2020年10月

今日は天気が良かったので、散歩がてら目黒不動尊まで行ってきた。手を洗おうと思って、手水舎に行ったら、なんと水が出ていない。コロナ対策だそうだ。

本堂を御参りして女坂を降りると、途中に銅製の役行者像がある。洞窟っぽいし、後ろにちゃんと石造りの前鬼・後鬼もいる。

役行者といえば、なんといっても説話界の大スターだ。御参りしないわけにはいかない。
役行者像
この役行者像、地元ではなぜか足の神様だと思われている。まあたしかに足は強そうだ。その膝には鋳工の名前が彫られている。
役行者の膝
胸にも願主の名前が刻まれている。
役行者の胸
足の神様というわけで、足を触ると御利益があるといわれるのだが、ざんねん!
おさわり禁止
なんとお触り禁止。もちろんこれもコロナ対策。

役行者といえば典薬頭韓国広足の師匠である。その像を触って疫病が広がったらシャレにならない。役行者としても不本意だろう。これはしかたがない。
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IdeaPadSlim350iを試してみた(その1):2020年10月17日のつづき。

Chromebookの場合、設定すること自体ほとんどないのだが、何となく設定画面を見ていたら「Linux(ベータ版)」という項目があることに気付いた。「ご使用のChromebookでLinuxのツール、エディタ、IDEを実行します。」と書いてある。

僕はちょっと長い文章を入力するときはemacsを使っている。emacsは非常に便利なエディタなのだが使い方にちょっとクセがある。カット&ペーストを例にすると、普通はCtrl+xでカット、Ctrl+vだが、emacsではCtrl+wがカット、Ctrl+yがペースト。こんな感じでショートカットがいちいち違うので、このエディタに慣れると普通の作業がしにくくなる。

そんなわけで、ちょっと長い文章を入力するにはemacsがほしい。「Linuxのツール、エディタ、IDEを実行します」というなら、emacsもインストールできるのではないか。もし、emacsが使えるようになれば、Chromebookは最強だ(あくまで僕にとって)。

というわけでやってみた。まず、設定画面から「Linux」を選びオンにする。
設定画面
すると、Usernameを入力する画面がでてくる。デフォルトでChromeOSのログインネームが出てくるが変えてもいい。
セットアップ1
あとは待っているだけ。びっくりするほど簡単にインストールできる。
インストール
Linuxをインストールするとターミナルがでてくる。インストールされたのはDebianなので、とりあえず「sudo apt install screenfetch」でscreenfetchをインストールして起動してみた。普通sudoするとパスワードを求められるが、パスワード設定されていない。
ターミナル
さて、今度は肝心のemacsをインストールしてみる。
sudo apt install emacs25

emacs起動
キター!emacs25にしたはずなのに26になっているのは気にしないことにする。

ターミナルでしか使えないのかと思いきや、ちゃんとGuiGuiくる。それにインストールと同時にランチャーにも入っている。もちろんシェルフにも登録できるので、デスクトップからすぐに起動することができる。

ためしに入力してみて日本語入力ができないことに気付いた。現状ではChromeOSの日本語入力には対応していないようだ。そこでskkを入れる。
sudo apt install ddskk

これでskkで日本語入力できるようになるのだが、これがまた非常にクセがある。僕の場合、普段これでやたナビTEXTを入力しているので、とりあえずこれさえあれば申し分ない。

あとは、emacsとskkの設定ファイルを移植して完了。ちょっと面倒くさいかと覚悟していたのだが、びっくりするほど簡単だった。
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四連休のおもちゃ:2020年9月20日で書いたように、Lenovo IdeaPad Slim350iを買った。二台目のChromeBookである。
chromebook

ChromeBookとは、ものすごく簡単にいうと、GoogleChromeブラウザの使用に特化したパソコンである。最近は一部のandroidアプリも使えるようになったが、それはあくまでオマケと考えた方が分かりやすい。

基本的にGoogleChromeしか使えないが、それに特化されているので、起動も動作もきびきびしていてバッテリーの持ちもいい。何より値段が安い。3万円ちょっとでサクサクと動くPCが手に入るのである。

Chromeしか使えないパソコンなんて何の役に立つのかと思われるかもしれない。たしかにメインのパソコンとしてはオススメしない。しかし、よく考えてほしい。出先でブラウザ以外のアプリを使うことがあるだろうか。(あるならオススメしない)。

たとえば僕の場合、家の外でパソコンを使ってやることは、GoogleドキュメントやOffice Onlineの編集、G-Mailの送信、株の取引など、ブラウザを使ってやることばかりである。これらはスマホでもできるが、やはり画面が大きくキーボードが付いているパソコンの方がずっとやりやすい。

これまでは、Acer c720というChromeBookを使っていた。当時一番安いもので、スペックも一番低いのものだったが、買ってから7年たった今でも全く普通に使える。唯一の不満は、Googleによるサポートが終ってしまったことだけである。

左が今回買ったレノボIdeaPad Slim350i、右がAcer c720。ご覧の通り、見た目はほぼいっしょ。
AcerとLenovo
キーボードもほぼ同じ。レノボはキーボードに定評があるだけあって、Acerよりはしっかりしている。といっても7年前だから、Acerも良くなってるかもしれないけど。
キーボード比較
7年近く経っているだけあって、IdeaPad Slim350iは充電がUSB Type-Cになっていたり(これは嬉しい)、SDカードがマイクロSDにしか対応していなかったり(あまり嬉しくない。使わないけど)、細部が変わっているが基本的な部分は同じである。

CPUはもちろんパワーアップしているが、あまり早くなった気がしない。これはIdeaPadがダメなのではなく、ChromeBookが購入後7年経っても重くなっていないということである。

はっきり言って、新しいパソコンを買ったという感じがない。これは素晴らしい。なにしろ、7年前のしかも違うメーカーのパソコンと全く同じように使えるのである。以前、Acer c720を使い始めたとき、「やっとパソコンも家電や文房具になった(Chromebook(Acer c720)を試してみた(その2):2014年11月24日参照)」と感じたが、その気持はより強くなった。

が、しかーし、一つだけ、僕にはとても嬉しい進化があった。次はそれについて書こう。

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古典を読んでいると、話の意味は分かるが、なぜそうなるか分からないということがある。

『古今著聞集』532 治部卿兼定滋野井の泉にて納涼せられけるに・・・

源兼定の納涼で、増円法眼もその場にいた。みんなで酒を酌み交わしている最中、馬允某という高齢の侍が、よぼよぼで歯もなく、ものを食べるのにも苦労しているのを見て、増円が、
老い馬は草食ふべくもなかりけり
という句を詠んだ。兼定をはじめとしたまわりの人々が、「興ある句だ」と騒いでいると、当の馬允某が、
おもづらはげて野放ちにせむ
と付けた。それを聞いて、そこにいた人々はみな苦々しく思った。

この説話には作者(橘成季)の評が付いている。
かやうの荒言は、よくよくひかふべきことなり。
「荒言」はいろいろな意味があるが、ここでは「放言」みたいな意味だろう。つまり、無責任な物言いをいうのだが、最初、馬允某の句が「荒言」だったから、「満座苦りにけり」になったと思っていた。

だとすると、馬允某の句がまずいということになる。しかし、この句のどこがまずいのかが分からない。立場の上下関係で、句を付けたこと自体がまずいのかとも思ったが、それなら「荒言」とは言わないだろう。「荒言」というからには言葉自体がダメなはずだ。

「おもづらはげて野放ちにせむ」とは、「馬具を外して野に放してやろう=仕事を辞めさせよう」という意味で、荒言というよりも、トンチが効いていてうまく付けているようにすら感じられる。それに対し増円の句は、老耄を茶化すようで「興ある句」にはちょっと思えない。もしかしたら「荒言」したのは増円ではないか。

実は、次の説話の主人公も増円である。

『古今著聞集』533 増円醍醐寺の桜会見物の時舞の最中に見物をばせずして・・・
増円は醍醐寺の花見のとき、舞を見物しないで、釈迦堂の前の桜のもとで鞠を蹴っていたところ、醍醐寺の法師に追いかけられて、痛い目にあった。あちこち逃げたが、とても嫌われて「うとめ増円(嫌われ増円)」と呼ばれた。

ここでは増円はちょっとマヌケな役回りになっている。今の注釈書では532話と533話は別の説話になっているが、本来『古今著聞集』は『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』のような標題はない。作者は一つの説話として書いたつもりのものが、あとから二分された可能性がある。しかも、宮内庁書陵部本では533話の書き出しは、「増円、醍醐寺の桜会見物の時」で始まるが、諸本は「この増円・・・」と532話を継ぐ形になっているらしい。

話が続いているのなら、増円は532話でもマヌケなキャラクターとして書かれているとみるべきだろう。やはり「荒言」は増円の句と考えたほうがよさそうだ。増円のあまり品のよくない句をみんなで喜んでいたら、バカにしていた馬允にうまい句を付けられて、クソー悔しい!と「満座苦りにけり」となった。こんなふうに逆襲されるから、荒言はひかえるべきだ。そう読んだ方がしっくりくる。

長編の物語と違い説話集は短編の寄せ集めだから、どうしてもそこだけで完結したストーリーとして読んでしまいがちだ。しかし、説話の区切りが作者の意図にそぐわない場合もある。説話集といえど、説話の前後を読まないと思わぬ読み間違いをしてしまうものである。
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