2020年02月

先月の総括でも書いたが、今月も新型コロナウィルス(以下、COVID-19)のことを書かざるをえない。

COVID-19については、思うところがいろいろあったので、何度も書こうとして途中でやめてしまった。僕みたいなのが書くには、どうにも荷が重すぎる。ただ先月の総括で書いたように「所詮は風邪の一種」という見方は変えていない。誰もかかったことがない風邪で免疫がないから、一気に流行ると大変なことになる。だから、できるだけかからないようにしようということだ。

そんな中、昨日のことである。安倍首相の休校要請をうけて、3月以降休校になることになった。僕の場合、もともと3月は授業がほとんどない上に、担当が書道だから学年末考査ももともとない。そんなわけで、個人的にはあまり影響がないのだが、学年末考査のある人や、3年生を持っていた人なんかは大変な騒ぎである。高校でこれじゃ、小学校なんか大変な混乱だろう。

これのせいで、定時制も3月28日が最後の授業になった。すでに募集停止しているので、この学校は今年度で終わりである。もちろん、また定時制を担当する可能性がないではないが、もしかしたらこれが僕にとって最後の給食になるかもしれないので、記念に写真を撮ってきた。

メインディッシュは豆腐ハンバーグである。そこそこうまかったが、いつになくショボい。最後(かもしれない)だけあって、なかなか哀愁の漂う写真になった。

たぶん最後の給食

それにしても、またぞろトイレットペーパーの買い占めが起きているのには驚いた。これだけウォシュレットが普及していて、震災の時とは違い、交通機関もガソリンも電気も何の問題もないのに、なぜトイレットペーパーなのか。もちろん、オイルショックの記憶からだとは分かっているが、ちょっと頭が悪いにもほどがある。

これは震災のときにも書いたが、こういう時の心理は、「何かしなきゃいけないけど、何をしたらいいか分からない」というのが根底にある。今回は相手が疫病なのだから、何もしないほうがいいのである。せいぜい、しっかりメシを食って、なるべく外出はひかえて家でおとなしくすること。

ヒマだったら、「なんか役に立たなきゃ」なんてつまらないことは考えず、やたナビTEXTの古典文学でも読んでいればいい。全部読み終わるまでには、COVID-19騒ぎも終わっているだろう。
このエントリーをはてなブックマークに追加

以前からフィルムスキャナーを買おうと思っていた。フィルムスキャナーとは、いわゆる銀塩フィルムをデジタル化するスキャナーである。

フィルムスキャナーに限らず、スキャナーというものは操作が面倒くさい。一枚ちょこっとスキャンするぶんには大したことないが、何枚もスキャンするとなると、膨大な時間がかかる。その上、写真だとホコリや指紋など取扱いに気を使わなければならない。そんなわけで、なかなか手を出せなかった。

一番面倒がないのは業者に出してしまうことだ。なにしろプロだから画質もいいだろう。しかし、これは金がかかる。持っているフィルムをすべてデジタル化するつもりはないが、それでもかなりの量がある。その中には当然ピンボケ写真なんかも含まれるから、ちょっともったいない気がする。

というわけで、買おうか買うまいか迷っているうちに15年ぐらい経ってしまったのだが、今年は初めて中国に足を踏み入れてちょうど20週年である。いいかげんあの頃の写真をデジタル化したくなった。

「よし、買っちまえ」と思ったのだが、いろいろ調べてみると、機種選びが難しい。今時フィルムスキャナーなんてオワコンである。機種がないのは覚悟していたが、もっと面倒なことになっていた。「ピンからキリまである」という言葉があるが、ピンとキリしかなくてその差が極端なのである。

「フィルムスキャナー」でアマゾンを検索して出てくる日本メーカーのものは、すべてキリ(下)の方である。スキャナーとはいうものの、実際にはフィルムをデジカメで撮っているらしい。だからスキャンは早い。機種によってはプリントもスキャンできるし、PCなしでもSDカードに直接保存できる。その反面画像はイマイチらしい。

ピン(上)の方は、台湾メーカーのもので、画像はキリよりはずっといいらしい。だが、スキャンに時間がかかるし、フィルムのセットや設定など、いろいろと面倒くさそうだ。こちらは単独では動作せず、PCの周辺機器として動作するので準備自体も面倒くさい。しかも、お値段はちょっとお高い。

散々迷ったあげく、ピン(上)の方にした。やはり、大事な写真だから多少手間がかかっても、少しでもきれいにスキャンしたいものだ。

ここまでどんなものを買ったのか、まだ一言も言っていない。もったいぶっているのではない。まだ使いこなしていないので、ショボい写真をあげてメーカーの迷惑になったら困ると思うからである。

というわけで、詳しくは後日書くことにするが、今日セットアップを終えて最初にスキャンした写真がこれ。
徐福
新宮市の徐福公園だから、2002年に熊野古道を歩いた時の写真だ。フィルムはリバーサル(スライド)である。意図的に派手な写真を選んだのだが、ちょっとコントラストが低いようだ。退色したのか、設定に問題があるのか、スキャナーのせいなのか、まだ分からない。それによく見ると、ホコリやキズらしきものも見える。やっぱり難しいなぁ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

Twitterで次のようなtweetが流れてきた。


ここで、『和名類聚抄』が引用している『宇治拾遺物語』の説話は36話(巻3第5話)「鳥羽僧正、国俊と戯れの事」のことなので、飯間浩明氏は間違って引用している。

それはともかく、46話(巻3第14話) 「伏見修理大夫俊綱の事」に湯船が出てきた記憶がない。ちょっとおかしいなと思ったので、やたナビTEXT『宇治拾遺物語』46話を見ると、次のようになっている。
国司、出会ひ、対面して、人どもを呼びて、「きやつ、たしかに召しこめて、勘当せよ。神官といはんからに、国中にはらまれて、いかに奇怪をばいたす」とて、召し立てて、結ふほどに、こめて勘当す。

「ゆぶねに」が「結ふほどに」になっているのである。こう書くと随分違うようだが、「ゆふねに」と「ゆふ程に」だとするとわずか一文字の誤写となる。しかも、「ね」の字母の「祢」は、くずし方によっては似た形になるので、間違っても何の不思議もない。もちろん意味そのものはどちらでも通じる。

ではどちらが正しいか。この説話は、神威をかたに横柄な態度をとる熱田神宮の神官を、尾張守になった橘俊綱が勘当すると言う話である。神威が効かなかったのは、実は俊綱の前世が・・・ということだが、それは今回の記事とは関係ないので、あとは読んでほしい。

俊綱がいかに怒っていたとしても、さすがに熱田神宮の宮司を湯船に漬けて折檻するのはやりすぎだろう。その可能性もなくはないが、ここは「結ふほどにこめて」つまり、「縛って(どこかに)監禁して」の方が自然である。

この部分の主要な諸本間での異同は次の通り。なお、伊達本の影印は持っていないので、『三本対照宇治拾遺物語』(武蔵野書院)によった。

ゆふ程に・・・陽明文庫本・伊達本
ゆふほとに・・・古活字本
ゆふねに・・・龍門文庫本・書陵部本

上の、tweet画像の本文は古活字本を底本とする新編日本古典全集(小学館)のものだ。ならば「ゆふほどに」のはずだが、なぜか「ゆぶね」になっている。その頭注には、
底本「ゆふほとに」。書陵部本に従って改める。湯船に閉じ込めて懲らしめた。

となっている。つまりそのままで通じるのに、わざわざ書陵部本によって改変していたのである。これは恣意的な校訂と言わざるをえない。

新日本古典文学大系(底本は陽明文庫本)は「ゆふ程に」となっている。新潮日本古典集成(底本は書陵部本)は「ゆふねに」と判断を保留し、頭注に「諸本には「ゆふほとに」とある。「ゆふ」は縛ること。底本のままならば、「湯槽(ゆぶね)に」に当たるか」としている。やはり「湯船」とするには躊躇したのだろう。

やたナビTEXT『宇治拾遺物語』の底本は陽明文庫本である。この説話に湯船が出てこなかったという記憶は間違ってなかった。
このエントリーをはてなブックマークに追加

やたナビTEXTの『古今著聞集』のテキストを作っていたら、源顕基がでてきた(『古今著聞集』136)。この説話とは関係ないが、顕基といえば「罪無くして配所の月を見る」という言葉である。

そこで、なんの気なしに検索してみたら、辞書サイトのコトバンクに行き当たった。ところがこの「配所の月」の解釈、どれも僕の考えていたのと違うので驚いた。

罪無くして配所の月を見る:コトバンク

このページでは、『デジタル大辞泉』・『大辞林』第三版・『精選版 日本国語大辞典』の三つの解釈を読むことができる。一番詳しく書かれている、精選版 日本国語大辞典を引用してみよう。
罪を得て遠くわびしい土地に流されるのではなくて、罪のない身でそうした閑寂な片田舎へ行き、そこの月をながめる。すなわち、俗世をはなれて風雅な思いをするということ。わびしさの中にも風流な趣(おもむき)のあること。物のあわれに対する一つの理想を表明したことばであるが、無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれるとの意に誤って用いられている場合もある。
これによれば、単純に配所みたいな殺風景な場所の月をながめるのが風雅だというのだ。

『デジタル大辞泉』は「流罪の身としてではなく、罪のない身で、配所のような閑寂な土地の月を眺めれば、情趣も深いであろうということ。」、『大辞林』は「流刑地のような辺境の地で、罪人としてではなく普通の人として月を眺められたらさぞ情趣があることだろうの意。 」とあり、いずれも『精選版 日本国語大辞典』と同じく配流されずに配所に行くとしている。

一方、僕は「無実の罪で流されて配所の月を見たい」といっているのだと思っていた。そんなの林冲(水滸伝)や盧俊義(水滸伝)やカルロス・ゴーン(日産)に聞かせたら、「配所なめるな!」と怒るだろう。しかし、僕がそう思っていたのは、古典で読む限りそうとしか読めないからである。

鴨長明『発心集』5-8(55)「中納言顕基、出家籠居の事」
いといみじき数寄人にて、朝夕琵琶を弾きつつ、「罪なくして罪をかうぶりて、配所の月を見ばや」となむ願はれける。

『撰集抄』4-5(30) 顕基卿事
朝に仕へしそのかみより、ただ明け暮れは、「あはれ、罪無くして配所の月を見ばや」とて、涙を流し・・・

兼好法師『徒然草』第5段
不幸に愁へに沈める人の、頭おろしなど、ふつつかに思ひ取りたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、待つこともなく明かし暮らしたる、さるかたに、あらまほし。顕基中納言の言ひけん、配所の月、罪なくて見んこと、さも思えぬべし。

『発心集』と『徒然草』を読めば、三つの辞書の解釈が本来のものではないことは明瞭である。

『発心集』では「罪をかうぶりて」とあるのだから、無実の罪で流されることだし、『徒然草』は「不幸に愁へに沈める人」に似た例として出しているのだから、これも無実の罪で流される意味として出しているのは間違いない。『撰集抄』の例は定かではないが、やはり同じとみるべきだろう。

そもそも、平安時代には配所じゃなくても配所みたいな殺風景な所はいくらでもあったはずだ。都からちょっと離れただけでもあるだろうし、なんなら旅に出て東下りでもすればいい。

わざわざ「配所の月」と言っているのだから、それは「俗世をはなれて風雅な思い」かもしれないが、『精選版 日本国語大辞典』では誤用とされる「無実の罪により流罪地に流され、そこで悲嘆にくれる」ような心情を加味しないと配所の意味がないのではないか。

さすがに三つの辞書が同じ解釈で、自分の解釈と違うと自信が無くなってくるが、どう考えてもそんな単純な意味だとは思えないのである。
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ