10月も終りに近付き、だんだん寒くなってきた。これから空気も乾燥し、火事(とコロナとインフルエンザ)に気をつけなければならない季節になるが、火の用心といえば、
一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ
を思い出す。これは徳川家康の家臣、本多作左衛門重次が小牧・長久手の戦いの際、妻に送った手紙の文とされている。

「日本一簡潔な手紙」とかいわれているようだが、『醒睡笑』巻三「文の品々」にそっくりの手紙文があるのを見つけた。

『醒睡笑』巻三「文の品々」8また商人遠島より古郷へ便りあるといふ時妻のもとへ文並びに・・・
また、商人、遠島より古郷へ便りあるといふ時、妻のもとへ文並びに音信をしけるが、「態一筆(わざとひとふで)。針三本、千松泣かすな、火の用心、かしく」とも書きたり。
並べてみると、そっくりだ。

一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ(重次)

態一筆 針三本 千松泣かすな 火の用心(醒睡笑)

『醒睡笑』は無名の商人が重次同様妻に宛てた手紙で、「針三本」は一緒に送った物を指す。「お仙」が「千松」になっているが「せん」という音が共通しているのも偶然ではあるまい。違いは「火の用心」の位置と「馬肥やせ」だけ。この二つの手紙は無関係ではないだろう。

では重次の手紙の典拠はどこにあるのか。いろいろ調べてみたが、実際の手紙は存在しないようだ。文章に現われるのは大道寺友山の『岩淵夜話』なる徳川家康の事跡を記した説話集が最初らしい。
『岩渕夜話』巻二
惣別此作左衛門ハ事のくどきを嫌ひ、手短く埒明く事を好む生付也、有時旅宿より女房か方へ状を指越とて、一筆申す火の用心、おせん泣かすな馬肥やせ かしく、と書けると也、おせんとは作左衛門独り娘の名とかや
『岩淵夜話』は1700年代の成立である。小牧・長久手の戦いからは200年以上も後で、『醒睡笑』からも100年ほど遅い。そもそも、有名人の手紙が無名の商人の手紙に変わるとも思えないので、『醒睡笑』の手紙から本多重次の手紙と称するものが作られたと考えてよいだろう。

面白いのは手紙の評価が現代とは違っていることである。現代では要を得た簡潔な名文みたいな扱いになっているが、『醒睡笑』ではそうではない。

『醒睡笑』にはこの説話そのものの評はないが、「また、商人・・・」で始まることで分かるように、前話の続きになっている。

「とかく当世は文章の短かきがはやる」と言ふを聞きて、侍たる人の方より、知音の僧へつかはしたるとなん。
送り進ずる十八本松茸。恐惶謹言。圭侍者へ
つまり、『醒睡笑』では「流行の短い文章」の例としているのである。『醒睡笑』はその名のとおり笑い話を集めたものだから、〈簡潔な名文〉ではなく、〈短かすぎて面白い文〉の例として挙げているのだろう。これは『岩淵夜話』でも同じで、「此作左衛門ハ事のくどきを嫌ひ、手短く埒明く事を好む生付也」とあり、重次が簡潔を好んだ例として挙げてあるだけで、名文という評価はしていない。