読点・カギ括弧・濁点を付しただけだったのだが、2.0は翻刻と校訂本文を分けた。翻刻は底本に忠実に電子テキスト化、校訂本文の方は歴史的仮名遣い・送り仮名・漢字表記を統一してある。ようするに、『今昔物語集』をのぞく他のテキストと同じスタイルにした。

3.人名に簡単な注釈を付けた。
例えば、「融の左大臣」に「源融」と付けた。「そんなの注がなくても分かるよ」と思われるかもしれないが、これは検索用である。これにより「源融」で検索すれば、「融の左大臣」でも「河原左大臣」でもひっかかるようになった。

とりわけ3は重要である。注に入れれば検索にひっかかるということを、最初は気づかなかったので、『宇治拾遺物語』と『今昔物語集』本朝部にはそのような注が入っていなかった。これで『今昔物語集』本朝部以外は、人名の横断検索ができるようになった。

もちろん、『今昔物語集』本朝部にも人名注を付すつもりである。実はすでに始めているのだが、手間がかかるのでなかなか進まない。終わったら大々的に報告する予定。

なんにせよ、年内に終わってよかった。
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近世文学の大家、中野三敏氏が亡くなられた。
九大名誉教授の中野三敏さん死去 84歳 江戸文学の大家、文化勲章受章:毎日新聞
江戸文化研究への多大な功績で文化勲章を受賞した九州大名誉教授の中野三敏(なかの・みつとし)さんが11月27日、急性肺炎のため死去した。84歳。
もちろん面識はないが、なにしろビッグネームだから、論文や著書は読んだことがある。中でも1995年に出た『書誌学談義 江戸の板本』は出た時に買っている。
江戸の板本

僕が思い出すのは、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」(通称爆問学問)での爆笑問題との共演である。この番組に国文学みたいな地味な学問の先生が出るのは珍しく、一方で爆笑問題の太田光氏はかなりの読書家なので、どんな話になるのか楽しみにしていた。

なにしろ8年近く前なので、番組の内容はよく覚えていない。神保町を三人でしゃべりながらブラブラする感じだったと思う。覚えているのは、番組冒頭で大屋書房に入り、版本の山を前に話していた場面。始めに中野氏はこんなことを言った。

「これだけの本があるのに、今の人は文字が読めないんです。こんなに面白いのにもったいないことです。ちょっと勉強すれば、これが全部読めるようになります」

うろ覚えだが、そんな感じだったと思う。よく覚えているのは、これに対する太田氏の言葉。

「だったら、先生が僕らにも読めるようにしてくれればいいじゃないですか」

冗談めかして言っていたが、太田さんさすがだなと思った。どちらが正しいとか言うつもりはない。これは立場の違いである。

いうまでもなく中野氏は多くの注釈書を世に出しており、誰よりも古典を「僕らにも読めるように」している。それだけに限界があるのもよく分かっているはずだ。だから、自分で直接版本を読めるようになれば、もっと読書の幅が広がると言っているのだろう。これは専門家の意見である。

一方で、太田氏は読書家だから、日本だけでなく古今東西の文学を読みたい。中野氏の言っていることは、「フランス文学には翻訳されていない面白いものもたくさんあるから、フランス語を勉強せよ」と言っているのと同じように聞こえたはずだ。

実際には、版本の文字(意地でもくずし字とは言わないぞ)はそれほど難しくないし、古語とはいえ日本語で書かれているのだから、フランス語を学んでフランス文学を読むよりはるかにハードルが低い。しかし、それは専門家に近い人の考え方で、世界中のあらゆる本を読みたい読書家からすれば、写本や版本を直接読めといっても、そんなヒマはないというのが正直なところだろう。

どうしても専門家は、自分の分野に興味や理解のある人の方を見てしまうものだ。しかし、本当に大事なのはあらゆる本を読もうとする読書家である。作品は読まれるために生まれ、読まれたから現在まで残った。大昔に作品が生まれ、現在まで生き残っているのは、研究者のおかげではなく、読書家のおかげである。これを無視することは、作品の命を縮めることにほかならない。

果たして、日本の古典文学は太田氏のような読書家にアプローチできているだろうか。読書家の書架に日本の古典文学はどれだけ入っているだろうか。もし、当たり前のように日本の古典が読まれるようになれば、「古典は本当に必要なのか」などという議論は意味をなさなくなるだろう。
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