2021年04月

僕のまわりはいわゆる文系の人が多いせいか、小学校のプログラミング教育に否定的な人が多い。

僕は大賛成だ。プログラミング教育を否定する人は、たぶん内容を誤解している。プログラミング教育は、コンピュータープログラマーを育てる教育ではない。

プログラムといって思い出すのは、たとえば運動会のプログラムだろう。運動会のプログラムとは、運動会の手順を記したものだ。コンピュータープログラムも基本は同じである。

運動会のプログラムには、何時から開会式、何時から短距離競走、何時から騎馬戦、(中略)閉会式と時系列ですることが書いてある。

もちろんこれも立派なプログラムではあるが、実際の運動会は、途中で雨が降って中止になったり、怪我人の処置をしたり、手順どおりいかないこともたくさんある。もし始めてすぐ雨が降ったらどうする、途中で降ったらどうする、その雨が小雨だったら、大雨だったら、やんだら・・・。

もし、運動会の運営ロボットみたいなものに運営をやらせるとしたら、プログラムにはそこまで記述しなければならない。プログラムには成行きは存在しない。これがプログラム教育でいうプログラムである。

僕たちは、小学校・中学校・高校と進学し、そこから就職するか進学するか、そしていずれは就職するという、およそプログラム的でない人生設計を立ててきた。もし途中で思わぬ障害が発生したらどうするか、時代の流れで経済状況が変わったら、そういう考えはなかった。これはとてもまずいことである。

コロナ禍で僕たちがイラついていることは何か。自粛疲れというが、ここ最近はそんなにハードな自粛はしていない。イラついているのは先が分からない不安だろう。

なぜ先が分からないか。政府のプログラムが見えないからである。もしかしたら、僕たちには分からない複雑なプログラムがあるのかもしれない。だが、それはオープンになっていないのだから、ないのと同じことだ。

たとえば、今回の緊急事態宣言は来月11日までとなっているが、僕たちが知りたいのは、感染者数が何人・病床逼迫率がいくつなら延長で、いくつなら終了かである。そもそも災害を期間で区切ること自体がおかしいのだから、来月11日終了などと言われても何の気休めにもならない。

菅首相の口ぐせのような「仮定のことには答えられません」などというのは、およそプログラム的ではない。プログラムを明かにできない(もしくは作っていない)政府もダメだが、プログラムを明らかにせよと言えない国民もダメだ。これはひとえに僕たちがプログラム教育を受けておらず、プログラムの概念がないからだろう。

そんなわけで、僕はもう今の日本に何も期待しないが、これからプログラム教育を受ける新しい世代にはおおいに期待したいと思っている。


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僕の父は近所に畑を借りて、家庭菜園というにはちょっと広い畑をやっている。最初に借りたのは僕が小学生のときだから、もう40年以上になる。そこから何度か移転して、今の場所になってすでに20年近く。ところが最近、高齢で畑仕事が難しくなってきた。

そんなわけで、今年の八月に畑を返すことになった。畑だって家と同じく、現状復帰しなければならない。畑の現状復帰なんかそんなに難しくなさそうだが、一つ大きな問題がある。

父は畑に三本の木を植えた。金柑(キンカン)・柿・無花果(イチジク)である。畑を返すためには、これを引っこ抜かなければならないのだ。金柑と柿はそれほど大きくないが、無花果はかなりの大木になっている。まず手始めに、金柑から始めることにした。
ありし日のキンカン
まず枝を伝家の宝刀で枝をすべて切り落す。伝家の宝刀とはこれ。
電ノコ
去年、義母の葬式で香典返しとしてもらった電動工具である(四連休のおもちゃ:2020年09月20日参照)。この工具、なかなかのすぐれもので、先端を付け替えると色々な工具に変身する。これについては近いうちに紹介しようと思っている。

さすがは文明の利器。ものの数十分でこんな感じに。簡単に切れるが、キンカンの枝はトゲがあるので、取扱い注意である。
枝を落としたキンカン
問題はここからだ。

父はいずれ引っこ抜くことを見越して、根が張らないようコンテナに詰めて植えた。だが、木だって生きるのに必死である。コンテナの隙間からゴボウぐらいの太さの根を四方八方に出していて、ちょっとほじくったぐらいではびくともしない。
まわりを掘る
何本かは電ノコで切ったのだが、なにしろ土中にあるので、ノコギリの先が土に干渉してしまいうまく切れない。この日はここまでにして、後日新たな武器を調達して、再度挑戦することにした。

新たな武器とはこれ。ナタである。先程の文明の利器からすると、文明感はかなり退化したが、利器感はこちらの方がはるかに上である。
ナタ

これで土中の根を叩き切る。見るからに物騒な道具だが、僕は子供のころからナタを使っていたので、使い方には自信がある。

小さなスコップを使って丹念に土を掻き出し、根を見付け次第、ひたすらナタで叩き切る。これを繰り返して二時間ほど。やっと抜くことができた。
取り出し完了
根っこは側面だけでなく、底からも生えていた。
底
さて次は柿。これは金柑より小さいのでそんなに難しくはなさそうだ。問題は無花果である。
イチジク
見るからにラスボス感がある。本当にできるのかコレ。
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先日、ラーメン屋で豚骨ラーメンを食べていたら、なんだかへんなBGMが流れてきた。
希望にあふれ
生きる喜び幸せに満ちて
愛の楽園すべての心が
愛をわかちあう・・・
「生きる喜び」とか言っているわりに歌い方は辛気臭いし、子供のコーラスが入っていたりするし、一瞬新興宗教の何かかと思った。だが、よくよく聞いてみると、西城秀樹の声に似ている。

今はスマホがあるから調べればすぐに分かる。背脂の付いたヌルヌルした手で印象的な歌詞で検索してみると、やはり西城秀樹だった。

西城秀樹といえば、とりあえず絶叫系だと思っていたので、こんな曲もあったのかと思ってびっくりしたが、作詞・作曲・編曲を見てさらにびっくりした。
作詞:スティーヴィー・ワンダー/追詞:山川啓介/
作曲:スティーヴィー・ワンダー/編曲:坂本龍一
なんと作詞・作曲スティーヴィー・ワンダーである。西城秀樹らしくない曲だが、スティービー・ワンダーらしくもない。編曲の坂本龍一は、最初の方の鳥もどきピポピポ音を聞くと、まあ言われてみればそうかなという感じだ。

西城秀樹は洋楽のカバー曲が多いが、これもどうやらカバーらしい。となると、スティーヴィー・ワンダーがこれをどう歌っているか気になるじゃないか。というわけで、YouTubeを検索してみると・・・

まずタイトルでびっくり。「Ai No Sono」、西城版と全く同じ日本語である。「スティービー・ワンダーの日本語が聞けるのか!」と期待に胸をふくらませて再生すると・・・

スティービー・ワンダー、一言も歌ってねぇ!

歌っているのは、西城秀樹版にも入っていた子供のコーラスだけ。さらに調べてみると、このコーラスの中に当時アメリカに住んでいた西田ひかるさんが入っていて、ちゃんと名前がクレジットされているらしい。
西田ひかる:Wikipedia
西田はカリフォルニア州在住時、スティーヴィー・ワンダーの楽曲、『愛の園 (Ai No, Sono)』において、大勢の子供たちと共にコーラス参加した。この楽曲は1979年に発売されたワンダーの音楽アルバム、『シークレット・ライフ』に収録されており、その曲紹介には西田の名前も、「Hikaru Nishida」としてクレジットされている。
そもそも、スティービー・ワンダーはなんでこんな曲を作ったのか。

これまた調べてみると、この曲は「シークレット・ライフ(Journey Through the Secret Life of Plants)」という二枚組みのアルバムに入っていて、「The Secret Life Of Plants」というドキュメンタリー映画のサウンドトラックだという。
シークレット・ライフ:wikipedia
よく考えてみると、スティーヴィー・ワンダーは盲人なので映画を見ることは出来ない。それで20曲も作っちゃうのは驚異的いうほかない。それにしても一体どんな映画なのだろうと気になったが、最後のびっくり、なんとこの映画一般公開されていなかった。
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